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よろず編集後記

よろず編集者を目指す井内千穂のブログです。

ドキュメンタリー映画『FAKE』・・・佐村河内氏から見れば

記事 音楽

新垣隆氏についての記事を書くにあたり、やはり、物事は両面から見ないと・・・と思い、あのスキャンダル後の佐村河内守氏に迫ったという森達也監督のドキュメンタリー映画『FAKE』を観に行きました。

しかも2回行ってしまいました。というのも、「誰にも言わないでください、衝撃のラスト12分間。」と宣伝されていたラストの途中で、あろうことか睡魔に襲われてしまったからです。ハッと気がついたら、なにやら壮大な音楽とエンドロールが流れているではありませんか。

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しまった! 

ところがそのあと映画がまだ続く(!)と思ったら数分後に「オチ」があって、そこでふと終わるという体裁でした。エンドロールの時点でそそくさと帰ったりしたらずいぶん印象が違ってしまいます。結局、この世は狐と狸の化かし合いという話かと、文字通り、狐につままれたような気持で席を立ちました。ただ、先ほど重要シーンを見逃したのではないか?ほかにも衝撃があったんだろうか?と気になってもう一度足を運んだ次第です。

さすがに2度目は全部起きて観たところ、睡魔に襲われたのはやはり例の音楽のせいだとわかりました。自分にとっての重要シーンは見逃していなかったと確認できましたが、全編そのまま信じてはいけないと念押しながらおさらいする感じになりました。

「『真偽は簡単に決められないし、そもそも真実はひとつではない』と気づかなければいけない。」という森監督の意図のためにネタにされただけだとしたら、佐村河内氏も気の毒と言えますが、佐村河内氏の立場から見たらどうなのか?を全身で伝える機会を与えられたのだから良しとしましょう。観客としては、少なくとも森監督の目を通して、これまで知らなかった佐村河内氏の別の一面(愛妻家とか愛猫家とか)を見せてもらいました。それも森監督の言う「白か黒かの二項対立的な発想ではないグレーの部分の魅力」の一端ということでしょうか。

スキャンダル後、新垣氏があの記者会見の時とは全く別人のような姿で様々なテレビ番組や雑誌に登場している様子を見つめながら佐村河内氏は苦々しそうに「新垣って世間が思うようなイイ奴なんですかね」とぼやきます。確かにちょっと調子に乗り過ぎのようにも見える新垣氏の姿ですが、それは、その少し前まで佐村河内氏が演じておられた「全聾の天才作曲家」のパロディにすら見えます。

新垣氏からすれば、記者会見で表に登場された時に、おそらく初めて彼を見た多くの人々が感じたであろう「え?どういうこと?この人は何だろう??」という当惑や、下手をすればそのまま「堅苦しいクラシック音楽業界で現代音楽を作っているらしい真面目な先生でゴーストライターやってた人」というイメージが固定化したまま忘れ去られるのを打ち破り、人間にはいろんな面があるのだ、ということを身体を張って示したのだとも言えます。確かに、メディアに現れる姿によって私たちのイメージが誘導されることがここでも示されていますが、新垣氏は結果的にそれを逆手に取った形になったのではないでしょうか。誰にだって「知られざる意外な一面」があるんだろう(新垣氏にも佐村河内氏にも)、ぐらいの受け止め方を常にしておいたほうがいいのでしょう。

映画の中で佐村河内氏は、「耳が聴こえない」ことまで否定されたのはひどい、新垣氏がなぜ嘘をつくのかわからないと言います。そうなんだろうか?あらゆることを一応疑ってみることにして、新垣氏が著書で述べている事とも照らし合わせて考えてみました。

仮に新垣氏が嘘を言っていて、佐村河内氏は「かなり耳が不自由」だとすると・・・新垣氏の「アレンジ」が佐村河内氏の「指示書」の意図に沿った内容になっているかどうか、楽譜の読み書きができない佐村河内氏はどうやって検証したのでしょうか?オケ合わせの響きなら聴き取れるのか?その辺の聴こえ具合は他人にはどうにもわかりかねますが。そして指示書だけでなく、かつてゲーム音楽のアレンジを新垣氏に頼んだ頃のように、楽譜が書けないなりに「こんな感じのメロディ」という音源があって、それが仕上がった楽曲の少なくともある部分に反映されているのでなければ、やはり共作と言うには無理があります。

そこのところの疑問を代弁するような外国人ジャーナリストによるインタビューが見事でした。「耳がかなり不自由である」ということを認めた上で厳しく突っ込みます。

「なぜ、楽譜の読み書きを学ぼうと思わなかったのか?」

「なぜ、楽器を捨ててしまったのか?!」

このインタビューを含めた彼らの膨大な取材が長大な記事にまとめられています。

newrepublic.com

「全聾の天才作曲家」と詐称したことが問題だったのであり、この期に及んで「耳がかなり聴こえないのは本当なのに」と世間の誤解を不当だと訴え続けても、あまり建設的だとは思えません。

やはり、自分を「自分とかけ離れた誰か」に見せかけるのは、周りに迷惑がかかりますし、自分だって苦しいはずです。誰しも憧れの職業やなりたい自分はあるでしょう。それを目指すことが生きる原動力になったりします。なので私は「ありのままの自分でいい。今のままの自分でいいのだ」とは思っていません。でも、本当に何かを目指すのであれば、多少背伸びしつつも日々それに向かって地道な努力を続けるものではないでしょうか。たとえその目標を実現できなかったとしても、そこに向かう過程にその人の生き様が出ると思います。どこかで方向転換する決心もまたアリです。佐村河内氏には「耳がかなり不自由ながら敏腕プロデューサー」として活躍する道もあったと思うのですが、やはり、どうしても作曲家になりたいということであれば、地道に自分の曲作りを続ければいいのです。このドキュメンタリーの続きを楽しみにしたいと思います。

この映画について書かれている様々な記事やブログも読んでみました。とくに面白かったのは、宮台真司氏の映画評論です。

realsound.jp

前編、中編、後編(前半+後半)という大長編をつい全部読んでしまったら頭がくらくらしてきましたが、『FAKE』は「そもそも社会も愛も不可能であるのに、それが可能だと勘違いさせるために、何かが働いて社会や愛が可能だと勘違いさせられている。社会は、善悪二元論や真偽二元論や美醜二元論によって言語的に構成された(悪)夢のようなものだ」という構造の映画だという見方でした。善悪も真偽も美醜も社会を維持するための擬制だと承知の上で一歩引いて、すべて「話し半分」に聞いていればあまり極端な間違いはしないということでしょうか。

確かに森監督が言う通り、真実は一つではなく、あの曲をどう思うかも人それぞれのようです。私が睡魔に襲われ、「なぜ佐村河内氏が新垣氏を必要としたかわかった」と思った同じ場面で、涙が止まらなかった人もいれば、「なぜ佐村河内氏が新垣氏を必要としたのかわからない」と思った人もいるわけです。同じ音にどう反応するかは、各人のそれまでの音楽環境やその日の体調や気分で違ってきます。何が100%正しいなんて言えません。そして、どういうわけか、そのメロディはいまだに私の脳内に残っており、口ずさむことすらできます(!)アレンジ次第ではヒットするかもしれませんね。音楽は不思議です。宮台氏の言葉を借りれば「そもそも社会や愛が不可能である中で、何か完全な法則を希求する一つの方法、それが音楽」と言いたくなりました。

(終わり)

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