よろず編集後記

よろず編集者を目指す井内千穂のブログです。

蝶々夫人は死なず

蝶々夫人」は決して好きなオペラではなく、観るたびに何とも言えずモヤモヤした気持ちになるのに、つい、また観たくなるのはなぜだろう?

最初に観たのは15年ぐらい前だったか、ベルリンに住んでいた頃のシュターツオパー(ベルリン州立歌劇場)。この時の主役が誰だったのか全く覚えていないが、聴かせどころで高音が出なくてがっかりした上、着物が変、所作が変(両手を胸の前で合わせてお辞儀とか)、ラストシーンが変(子役は使わず、のっぺらぼうの人形を抱いて最期のアリアを歌ってから自刃)・・現地で素晴らしいオペラもいろいろ観たが、これは・・・ヨーロッパ人が日本を描くとこうなってしまうのかと愕然としたことだけが印象に残っている。

なので、日本で日本人の演出家による上演ならば、こと「蝶々夫人」に関しては極端に変なことがないだけでも安心して見られるのだが、前回2014年に新国立劇場で観た栗山民也さん演出の公演は、舞台の美しさには感銘を受けたものの主役のソプラノが外国人で所作がやっぱり変だった。しょうがないのかもしれない。

そういう意味では今年2月の新国立劇場公演は、これまでの定番の栗山演出でも久々に日本人ヒロインによる「蝶々夫人」ということで期待して臨む。

www.nntt.jac.go.jp

主役の安藤赴美子さんは日本美を体現し「ある晴れた日に」をはじめ歌唱も素晴らしく、かなり共感できるヒロインだった。第2幕でピンカートンを乗せたリンカーン号がついに日本に戻ってきたのを見つけて「ほら!やっぱり帰ってきたでしょ!!」と歓喜する場面では切なくて思わず涙。

それでもモヤモヤするのは、そもそもこのストーリー自体に納得が行かないからだと思い到った。なにしろ子どもの目の前で自害という最期、しかも仰向けに倒れた瞬間に稲光のように舞台が明るくなって暗転という幕切れ。えーっ!?それはないでしょう!!全般にとても美しい栗山民也さんの演出も、ラストシーンは私には興ざめだった。

日本人のヒロインだからって「ハラキリ」ではないけど、自刃させるっていうのはあんまりではないか・・・「ラ・ボエーム」のミミが若くして病死する哀れには感情移入できるし、自殺であってもトスカのように「スカルピア、地獄で!」と叫んで飛び降りる壮絶な最期はあっぱれとも言えるが、「アメリカ人に捨てられ絶望して自殺する日本女性」という設定でイタリア人がオペラを作るのはどうなんだ?台本やプッチーニに対して文句を言いたくなってしまう。ヨーロッパ人の異国情緒と奇異の眼差しという時代状況の産物だったとしか思えない。当時「蝶々夫人」の芝居も原作もあったそうだから。

オペラの冒頭から最後まで、舞台の奥ではためいている星条旗。その残像が劇場を出てからもいつまでも消えなくて苛立つ。どうもモヤモヤが続いていたところ、別バージョンの「蝶々夫人」があるというので観に行くことにした。

 

俳優・演出家の笈田ヨシさんによる新演出ということで話題になっており、金沢、大阪、高崎、東京と4か所の巡回公演。その最終日の2月19日(日)、東京芸術劇場に再び「蝶々夫人」を観に行った。何に駆り立てられてか、気に入らないストーリーがどのように描かれるのかを確かめずにはいられない。

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その日のヒロイン中嶋彰子さんもなかなか素晴らしかった。新国立劇場の安藤赴美子さんは初々しい可憐さが前面に出ていたのに対し、中嶋彰子さん演じる蝶々さんは、おのずと大人の色気が漂い15歳の少女というにはちょっとなぁ…まぁゲイシャさんだし、そういうこともあろうか。いちばん盛り上がったのは第1幕の長大な愛の二重唱だった。いやいや、途中でピンカートンが蝶々さんを“お姫さま抱っこ”して(屈強か!)双方きわめて歌いにくそうな態勢でも熱唱が続いたかと思うと、やがて畳に敷かれた布団に寝そべった彼がシャツを脱ぎ出すというリアルなラブシーンがかなり濃厚な演出だった。ある意味、こういう幸せの絶頂を味わったのであれば翌日死んでも本望かも知れない。

ちょっと残念だったのは音響のバランス。オーケストラのボリュームが大きくなると歌手陣の声が聴こえにくくなるのは、ピットのないコンサートホールでは仕方のないことなのか、単に指揮者の問題なのか、座席の場所によって違うのか、わからない。

ざっくり言うと、新国立劇場版は「不可避の悲劇」をあくまでも美しく描こうとしているのに対し、東京芸術劇場版は、このような設定の中でもできるだけリアリティを追求しようとしているように感じられた。ピンカートンが去った後の第2幕では、経済的に困窮している蝶々さんも女中のスズキも粗末なモンペ姿で登場するので一瞬ぎょっとするが、確かにおカネに困っているのに綺麗な着物を着ているのは不自然だったとも言える(東北発祥だというモンペがいつごろ長崎まで普及したのかという時代考証はともかく)。

同じ台本に同じ音楽だし、大きな読み替えはないものの、演出の違いというのは面白いものだ。星条旗というアメリカの象徴にしても、東京芸術劇場の舞台では家の一角に掲揚されているのが、決して美しくないが妙にリアルに感じられた。あるある。こうやって国旗を飾るというインテリア(大使館とか)。それを終盤で蝶々さんが引き抜いて踏みつける。うーん、蝶々さんはそんなに強かったのか!? 

果たして、この演出では蝶々さんは本当に強かったのである。

自刃するかというラスト、かつて切腹した父の形見の短刀を取り出して、われとわが胸に突き立てようというところで舞台は暗転。自刃のシーンなし!

そう!蝶々さんは決してここで死なないのだ。アメリカ男を信じきって頼りきっていた揚げ句の果てにこうなってしまったのは半分は自業自得。死のうと思うほどの苦しみから何としても立ち直ってほしい。なんなら子どもを引き渡すのを断固拒否するのはどうだ?さっき二度とやりたくないと歌っていた芸者稼業をもう一度やってみるか、ほかの仕事だってできるのではないか?絶縁された親類縁者にもう一度頭を下げてみてはどうだろう?無理だろうか?それでは母子でさすらいの旅に出るか? 猛烈に応援したくなる。蝶々さん!生きるのだ!

あるいは、我が子のためを思って泣く泣く引き渡した後、まだ長崎に滞在しているピンカートン邸へ忍んで行っては物陰から息子の顔を見るという話だったらもらい泣きしそうだなあ・・・そして、ある晴れた日に、離任するピンカートン一家が出帆する時には水平線の彼方にリンカーン号が見えなくなるまで丘の上から手を振って見送るのだ。ああ私の坊やが異人に連れられてアメリカへ行ってしまう・・・その後、何年もかけて別人のように実力をつけてからはるばるアメリカまで息子を訪ねて行くとか、逆に成長した息子が母を訪ねて何千里、はるばる日本に戻ってくるとか・・・その後どうなったかの妄想が果てしなく膨らむ。その場で自害するよりもっと様々な可能性があるはず。

実際、「蝶々夫人」の続編の試みは過去にもあるようだ。

ジュニア・バタフライ

「蝶々夫人」その後… - 歴史〜とはずがたり〜

どちらも筋書きがイマイチだが(すみません!)、それでも人生は続く。

驚いたことに「蝶々夫人」は今もなお世界的にも人気演目として2015-2016シーズンの上演回数で堂々の第6位、トップ10にランクインしている。

operabase.com

世界各国で一年間でトータル2641回も上演され、「アメリカ人の遊びの結婚に騙されてひたすら待ち続ける上、求めに応じて子どもを引き渡し死を遂げる誇り高い(都合の良い)日本女性」というイメージが繰り返し愛でられるているかと思うといたたまれない。冗談じゃない!

ただ、今や「蝶々夫人」を単なる「日本を舞台にした物語」だと思う時代は終わったそうで、「勝った国と負けた国、富める国と貧しい国の存在するところで生きる人々の運命を語るための大きな器となりつつある」と言う(全国共同制作プロジェクトMADAMA BUTTERFLYプログラムより)。「ソ連崩壊後にアメリカ人のもとで低賃金労働者として働いたロシア人たちの物語」という演出もあるとか。へーえ!そうなの!?それではもはや、プッチーニの日本情緒とは別の世界になると思うけれど、そういう普遍性を持った物語にもなりうるとは、これまた驚きだ。

ともあれ今回は、元の設定に基本的には忠実でありながら、不屈の蝶々さんの可能性を示唆した笈田ヨシ新演出に、これまでのモヤモヤから救われる思いだった。

蝶々さんよ永遠なれ。