よろず編集後記

よろず編集者を目指す井内千穂のブログです。

もし高校生がプッチーニのオペラ『蝶々夫人』を観たら

もしドラ」のような仮定の話ではなく、実際に新国立劇場はオープン翌年の1998年以来「高校生のためのオペラ鑑賞教室」を開催しており、毎年約1万人の高校生がオペラを観る機会を得ている。ほとんどの生徒にとっては「初めてのオペラ」だ。その中で最も頻繁に上演されてきたのが『蝶々夫人』である。

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今年2月にオペラ『蝶々夫人』を相次いで異なるバージョンで観たことは以前のブログに書いた。栗山民也さん演出による新国立劇場のレパートリー公演と、俳優・演出家の笈田ヨシさんによる新演出で話題になった4都市共同制作オペラの2つ。いずれも日本人演出家の手になるプロダクションである。

chihoyorozu.hatenablog.com

 

自分自身が『蝶々夫人』のストーリーに対して決して良い感情を持っていないので、これが多感な高校生にとって「初めてのオペラ」になるのはどうなんだろう?これを敢えて題材に選ぶところに何か意図があるのか?と疑問に感じていた。

ということで夏休み前に開催された「高校生のためのオペラ鑑賞教室」を取材させていただく運びとなり、ジャパンタイムズにコラムを書かせてもらった。

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劇場側の説明では、オペラ鑑賞教室の演目はあくまでも実際的な諸条件を満たすものを毎年決めているということだ。毎年必ず『蝶々夫人』をやるわけではなく、昨年は『夕鶴』だったし、『愛の妙薬』や『トスカ』などが上演された年もある由。その中で一番頻度が高い「蝶々夫人」の良い点としては、

  • レパートリーとして直近に上演され、舞台セットや衣装がそのまま使える。
  • 長さが適度(2幕で2時間40分。結構長いがギリギリOK)
  • 音楽が美しくわかりやすい。
  • ストーリーがドラマチック。
  • 日本人キャストによる上演なので、金髪にドレス姿より自然に見える。

などが挙げられた。なるほどね・・

www.nntt.jac.go.jp

 

さて、今年の「オペラ鑑賞教室」初日の7月10日。見渡す限りほぼ満席、即ち約1800人の高校生で埋め尽くされた新国立劇場はいつもとずいぶん違う雰囲気。学校によって人数や学年は異なるが、5~6校は参加していたようだ。学校行事としてオペラに連れて行ってもらえるなんて羨ましいなあ・・うちの息子たちの学校ではやってなかったなあ・・などと思いながら、1階最後列に用意してくださった大人用の席に着く。

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客席の照明が落ち指揮者の三澤洋史さんが登場すると、一斉に拍手が湧き起ったのはいいが、それがいつまでも続く。三澤さんは鳴り止まない拍手の中で前奏曲を始めざるを得ず、冒頭は全然聴こえなかったが、舞台が明るくなりピンカートンとゴローが登場したらようやく落ち着いた。

こんな調子でどうなることかと思ったが、物語が始まってからは思った以上に熱心に舞台を見つめ音楽に聴き入っている様子。妙にほっとしながら一緒に鑑賞させてもらった。休憩時間中には3階席や4階席に上がって、何人かの生徒たちに声をかけてみた。「舞台は遠いが音はとてもよく聴こえる」「字幕があるので台詞やストーリーはよくわかる」「面白い」と言っていた。ふーん、そうか。何というか、西洋人も登場する幕末物の大河ドラマか映画を観る感覚に近いものかもしれない。台詞が全部「歌」だが、ミュージカルを観たことがある生徒は結構多いのかもしれない。プッチーニの音楽はそれだけでも甘美で心地よいのは確かだし。私の目の前の列に並んでいた男子生徒たちの中には大いびきで爆睡している生徒もいれば、その彼に「しょうがねえなあ」と呆れた目を遣りながら、舞台を見守っている生徒もいた。

長い第2幕は台本通りに蝶々さんの自刃という悲劇で終わった。

彼らの目にはどう映ったことだろう?

終演後、新国立劇場と都立駒場高校のご協力により、2年生の生徒さんたち6人にインタビューさせてもらった。駒場高校ではここ数年、1、2年生がオペラ鑑賞教室に参加しているとのことで、昨年度は「夕鶴」を観たそうだ。

オーケストラ部男子:オケ部なのでクラシック音楽自体はよく聴く。日本史の授業で先生がYouTubeで聴かせてくれた「宮さん宮さん」が今日のオペラに2回出てきて周りの友だちと一緒にどよめいた。

オーケストラ部女子:「夕鶴」は日本語なので字幕がなくて台詞がよく聴き取れず困ったが、今回はイタリア語でも字幕があったのでよくわかった。

演劇部女子:蝶々さんが最後にアメリカの星条旗を仰ぎ見ながら自刃する姿を見て、ピンカートンのことを愛し抜いていたんだなあ・・と思った。父の形見の短刀に「名誉の内に生きられない者は名誉の内に死ぬ」と書いてあって、十代でそういう決断をするのはすごいと思った。

オケ部女子:3年も待っているなんてありえないと思った。自分だったら待たないで次へ行く。

オケ部男子:「裏切られる女」というのはありがちな話だと思う。蝶々さんがかわいそうだと言うが、自分はバカだと思った。彼女は周りが全然見えていなくてピンカートンのことしか考えていない。悲劇のヒロインと言われても自分は共感できない。

野球部男子:はじめの結婚の場面で、蝶々さんは自分の宗教や親族と縁を切り、のちのち誰にも相談できない状況に追い込まれて行った。やっぱり生きていくには友達とか相談できる人が必要で、孤立してはダメだと思う。

演劇部男子:蝶々さんはかわいそうだと思った。また機会があればオペラを観てみたいと思う。何かおススメの演目を教えてもらいたい。

体操部女子:幼少期を海外で過ごし、オペラにも連れて行ってもらったことがあるが、今の年齢で観たらもっとよくわかるかもしれないと思った。今回は照明の効果もすごいと思った。最後の場面は眩しいほど明るくなる照明で蝶々さんの最期がわかるようになっている。

オケ部女子:ティンパニの連打で最期が近づいていることが伝わって感情が揺さぶられた。歌とオーケストラがぴったり合っており、どうやって合わせているのか?すごい!と思った。それにしても、子どもの目の前で死ぬのはどうなの?と友達と話した。

演劇部女子:ふつうの演劇では台詞と間(ま)があって沈黙の時間もあるが、オペラの場合はずーっと音楽が鳴り続けている。オーケストラを聴いているとどういう場面なのかがわかる。それから舞台の上の方に星条旗があって、ピンカートンはいつも上から下りてきてまた上に戻っていくが、蝶々さんはいつも下の「家」にいるのが印象的だった。夢の中でだけ階段を上って星条旗に近づくところが切ない。

・・・彼らに高校生全体を代表させるわけにはいかないものの、こういう感想を直接聞けたのは貴重な機会ではあった。総じて興味をもって、音楽・歌唱・舞踊・舞台美術・衣装・照明などの総合芸術であるオペラを堪能したようだ。また、日本女性の描き方についても、私のように感情的に反発するよりは、彼らなりに蝶々さんの状況をクールにとらえている。とくに、蝶々さんに批判的な男子生徒たちや、最初から最後まで舞台の上方ではためいていた星条旗が気になった生徒さん(さすが演劇部!)のコメントには感心した。

彼らの話を聞いていて、ふと、栗山民也さんの演出意図が少しわかったような気がした。栗山さんにしても、東京芸術劇場で観た新演出の笈田ヨシさんにしても、戦後日本のあり方に対する批判的なまなざしは共通するところなのではないか。「人間はそう簡単に(心情を)解決できない。今回は蝶々夫人が死なない終わり方にしたい」という笈田バージョンには、どんなに絶望してもやり直そうという希望(少なくともその含み)が感じられるのだが、悲劇の最期という台本に忠実な栗山さんの演出はある意味、今の日本人にとって、より厳しい警告を発しているのかもしれない。そう考えると、読み替えという形を取らなくても、100年以上前のジャポニズム趣味満載の物語を現代の日本人にとって重要なメッセージとして生かすことができるのだ。日本女性を描く外国人目線を感情的に拒絶するばかりでなく。・・・いつか栗山さんに直接お話を伺ってみたいものだ。

今回初めて一人称で書かせてもらった短いコラムにはそこまでいろいろ盛り込むことができず、高校生の率直な感想からのピックアップと、この物語のとらえ方にはさまざまな可能性があり得ることを述べるにとどまった。

実際、『蝶々夫人』には新演出の読み替えバージョンが次々生み出されている。記事の編集段階のやり取りで、カナダ人の担当エディターは、最近ニューヨークで上演されたプロダクションを引き合いに出して、「日本の演出家たちもこれぐらい大胆な読み替えをやれば、若い年代にもオペラにもっと興味を持ってもらえるのではないか?」と言った。

www.nytimes.com

これに対して私は、「いや、彼らはオペラを観る機会を与えられれば、興味を持って観る。読み替えだけが全てではなく、台本に忠実でも、日本の高校生たちはこのオペラをしっかり味わっていたし、中には演出意図を感じた生徒もいるようだった」という見解を伝えたが、「この短いコラムにそこまであれこれ詰め込むのは無理」ということになった。短いコラムで何をどう伝えるかは今後の課題にしよう。ミュージカルの『ミス・サイゴン』も『蝶々夫人』がベースになっているわけで、もはや蝶々さんは日本の蝶々さんにとどまらない。それだけ人の心を騒がす物語であることは間違いない。

 

ウェイウェイさんは今どこに

5月の半ば以降、怒濤の取材と原稿書きに明け暮れて気がついたら猛暑の残暑。北海道への一泊取材ツアーから帰ってきた翌日、二胡奏者のウェイウェイ・ウーさんのメルマガが届いた。「次は北海道!」と。そうか!ウェイウェイさんのソロデビュー15周年記念コンサート全国ツアーはまだ続いているのだ。

記事が出たのは2ヶ月も前の6月14日で、7月中までのコンサートの予定をウェブでだけ紹介した(紙面にはとても入りきらないので)のだが、それからまたずいぶん時が経ってしまい、ツアーはまだまだ続いている。

www.japantimes.co.jp

東京からスタートして、下呂温泉白川郷、千葉の柏、九州各県などなど日本全国を飛び回るウェイウェイさん。ツアーの締めくくりは年末にもう一度東京でコンサートがあるようだ。それだけではない。ほかにもさまざまなコンサートやライブやイベントに出演し、年に1枚ぐらいのペースでアルバムを出し、二胡教室で大勢の生徒さんたちを教え、さらに、生徒さんたちから成る心弦二胡楽団を引き連れてふるさとの上海でもコンサートを開催する。そんな超多忙なスケジュールにあっても、いつも包み込むような笑顔とノリノリのパフォーマンスで周りの人たちを巻き込んでいくそのパワーは一体どこから出てくるだろう?

shingen-niko.com

インタビューの時に「持って生まれた性格だったのですか?」と尋ねてみたら、「元々は実はとても内向的で無口で、友達もなかなか作れないような子どもだった」というお返事で驚いた。自分が考えていることがいつも周りの友達と違っているので、「変わってると思われるのがイヤであまりしゃべらないようにしていた」という。

文化大革命の真っ只中、当局が禁じていたヴァイオリンを弾きたいと言った5歳のウェイウェイさんに作曲家の父はヴァイオリンを作ってくれた。カーテンを締め切った部屋の中でこっそり練習したそうだ。「人と同じことをやるな」という父の影響も大きかったのだろう。文革後、上海音楽学院附属小学校を経て上海戯曲学校でヴァイオリンを専攻するかたわら二胡の音色にも魅せられ、両方を首席で卒業。1991年に日本に留学したのはヴァイオリンの勉強を続けるためだったが、当時上海で流行っていた「山口百恵の『赤いシリーズ』とか『姿三四郎』とか日本のドラマが大好きだったから」とにかく日本に行ってみたかったそうだ。

それから四半世紀。

結局ヴァイオリニストにはならず、伝統楽器である二胡を使った新しいパフォーマンスのパイオニアになった。なにしろ、当時の日本ではまだ「二胡」と「胡弓」の違いすら認知されていないほど知られざる楽器だったが、今や聴くだけでなく自分でも演奏し、中国への演奏旅行にも楽団員として一緒に行ってしまうほど愛好家が増えたのだから、その影響力は凄い。

「上海のお客さんたちは、日本人がこんなに二胡が好きで、社会人が本業以外にこれだけ熱心に楽器を習って趣味として楽しんでいることに感動したみたいです。」

6月17日土曜日の昼下がり。全国ツアーのスタートは東京ということで、久々に行った大井町駅前のきゅりあん大ホールでのコンサートの冒頭、ウェイウェイさんは頭にターバンを巻いた海賊の格好で「パイレーツ・オブ・カリビアン」のテーマを弾きながら客席を通って颯爽と現れた。ステージで上着を脱ぐと鮮やかなイエローのドレス姿に。これですね~~ 

ヴァイオリニストを目指していた学生時代のウェイウェイさんは、ある時、ジャズ・ヴァイオリニストのステファン・クラッペリーのCDを聴いて、クラシックのヴァイオリンにはない軽やかさに魅了された。あんな風に弾けたらいいなあと思ってやってみたが無理だったという。

「子どもの頃から習っていた枠からはみ出すことができなかったんですね。先生に怒られそうって自分で思ってしまって。そういう固定観念から自由になるのが難しかったのです。日本のクラシックの人たちもきっとそうなんじゃないかな・・」

一方、二胡だと「自由になれた」というのだ。ヴァイオリンの曲を二胡で弾きたくて、十代の頃から自分で勝手にアレンジして弾いていた。

二胡は私にとって、新しいことにチャレンジする楽器なのです。」

二胡には中国の伝統の曲しかないので、西洋クラシックの曲を二胡の音域に合わせて弾いたり、作曲も始めて自作を弾いたり。他の楽器とのセッションや大きな会場では二胡の音量では聴こえないので、マイクを使うようにした。ジャンルもいろいろ。ロックもやる。「ロックやるなら、やっぱり立って弾くでしょう?」ということで、楽器を支えるベルトも自作。今や型番もあり生徒さんたちもみなそれを使っている。立って弾くことでステップを踏みやすくなり、踊ることもできる!

「中国の伝統的な二胡の先生は絶対ダメと言うでしょうけどね(笑)」

それが現代のスタイリッシュなウェイウェイさんの二胡のステージなのだ。いやいや、楽しかった。老若男女、とくにシニア層のお客さんたちがウェイウェイさんの合図に合わせて手拍子して「情熱大陸」のメロディでタオルを振り回す姿があまりに楽しそうで思わず涙する。

ヴァイオリンは顎で挟んで弾いて「頭で感動する」が、二胡は身体の前で抱え「お腹で感動する」とウェイウェイさんは表現した。「子宮に響く母性的な音」だと。

鼻にかかったような甘い音色と、立ち上がりの微妙な音程のずれが味わいでもある二胡は確かに包容力のある楽器だと思う。演歌にもぴったり。アップテンポのフュージョン系の曲も切なさが増幅する。

正統派の二胡奏者が座って中国の伝統的な曲を弾くのとは全く異なる世界。また、クラシック音楽演奏家から見れば、通俗的なわかりやすい曲のオンパレードでバックバンド付きでマイクを通した音を聴かせる「邪道」というか普通にポップスのコンサートなわけだが、これまでに誰も思いつかなかったような二胡のスタイルを自分で構築したウェイウェイさんのパイオニア精神のたまものなのである。それがこれだけ多くのお客さんを楽しませて元気にしているのだ。音楽というのはやっぱりまずは楽しむものなんだなとつくづく思った。そして、物悲しい曲ではウェイウェイさんがお腹で歌う音色を私もお腹でしみじみ味わった。

デビュー15周年を記念する今年のアルバム「Legacy」のライナーノートより。

「25年前にたった一人で、見知らぬ異国の日本にやって来たこと、偶然のようで、必然だと思います。」

来日当初は言葉もわからず「もっと無口になった」ウェイウェイさんは、やがて言葉を覚えると同時に、音楽を伝えるパイオニアとしての自分の使命を自覚するようになったという。

「『伝統楽器』と言われているからこそ、『伝承』を大切にしなければならないと思います。未来に繋げていくため、新しいことに挑戦し続けることが私の使命だと思っています。」

そう記されている自作の「Legacy」の躍動感あふれるリズムに乗って、ウェイウェイさんは会場で高く拳を突き上げ、手拍子を促す。軽やかだけど愁いを含んだ二胡の旋律には、来し方を振り返り、行く先を見つめるウェイウェイさんの決意がにじむ。会場の一体感の中で私も手拍子しながらすっかりファンになっていた。ウェイウェイさんに会えてよかった!謝々。

来週は北海道なんですね。

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福島の今を訪ねるバスツアー③里山の守り人

福島県内の浜通り国道6号線沿いに富岡町まで南下した後、バスは山間の川内村へ向かった。

川内村は震災後、全村避難を余儀なくされた。山々に囲まれた地形に守られて放射線量は比較的低かったものの、福島第一原発から30km圏内ではあるし、当時は正確な情報がほとんどなかったためでもある。

2012年1月、川内村の遠藤村長は双葉郡で避難していた9自治体の中でいち早く帰村を呼びかけ、村役場も3月には再開。復興への取り組みが積極的に進められてきた。2016年3月までに、人口2,800人のうち約半数が帰村したが、そのうち完全に村内の自宅で生活する人は約600人にとどまる(昨年の取材より)。

元々人口が少ない静かな村ではあるが、それでも沿岸部から来ると、確実に人が生活して辺りを整えている気配がある。その前の週末には、「第2回川内の郷かえるマラソン」が開催され県内外からの多くの参加者で賑わっていたようだ。

昨年、バスツアーをなんとか実現しようと模索する中で出会った秋元さん宅を今年も訪ねることができた。秋元さん夫妻は川内村でも富岡町との境界に近い原発から15kmという地点の里山で民泊を受け入れている。

「人が集まる環境つくる」 秋元さん、川内復興へ活動展開(福島民友ニュース)

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昼食は奥様の素晴らしい手料理をごちそうになった。45人という大勢の食事を用意していただいたことに感謝感激である。食後に秋元さんやお隣(とは言っても1㎞先)で桃源郷を営んでおられる小林組合長など村の方々に周辺の里山を案内していただく。これがこのバスツアーのもう一つの醍醐味でもある。 

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お食事をいただきながら、感想を述べ合う。司会の澤田先生。

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里山のエキスパート秋元さんの解説を聞きながら。

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もっと長く里山を楽しみたかったが、日帰りツアーの日程は慌ただしい。秋元さん宅に戻ってほんの少しだけ「討論会」の時間を設けた。

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地元の方々のお話に耳を傾け、今日の感想を述べ合う。今年も小林組合長のお話に胸を打たれた。

「震災後、三郷に避難していた時には四季の変化が感じられませんでした。時間を持て余しゲートボールの仲間に入れてもらおうとフェンス越しに覗き込んでみましたが、入っていくことはできなくて・・・やはり、自分は川内村の山の中でしか生きていけないと思いました」(小林さん) 

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地元の方々との交流のひととき。

 

昨年、この美しい里山の写真を見た知人から「こんなに綺麗で素敵な山里なのに・・・。悲しいですね。」というコメントをもらったことがあった。この「・・・」に込められた思いは共通するはずなのに、そのような反応をする人との間にはなぜか微妙な溝ができてしまう。

里山はこんなに美しい。でも、放射性物質に汚染されているんだよね」と言うのと、「放射性物質が降り注いだんだよね。でも、里山はこんなに美しい」と言うのとでは方向が全然違うのだ。

道中のバスの中でも放射線量の話にはどこまで行っても謎と不安が残ってしまうことを感じていた。もちろん、人それぞれ感じ方、受け止め方はさまざまだろう。

モヤモヤした思いを抱えていたところへ、今回参加してくれた友人がこんなメッセージをくれた。

「今回一番私がショックを受けたのは、線量計の数値でしか、その存在を知ることができない放射線の存在です。数値が高くなったり低くなったり…その変化を自分の目や耳や五感で把握することができない。手に触れることもできない。ですから、その恐怖が、風評被害につながることは、ごく自然の成り行きのようにも思われます。誰が悪いとか悪くないとかの問題ではなく。わからないから。自分で確かめることができないから。怖いと思えば怖い。川内村の蕨、イノシシ、という文字だけを見ていれば不安や抵抗感があるかもしれない。けれど、そこに、人の生活を見れば、線量の数値の問題ではなくなる。そこに、悲劇を見たように思われました。私も故郷に避難指示が出たとしても、目に見えない存在よりも、故郷に対する思いが勝って、たとえ寿命が短くなったとしても帰ると思います。(年齢もあるけれど)」

彼女がこのような感想を私に伝えてくれたことがとても有り難かった。現地を実際に見た上で率直に語り合えるようになること。それがこのバスツアーをやろうと思う理由だと改めて思った。

原発と共に生きる故郷で、自身も原発に関わってきた人々。放射線量のことも全て承知で、諸々の制約をどうにかしながら覚悟を決めて故郷の里山を守る人々。今年もまたお会いできてよかった。また友人たちを連れてこよう。(終わり)

 

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芝桜をはじめ、花々が咲き乱れる秋元さん宅の庭

 

 [写真:川畑日美子さん、坂本隆彦さん、井内千穂]

福島の今を訪ねるバスツアーその②無人の浜通り

2011年の震災当時、息子たちが既に中高生だったからか、乳幼児を抱えたお母さんたちほど放射線量に不安を感じることはなかったが、それも日々の忙しさに取り紛れていただけなのかもしれない。それよりも学校が平常通りに機能してくれることのほうが関心事だった。まさに中高生の母親だな。被災地の学校は避難所になっていた。ニュースで見る被災地の大変な避難生活に心が痛んだ。

半谷氏がベラルーシ線量計を持参したほか、何人か線量計を持っている参加者がいた。 私も線量計を持参した。今回のバスツアーには参加できないけれど震災直後何度も福島にボランティアに行ったという友人がベラルーシ製と日本製の線量計を貸してくれたのだ。しかし、ベラ ルーシ製のは電池を抜かないとスイッチが切れずピーピー音が鳴り続けてしまい、日本製のは計測に30秒もかかるものだったので、せっかく貸してもらったのに申し訳なかったが、途中から自分で測るのを諦めて、進行役に徹することにした。道路沿いや町中のモニタリングポストにも空間線量が表示されている。

参加者S氏の克明な記録によると、常磐道を北上するにつれて、いわき0.08μSv/h⇒広野町0.09μSv/h⇒楢葉町0.19μSv/h⇒富岡町0.26μSv/h⇒双葉町0.43μSv/h。

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双葉町。この辺から急に上がり始める。

 

浪江インターで常磐道を降りて浪江駅前では0.24μSv/h。6号線沿いに今度は南下し、大熊町夫沢地区で福島第一原発から1.8km地点という至近距離で一時停車。

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大熊町夫沢区内。福島第一原発から1.8km地点。彼方に5号機と6号機の排気塔が見える。

 

初めてきた時はこんな近くで外に出ていいのかと思ったが、道路沿いは除染と盛土の効果で0.76μSv/h。

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大熊町内ではバスの中でも3.02μSv/hという高い数値が出ていた。富岡町のモニタリングポストでは0.189μSv/hだった。

線量計によっても異なるので誤差もあろうが、だいたいの傾向は見て取れる。東京では震災後だいたい0.1μSv/hということだ。

そもそもこの放射線量の意味が私にはあまりよくわからないので、「今さら恥ずかしくて聞けないけれど他の人たちもそんなにわかっていないだろう」と思い、敢えて原子力の専門家である澤田先生にバスの中で質問するコーナーをやってみた。残念ながら話があまり盛り上がらなかったが、私自身は前より少しわかったような気がした。要するに放射線というのはエネルギーの粒が飛んでくることで、一度に大量の粒が細胞に当たる(=大量の放射線を浴びる)と細胞レベルで組織が破壊されて修復できず死に至るので怖いのだ。ただ、「大量」の基準や「影響がない」と言える線引の数値については結局よくわからなかった。

前後するが、今年の4月1日に避難解除となった浪江町では常磐線の浪江駅が再開し、仙台方面からの列車が1日に11本、小高駅から浪江駅まで来るようになった。その先はまだ未開通だが復興に向けて一歩だけ前へ進んだと言えるだろうか。

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地震で傾いたままだった駅前の建物は解体されて更地になっていた。町役場・郵便局・警察などの公共施設も再開し、職員の姿がちらほら見え車が出入りしているが、通りに町の人々は全く見当たらない。

海に近い請戸地区の田んぼだったところには雑草が生い茂る。住宅地だった辺りに昨年は、津波で流された家々の残骸や基礎部分がもう少し残っていた気がするが、今年はほとんどなくなっている。

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ぽつんと残る請戸小学校。ここの児童たちが全員無事だったという話がせめてもの救いだが、子どもたちはあれから避難先の町で元気に過ごしているのだろうか。海岸沿いでは防潮堤の工事が粛々と進んでいた。

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地元出身の半谷さんの解説を聞きながら。半谷さんの実家の前も通る。

 

6号線沿いの風景はほとんど変わらない。ひとたび人が住まなくなると、ちょっとやそっとではもう人が住めなくなることを無言で訴えるように無人の家々が建ち並ぶ。

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ここに再び人が住めるようになるのはいつだろう?どうなれば住めるようになるのだろう?考えると途方に暮れて気が滅入るなどと言っては部外者の気楽さと叱られそうだ。この春やはり避難解除になった富岡町に来ると、帰還に向けた住宅の建設が進められているようだったが、やはり人の姿はほとんど見かけない。昨年は津波に流されて何もなかった富岡駅の新しい駅舎の工事が進んでいた。日本一美しいと言われた夜の森駅では見事なはずのツツジが除染のために全て伐られて裸になったスロープが痛々しい。やはり、常磐線全線の再開に向けて駅と線路から再建していくということのようだ。

除染作業が進めば進むほど、除染土を詰めたおびただしい数のフレコンバッグが仮置き場に積み上がる。いずれ付近の中間貯蔵施設に輸送予定だそうだが・・

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除染の効果なのか、時間の経過なのか、放射線量は下がっているエリアが多い。雑草雑木が生い茂り、人は住んでいない。(続く)

[写真:坂本隆彦さん、川畑日美子さん、井内千穂]

福島の今を訪ねるバスツアーその①自分の目で見る

震災後の福島に初めて行ったのは昨年春。震災から5年も経ってからだった。

2011年3月11日以降、緊急支援のために多くの人々が被災地に向かい、新聞社の同僚は現場を駆け回って報道を続けた。そんな中、私は東京で家族の生活を守りつつ新聞社での日常業務をこなすだけで精いっぱいだった。同じ新聞社員でも報道部とは異なり、今こんなことをやっている場合なのかと思うルーティンの編集作業が多かったが、それでも担当業務は業務なので放棄するわけにもいかない。被災地に取材に行くこともボランティアに行くこともできなかった。

2011年の暮れになってようやく夫と二人で宮城県内をレンタカーで回り、震災直後よりだいぶ片付いたとは言え、まだ被害の爪痕が生々しい仙台から石巻、女川にかけての沿岸部の有り様を目の当たりにした。また、2014年には母校のライタースクールが岩手県陸前高田で開催したチャリティイベントにボランティアとして参加する機会もあった。しかし、福島にはなかなか行くことができなかったのだ。

2016年1月に新聞社を離れてから、なんとかして福島に行きたいと思い、その当時少し縁があったバイリンガル誌への寄稿のチャンスを得た。とは言っても福島での取材場所を探すのも実際に訪ねるのも自力ではとても無理だとわかっていたので、新聞社時代に知遇を得た福島出身の地域メディエーター半谷輝己氏にガイドを依頼し、3月末に知人筋のフリーランサー4人を巻き込んで小規模の取材ツアーを組んだのだった。

半谷氏に案内してもらった浜通りの荒涼たる風景、震災当時のまま閉ざされたJR常磐線浪江駅、浪江町から双葉町大熊町富岡町まで国道6号線沿いに続く無人の町、誰もいない家々に衝撃を受けた。除染が進む一方、人が作った町に誰も住んでいないというのは、何かがひどく間違っていたということをあまりにも雄弁に訴える。それは原発事故なのか?事故後の対応なのか?両方なのか?

沿岸部を回ったあとで山間の川内村で一泊した。ようやく人の気配が感じられてほっとしたが、原発から30キロ圏内にあって現在戻ってきている方々にお話を伺うことで、人が暮らしていくために必要な条件について考えさせられたのであった。

その時に書いた記事が最近ウェブで読めるようになっていて驚いた。

Fukushima—Working to bring Fukushima communities back to life | JAPAN and the WORLD

バイリンガル誌なので紙媒体には日本語もあったのだが、ウェブ版は英語だけのようだ。

一緒に行ったトラベルジャーナリストのT女史から「一度や二度の取材で何かわかったと思ってはダメ。ずーっと通い続けてようやく見えてくることがあるよ」と言われたことが心に残っている。

それもあって、この取材ツアーからしばらくして半谷氏に「震災後何度かやっている福島へのバスツアーを手伝ってほしい」と頼まれたときには、主に自分自身がまた福島を訪ねたいという気持ちで引き受けたのであった。

昨年の5月の連休の最終日。再び浜通り川内村里山を訪ねることになった。バス1台の日帰りツアー。この時の企画を成り立たせる紆余曲折の過程で川内村の秋元さんご夫妻と出会った。ご縁というのは実に不思議なもので、こうして元々は全く福島外部の取材者だった私は、川内村での友情をこれから育み、自分の友人・知人たちにもこの里山に来てもらいたいと思うようになったのだ。

そして今年も5月の連休の最終日。バス1台ほぼ満席の38名に加えて、現地に車で駆けつけてくれた7名の参加者と共に、福島の今を自分の目で見て肌で感じてきた。今回は多くの友人たちも参加してくれたのが嬉しい。

気にはなっても自分ではなかなか福島に行く機会がなかったという人が多い。そうこうするうちに震災から6年が経ち、ニュースを見聞きすることはあるものの、ともすれば日々の生活の慌ただしさに取り紛れて震災のことが記憶から薄らいでしまう。しかし、現地に来てみれば、復興にはほど遠い無人の家々が連なる浜通りの光景が現実なのだ。

それを自分の目で見る体験をバス1台に乗り合わせた友人たちをはじめ参加者のみなさんと共有できたことは意義深い。(続く)

f:id:chihoyorozu:20170519105014j:plain福島県双葉郡川内村の秋元さん宅の前で

[写真提供:川畑日美子さん]

 

太陽の讃歌と惑星~東響コーラス30周年②

4月22日土曜日夜、東京交響楽団の今シーズンの定期公演は、なんとオーケストラなしで開幕。ミューザ川崎のステージには東響コーラスのメンバーが並び、「太陽の讃歌」の日本初演に臨んだ。 

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旧ソ連タタール共和国出身で現代音楽の作曲家ソフィア・グバイドゥーリナの「太陽の讃歌」は、チェロのソロと打楽器、チェレスタ、室内合唱団という編成の作品で、1997年にロストロポーヴィチの70歳の誕生日に献呈された。今回は堤剛先生をソリストに迎えての日本初演。室内合唱団はソプラノ、アルト、テノール、バスがそれぞれ6パートに分かれ、実に24声部ある!オリジナルは各パートがソロという24人編成のようだが、今回は各パート2人で歌うということで、団員数300人余りの東響コーラスの中の精鋭48人なのである。

練習を取材させていただいた時はチェロや主要な打楽器パートはピアノが代奏していたので、楽器も揃った生演奏に触れるのは初めて。なにしろ日本初演だし、この日のミューザでたった一度だけ(おそらく当分は日本で演奏されることはなさそう・・)というまさに一期一会の演奏に立ち会うのだ。ああ、そろそろあの人のソロの出番だと思うだけで緊張してくる。こんなに集中して現代音楽を聴いたのは初めてかもしれない。指揮はロストロポーヴィチの初演も振ったマエストロ沼尻竜介。

今回の演奏会に向けて東響コーラスの指導に当たった合唱指揮の大谷研二さんが「チェロのソロに歌と打楽器が絡み合う」と説明し、団員のMさんが「現代の宗教音楽。チェロが太陽の神様」と表現したその神秘的な曲は、混沌の中から「神様」の様々な働きかけに応じて、宇宙の要素が反応し、調和の法則が見出されていく過程のようだった。

冒頭、チェロの音色が力強く跳躍してから半音ずつ上昇する音階の頂点で、その音を引き取るように女性達がそれと同じ音程とそれより半音高い音程で発する「アー」という声。半音違いの2声の響きが唸り、うねり、やがて溶け合って透明な一つの音になると、その音がグラスハーモニカに引き継がれる。打楽器奏者が濡らした手で水の入ったグラスの縁をそーっとクルクル擦ると得も言われぬ神秘の音がホールに響き渡り、今度は男声の低音が発せられる中、バスのソロが厳かに唱える。

 Altissimo onnipotente bon Signore,
いと高く、全能にして、情け深い主よ
tue so le laude, la gloria,
あなたに称賛と栄光がありますように
l'honore et onne benedictione.
名誉と祝福がありますように

13世紀初めにアッシジ聖フランシスコが書いた「太陽の讃歌」の冒頭の言葉である。

太陽の賛歌

  1. 創造主とその創造物(太陽と月)への讃歌
  2. 創造主、すなわち自然の四大要素(大気、水、日、土)の創造主への讃歌
  3. 生への讃歌
  4. 死への讃歌

曲はこれら4つの部分に分かれているが、続けて演奏されるので全体が一連のプロセスとして体験される。

チェロで出せる限りの音を試すかのように、弦の端から端まで超絶な高音やその上の聴こえない音域までヒーーっと擦ったり、ザザザザザと嵐が来るような不穏な音を出してみたり、楽器の胴をトントン叩いたり、次から次へと何か実験しているようだ。

グロッケンのきらめき、ヴィブラフォンのやわらかい響き、マリンバの転がるような音は、まだ形を成していない宇宙で原子や分子が揺れ動き、結びつき、だんだんと集まってくるようでもあり、チリンチリンとなるのはフィンガーシンバルだろうか。ヨガの瞑想やお寺の祈祷にも出てきそうな音で宇宙の儀式が進行する中、ふと銅鑼やティンパニや鐘の音が不気味にあたりを震わせるのだ。

人の声の大部分は言葉のない「アー」というヴォカリーズで、たまに「太陽の讃歌」のイタリア語の歌詞が聴こえてくると「言葉」というものがより一層特別なものに感じられる。とくにAltissimo!(いと高き主よ!)の連呼にハッとする。

チェロに応えて「アー」という声を発しながら様々に試行錯誤する人の声の不協和音が続くが、やがて「生への讃歌」にさしかかると、この上なく美しい和音が、始めは女声によって、次いで男声によってもたらされる。中世の修道院で密かに歌われたような仄暗い響きだ。ついに人間の精神が宇宙の調和の秘密を発見したのか。なぜ、これを調和と感じるのか?やはり宇宙を成り立たせている物理の法則なのか?

神様であるチェロの仕事はなおも終わらず、一旦、チェロを置いて、銅鑼を叩きに行ったり、大太鼓を擦ったりする。横向きに平たく置いた大太鼓の皮を小太鼓のバチで擦る様子は、日本の古事記に出てくるイザナギイザナミの「国生み」神話を連想させ、混沌の泥をかき混ぜる音のようにも聴こえる。

さらに、チェロの弓をコントラバスの弓に持ち替え、珍奇な効果音(ビヨヨヨヨーン)を発するフレクサトーンという楽器を擦ると、鳥の声のようなツイーンと鋭い音が鳴る。今日の演出ではチェロを置いた堤先生が、バスからテノール、アルト、ソプラノまで合唱団が並んでいる弧の形に沿って舞台を歩きながら、順々にツイーンという祝福(?)の音を与えては、人々が「アーメン」(?)と応える。そんな神秘の儀式が舞台上で繰り広げられた。 このあたりでもグラスハープの2音がワンワン響いている。

最後には、金属音がチリチリ鳴り、一人一人の歌い手があちこちで声を発する。それは各人のほんの短い人生の証のようであり、各々の役割である音程が代わる代わる発せられては消え、また発せられる。海辺のカモメの群れのような声の連なりを受け止めた後、チェロは荒野を吹き渡るつむじ風のように高音で唸りながらだんだん微かになり、やがて聴こえなくなった。

作曲家のグバイドゥーリナはなぜ、この曲に人の声を必要としたのだろうか?

「人間臭さを感じさせない、世界を超越した、あちらの世界の神秘的なものを表現している」と大谷さんは説明された。それでいて、「あちらの世界」はやはり人の声でなければ表現できないもののようだ。きっと「あちらの世界」と言うか、宇宙の法則も、太陽の神も、それを感知して讃えるのは、やはり人間の精神なのだ。人間の精神が肉声を通して宇宙の神秘の法則に迫り、それが聴く人に深く伝わるのかもしれない。

その後で久々に聴いたホルストの「惑星」は、そのようにして発見された音の法則に従って宇宙を表現しようと試みる人間の営みとして馴染み深いものに感じられた。1曲目とは打って変わって大編成のオーケストラがずらりと勢ぞろいし、マエストロ沼尻竜介の巧みな棒の下、めくるめく宇宙絵巻を堪能したのだった。

2人のティンパニ奏者が2組のティンパニを盛大に叩きまくるのをはじめ、盛りだくさんな打楽器群が星々を盛り上げる。火星、金星、水星、木星土星・・それぞれの惑星につけられたサブタイトルは「あくまでも占星術から人間の属性のイメージを喚起させるためのもの」とホルスト自身が語っているそうで(プログラムより)、ギリシア神話の物語とはあまり関係ないようだが、ギリシア神話の神様たちが人間に近い親しみやすい存在であるように、人間の想像力と音楽的なルールによって各惑星に与えられた特徴的なリズムや旋律が親しみやすい宇宙を展開する。

そして、神秘的な海王星のラスト。東響コーラスの女声合唱のヴォカリーズがバックステージからかすかに聞こえてくる。

大谷氏は「ここは東響コーラスの女声の技術力の見せどころ」と言った。練習中には「宇宙の彼方にソプラノもアルトもないですからねー、アルトの人もアルトと感じさせないようにソプラノに負けないぐらい明るく、ママは要らないですよ。みなさん少女で宇宙の彼方に身を任せる感じ」「決してビブラートをかけないで。揺れがつくと人間味が出てしまいます。歌ってるーという感じで地上に連れ戻されます。まっすぐに揺れないで完全に人間じゃない感じで」としきりに指示されていた。ホルストが作曲した当時はまだシンセサイザーがなかったが、本当はシンセサイザーを使いたいような箇所ではなかったかと。冨田勲のように。「だからシンセサイザーのような音程と清らかな宇宙のサウンドをくださいね」と。

シンセサイザーか。そうかもしれない。しかし、シンセサイザーが開発され、いち早く電子楽器を作曲に取り入れたグバイドゥーリナも、「太陽の讃歌」にはシンセサイザーではなく合唱団を使ったのだ。やはり、宇宙の神秘は電子機器ではなく、人の声でしか表現できないということではないだろうか。人間は当然、人間臭いものだが、俗世を超越して、神に祈り宇宙の神秘に近づこう、宇宙の秘密の法則を知ろうとするのもまた人間なのである。

宇宙の神秘に近づこうとする人間の精神。その不可思議を伝える東響コーラスの「人の声」がゾクゾクと魂を震わせる。(終わり)

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Photo by Kaho Sato  *この写真は許諾を得て掲載しています。

アマチュア合唱団がプロオケと共演~東響コーラス30周年①

プロってなんだろう?アマチュアってなんだろう?とまだ考え続けている。

プロの東京交響楽団の専属合唱団である東響コーラスがアマチュアであると知った時は驚いたものだ。今回はこのやや特殊なアマチュア合唱団の30周年にあたり紹介することを提案し、4月21日付でジャパンタイムズに掲載になった。

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オンライン版ではキーワード検索でよりヒットしやすくするために見出しが変えられるのはよくあることだが、元の紙面の見出しはこうだった。

Tokyo Symphony Chorus celebrates 30 years

そして副題は、Amateur choir members are proud to join top-class orchestra on stage

この2フレーズで、30周年を迎える東響コーラスを端的に言い表している。

金山茂人元楽団長によると、それまで東京交響楽団では合唱を必要とするプログラムの際には、「プロの合唱団に頼むのは財政上厳しく」外部の複数のアマチュア合唱団から「寄せ集めたメンバー」で合唱団を編成して演奏していたそうだ。専属の合唱団を作ってオケとしての演奏活動の可能性と多様性を拡大する目的で、1987年に東響コーラスが設立された。

基本方針は、

  • 団員のレベルのばらつきを防ぐために経験者を対象とする
  • 音楽だけに専念してもらうために団費、チケットノルマは一切なし
  • 音楽監督もスタッフも練習場もオケと全く同じ直属合唱団とする

というものだった。全日本合唱連盟のサイトによると、日本は「世界の中でも最も合唱が盛んな国の一つ」であり、「合唱団の数は、小・中・高校、大学、職場、おかあさんコーラス、一般と、あわせて数万に達します」とのことだが、プロのオーケストラの専属合唱団として、この基本方針を変えずに継続的なメンバーによる活動を30年も続け、アマチュアとは思えない演奏レベルの高さを維持・向上してきた例は珍しいという。

このたび、合唱団の練習を取材させていただき、団員の方々数人にお話を伺うことができた。

テノールS氏:もう定年を過ぎましたが、企業のSEとして働き始めた頃、会社と家の往復だけの生活に疑問を感じて、今で言う「サード・プレイス」を求めたんですね。それが私の場合は合唱だったんです。元々音楽を聴くのは好きでした。大阪で大フィルの合唱団などに参加して数年後に東京に転勤になり、91年に東響コーラスに入団しました。

仕事との両立は大変でしたね。夜勤の時など、合唱の練習の後でみんなは飲み会に行くけれど自分は出勤ということもありましたし。練習時間に間に合うようにできるだけ仕事を効率化しました。残業しないで仕事を早くすませる働き方は、私の世代では珍しかったかもしれませんが、ある意味、時代を先取りしていたのではないかと思います。

入団のためにオーディションがあり、毎回の演奏会に出演するにもオーディションがあるのは、メンバーにとってなかなかシビアな環境だが、S氏によると、メンバー同士でオーディションに向けて自主練をやったり、団内の雰囲気は決して悪くないそうだ。

もう9年も前のことだが、東響が演奏会形式でジョン・アダムズのオペラ「フラワリング・ツリー」を演奏した時、東響コーラスが全曲暗譜で歌っているのを見て驚いた。金山元楽団長の言い方では「プロの合唱団なら楽譜を少し見ればさらっと歌えるけれど、アマチュアの場合は暗譜するぐらいに練習しないとちゃんと歌えない」ということだが、それにしてもよくまあ全部覚えられるものだと感服する。

テノールT氏:でも、暗譜が凄いというところばかりを強調されたくないんです。暗譜が目的ではなくて、暗譜してしまうぐらい時間をかけて練習を重ねて音楽を表現するっていうところが大事なんです。私は元々は東響の定期会員でした。あるとき、プログラムに「『グレの歌』の団員募集」という案内があったのを見て応募しました。自営業なのでスケジュールは比較的コントロールできます。とにかく、プロのオケと常に共演できる最高の環境です!

専属合唱団だがプロではなく、あくまでもアマチュアなので合唱団員がギャラをもらうわけではない。

バスⅠ氏:しかし、東響と同じステージに立つ以上、プロ並みのレベルが要求されます。お客様はプロのオーケストラの演奏会を聴きにきているわけですからね。

常にプロのオーケストラと共演するおかげで、アマチュアだとなかなか歌う機会がない曲など、新しいことに挑戦できるのが恵まれたところだと思います。

オケの直属の合唱団であるが、コーラス委員やパートリーダーを中心にする合唱団の自主運営もしっかりしていて、I氏は、サラリーマン生活の傍ら、かつて15年もの長い年月コーラス委員長を務めた。 

団員の方々のコメントに感銘を受けながら、アマチュアとしてこれだけの時間と情熱を注ぐ演奏活動について書き進めていたところ、編集過程のやり取りでもらった担当エディターからのメールが興味深かった。
 
「ボランティアで歌うことを厭わないこのアマチュア団体の考え方はわかる。でも個人的には、こういったサービスは無料で提供されるべきではないと思う。『書く』場合にも同じようなことがあって、僕も誰かに無料で新聞に記事を書いてもらうことがある。その人にとってはたとえ原稿料なしでも自分の記事が掲載されるのは露出の機会だしPRになるからね。でも、本来『書く』こと自体は有料であるべきだと思う。そして、『歌う』こともそうなんじゃないかな。たとえわずかな料金でもね。だって、彼らの合唱もコンサートの一部であって、それによって東響は収入を得ているわけだろう?いや、僕の個人的な意見だけどね。」(←原文は英語)
余談だがこれを読んで、「書く」ことによってお金をいただくことの重みを改めて考えさせられたのであった。
 

アルトMさん:日常の多くの時間が仕事や家事に費やされ、音楽と向き合う時間は限られてしまいますが、その分、一期一会の舞台に傾ける情熱は濃密なものとなります。

 一つの演奏会を終えると燃え尽きたようになりますが、さらなる高みを目指して、また山の麓に来てしまう。自ら進んで、その情熱へとひた走ることができるのはアマチュアの特権かもしれません。音楽を職業としていないからこそ、自由に音楽を楽しむことができるからです。
 
うーん。やはりメンバーにとっては歌うことは純粋に喜びなんだな・・・お金ではなく。ただ、通常のアマチュア団体なら当然ある団費や自主演奏会のコストを支えるための出演料(ギャラではなく自分がお金を払って出演する)やチケットノルマが不要というところで、団員の経済的負担がない上に練習場や指導者にも恵まれた合唱団なのだ。ギャラという形ではないにせよ、プロのオーケストラが全面的に費用を負担している合唱団であることは間違いない。コストを徴収する代わりにギャラを払うという考え方もありうるかもしれないが・・煩雑になるだけかな?
 
ソプラノHさん:いったんステージに立てば、プロだろうがアマチュアだろうが違いはありません。聴いてくださるお客様のためにベストを尽くすだけです。
 
かつて学んだライタースクールでは、「自分のために書くのは日記。プロは読者のために書く」と徹底的に叩き込まれた。そう考えると、プロオケとの共演において聴衆のためにハイレベルの合唱を聴かせる東響コーラスの姿勢はプロである。もちろん、音楽の専門教育を受けたかどうかによる技術的な問題はあるけれど、音大を出ればプロというわけでもないと思うし、音楽だけで食べて行けることがプロなのか?というところも難しく、プロとアマチュアの境界をまだ考え続けてしまう。(続く)
 
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 東響コーラス練習風景 (井内撮影)