よろず編集後記

よろず編集者を目指す井内千穂のブログです。

中学生サミット2018その③ 六ヶ所バスケット

翌朝、再び八戸駅へ。青森県での滞在時間はトータルで24時間に満たない。せっかく日本各地からはるばる本州の北端まで来たのだから、もう少し長く現地の空気を吸いながら、昨日見聞きした真新しい知識と「物語」について、生徒たちが互いの感想や意見を交換する場があることを期待していたが、「そういう話し合いは東京でやります」というプログラムであった。どうも青森県内で「核のごみ」の最終処分場の話題はタブーらしい。とくに今は、近々の統一地方選挙への配慮といった大人の事情もあるようだ。私はオブザーバーの一人に過ぎず、企画段階に関与できる立場にはないため、このたびの関係者のやり取りの詳細は知る由もない。中学生や高校生がざっくばらんに話し合うことの何が問題なのだろう? 

早々に青森を離れることに軽い落胆と違和感を覚えつつ、大人のオブザーバーとしてはそれ以上どうこう言わず、とりあえず「帰京」の途に就いた。こちらのそんな気分とは関係なく、生徒たちは実に楽しげである。各々ささやかな青森土産を提げて新幹線に乗り込み、仲間たちと語らい、お弁当を広げ、ひと眠りできる車中も有意義な旅のひとコマ。「東京にも行けるのが嬉しい」と島根から参加した中学生は言った。好奇心いっぱいの生徒たちは、その場その場の体験に柔軟だ。

ということで、午後は都内お台場の科学未来館の交流施設で討論会。ここでもまた、生徒たちの柔軟な発想に感心する場面があった。

「中学生サミット」恒例の、生徒たちの 生徒たちによる 生徒たちのための対話である。当然、司会も生徒たちに任せるため、大人にも進行の予想がつかない。昨日来、団体行動してきたものの、ここまでは大体が同じ学校の生徒同士で固まって話していたであろう29名が、学校の枠を取り払って、対話しやすい形として澤田先生おススメの「椅子だけ使って輪になって」座るとかなり大きな円ができた。美術部の高校生のアイデアで瓢箪型にしてみる。面白いアレンジになった。

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まずは簡単に自己紹介。次に隣りの席の生徒を皆に紹介する「他己紹介」。それから隣り同士、昨日の見学で感じた疑問や意見を出し合い、片っ端から付箋に書いてホワイトボードに貼るという作業。ここまでは、これまでにもお馴染みの光景だ。

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ホワイトボードの付箋を数人が整理・分類する間に、残りの面々で話し合いが始まろうとするところ、「その前に」とファシリテーター役の東京の女子高生2人組から提案が。

驚いたことにゲームが始まった。

「みなさん、『フルーツバスケット』って知ってますよね? これから『六ヶ所バスケット』をやります。質問を言いますので、自分が当てはまると思った人は移動してください。椅子は人数よりちょっと足りません。座れなかった人たちには質問に答えてもらいます。」

六ヶ所バスケット!なんだか面白そうだ。

Q1「きのう、六ヶ所村で楽しめた人!」

生徒一同、立ち上がって走り回り、椅子に座れなかった生徒が回答する。

六ヶ所村のろっかぽっかという所でいろいろな話が聞けて楽しかったです。」

Q2「きのう、新しいことを学んだ人!」

またどっと走り出す。

Q3「きのうで六ヶ所村の印象が変わった人!」

Q4「再処理を外国でやったほうがいいと思う人!」

こんな感じで次々に質問が発せられ該当者が走って移動するというパターンが続いたところで、ふいに「六ヶ所村!!」という号令がかかると全員移動だ。生徒たちは瓢箪型に並べた椅子の中を走り回る。

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大人に対しては斜に構えた難しい年頃の中学生たちも、空いている椅子をめがけて必死で走る時は、天真爛漫な子どもに戻る。考えてみたらついこの間まで小学生だったのだ。初対面の硬さがだんだんとほぐれて、発言しやすい雰囲気に会場が温まってきた。

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話し合いの前にゲームをやると決めたのも、どんなゲームをやるのか考えたのも、「六ヶ所バスケット」のネーミングもファシリテーター役の高校生たちだ。絶妙なアイスブレイクを提供した柔軟な発想に拍手!(続く)

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 六ヶ所バスケットが盛り上がっていた頃、高校生2名と昨年からのリピーターである中学3年生が、みんなから出た意見が書かれた付箋を分類・整理していた。いろいろな意見が出ている。

 

中学生サミット2018その② 六ヶ所村の人の話を聴く

原子燃料サイクル施設の見学を終えて再びバスに乗る頃には日が暮れていた。5時過ぎ、六ヶ所村内のスパハウスろっかぽっかに到着。立派な温泉施設だ。そう言えば、村内で見かけた体育館や郷土館も立派だった。

入浴のために立ち寄ったわけではない。施設内の大広間で地元の方々のお話を聴くセッションが始まった。

*****

六ヶ所村の女性団体「エネルギーを考える未来塾」の塾長 伊藤夏子さんと仲間の塾生 土田さんと岩間さん。折々、大学生に向けて話をすることはあるが今回は中学生と聞いて驚いたという御三方は、「うちの孫も中学生です」という元気なおばあちゃま達だ。

山形出身の伊藤さんが、結婚で六ヶ所村に来て以来見てきた村の歩みを語る。

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六ヶ所村の女性団体「エネルギーを考える未来塾」の塾長 伊藤夏子さん

 

六ヶ所村に嫁いできた昭和44年(1969年)、「ここは町になるんだよ」と聞いた。当時は核燃料施設ではなく、大規模な化学コンビナートができるという話だった。高度経済成長の時代だ。青森県が主体になって土地収用・巨大開発が進められた。そこへオイルショックが発生。石油備蓄基地はできたが、その他の 企業は誘致できず、膨大な土地が残った。どうするか?というときに、1985年あたりから核燃料サイクル施設の誘致が始まり、県と村が合意して施設の受け入れが決まった。賛否両論あったが、やはり、それまで所得が低く出稼ぎせざるを得なかった六ヶ所村では、「このままでは将来がない。村が豊かにならなければならない」という当時のリーダー達の声で、施設を受け入れることになったのだ。住民はそれがどういう施設なのか、ほとんどわかっていなかった。核燃料サイクルのことも原発自体もよく知らなかった。施設の受け入れ以来、雇用の場が増えて若い人が採用されていき、自然と村も豊かになった。青森県では国からの交付金をもらっていない唯一の自治体である。

そういう形で今は恵まれているが、果たして住民は、核燃料サイクル原子力や最終処分の問題をわかっているのか?と思い、次世代にツケを残さないためにも大学生たちと一緒に学んでいこうと考えて4年前に立ち上げたのが、「エネルギーを考える未来塾」である。原燃の施設のみならず村内にある青森県量子科学センターの見学も行い、放射線について学んでいる。セットで見学することが大事だと伊藤さんは言った。

「やはり、原子力放射線に対してすごく不安な思いでいましたが、学ぶことによって少しずつ知識が得られ、安心材料の一つになったかなと思っています。人間のやることですので、いろんなところでミスが起こりますが、最小限、ミスを犯さないように、従業員たちも頑張ってほしいなと今思っているところです。」

まだまだ勉強不足ですが、と言って伊藤さんは話を終え、土田さんと岩間さんが、「科学的な知識はなかなか頭に入って来ないけれど、塾に入ってから少しずつ学ぶことによって、少しは入っているかなと思います」と付け加えた。

ここで澤田先生が質問。

澤田:ご家庭でもこういう話をされることはありますか?

伊藤:ないですね。ないけど、子どもたちが大きくなる前から施設はあったし、それが当たり前の生活でずっと来ているので、子どもたちは違和感を持ってないです。若い人たちは就職先としても考えていますし。こちらの岩間さんの息子さんも原燃にお勤めです。

澤田:もうひとつ質問。原燃の施設ができる前は、あそこには何があったのですか?

伊藤:じゃがいもの種いもの試験場でした。じゃがいもを植え付けた所もありまして。だけど、ここはね、「やませ」でダメでしたね。作物は育ちませんでした。

澤田先生が、「みなさん、『やませ』わかりますか?夏にすごく冷たい風が吹いて農作物が育たないんです」とフォロー。

伊藤:あそこは開拓地でしたので、酪農家が何軒か住んでいて、施設ができるときにウチの近所に移転してこられました。何もないところに建物ができたわけではなくて、開拓者が入ってきてできた牧草地が多かったです。

さらに、澤田先生が「君たち、出稼ぎってピンと来てます?」と生徒たちに尋ねる。今の子どもたちは「出稼ぎ」という言葉を知らないのだ。

伊藤:あのー、農家は冬になると仕事がないわけですよ。所得も少ないので、村の人たちはほとんど、東京や関西の方へ、働きに行って収入を仕送りしていました。そういう時代がありました。

 

さて、いよいよ生徒たちからの質問コーナーへ。

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澤田先生の司会で生徒たちが地元の伊藤さんたちに質問。

 

Q:お話ありがとうございました。核燃料サイクル施設が六ヶ所村に来たことによって、経済的に豊かになったということだったんですけど、心の豊かさについてはどう思われますか?(東京;高2Uさん)

伊藤:私はやはり、経済的に貧しい生活をしていると心も荒れてくるように思います。出稼ぎで冬場お父さんがいなくてさみしい思いをしているよりは、家庭団欒もできますし、この近くの三沢に行けば遊ぶところもあります。今は結構マイカーで出かける機会もあります。そういう面では豊かになってよかったかなと思っています。

岩間:私は小学校5年生の時に、両親が開拓者で入ったんですけど、やっぱり、どうしても冬場は仕事がなくなって父親が出稼ぎせざるを得ませんでした。それを考えると近隣にも関連会社とか、勤め先が増えて良かったと思います。

Q:核燃料サイクルの施設ができる時の住民向けの説明会があったと思うんですけど、その時どういう説明を受けたのですか?(福島;高3Mさん)

伊藤:国の人と県の人と村の人と、大きな文化会館で700人も800人も人を集めて説明会がありました。だけど、全然わからない人がそこへ行って話を聞いても、何しゃべっているのか、とんとわかりませんでした。逆に反対の人が、なんでそんな危ないものを入れるんだっていう話を聞くと、あ、危険なんだって思いました。でも、果たしてそれでいいのかなとも思っていました。村長選があって、反対の候補者と賛成の候補者とが立候補しましたが、賛成派の候補が当選しまして。私たち農家は、やっぱり不安で、そんなに賛成する人を聞いた記憶がないんですけど、農家って農業だけで、働くだけで精いっぱいで、六ヶ所の人たちの人柄と言うのでしょうか、こういうリーダーを選んだのだから、そのリーダーについて行こう、という感じでした。ただ、それじゃいけないと思っていろんな説明会に出ますと、何回も聞いているうちに徐々にどういう施設なのかっていうことがわかってきました。

岩間:ウチは一人息子なので、そばに置きたかったんですね。息子は、高校卒業の時に大学進学はしないで仕事で頑張ると言い、地元の原燃で働くことを考えてました。学校の先生は「原燃は危ないんだ!」と反対しましたが、先生を説得しまして、(就職の)試験を受けさせたら受かりました。私は時々言うんです。きちんと仕事しないと、事故が起きたらどうするんだって。責任をもって働いてほしいなと思います。

伊藤:今はプロパーの職員の6~7割は青森の人ですが、青森県全体に施設に対する理解が浸透しているわけではなくて、無関心な人が結構いるので、そういう人たちも巻き込んでいくのがこれからの課題です。

Q:反対意見の人に納得してもらうために、大きな説明会以外のこともやっていたのですか?(愛知県;中3A君)

伊藤:町内会みたいな自治会単位でも小さな会合が結構ひんぱんに開催され、原燃の人と村役場と県の職員が足繁く通って説明されました。「これは必要なものなんだから、あなた方も頑張って受け入れてください」っていう説明を私も何回か聞きました。

 Q:どんなに説明があっても「絶対安全」ではないじゃないですか。六ヶ所村の場合は、どういうふうに理解して、どこで納得されたのですか?(東京;高2K君)

伊藤:今考えると、原発と違って安全なんだっていうことから説明を受けたのを記憶しています。反対運動をしている人たちはずっと反対していましたが、住民はわりと素直に納得していきましたね。六ヶ所の住民って素直な人が多かったんでしょうかね。反対運動もすごくあったんですけど、半分以上は都会の学生でした。ビラ配りとか。その学生たちも自分の本意でそうしているわけじゃなくて、教授から「行ってこい」と言われて来ているようなケースもありました。

土田:そうですね。回数重ねて説得されているうちに受け入れるようになりました。「そんなに簡単に受け入れるの?」と言われたこともありますけど。

Q:未来塾の活動をどのようにほかの人たちにも広めておられるのですか?(東京;高2Mさん)

伊藤:私ははじめ読者愛好会という会に入っていました。科学者の先生から原子力の話などを聴く会です。福島の事故があって、もっと自由に未来のエネルギーを考えた時に、素人の主婦が集まって学ぶ塾を作りました。昔の寺子屋みたいな感じで、いちおう私が塾長みたいになってますが、みんな対等の塾生です。講師は中央から招いて話を聞こうというスタンスで、みんなで話し合って選んでいます。毎年、国の予算をもらって活動しています。一般の人たちにもチラシを配ったりしたのですが、なかなか参加してもらえなくて、このままだと同じメンバーだけで広がりがないなあと思って、若い人たちに声をかけてみました。埼玉の大学と地元の大学の学生さんたちが参加してくれています。大学生だとまた新入生が入ってきてくれます。私たちはオバサンなので広報的にも全然ダメなんですけど、若い人たちはインターネットでもSNSでもいろんな形でつながっていけるので、小さな場ですが、そういう若い人たちの力を借りながらやっていくといいのかなと思っています。

このほか、京都の中学生から最終処分地について、福島の高校生から原燃に息子が就職した時の覚悟について、質問が出た。

最後に御三方から一言ずつ。

伊藤:六ヶ所に関心を持って遠いところから来ていただいたことに本当に感謝しています。やっぱり、賛成だ反対だっていう意見を決める前に、まず現場を見ていただきたいと思います。現場を見て自分が思ったことを帰ってから勉強する機会はいくらでもありますので、そういう形で、これからも六ヶ所に関心を持っていただきたいなと思います。本当に今日はありがとうございました。

土田:中学生で、しかも一年生もいらっしゃって、こういうテーマに関心を持ってすごいです。ありがとうございました。

岩間:大人でさえ原発の話は難しいですが、やはり、日本に原発は必要だと思います。興味を持って一生懸命勉強してください。ありがとうございました。

*****

原子力燃料サイクル施設」の受け入れの時代から現在までの六ヶ所村を見つめてきた地元の人たちのリアルな声を聴く貴重な機会だった。生活者としての現実と向き合い、みずから学び、若い世代にも伝えようという塾のみなさんの力強さに感銘を受ける。

一方で、話にも出た「賛否両論」の反対意見も聞いてみたいと思った。反対する人は、同じ施設に対して全く違った考えを持っているのだろう。いつも感じることだが、何事によらず、同じような考えの人々が集まることはあっても、異なる意見を持つ人々が同席して互いの意見に耳を傾ける場は滅多にない。今回、主催者側は反対派にも声をかけたそうだが、実現しなかったらしい。この中学生サミットは、どちらかと言うと原子力関連施設に「賛成」寄りの企画だと見做されているのだろうか? しかし、生徒たちにはまだ大人のような固定観念はなく、これから見聞きするものから自分の考えを作っていくところなのだから、きっと両方の意見を聞きたいだろう。(続く)

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お話を聴いた後、伊藤さんたちに駆け寄る女子生徒たち。地域を超えて世代を超えて交流が広がる。

 

 

 

 

 

 

 

中学生サミット2018その① 六ヶ所村へ

昨年末、冬休みに入ったばかりの三連休に二泊三日で開催された「中学生サミット」にオブザーバーとして同行した。

「中学生サミット」は、原発で出る「核のごみ」の問題について、中学生たちが考えるというユニークな企画である。東京工業大学の学術フォーラム「多価値化の世紀と原子力」(代表:澤田哲生助教)の主催で過去6回開催され、これまでは岐阜県瑞浪の超深地層研究所の試験坑道を見学してから討論会という形だったが、今回は発電所から出た核のごみを持ちこんで処理し新たな燃料を取り出す現場である六ヶ所村の原子燃料サイクル施設を見学する運びとなった。このサミットに同行するのはこれで3回目。今回の生徒たち同様、私も六ヶ所村を訪ねるのは初めてである。

だいぶ時間が経ってしまったが、改めて振り返ってみよう。

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その① 六ヶ所村
その② 六ヶ所村の人の話を聴く
その③ 六ヶ所村バスケット
その④ NUMOへの質問
その⑤ 自分が自治体の首長だったら?

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これまでは瑞浪の深度500メートルという「地の底」に潜るところからスタートしたこのサミット、このたびは「地の果て」へ・・などと言っては失礼だが、やはり、六ヶ所村は遠かった。東京からは新幹線で八戸まで3時間弱だが、さらにバスで1時間半ほどかかる。今回は、原発立地地域である佐賀県島根県新潟県福島県と電力消費地である京都府、愛知県、東京都から6校合計29名の中学生・高校生が参加した。佐賀組は前泊だったし、島根組は当日の朝、濃霧でフライトが遅れたため新幹線の乗り継ぎや八戸からのバスに間に合わなかった。引率する大人もさぞかし大変だったことだろう。

正午の八戸駅は穏やかな上天気で気温は7度。厳しい寒さを覚悟して来たのでちょっと拍子抜けだった。「本当はこんなもんじゃない」異例の暖かさだったらしい。夏は「やませ」、冬は地吹雪が凄いという土地柄、道路の両サイドには防風柵が設置され、バスの窓からの風景も切れ切れに遮られるが、ごぼうや長芋など根菜を収穫した後の畑と雑木林が続くほか、雪に覆われた湿原が時折見えた。

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下北半島を北上して六ヶ所村に入り、まずは原燃PRセンターへ。

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ウラン濃縮工場、低レベル放射性廃棄物埋設センター、再処理工場などの「原子燃料サイクル施設」の役割と仕組みについて、模型・映像・パネルで紹介している施設である。

PR映像を見てから原燃の担当者の説明を聞く。

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BWR(沸騰水型原子炉)の燃料6体分にあたる使用済み燃料1トンを再処理することによって、取り出したプルトニウムからMOX燃料1体、取り出したウランを再濃縮してウラン燃料1体、そして、燃料にならない高レベル放射性廃棄物であるガラス固化体1本になるという話だった。また、再処理しない場合は、半減期の長いプルトニウムなどが含まれるため、天然ウラン並みの有害度まで放射能が逓減するまでに約10万年かかるが、ガラス固化体の場合は、約1万年で天然ウラン並みになるそうだ。

問題は、このガラス固化体を1万年間(?)、どこに保管、もしくは隔離しておくのかという「最終処分場」がいまだに決まらないこと。それがこの中学生サミットで考えようとしているテーマである。

座学の後は、案内スタッフの誘導で再処理工程がよりリアルにイメージできる模型などを見学したが、実際の再処理工場は、2006年から「試運転中」のままであり、竣工時期は今のところ2021年度上期と当初予定より大幅に遅れている。予定されている最大処理能力はウラン年間800トン、使用済燃料を貯蔵できる容量は3,000トン。これまでの試運転で425トンを再処理したほかは、日本全国の原発から受け入れた使用済み燃料2,968トンを貯蔵している。つまり、プールはほぼ満杯ということか・・・

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本格稼働した場合に出る放射性物質については反対運動の立場から根強い懸念があるが、原燃の資料によると、再処理工場からの放射線量は自然放射線の約100分の1であり、さらなる安全対策も講じているとのことであった。

PR館の3階では地上20mから360°の大パノラマを楽しめる。尾駮沼方向には、再処理工場をはじめとする原子燃料サイクル施設と太平洋が一望でき、反対側に廻ると、風車がたくさんあって驚いた。やませを利用した風力発電基地で、92基の風車があるそうだ。また、むつ小川原国家石油備蓄基地には51基のタンクがあるなど、六ヶ所村にはエネルギー関連施設が集中しているのだ。

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PR館見学の次は、原子燃料サイクル施設内の高レベル放射性廃棄物貯蔵管理センターへ。さすがに原子力関連施設だけにセキュリティが厳しい。外観も内部も写真撮影不可。スマホタブレットの持ち込みも不可。事前申請は当然のこと、一人ひとりゲートで確認の上、管内に入る。

日本の9電力会社と日本原子力発電(株)は、原子力発電所から発生する使用済燃料の一部を、フランスとイギリスの再処理工場に委託している。再処理し分離されたウランやプルトニウムは、原子燃料として再利用するため電気事業者に返還され、同時に発生する放射性廃棄物も返還されるが、このうち、高レベル放射性廃棄物は、ガラス固化体として、六ヶ所村の高レベル放射性廃棄物貯蔵管理センターで、最終的な処分に向けて搬出されるまで30~50年間冷却・貯蔵される。

フランスからのガラス固化体の返還は、1995年4月から始まって2007年8月末に完了した。現在、1,830本が六ヶ所村に貯蔵されている。イギリスからのガラス固化体の返還はこれからだ。

これまでに訪ねた瑞浪岐阜県)や幌延(北海道)の深地層研究施設と大きく異なるのは、ここ六ヶ所村には本物のガラス固化体、即ち放射性物質があること。剥き出しで近寄ると20秒で死ぬという怖ろしい代物だ。見学者が入れる通路からガラス窓越しに覗き見る形ではあるが、そのような物体が運び込まれる工程がわかった。ガラス固化体28本が入る輸送容器が海外から到着したら、クレーンでガラス固化体受け容れ建屋に運び込み、検査の後、床面走行クレーンを遠隔操作してガラス固化体貯蔵建屋に移動する。

ガラス固化体貯蔵建屋の貯蔵ピットに、直径40センチ、高さ130センチ、重さ500キロのガラス固化体がタテに9本積んで収納され、床面にオレンジ色の蓋が並んでいる。蓋で遮蔽すれば上を歩いても大丈夫だって!?そういう写真も見た。その日は人の姿は見当たらなかったが、“怖いもの見たさ”と言おうか、あのオレンジ色の蓋を踏み歩いてみたいような気持ちに駆られた。

ここで30年から50年間、空気で冷やされるという。その後は何処へ?

駆け足の見学であったが、これからどうするか決めなくてはならないガラス固化体が、当面どんな場所で保管されているのか、少なくとも垣間見ることができた。

「百聞は一見に如かず」と言う。一方、このあいだ別件の取材で「しかし、一見が誤ったイメージをもたらす場合もある」と言った人がいた。確かに、一度や二度、行ったぐらいで何かがわかると思ってはいけないだろう。だいたい、異例の暖かい天候で六ヶ所村を判断してはいけないのだろう。それでも、初めて六ヶ所村に足を運んでみたのと、一度も行ったことがないのとでは大違いだ。

この原子燃料サイクル施設を一目見て、「四角い無機的な形と白い壁に青と緑のラインのみという余白の美」を絶賛した生徒がいた。福島から来た高校2年生の彼女は“工場萌え”で、美術部に所属するアーティストなのだ。原発の是非とは別次元で、人間が作ったモノに「なんという素晴らしいデザイン!」と感動できるのも、初めて現地に来てみたからこそ。第一印象は初回にしか得られない。

この再処理施設やガラス固化体をこれからどうするのか? 若者たちはどう考えるだろうか?(続く)

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そして大人たちは ~日本・ベラルーシ友好訪問団2018報告会その④

そうこうしているうちに年が改まり、「一月は行く」という言葉の通り、早くも月末である。昨年の10月に訪ねた福島県Jヴィレッジでの日本・ベラルーシ友好訪問団2018年報告会について書き残していたことをまとめておこう。

 福島の高校生たちやベラルーシの学生たちの意識が高いことにつくづく感心する報告会だったが、もちろん、こんなプロジェクトが彼らだけで実行できるわけはなく、当然ながら、それは周囲の大人たちの並々ならぬ尽力の賜物なのであった。

 その中心におられるのが、広野町NPOハッピーロードネット代表理事の西本由美子さんである。

www.happyroad.info

 西本さんに初めてお会いしたのは、3年前のゴールデンウィーク川内村であった。当時、会社を辞めたばかりだった私は、どういう行きがかりか、福島を訪ねるバスツアーを手伝うことになり、初対面の大学教員を含め一癖ありそうなオジさんたちとそんなイベントを運営するリスクに若干不安を感じていたのだが、下見に来た折、西本さんの笑顔に背中を押してもらったような気持ちになり、なにより、バスツアー当日の彼女のスピーチにいたく感銘を受けたのであった。

「震災後、原発が止まって、東京の電力の半分は広野の火力発電所で発電されています。東京の人たちはそのことをご存じでしょうか。避難先から戻ってきた私たちは原発と向き合い、日本の電力を支えているという誇りを持って暮らしています。」

 昨夏、福島の風評被害をめぐる座談会で久しぶりにご一緒して、あらためて意気投合したところだったが、ベラルーシ訪問の報告会では、理事長としての西本さんのパワフルな姿に感服するばかりだった。

 西本さんと私の共通点は、3人の男の子の母親であること。息子たちの子育てに明け暮れた専業主婦の時期があると言うと、「あらぁ、同じじゃなぁい!」と笑っておられたように、西本さんも元々は主婦だった。

私の場合、子育てだけの日々から何とか抜け出して「仕事がしたい!」と思い、末っ子が小学3年生だった頃に新聞社に再就職した。今振り返るとそれは「我が身を救いたい」必死の行動だったが、西本さんは、そんな自己中心的な発想とは違って、息子さんたちやその友達である少年たちにもっと献身的に尽くしてこられた。地元にできたばかりだったJヴィレッジへ車で送り迎えはもちろんのこと、待ち時間にはJヴィレッジ敷地内の花々の世話なども手がけられ、ご自宅で頻繁にお泊まり会を催したことを「楽しかった〜」と語ってくださった。我が家の愚息3人もなぜかサッカー少年に育ったが、せいぜい週末の試合を応援に行くぐらいだった私とは大違いである。私にはとてもそこまでできないと思うところ、西本さんは、子どもたちのためになることだったら喜んでやるというお気持ちなのだ。頭が下がるばかり。

 それが、震災前から福島県浜通りで開催されていた高校生サミットや、国道6号線の桜の植樹、道路清掃などの活動につながったのだろう。偶然だが、西本さんがNPOを立ち上げたのと、私が新聞社で働き出したのは同じく2005年のことであった。

国道6号線での活動は震災後も力強く続いている。しかし、メディアで報道されるや、西本さんたちが心ないバッシングの的になったことは先般の座談会でも改めて伺ったところだ。

「おまえらが笑顔でそこに住んでいられると俺たちは困るんだ」というようなSNSへの書き込みは、福島をめぐる錯綜した事情がもたらした屈折した感情としか言いようがない。

 そんな言葉を浴びせられても、西本さんは活動を続ける。その精神的な強さはどこから来るのか。それは、震災後の故郷の復興を担う次の世代が育って欲しいという一念である。その一点では人々は協調できるのではないか。廃炉も復興も何十年もかかり、今の大人たちは生きている間にその行く末を見届けられない。「そんなこと」になってしまった責任を問うことも重要だが、実際にどうにかしていくロング・プロジェクトは次の世代に引き継いでいくしかないのだ。だからこそ、地元の自治体も企業も、学校の先生方や生徒の保護者のみなさんも、その趣旨に賛同し、協力を惜しまないのだろう。

 ある活動が何年も継続し発展するためには、献身的にコミットして中心になる人が必ず要るのだ。それは、ほかの活動でも見たことだった。もちろん、一人でできることではないけれど、必ず中心になる人が必要であり、その人の志とその切実さが、周りの人を巻き込んで活動を引っ張って行く原動力になるのだと思う。

 日本・ベラルーシ友好訪問団2018報告会が終わったあと、西本さんが笑顔で勧めてくれるままに、Jヴィレッジの別室で行われたランチ会と解団式にまで参加した。福島の地元の方々ばかりという会に、よく知りもせずに東京からノコノコやってきた私が参加するのはいかにも場違い感があっていたたまれなかったが、震災以来、紆余曲折を経てここに居合わせたご縁を貴重なことだと思いたい。福島県外での報道を見ているだけではわからない。今回のイベントも地元紙の福島民報福島民友以外のメディアはどこも報じていないだろう。しかし地元には、若者たちと彼らを見守り育てようという大人たちの力強い輪があり、同じく原発の被害を受けたベラルーシの次世代を担う若者たちとの国際交流まで成し遂げているのである。

 解団式。西本さんは参加した生徒たち一人ひとりの名前を呼んで、終了証書を読み上げ、「よくがんばったね」と握手し、抱きしめておられた。

そして今年。夏に開催される「日・英友好訪問団 in 福島浜通り2019」の準備がもう始まっている。これまで3年間のベラルーシ訪問を踏まえ、今度はイギリスのセラフィールド社の「中間貯蔵施設」を視察し、周辺の町で1960年代からの取り組みについて学ぶという。

https://www.facebook.com/chiho.iuchi/posts/2054793777975327:22

福島浜通りの高校生たちを育てる力強いプロジェクトはまだまだ続く。(完) 

 

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 2018年7月に再開したJヴィレッジ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

パネルディスカッションは難しい⁈ ~日本・ベラルーシ友好訪問団2018報告会その③

諸々雑事に追われている間にずいぶん時間が経ってしまったが、メモを頼りに記録と記憶を残しておこう。

去る10月8日に福島県内のJヴィレッジで開催された日本・ベラルーシ友好訪問団2018報告会。前半に福島の高校生たちとベラルーシの学生たちが素晴らしいプレゼンテーションを行った後、休憩をはさんで後半は、福島の高校生たちによるパネルディスカッションであった。

 詳しい名簿などはわからないが、2グループそれぞれ8人ずつパネリストとして登壇した生徒たちの名前と学校名を見たところでは4校の参加があったようだ。モデレーターは福島出身で「福島学」の提唱者として知られる現・立命館大学准教授の開沼博氏が務めた。テーマは、「記憶の継承」と「いま必要なリーダーシップ」。

 

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Q. どのように記憶を継承していったらいいと思いますか?

 

  • 資料館や博物館を作る。2020年に双葉町に作られるアーカイブ施設がこれに当ると思う。アーカイブ施設には震災に関するさまざまな展示品があるが、足りないと思うものがある。それは実際に地震の揺れを体験できるコーナー。当時の写真や模型だけではどれぐらい大きな揺れがあってこのような事故につながったのかが実感できないが、「揺れ」を体験することで防災意識が育まれると思う。(ふたば未来学園高校・M)
  • (実際に体験することに関連して)避難生活を体験できるような施設を作るといいと思う。避難所になった体育館の3月の寒さや食べ物を再現することで防災意識を育てる。(磐城桜が丘高校・S)
  • (実際に体験するという観点で)現場を視察するということが大切だと思う。言葉や文章よりも実際に目で見るほうが伝わると思う。今回、福島第二原発を見学して、以前は原発は危険だとしか思わなかったが、線量計をつけて現場を回った後、線量計の数値がゼロμシーベルトと表示されていて、今はすごくわずかな線量になっていることがわかった。原発の中で働いていた人たちは、「若い人たちが来てくれると嬉しい」と言っていた。(磐城高校・N)
  • VR(Virtual Reality 仮想現実)、AR(Augmented Reality 拡張現実)など、最先端技術を用いて展示するのが良いと思う。今回の合宿で訪ねたリプルンふくしまでは、特定廃棄物処理場の模型にタブレット端末をかざすと液晶画面に説明が表示されたり、モードを変えると埋め立ての行く末の時系列がARで見られたり、プロジェクションマッピングで説明がわかりやすく表示されたり、小さい子どもにもわかりやすい展示で理解を深めることができた。そのような技術を使って復興過程を伝えられると良いと思う(平工業高校・W)
  • SNSなども含めて、最近発達しているメディアを使って伝えていくべき。3.11後に流れた当時のACジャパンのCMの音楽や金子みすずさんの詩などの記憶がだいぶ薄れてしまったが、たとえば毎年3月11日など、全国であのCMしか流さないような日を設けて震災を体験していない人にもあの日の辛さを疑似体験してもらったり、私たちが思い出すためにもメディアを使っていくべきだと思う。今日のような報告会など、復興関連のイベントがあることをSNSで知らせるのもいいと思う。ただ、SNSだとやっている人に限られてしまうので、若手俳優を起用した映画やドラマなどを活用していくことで、興味がない人にも目につきやすい環境づくりができる。(磐城高校・N)
  • ベラルーシの中等学校でやっているような放射線教育が大事だと思う。小中学校で放射線教育が義務化されているが、ほとんどちゃんと行われていない。中学時代、(放射線教育を)やりたくないという先生もいたが、放射能についてもう少し知識を深めてもらって、私たちは放射能のことを学ぶ必要があるのだということを理解してもらうことが大切だと思う。(磐城桜が丘高校・S)
  • ベラルーシハティニ村で見た銅像がとても印象に残っている。すごく悲惨な戦争の話を聞いて、当時のまま残されている村を見て、戦争について考える機会になった。周りの景色も美しく、また訪れたくなるような場所だった。そういう場所を福島にも作るのがいいと思う。震災に関しては、地震とか津波の被害のことは伝わっていると思うが、原発被害のことがあまり伝わっていないと思うので、そういうものを伝えていけたらいいと思う。(磐城高校・N)

 

Q.何を伝えていくべきでしょうか?

 

  • 福島第一原発の事故直後の普通ではない異様な風景自衛隊や警察の特殊車両が自分たちが普段使う道路を走っていく様子や防護服を着た人達が作業している姿。見たこともなかった線量計など、放射線の測定器などが身近なところで売られていた。原発の事故を風化させず、どのような対応がなされていたのかを伝えることが重要だと思う。(磐城桜が丘高校・A)
  • 決して状況を甘く見ないで適切に判断することの大切さ。震災当時小学校3年生で下校中に地震が起き津波を体験した。防災スピーカーから大津波警報が流れてきたが、ちょっと状況を甘く見てしまい、すぐに避難するという判断ができなかった。一歩間違えたら大変なことになっていたと思う。(磐城高校・T)
  • 事故から時間が経ってしまうと私たちの記憶も風化してしまう。周囲の環境や身体的なものは形として残って伝わっていくと思うが、私たちが感じた精神的なものはなかなか残りにくい。私たちの気持ちを人の口から非体験者へと形のない遺産として語り継いでいくことが大切だと思う。語り部の会があまり普及していないし、その人の大切な記憶を踏みにじってしまうとか、つらい記憶を無理してまで思い出して語ってもらうことにもなるが、当時の生々しさや、形・物ではわからない自分の気持ちが人の口によって語られることによって、私たちの心に消えない記憶として継承していくべき。(磐城高校・N)
  • その当時足りなかった物資や食糧。どれぐらい足りなくて、いつ必要になるのかという情報を次の災害に生かすべき。たとえば、熊本地震や北海道地震で、私たちの前例があったにもかかわらず、物資が足りないということが報道されていた。私たちが経験したのにそれが生かされていないと強く感じた。(磐城桜が丘高校・S)

 

Q.復興も一定程度進んで希望も見えるようになった今、現にある地域の課題を解決していくことにつなげられるような記憶の継承のあり方とは?

 

  • 福島だけでなく日本全体の課題として高齢化問題がある。ベラルーシのように、原発事故で入れなくなった地域の人や避難している人への補償によって住みやすい地域にすればその地域の高齢化問題を解消し、地域の活性化にもつながる。双葉郡で帰還率が高いのは高齢者が中心だが、病院が足りないなどの苦闘の状況を記憶として伝える。(平工業高校・W)
  • 先ほど現地に赴いて実際に体験するという話が出たが、現地を訪ねるツアーなどをもっと活性化させて、観光客が来ることによって地域を活性化する。ベラルーシと違って福島は今、戻って来れるような環境づくりを今しているところだと思うので、商業施設なども含めたツアーで「また来たい」と思ってもらい住民も戻ってきやすいようにする。(磐城高校・N)
  • 国際的にも福島の原発に対する関心が薄れているのが問題だが、今でもデータや文章で発信している人たちもたくさんいる。そういう人材を絶やしてはいけないと思う。その中で思うのはベラルーシと日本の教育の差。そもそも日本では放射線の問題に関して知る機会がとても少ない。なので、学校教育を充実させることが大切だと思う。(磐城高校・T)
  • 学校教育に関することで、ベラルーシでは学校で放射線について学ぶクラブ活動がある。それを日本でも取り入れ、文化祭のような学校行事で発表することによって、もっと多くの生徒に伝えていく。(磐城桜が丘高校・S)

 

次にパネリストが交代して「リーダーシップ」についてのディスカッションに移った。

 

Q.いま必要なリーダーシップとは? リーダーにとって何が重要だと思いますか?

 

  • ベラルーシでのプレゼンのリーダーを務めて感じたのは、リーダーには「聞く力」がいちばん必要だということ。チームの一人一人の意見をしっかり聞いて、個人ではなくグループの発表としてまとめていく。また、意見を聞くということだけでなく、自分がわからないことは積極的に人に質問するという意味の「訊く」ということも大切だと思う。(磐城高校・Y)
  • 自分の発言に責任感がある人がリーダーに向いていると思う。今、楢葉町に住んでいて日常生活でフレコンバッグを見ることが多々ある。今は中間貯蔵施設を作っているが、国は30年後には県外に持っていくと言っている。そういう発言に責任を持てる人にリーダーになってもらいたい。(ふたば未来学園高校・Y)
  • リーダーには胆力が必要。ベラルーシのゲームストリーム社の社長にリーダーシップとは何かと聞いたら、「いつも前を向いていること」と言った。想定外の事態が起きた時に前にいる人が堂々としていないと、ついて来る人たちが不安になってしまう。仲間を不安にさせないためにも、いざという時にびっくりしない胆力が必要なのではないかと思う。そのために経験を積み、場数を踏む。(磐城桜が丘高校・H)
  • 環境を作る能力ベラルーシのゲームストリーム社の社長は、「社長の仕事は、部下を活かすこと。部下の意見を取り入れるという意味での環境づくりの大切」と言っていた。これを福島に置き換えると、福島では今、上の人々が下の人々のの意見を反映させているとはあまり思えない。(磐城高校・K)
  • 自分の信念を持っていること。ベラルーシでプレゼンの班長をやったが、上手く進まなくて悩んだ。ベラルーシのゲームストリーム社の社長は「すべてはうまく行く」という言葉を大切にしていると言った。その話を聞いた時に、リーダーは自分の信念を持つことが大切なのかなと思った。(磐城高校・Y)
  • 決めたことをやり通す力。福島は18歳以下の医療費を無料にするなど、すばらしい施策を行っている。そこでHPを見て思ったのが、いつ終了するのかが明記されていないこと。これを見た住民に「医療費無料」という安心感を与えるためには、そのことを明記すべきだし、住民を安心させるためにも決めたことをやり通す力が大切だと思う。(磐城高校・S)
  • 目標設定すること。日本は放射能で汚染された地域のできるところから除染を始め、本当に除染が必要な場所が後回しにされたりした。ベラルーシでは、人が入れないと決められた場所や森は除染をせずに、必要な場所だけを除染をしたので効率が良かった。国や福島が何のために除染をするのかを考えるように、私たちも何かをやり遂げる時に、何故それをするのか、またやり遂げてその先どうしたいのかを考えると共に、小さな目標を決めることが大切だと思った。(磐城桜が丘高校・K)

 

Q.どのようにリーダーシップを発揮すればいいか?

 

  • リーダーには計画を立てる力が必要で、目の前のことに手をつけて終わりではなく、その先を見通した計画を立てることで、それに向かって進んで行くことができる。計画を立てないと、躓いたときに何をしたらいいのかがわからなくなるが、計画があれば、その先に切り替えることができると思う。トップは決めたことに責任感を持つとともに、周りの人たちもそれを支えることで計画が達成させられる。(磐城桜が丘高校・K)
  • 計画を立てる上で広い視野が必要。自分のやりたいことだけを考えて計画を立てるのではなく、周りの人々の立場に立って考えないとうまく行かない。(磐城高校・Y)
  • 大局観。いざという時にどう勝負するか。その判断には多角的な視野を持って、様々な情報からそれを判断する必要があると思う。組織で話し合いが滞ってきたときにやはり決めるのはリーダーになってくるので、ここぞという時に勝負できる気持ちや視野を持つことが必要なのではないか。仕事を与えられた時に自分がやっていることだけでなく、仲間がやっていることも意識して進める。(磐城桜が丘高校・H)
  • リーダーには強い意志が必要。上が「何をしたいか」を明確に下に伝えることで下の人たちも士気が上がり効率よく作業を進められるのではないか。(磐城高校・K)
  • (強い意志に関連して)第2原発で震災直後に停止した電源を復旧させるために作業員が30時間働きっぱなしだったという話を聞いた。それはリーダーに強い意志があって、周りの人もみな協力し合ったのだと思う。(ふたば未来学園高校・Y)

 

Q.現にある福島の課題をこれから時間をかけて解決していくために求められるリーダーシップとは?

  • 帰還困難区域から解除された町の帰還率を上げるためには、現状を知らせる情報発信が必要。(磐城高校・S)
  • 福島の風評被害をなくすためには行動力が必要。風評被害をなくすための情報提供には、国や県の情報だけでなく、高校生でもできることがいろいろある。「大丈夫だよ」という新聞を作ったり、ウェブサイトを作って日々更新したり、いろいろできることがある。行動力を持った人たちが集まれば、風評被害もなくなっていくのではないか。(磐城高校・Y)
  • 福島への愛。「仕事だからやっているだけ」だといずれ離れていく。他県の人でも、福島を思う気持ちのある人がやれば、課題が解決していく。(誰の発言か記録なし)
  • 今の福島は戻りたいと思っても汚染されていて避難指示が出ていて戻れなかったり、帰れる場所でも人がいないから戻らないという人が多い。そういう人たちの不安を私たちがなくしたり、地域の人たちの交流の場所を作ることで、戻りたいという人が増えてくると思う。そういう周りを見る気配りの力も大切だと思う。(磐城桜が丘高校・K)
  • いろいろな問題を解決するには意見を取り入れる柔軟さが必要。ベラルーシでは、女性が重要なポストに就いていることが多いと感じた。福島では女性が知事になったことがないという歴史的な背景もある。会社や組織のリーダーも、年功序列や男尊女卑的な考えに囚われることなく、ゲームストリーム社の社長さんが言っていたように、能力のある人を雇用し部下を活かすというところでも柔軟さが必要。(磐城桜が丘高校・H)
  • 全体を見渡せる力が大切。「買い物難民」の問題を解決するにも、バスが通れるようにするとかインターネットが使えるようにするとか、税金の使い方について、さまざまな考え方があるので、リーダーは全体を考えて、日本や福島が活性化できるようにするのが大切だと思う。(磐城高校・Y)

 

*****

 

今日の報告会のために準備してきたのだろう。開沼氏の問いかけに対して、一人一人の生徒が、紙に書いたキーワードを見せながら、それぞれしっかり語る姿にまずは素直に感服した。とても立派だ。誰かも言っていたように「政治家に聞かせたい」。

と同時に、パネルディスカッションという形を取ることにやや違和感を感じた。生徒たちの発言に幾ばくかのフィードバックを与えつつも、基本的には「そうですねー。はい、ほかには?」という進行で、議論になりそうな手前で次の発言に移る形だった。短時間でうまくまとめなければ、というモデレーターの立場はわかるし、まぁ、巷の大人のパネルディスカッションもそういうパターンがほとんどで、フラストレーションを感じることが多いのだが・・

一人一人が自分の意見を言うだけであれば、個々のプレゼンでいいのではないか?と常々思う。今回は前半のプレゼンとは体裁を変えたかったのか。あるいは、時間内に特定のテーマについて、なるべく多くの生徒が発言できるようにパネルディスカッションという形式を使ったのか。パネルディスカッションだがディスカッションしようとは思っていない・・という印象を受けた。

 途中、パネリストの男子生徒の一人が、「前半のプレゼンで〇〇君が、ベラルーシのほうが日本より被災者に対するケアが手厚いというようなことを言っていましたが、僕はそうは思っていません。日本でも福島県では18歳以下の医療費が無料などの制度があって、被災者へのケアがあると思います」と言った。

 お!そういう発言に対して、さっきの生徒は何と答えるだろう? ベラルーシの学生はどう思うのか? 大人たちはどう説明するのか? 

そういう見解の相違を深掘りすると面白そうな局面だったが、今回はそういう流れにはならなかった。予定されていた質問に沿って開沼氏が問いかけ、生徒たちは促されて挙手し自分が準備してきた意見を発表するという形式で粛々と進行した。開沼氏や次に発言する生徒が多少その意見に補足することはあっても、異議や異論を唱える場面はほぼなかった。

何も 喧嘩せよと言うつもりではないが、他の生徒の意見に対する自分の意見を言う場面が少ないのはもったいない気がする。意見の違う生徒同士が、それぞれの考えを理解しようと努めながら侃々諤々議論が白熱する場面もあってよいのではなかろうか。それは、このように時間の限られた報告会で成果を示す方法としては難しいのかもしれない。時間を気にせず、いっそ大人の司会進行なしで、生徒同士が遠慮なく突っ込みを入れ、結論めいたものが出なくても、あちこち脱線しながら意見を出し合う・・・機会があれば、彼らのそんな話し合いを聞いてみたい。(続く)

 

 

 

 

 

ベラルーシの学生たちの声 〜日本・ベラルーシ友好訪問団2018報告会その②

福島の高校生たちに続いて登壇したのはベラルーシの大学生たち。ベラルーシ国立大学日本語学科で学ぶ6人の女子学生が美しい日本語で語った。

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チェルノブイリ原発事故は私たちが生まれるよりずっと前で、既に歴史上の出来事のように感じていましたが、このたびベラルーシを訪問した福島の高校生たちと一緒に各地を見学し、私たちも初めて知ることができました。」

それをきっかけにした彼女たち自身の活動も興味深い。

活動の一環で彼女たちは、ベラルーシ南部の汚染地域のナロヴリャから首都ミンスクに移住した人たちが作った「移住者の会」に話を聞きに行った。首都ミンスク市内には移住者のために作られたマリノフカという団地がある。

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  • 事故当時、3歳未満の子どもは母親と一緒に、3歳以上の子どもは母親と離れて避難した。
  • とくにお年寄りは故郷への愛着が強く、避難や移住を拒否する人が多かった。
  • 毎年4月の終わりか5月の初めに年に一度のラードゥニッツァという伝統的なお祭りがある。日本のお盆にあたるようなお祭りで、この時には今は人が住んでいない村にも入ることが許され、亡くなった人たちを偲んで集まる。
  • 事故直後には、ミンスクに移住しても汚染地域の出身であると言うと、交際相手から別れを告げられた若い女性もいた。

チェルノブイリ原発事故によりベラルーシの国土の23%が汚染された。放出された放射性物質の70%がベラルーシに飛来したと言われており、原発のある現在のウクライナよりも被害が大きかった。ベラルーシ南部のウクライナとの国境地帯に広がる約2,160㎢の「ポレーシェ国立放射線環境保護区」は、現在でも居住禁止、立ち入りも厳しく制限されている。プルトニウムが崩壊してできるアメリシウムによる汚染も問題になっている。

原発事故直後の1986年6月、最も被害の大きかったゴメリ州に科学アカデミー放射線学研究所が設立され、農作物・畜産物への放射性物質の移行割合などを研究してきた。ポレーシェ放射線環境保護区の中での国際的な研究機関の設立も予定されているとのこと。

ここで発表者の声のトーンが変わり、「放射能汚染のことばかりお話するとベラルーシ人の健康はどうなっているかと心配だと思いますが、私たちを見てください。私たちは元気です!」と言ったのと同時に、別の学生が元気なポーズをとってみせた。ベラルーシでは国民に一年に一度の健康診断が実施され、ホールボディカウンターによる検査や甲状腺のエコー検査も受けられるそうだ。

農産物など食品の話も出た。

セシウム137で農地も汚染されたが、加工することで放射性物質から身を守っているという。原料の牛乳に放射性物質が含まれていても、それを加工して製造したチーズやバターには放射性物質が含まれないというのだ。ベリー類やキノコなど森の恵みからは放射性物質が検出されるが、線量を測って判断し対応しているという話に、福島の山菜の放射線量の話と共通するものを感じた。

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さらに、アンケート調査も実施。さすがは大学生である。

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チェルノブイリ原子力発電所事故から32年後のアンケート調査」ということで、2018年9月20日から10月1日にかけて、ベラルーシに住む人を無差別に抽出して調査した。有効回答数261人。

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  • チェルノブイリの問題に興味があるか?」という問いに対しては、「はい」と答えた人が68.7%、「いいえ」の31.3%を大きく上回った。
  • 「汚染地域のあるゴメリ州の食品を食べますか?危険だと思いますか?」という問いに対しては、「危険だと思わないので、食べる」が27.5%、「危険だと思うので、食べない」が9.3%いるが、圧倒的多数は「食品の産地を気にかけていない」(63.2%)ということだった。
  • 「福島の事故についてどう思いますか?」という問いに対する自由記述の回答として、「また同じような事故が起こったことを非常に残念に思う」「日本の復興のスピードがベラルーシよりも早く感じる」「日本人がどのようにこの問題を解決していくかに興味がある」「チェルノブイリ事故の時と同様、デマがたくさん流れたことが気になる」などが挙げられた。

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このような話を日本のテレビや新聞ではなく、また、欧米メディアでもなく、被災国ベラルーシの当事者である若者たちが現地で調べた成果として聴くことができ、彼女たちの一言一言が心に響いた。彼女たち自身も、福島の高校生との交流プロジェクトを通じて、これまであまり知らなかったチェルノブイリ原発事故やその後のベラルーシについて改めて関心を持って調べ、それを日本で発表しているのだ。一生懸命練習したと思われる美しい日本語で、時々間違えると緊張して「スミマセン」と言いながら丁寧に語った言葉からベラルーシの今が伝わってくる。

報告会の後、思わずベラルーシの女子学生たちに駆け寄って挨拶し、ほんの少し話をした。実際のところ、ベラルーシの人に直接会うのは初めてだった。ベラルーシと言えば、ちょっと検索すれば「ヨーロッパ最後の独裁国家」という悪評を目にする強権的な体制にある。だから、ベラルーシという国を手放しで礼賛しようとは思わない。しかし、ベラルーシチェルノブイリ原発事故の被害を最も大きく受けた国であり、既に30年以上放射能汚染と向き合い闘ってきたことは事実である。国民一人ひとりがそれぞれの苦難を乗り越えてきたのだろう。

ベラルーシの学生たちはこのたび日本を訪ね、福島の高校生たちと再会した。三連休中に行われた「日本ミッション」にも参加し、高校生たちと一緒に県内の中間貯蔵施設や福島第二原発を見学した。また、稲刈り体験など日本の風物にも触れた。

www.minyu-net.com

報告会の後の昼食会で一人ずつ今度は主にロシア語で挨拶した中で印象に残ったのは、

「(Jヴィレッジの)ホテルからの海の眺めが素晴らしくて、こんなに美しいところに津波が襲い、そのため原発の事故が起きたということが信じられず、混乱してしまいます」という一人の学生の言葉だった。

ベラルーシも福島も実際に行ってみて初めて感じることがあるのだと思うし、個々人が直接触れ合ってみることが、互いをわかり合う最初の一歩になる。(続く)

福島の高校生たちが見たベラルーシ 〜日本・ベラルーシ友好訪問団2018報告会その①

三連休最終日の体育の日、福島県内の「Jヴィレッジ」で、この夏ベラルーシを訪ねた高校生たちの報告会が開催されるというので聴きに行ってきた。

楢葉・広野両町にまたがる国内初のサッカーのナショナルトレーニングセンターだった「Jヴィレッジ」は福島第1原発事故の対応拠点となり休業していた。この夏7月28日、7年4カ月ぶりに再開されたばかりである。

東京から6時53分の特急ひたち1号に乗って、10時の開会にぎりぎり間に合った。前の方の席に座ると、来賓席から吉野前復興大臣、森まさこ参議院議員広野町の遠藤町長らが次々に挨拶。予想以上に大層な会であるようだ。

今年の夏休み中7月末から8月上旬の10日間にわたり、福島県浜通りの高校生24人がベラルーシを訪問した。

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なぜ、ベラルーシか?

32年前の1986年に事故を起こしたチェルノブイリ原発ベラルーシの南隣のウクライナ北部にあり、当時の風向きの影響で放射性物質の70%はベラルーシ側に降り注いだという。放射能汚染の被害を受けたベラルーシの現状を見るため、福島の高校生たちが、単なるベラルーシ観光ツアーではなく、汚染が最も厳しかった南部のゴメリ州内の関連施設や学校も含めて訪問し、現地の方々との交流を通じて学ぶというプログラムである。昨年に引き続き実施されたプロジェクトで、昨年の成果がまとめられた訪問記も会場で配布された。

高校生たちは5〜6人ずつのグループで分担して準備を進めてきたようで、並んで登壇すると緊張した面持ちながら、代わる代わる自分の言葉で発表し、しっかりとプレゼンを進めた。

  • ベラルーシとはどんな国か。
  • 日本では急ピッチで除染が行われたが、ベラルーシではチェルノブイリ原発事故後、消えてしまった村があり除染もされていない。
  • 一方、ベラルーシでは30年以上経ってもチェルノブイリ対策局が国としての対策を続けているが、日本の復興庁は2020年度末で廃止される時限組織であることを疑問に思う。
  • ベラルーシでは家畜を連れて避難することができたが、福島では殺処分という措置がとられたことを疑問に思う。
  • ベラルーシでは30年以上、被災地域の子どもたちのケアを継続しており、子ども保養施設「プラレスカ」を国が運営し、子どもたちに無償で提供している。
  • ベラルーシの学校では交通安全と同様に小学校から放射線教育が実施され、中学校では部活動として放射線量を計測し地域にも情報発信するなど、以前は人が住めなかった地域で今はどう安全に生活するかを学び実践している。

 

原発事故だけではない。

  • 第二次世界大戦の悲惨さを伝えるハティニ村の銅像に感銘を受けた。言葉がわからなくても見ただけで伝わる展示物が福島にもあったらいい。
  • 世界中で1億人以上が利用する人気のオンラインゲーム「World of Tanks」を制作するゲームストリーム社を訪ね、社長からリーダーシップとは何かを学んだ。
  • ベラルーシの人々にも福島の魅力を伝えるために行ったホテルでのプレゼンには100人もの参加者があり、またショッピングセンターで披露した「ソーラン節」も大勢の人たちが見てくれて嬉しかった。

高校生の目で実際に見たこと、感じたことが生き生きと語られたのだった。

このベラルーシミッション後、この三連休に実施された県内の中間貯蔵施設や福島第二原発の見学など、日本ミッションの感想も発表された。

  • 中間貯蔵施設でのロボットの導入は地元企業の育成につながり福島の新たな産業になるのではないか。
  • 中間貯蔵施設1か所で約4万㎥の除染土が貯蔵できると聞いたが、県内で発生した2000万㎥の除染土を貯蔵するには単純計算で500カ所になってしまう。そんなにたくさん建設できるのか?
  • 原発敷地内はもっと線量が高いのかと思っていたが、第二原発では0.6μSb/hと低いことが意外だった。また、放射性物質を扱う施設がどれほど厳重に管理されているかを初めて見た。
  • 自分がこの地域の力になりたいと強く思った。

福島の高校生の姿に触れるたび、声を聞くたびに、なんとしっかりしていることかと感服する。このような場で話をする機会も多いのだろうか。そうでなくとも、小学3年生で東日本大震災を体験した彼らは、東京からは計り知れない様々な思いをもって原発と向き合って成長してきたのだろう。

2年ほど前に東京で開かれたイベントで聞いた福島の高校生の言葉が忘れられない。

「震災後、都内で20万人規模の反原発デモがあったとかいう話が出たけれど、東京の人たちが現地に行かないでニュースで流れる情報だけで判断して、そのイメージが先行したデモは、被災者がさらに風評被害を受けることにもつながります。当事者を置いたまま、よく知らない人たちが行動を起こすのはあまり嬉しくないです。だったら福島に来てもらってちゃんと事実を知ってもらってその上で原発に反対でも賛成でも主張してほしいと思いました。」

そして、今回の高校生たちは強い当事者意識を持って、原発事故から30年以上の知見を持つベラルーシに学ぼうとしているのだ。(続く)

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  昨年2017年のベラルーシ訪問をまとめた冊子