よろず編集後記

よろず編集者を目指す井内千穂のブログです。

福島の今を訪ねるバスツアーその①自分の目で見る

震災後の福島に初めて行ったのは昨年春。震災から5年も経ってからだった。

2011年3月11日以降、緊急支援のために多くの人々が被災地に向かい、新聞社の同僚は現場を駆け回って報道を続けた。そんな中、私は東京で家族の生活を守りつつ新聞社での日常業務をこなすだけで精いっぱいだった。同じ新聞社員でも報道部とは異なり、今こんなことをやっている場合なのかと思うルーティンの編集作業が多かったが、それでも担当業務は業務なので放棄するわけにもいかない。被災地に取材に行くこともボランティアに行くこともできなかった。

2011年の暮れになってようやく夫と二人で宮城県内をレンタカーで回り、震災直後よりだいぶ片付いたとは言え、まだ被害の爪痕が生々しい仙台から石巻、女川にかけての沿岸部の有り様を目の当たりにした。また、2014年には母校のライタースクールが岩手県陸前高田で開催したチャリティイベントにボランティアとして参加する機会もあった。しかし、福島にはなかなか行くことができなかったのだ。

2016年1月に新聞社を離れてから、なんとかして福島に行きたいと思い、その当時少し縁があったバイリンガル誌への寄稿のチャンスを得た。とは言っても福島での取材場所を探すのも実際に訪ねるのも自力ではとても無理だとわかっていたので、新聞社時代に知遇を得た福島出身の地域メディエーター半谷輝己氏にガイドを依頼し、3月末に知人筋のフリーランサー4人を巻き込んで小規模の取材ツアーを組んだのだった。

半谷氏に案内してもらった浜通りの荒涼たる風景、震災当時のまま閉ざされたJR常磐線浪江駅、浪江町から双葉町大熊町富岡町まで国道6号線沿いに続く無人の町、誰もいない家々に衝撃を受けた。除染が進む一方、人が作った町に誰も住んでいないというのは、何かがひどく間違っていたということをあまりにも雄弁に訴える。それは原発事故なのか?事故後の対応なのか?両方なのか?

沿岸部を回ったあとで山間の川内村で一泊した。ようやく人の気配が感じられてほっとしたが、原発から30キロ圏内にあって現在戻ってきている方々にお話を伺うことで、人が暮らしていくために必要な条件について考えさせられたのであった。

その時に書いた記事が最近ウェブで読めるようになっていて驚いた。

Fukushima—Working to bring Fukushima communities back to life | JAPAN and the WORLD

バイリンガル誌なので紙媒体には日本語もあったのだが、ウェブ版は英語だけのようだ。

一緒に行ったトラベルジャーナリストのT女史から「一度や二度の取材で何かわかったと思ってはダメ。ずーっと通い続けてようやく見えてくることがあるよ」と言われたことが心に残っている。

それもあって、この取材ツアーからしばらくして半谷氏に「震災後何度かやっている福島へのバスツアーを手伝ってほしい」と頼まれたときには、主に自分自身がまた福島を訪ねたいという気持ちで引き受けたのであった。

昨年の5月の連休の最終日。再び浜通り川内村里山を訪ねることになった。バス1台の日帰りツアー。この時の企画を成り立たせる紆余曲折の過程で川内村の秋元さんご夫妻と出会った。ご縁というのは実に不思議なもので、こうして元々は全く福島外部の取材者だった私は、川内村での友情をこれから育み、自分の友人・知人たちにもこの里山に来てもらいたいと思うようになったのだ。

そして今年も5月の連休の最終日。バス1台ほぼ満席の38名に加えて、現地に車で駆けつけてくれた7名の参加者と共に、福島の今を自分の目で見て肌で感じてきた。今回は多くの友人たちも参加してくれたのが嬉しい。

気にはなっても自分ではなかなか福島に行く機会がなかったという人が多い。そうこうするうちに震災から6年が経ち、ニュースを見聞きすることはあるものの、ともすれば日々の生活の慌ただしさに取り紛れて震災のことが記憶から薄らいでしまう。しかし、現地に来てみれば、復興にはほど遠い無人の家々が連なる浜通りの光景が現実なのだ。

それを自分の目で見る体験をバス1台に乗り合わせた友人たちをはじめ参加者のみなさんと共有できたことは意義深い。(続く)

f:id:chihoyorozu:20170519105014j:plain福島県双葉郡川内村の秋元さん宅の前で

[写真提供:川畑日美子さん]