よろず編集後記

よろず編集者を目指す井内千穂のブログです。

エンタメとしての音楽と芸術としての音楽の違いって?

エンタメとしての音楽と芸術としての音楽の違いってなんでしょう?

それは誰かが決められるものなんでしょうか?

このたび新垣隆氏の記事を書くにあたり、それなりに考えてみましたが、考えれば考えるほどわからなくなります。

新垣氏自身も著書『音楽という<真実>』の中で

  • 芸術としての音楽:みずからの理想や音楽観を追求し表現する音楽
  • エンタメとしての音楽:聴き手と文化が存在するという前提に立って、市民に受け入れられるための音楽

という説明を試みつつ、「その違いを言うのは実は難しい」と書いています。聴き手や文化が存在しない「閉じられた状態」において、それまでの音楽にはなかった、ありえなかったものを生み出すのが芸術としての音楽ということのようですが、それを受け取るのは誰でしょう? 豊富な知識と鋭敏な感性を持ったごく少数の理解者だけなのでしょうか? それとも自分だけ?!

わりとそれに近い活動をかつて新垣氏はされていたのかもしれません。私もたまに現代音楽の自主コンサートなどに出かける機会がありますが、20人ぐらいお客さんがいたらまあまあという感じですし、そこまで前衛的な演奏会でなくても、集客には常に苦労するのが現実です。 

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たとえば、こんな大きなホール(写真は広島国際会議場のフェニックスホール。8月15日『連祷-Litany-』初演後、お客様が帰られた後の客席です。1500席)を満席にするには、クラシック音楽であれば、よほど親しみやすい演目であるか、超有名な演奏家が出演するということでもないと難しいでしょう。

そういう意味では、『HIROSHIMA』がブームになっていた頃に大勢の人々がそのコンサート会場に足を運び、CDが18万枚も売れたというのはきわめて異例のことですが、新垣氏は、あの『HIROSHIMA』は、自分が追求する「芸術」ではなく、あくまでもエンタメであり職人としての仕事だったと書いています。「ただ、請け負ったからには、どんな仕事であれ良いものを作るのが作り手としての誇りだ、と考えるのが職人というもので、私自身もそうありたいと思っています」という一節は、新聞社在職中、どんな広告特集でも自分にできる限り良い紙面作りを目指した私も共感するところでした。

つまり、誰かの依頼に応えて作曲するにしても、自身の持てる限りの能力を使って何かを作り出すことに変わりはないはずです。

初演の翌日、広島市内で新垣さんにお話を伺いました。記事にも書いたところですが、興味深かったのは、佐村河内氏名義で書いた『HIROSHIMA』も、それを乗り越えようとしてこのたび取り組んだ、自身の名による『連祷-Litany-』も作曲の手法においては変わりはないとおっしゃったことです。

新垣氏は、佐村河内氏とのやり取りの中でしばしば「現代の芸術家が作品を世に問う時に多くの人たちとの間に乖離があるのではないか?それはなぜなんだ?」と問われたそうです。それはその通りで、既によく指摘されていることでもありますが、いったい誰のための音楽なのか?改めて考えさせられます。

新垣氏は、自分は「芸術家」であると称して、理想の新しい音楽表現を追求する自分とエンタメとしての音楽をアレンジする自分を分けていたが、両方含めて現代の作曲家であるということに思い至ったとも言いました。そして、「ヨーロッパのクラシック音楽の美しき伝統を全く捨て去っていいのか?19世紀のスタイルも現代の文脈で読み直すことができるのではないか?」と。

・・・佐村河内氏に影響を受けたことを素直に認めておられるように感じました。

今回の記事を書くに当たっては、新垣氏と親しい作曲家の西澤健一氏にもお話を伺いました。東京公演の後で、西澤健一氏とロビーで落ち合い、新垣氏に挨拶したときのことです。行列をなしたサイン会を終えて楽屋に戻りかける新垣氏に、西澤氏が「おめでとう」と声をかけると、新垣氏は握手しながら「全部詰め込んだよ!」と満足気に言いました。その笑顔は、テレビ出演などの時とはまた異なる、親しい友人だけに見せる屈託のない表情でした。

さすが、自身も作曲家である西澤氏は、一度聴いただけで今回の『連祷-Litany-』には、アメリカ、フランス、ロシアをはじめ、その他の東欧諸国の影響や、アジア的な器楽法も認められ、19世紀以降のさまざまな国の音楽の技法が詰め込まれていることを感じ取っておられました。そして、面白かったのは「いかにも現代音楽っぽい箇所よりも、むしろ、一見19世紀的なきれいなメロディに、新垣氏らしい独自のオーケストレーションの工夫が見られる」というご指摘でした。そうなんですね~ 確かにきれいで不思議な響きでした。

今回の交響曲は芸術なのか?エンタメなのか? それは誰が決めるんでしょう?どっちであるか決めることに何か意味があるのでしょうか?

自分でもわかりかねて、周りの人に聞いてみました。

「エンタメは仕事で疲れて帰ってきた聴き手に安らぎを与えます。エンタメを楽しむための知識といったものは特に必要なく、聴いているだけで人を癒す効果があります。一方、芸術は、作曲家がなぜこう考えたのか、自分はどう生きるべきなのかなどといった強烈な問いを聴き手に投げかけてきます」と答えてくれた人がいました。なるほどと思います。「今日を生きた人にエンタメ(安らぎ)が求められ、明日を生きる人に芸術(思考)が求められる。」・・・うまい表現だなあと感心しました。

芸術を理解するのに知識が絶対に必要なのかどうかは確信が持てません。ただ、好きであればおのずと知識が蓄えられ、それがさらに好みを洗練させていくという部分があるのは認めます。ましてや作り手になろうというのであれば、その大好きな分野へのあくなき探求の過程で知識はいつの間にか豊富になり、そういう知識の引き出しからさまざまな素材を取り出しては新しい組み合わせ方を考えて、ああでもないこうでもないと作っていく過程がきっと苦しく楽しいのでしょう。どんな創作もゼロから突然生み出されるわけではなく、過去の人類の蓄積をベースに自分が意識的・無意識的に選び取った要素をベースに作られていくのではないでしょうか? 単なる模倣やもっと悪くすれば盗作なのか、本人の創作なのかは、過去の素材をどれだけ自分の中で消化して独自に組み合わせたり発展させたりした表現なのか?というところにかかっていると思います。

しかし、作り手が豊富な知識を総動員して悩みながら生み出した力作が、残念ながら誰もピンとこない駄作だったり、逆に軽い気持ちでできてしまった傑作が人々の心を打ったりする、なんてこともあるかもしれません。

さらにわからないのは演奏との関係です。たとえベートーヴェン交響曲が芸術であっても、下手くそなオーケストラのいい加減な演奏だったらどうなのか? それは芸術なんですか? いや、下手な学生オケであっても一生懸命高みを目指して演奏していたら伝わってくるものがあるのではないか? その伝わってくるものは何なんでしょう? 少々通俗的な作品でも演奏によっては芸術になるんでしょうか? 子どもの合唱祭に感動して涙がこぼれることもありますが、あれは何でしょう? オペラ歌手が演歌を歌ってもピンとこないけれど、演歌歌手のあの怨念のこもったコブシにグッとくるのはなんなのか? ジャンルによって芸術かエンタメか分かれるなんてことはないんじゃないか? 

どんな音楽がどういう人の心をどのように動かすのか? 生まれた国の文化や幼少期からの音楽的な習慣も絡み合って、なかなか簡単に決めつけられるものではありません。ただ、はっきりしているのは聴き手あっての音楽だということです。

西澤氏は言いました。

・・・今のところポピュラー音楽の歌手たちが歌う音楽はポピュラー音楽として認識されていますが、中世のストリートミュージシャンたちが歌った歌は古楽の一分野となって、今日では芸術の歌手の仕事です。もしかしたら200年後にも芸術として遺される歌謡曲や大衆歌、ポップスもあるかもしれません。過去に行われた仕事でも、ベートーヴェンを「ベートーヴェン」にしているのは現在の我々です。つまり、芸術を「芸術」にするのは歴史と言えるでしょう。・・・

今回の新垣氏の作品にも既に「歴史」と言えるさまざまな背景があります。佐村河内氏のスキャンダルがあったからこそ、このような形で実現したとも言えます。今後それが長い時の試練に耐えるかどうかはまた別の問題です。ただ今回は、少なくとも新垣氏自身の作品であることを人々は知っている・・・ここで記事は終わりです。

エンタメと芸術の違いについて、私自身はざっくり言って、基本的にエンタメは「この世はこれでいい」という現状の肯定に立ち、「いや、これではいけない」と現状を超えた高みを目指さずにはいられない感じが芸術ではないかと思っていますが、そう言い切れるのか?何がそれに当たるのか?ということには、はっきりと答えられません。

ただ、両者はきっぱりと分かれるものではなく、親しみやすく楽しめることと、高みを目指すことが一つの作品や一つの演奏の中にも両立しうるのではないか・・・新垣氏の新しい交響曲を聴きながらそんなことを思いました。

(続く)