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よろず編集後記

よろず編集者を目指す井内千穂のブログです。

人の心を打つ演奏 ~アマチュア・オーケストラをめぐって②~

音楽 記事

2月6日付The Japan Timesに日本のアマチュア・オーケストラについての短い記事を書いた。

www.japantimes.co.jp

昨年、ちょうど新聞社を辞める頃にお誘いいただいて30年ぶりにオーケストラに参加させてもらった。そのマーラー祝祭オーケストラの今年の定期演奏会のプレビュー記事である。練習にお邪魔し、オーケストラのメンバーや指揮者の井上喜惟先生にお話を伺った。

昨年自分も参加したマーラー交響曲8番「千人の交響曲」の演奏会のDVDを見るとあの日の感動を思い出す。

先月1月22日には学生時代を過ごした京大オケの200回定期演奏会の東京公演をサントリーホールに聴きに行った。また、先週末は京都で開催された100周年記念祝賀パーティに出席し、翌日には東京に戻ってマーラー祝祭オケの定期演奏会を聴きに行った。ということで、このところアマオケ三昧。アマチュアとして音楽を楽しみ人に聴かせるということについて改めて考えさせられた。

記事の中で、京大オケの後輩でもあるヴァイオリンのFさんが語ってくれたように「オーケストラの中で弾くのと、外から聴くのとは全然違う」。今回の100周年記念祝祭オーケストラに参加してそれを久々に感じた。オーケストラの中にいると、ほかの楽器がどこでどんなことをやっているのか、いろいろな音が聴こえてくる。合奏は楽しい。ずっと練習しているだけでも楽しいかもしれない。しかし、誰かに聴いて喜んでもらってこその音楽であり、どこのアマチュア団体でもそれなりに演奏会を開催し、それを目標に練習に励むわけである。では、誰が、なぜ、それを聴いて喜んでくれるのだろうか?

今回の記事を書くにあたって、日本の学生オケや社会人オケのレベルの高さをカナダ人の担当エディターに説明するのに難儀した。

「日本の聴衆は少々のミスがあっても気にせずに聴くのか?」
「アマチュア・オーケストラのほうが料金が安いからお客が集まるのか?」
「アマチュア・オーケストラの団員というのはパートタイマーか?それとも定年後のシルバー層なのか?」
「安いギャラでアマチュア・オーケストラに関わっているプロというのは、一線を退いた人たちなのか?」

えーーっ?!違います違います!とやっきになってメールのやり取りをする中で、確かに自分は経験上「日本のアマオケはそれなりにレベルが高い」と知っているが、外国人の感覚では「なぜ、プロでもないアマチュアの集団がそんなに高いレベルの音楽を目指して努力し、時にはそれを実現するのか」は不可解でしかないことに逆に気づかされた。これは日本に特有の現象なのか? 諸外国の事情までつぶさには検証していないが、高校の吹奏楽コンクールのレベルの高さ、学生オケ経験者やその継続人口の多さなど、日本のアマチュア・オーケストラは世界に冠たるレベルにあるようだ。

マーラー祝祭オケ創立メンバーの一人であるN氏は「アマチュアにしかできないことがある」と述べた。ソツのない演奏ではない。当然ミスもある。でも純粋な音楽の喜びに溢れた演奏がアマオケの身上。仕事として数をこなさなければならないプロとは違って、一つの演奏会に向けて何カ月もじっくり時間をかけ、熱い情熱を注ぎ込んだアマチュアらしい音楽作りである。それを求める音楽ファンもいると。

・・・確かに。私もそれを知っている。しかし、「熱い情熱」というものは場合によっては普通の楽しさを打ち消すほどの厳しさにもなる。ここで学生オケ時代は怒られてばかりの「下手くそ団員」だったトラウマがよみがえってくる。なぜ、同じ学生にそこまで言われなければならないのかと思ったものだ。より良い音楽を目指すためだったことはわかっている。イヤならば辞めればよかったのだ。現に中途退団者も多いし合わない人は最初から入団しない。下手でも和気あいあいと楽しむ同好会ではなかった。それは大学のスポーツで言えば体育会とサークルの違いのようなものだ。大学の体育会からプロ選手が生まれるように、京大オケからも立派なプロを輩出していることを考えると、私は来る場所を間違えて苦しい思いをしたのかもしれない。

それにしても、その演奏には確かに人の心を打つ力があった。

人の心を打つものは何だろう? 大学オケに限らず、オーケストラに感動した時のことを思い出しながら考えてみた。ありきたりのことばかりだが、3つほど挙げたい。

  1. 言い訳しない姿勢
  2. 役割に徹する確信
  3. 溢れる喜び

1.言い訳しない姿勢

プロでもないのだから。趣味でやっているのだから。技術がないのだから。そこまで時間をかけられないのだから。そもそも無理な曲なのだから。言い訳はいつだっていくらでもつくし、半分以上正しい。だが言い訳したとたん、その人の発するものは何ごとであれ人の心を動かすことはないであろう。

学生オケが、プロでもないのに、趣味でやっているはずなのに、技術もないのに、そもそも無理なことをやろうとするのは愚かなことかもしれない。学業をおろそかにしてまで途方もない時間をかけて練習するのは、「学生の本分にもとる」と父は苦言を呈していた。定期演奏会を聴きに来てくれたはよいが「うますぎる。こんなにうまいのは間違っとる」と妙な褒め方をしたものだ。

確かにそれは経済的にはまだ親に頼っている学生が、その身分に甘えて部活動にうつつを抜かしている状況ではあった。中には、親に一切頼らずアルバイトや奨学金でやり繰りしている学生や、学業ときちんと両立させている優秀な学生もいたかもしれないが、私は・・・甘ったれたダメ学生に過ぎなかった。そして、怒られてビクビクしながら、なんとかして少しでもマシな演奏をすることだけに必死だった。

社会人になればもっと制約が多い。プロじゃないのだから。趣味でやっているのだから。学生ほど時間をかけられないのだから。仕事も忙しい中で、毎週末を社会人オケの練習に費やす方々には本当に感服するばかりだが、理想と現実のギャップは学生時代よりもさらに大きいことだろう。それでも言い訳せずに全力を尽くす姿勢には心打たれるものがある。

プロのオケにだって言い訳はあるに違いない。演奏会が多すぎるから。さらう曲が多すぎて一曲一曲そんなに時間かけてられないから。会場の音響がひどいから。指揮者と合わないから。毎回毎回人の心を打つ演奏をしようとまでは思っていないのだから。とか?

2.役割に徹する確信

オーケストラは一種のマスゲームのような団体競技だから、誰か一人の力で音楽が成り立つわけではない。もちろん美しいメロディは素敵に違いないが、裏旋律だったり、伴奏だったり、複雑な対位法だったり、さまざまな音が組み合わさって全体の響きが出来上がるのだ。個々のパートは「は?なにこれ?」というつまらない(であろう)場面も多い。「ブン」というコントラバスと「チャッチャ」の部分を担うホルンの一群がワルツのブンチャッチャを延々とひたむきに繰り返す姿には何か胸に迫るものがある。弦楽器が集団でザザザザザザと刻む霧のようなさざ波のようなサウンドもオーケストラならでは。これは特にコンサートホールで生の振動を身体に感じるとゾクゾクする。

幼少期から習っていたピアノの場合は一人で話が完結し、楽譜に書いてある音楽を自分なりに表現することを目指せばよかったが、高校時代にプラスバンドで打楽器を始めた時には面食らった。なにしろ譜面に休みの小節が多くてどこが出番なのか数えるのが大変なのだ。ようやく出番を把握しても、そこで「ドン」とか「タタ」とか「シャーン」という雑音にしか思ってもらえない自分の音を曲全体の中に位置付けて「音楽」にすることがなかなかできなかった。「こんな役割」がひどく馬鹿にされているような被害妄想に陥ったり、同じ「こんな役割」をカッコよくこなせている仲間に引け目を感じたりした。

そういう劣等感とないまぜになった過剰な自意識を乗り越えて、その時その場に必要な「一打」が全体の中に絶妙にハマった時の達成感はなにものにも代え難い。簡単に見えるかも知れないが半信半疑ではできないのだ。この曲のこの場面にはこのタイミングでこの音量でこの響きの音が絶対に必要なのだという確信が欠かせない。確信を持って自分の役割に徹し、大の大人がシンバルや大太鼓やトライアングルを真剣に打ち鳴らす姿には心を打たれずにはいられない。

いや、ほかの楽器でも同じこと。自分の役割に半信半疑だと表情や身体の動きからすぐにわかる。たとえ個別の音が聴こえないパートでも、それはおのずと全体の響きに反映されるだろう。

3.溢れる喜び

楽器を奏でる人の姿は美しい。その楽器を弾くことが、吹くことが、叩くことが、心から好きで楽しくてしょうがないという「演奏する喜び」が伝わってくれば、それだけで心を打たれる。昨秋、映画『オケ老人』を観てつくづくそう感じた。

老人ばかりで、ど下手くそな「梅が岡交響楽団」とは対照的に、アマチュアなのにオーディションでメンバーを選抜し、高いレベルを追求するあまり音楽の楽しさを忘れた「梅が岡フィルハーモニー」が批判的に描かれていた。もちろん、老人たちのウメキョウも下手くそのままで良いということではなく、主人公の献身的な指導によって「真面目に音楽する喜び」を知って一生懸命に練習し、若者たちも加わって、だんだん上手いオケになるというほとんど「ありえない」展開だったわけだが、そこで私が心を動かされ結構泣けたのは、なによりも演奏する喜びに溢れた老人たちの嬉しそうな顔だった。

この『オケ老人』の原作者 荒木源さんが、私とオケで同期だった首席打楽器奏者と中学・高校の同級生であることを知って驚いた。一生アマオケを続ける人々の老後という高齢化社会ならではのコンセプトについて、いつかインタビューしてみたいものだ。

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このたびの100周年祝祭オーケストラは、この日の祝賀パーティのためだけの一発オケだが、開演前に2時間ほど練習があった。この練習に参加することが祝祭オケに参加する条件だったし、もちろん学生時代ほどピリピリしていないとは言え、その真摯な練習風景には当時を思い出させるものがあった。その場に集まった160人ものオケ老人予備軍は、日頃から楽器をやっていようがいまいが、上手くても下手でも、祝賀会の本番では言い訳せずに各々の役割に徹して合奏する喜びを感じたのであった。(続く)