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よろず編集後記

よろず編集者を目指す井内千穂のブログです。

バイエルン放送交響楽団来日公演@ミューザ川崎

大学時代の先輩に誘っていただき、来日中のバイエルン放送交響楽団の演奏会に出かけた。

久々のミューザ川崎は早くもクリスマスムードに包まれている。

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今回は舞台下手を見下ろす3階席だったので、舞台上のハープやオルガンあたりは死角になったものの、盛りだくさんな打楽器群が近くに並び、ビオラ、チェロ、コントラバスの奏者が正面から見える。各パートの動きがほぼ上から眺められるという位置だった。そして、現れたマエストロ、マリス・ヤンソンスの横顔と棒の動きを感じながら、身を乗り出し気味にかぶりつきで見守るという贅沢な時を堪能した。

まずはハイドン交響曲第100番「軍隊」。ふわりと軽やかな出だしからして凄いオーケストラだと感じ入る。

100曲を超える膨大な交響曲を書いてこのジャンルを確立した“交響曲の父”ハイドンは、似たような曲が多かったり、退屈に感じられたことも過去にはあったのだが、今日の「軍隊」はオケの動きを上から眺めて飽きることがなかった。指揮棒と右手指先を巧みに使い分けたマエストロの繊細な指示にピタッと反応して絶妙なアンサンブルが繰り広げられ、なんて素敵なハイドン!と思っているうちに曲がどんどん進んでいく。

皮張りのティンパニにはほとんどの場面でミュートが置かれ、硬めのバチを駆使したユニークなフォームの首席ティンパニストは神経質なまでに歯切れよく、時に小太鼓でやるような2つ打ちのロールを繰り出すのに驚く。2楽章の終盤では大太鼓とシンバルとトライアングルがひとしきりトルコの軍楽隊風にドンドンシャンシャン軽快なマーチをやって一旦舞台から出て行った。楽器を持って出て行ったので、いずれ舞台裏で何かやるのかと思っていたら、フィナーレで客席最前列の前に下手側から行進しながら入ってきてびっくり。先頭にはお祭りのシンボルのような大きな鐘のついた飾り物が掲げられ、ハイドンは華やかにしめくくられる。よく見ると大太鼓の白い面にはWe  Japanと書いてあった。

休憩後にはハイドン編成を片づけたステージに夥しい数の椅子が並べられて巨大編成の交響曲を予感させる。ファースト・ヴァイオリンの後ろのほうは死角だが9プルトあったのだろう。セカンド8プルトヴィオラ6プルト、チェロ5プルトコントラバス4プルトと弦楽器だけで64人、管楽器も4管以上、ホルンはワーグナーチューバとの持ち替えも含めて8人、様々な打楽器にハープにオルガンにチェレスタという総勢150人によるリヒャルト・シュトラウスの「アルプス交響曲」が始まった。

夜。静けさに闇がしたたり落ちる感じの中でトロンボーンとチューバの和音が厳かに響く。夜明け前がいちばん暗いのだ。最後の星のようにグロッケンがキラリと鳴ると夜が明ける気配が盛り上がり、シンバルの炸裂と共に日が上る。太陽の光が山頂から谷底まで一面を照らすのを感じて、それだけで泣きそうになる。

なんとまあ、オーケストラ冥利に尽きる曲であろうか。すべてのパートに美味しいところが割り振られて全員が存分に活躍できる感じ。適材適所に人材をうまく配して絶妙のチームワークでプロジェクトを進める優良企業のようだ。舞台裏から狩りのホルンが聴こえてくる。木管金管の見事なソロ(これは何の鳥だろう?)や和音に感服し、次は誰が出番だっけとワクワクしながら見せ場が続く中、曲は夜が明けてから山に登って頂上に到り、嵐に遭いつつ山を降り、また静かになってやがて日が暮れるまでの雄大なアルプスの風景を描いていく。

首席ティンパニスト以外の4人の打楽器奏者がそれぞれの持ち場にセットしてあった大中小さまざまなサイズのカウベルを大真面目にランダムに鳴らす姿が微笑ましい。また、ウィンドマシーンをぐるぐる回して風の音を煽ったり、サンダーマシーンという薄い鉄板をビラビラと揺すって叩いて雷鳴を轟かせたり、というこの曲以外では滅多に見聞きすることのない効果音が出てきて、あれ触ってみたいなあ・・などと思うのであった。

嵐の後、ひとしきりファースト、セカンドのヴァイオリン全体のユニゾンが続き、その間、ヴィオラとチェロとコントラバスがザザザザ、ザザザザ、ザザザザとざわめき続ける場面が妙に印象的だった。全員で一斉に同じことをやる。どんな単調なことでも自分の役割であれば淡々と真摯にこなす。もちろん、ここぞという聴かせどころは全体とのバランスを取りながらバッチリ決める。出番がたった1回ならば、ひたすらその出番を待つ。その集積がオーケストラだ。

世の中の秩序はそういうことをきちんとこなす職人と組織人によって支えられている・・・オーケストラを聴くと、いつもそう思う。革命を起こすのは違う人たちだろう。

リヒャルト・シュトラウスが十代の頃のドイツ・アルプス登山の思い出を温め、それから40年近く経って、1911年に亡くなったマーラーへの思いを込め、ニーチェからの影響も受けて「キリスト教的でないもの」ということで作り上げたこの交響曲。とにもかくにも圧倒的な音の物語に包まれていやおうなく大自然への畏怖の念に打たれるばかりである。

そういうアイデアを人間の集団による音として構築するために作曲家が150人もの人間にこまごま割り振った役割を各人が愚直なまでの職人芸で最高のパフォーマンスを繰り出し、指揮者の采配で絶妙にまとまって整然と前へ進んでいくと、そこに、1915年にリヒャルト・シュトラウスが志向した「偉大な大自然」が立ち現れるとは、この職人組織の仕組みのなんと凄い事だろう。

少し前にインタビューしたソロ・パーカッショニストは、たまにオーケストラに加わって「そのタイミングでその音量でその一発だけ」のような出番のほうがずっと緊張すると語った。好きなように表現できるソロや前衛的な打楽器アンサンブルのほうが自分は合っていると。また、ある元ティンパニ奏者は指揮者の指示にどうしても納得できず、バチを投げつけてオケを飛び出し、ソロのマリンバ奏者に転向した(これはきわめて珍しいケースだが)。

どちらが良いとか悪いとかということではなく、ソリストに向いている人からすると、オーケストラは全くジャンルの違う音楽であり、オケの奏者を「職人」として尊敬するということだった。

とりわけこれほど大掛かりでダイナミックな音楽は、超一流のマイスターたちが150人集まって最高のパフォーマンスを結集させればこそ実現できるのだ。その響きに酔いしれながら、こういう音楽に何故かくも心を揺さぶられるのか、何度も自問するのだった。