百瀬恒彦 写真展「祝・列・聖」に行ってきた、と友人からメッセージをもらった。百瀬氏のお話も興味深かったと言いつつ、彼女はこの記事を読んで戸惑ったようだ。
マザー・テレサについて知ったのがいつだったか、もはや思い出せないが、日本で伝え聞く「インドへ赴き貧しく死にゆく人々のための活動に生涯を捧げた」という話を私は素直に受け容れてきた。それは作られた伝説だったのだろうか?何のために?
このような「黒い噂」やネガティブな見方は以前からあった。
Criticism of Mother Teresa - Wikipedia, the free encyclopedia
写真で見る限り若そうな、このハフィントン・ポストの記事の著者は、既に故人であるマザー・テレサ本人に直接会ったことはないだろう。ほかの関係者に直接取材したわけでもなさそうだ。以前に発表されたイギリス人ジャーナリストのクリストファー・ヒッチェンス(1943-2011)や若手の歴史学者ヴィジャイ・プラシャドの否定的な見解、2013年に出たオタワ大学の研究など、既にあるネガティブなネタを元に、自分の主張を展開しているに過ぎない。説得力と社会的意義があればそれでもよいのだが、どうだろう?
ネットで検索すればネガティブなサイトがほかにもいろいろ出てくる。
私はキリスト教徒ではないので、カトリックにおける「聖人」というのがどれほどのものか、実のところあまりピンとこない。聖人に列せられるためには「奇跡が2回(以上)認定されること」が要件になっているのを知って正直驚いた。しかし、それぞれの信仰は尊重すべきものだと思う。
慈善事業も、宗教組織上の手続きも、それに対する批判も、その正当性を奉じてなされるわけだが、所詮、人間のやることだからどうしたって不完全なものでしかない。だから、いろいろな意見があり得るし、それを自由に表明できること自体は悪いことではない。しかも、堂々と署名で書くのはあっぱれだ。
しかし、マザー・テレサが「飢えた人、裸の人、家のない人、体の不自由な人、病気の人、必要とされることのないすべての人、愛されていない人、誰からも世話されない人のために働く」ことを目的とした修道会の設立という事業を自ら始め、毀誉褒貶に動ずることなく継続するうちに、いつしか多くの賛同者を巻き込んで、4000人のメンバーが123カ国の610箇所で活動を行うほどの事業に発展させたというのは事実だ。
批判する人々は、マザー・テレサが何もしなかったほうが世界はマシだったと言いたいのだろうか? それとも、ただマザー・テレサを過度に崇拝するのは適切でないということを言っているだけなのだろうか?
裏に何らか不適切な事実があったのか、なかったのか、今の私には直接検証するすべはない。現地や関係者への取材に基づいて言っているわけではないのは、ハフィントンポストのライターと同じである。
それでも少なくとも、このたびの写真展で最晩年の彼女の顔を見ることができた。写真家 百瀬恒彦氏が彼女本人に直接会い、撮影許可を取り付けて密着取材の形で自然なシーンを撮った作品から伝わってくるものがある。
写真の中の毅然とした表情を見て私は感じた。自分がやっていることの不完全さを誰よりも痛感していたのはマザー・テレサ自身だったのではないかと。そもそも人間の世界は不完全であり、少々のことでは変わらないと重々承知の上で、それでも彼女は最善と尽くそうとしたのではないかと。
・・・無私の奉仕活動が地味で小規模なうちは別にとやかく言われないどころか相手にもされないが、ひとたび社会的評価を得て規模が拡大すると、必ずバッシングも起こるのが世の常。これもある意味ではバランスを取る一つの社会的機能というものだろうか・・・
9月5日付International New York Timesでは、一面トップに写真付きで記事が掲載されていた。ウェブ版は3日付でもっと長くて驚いた(最近の新聞がウェブ・ファーストであることがここでもわかる)。
http://www.nytimes.com/2016/09/05/world/europe/mother-teresa-named-saint-by-pope-francis.html
ここでは、マザー・テレサに対する賞賛と批判の両方が比較的公平に紹介されていて妙にホッとする。
折しも駐日マケドニア大使館からメールが届いた。
(続く)