よろず編集後記

よろず編集者を目指す井内千穂のブログです。

田崎悦子ピアノリサイタル「三大作曲家の愛と葛藤」

いつもながら、自分にとって行くべき音楽会は絶妙なタイミングで開催される。必ず行くべしと言われているようだ。5月26日、土曜日の昼下がり。この前の週でも後の週でも行くことは叶わなかった。

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ところが、会場でプログラムと一緒に受け取った小冊子には「私は音楽会というものが好きではない。言ってしまえばつまらないからだ。」と田崎さんご自身が書いておられるではないか。

「・・・(音楽会には)真っ黒いピアノの前に趣味の悪いドレスを着て上体をゆり動かしている人だけのときもある。指が早く動くのを見るのは面白いかと言うとそうでもない。わざやスピードを見たければ、サーカスやカーレースに行ったほうが、よっぽどドキドキするし、スリルがある。」

手厳しい。私は何をしに来たのだろう?

3年前の「三大作曲家の遺言」3回シリーズは、ブラームスベートーヴェンシューベルトという三大巨匠の晩年の遺作をまとめて弾くという凄まじい企画で、まさに田崎さんご自身の遺言なのかと思ったものだ。「これをやってしまえば、あとはもう楽な人生を生きようかなって(笑)」というインタビュー記事も読んだ。しかし、「またムラムラと欲が出てしまった」という田崎さん。今年は2回シリーズでショパンシューマン、リストを取り上げる。

東京文化会館小ホール。颯爽と現れたピアニスト田崎悦子の今回はシャープなブルーのドレス姿に胸が高鳴る。これからピアニストは舞台上たった一人で、魂の交感ともいうべき儀式を執り行うのである。

ショパン幻想ポロネーズの出だしの2つの音に続くハッとする和音と絶妙な間を置いて深い谷底から立ちのぼるアルペジオに誘われて別世界へと連れていかれた先には、一瞬だけ華麗なるポロネーズのリズムが打ち鳴らされたかと思うと、いつも私を魅了してやまない明るい憂いを帯びた旋律が流れ出す。明るく、次には仄暗く、田崎さんが静かに響かせる微妙な和音に恍惚となる。慰めに似た歌の後には、再びあの冒頭のテーマが一層の深みから高みへのアルペジオを伴って迫りくるが、終盤、熱に浮かされたように鍵盤の端から端まで駆け巡った両の手で田崎さんが打ち鳴らした最後の一音は高く澄み渡り、まさに天上で鳴り響く鐘であった。昂然と顔を上げ、人生への勝利を宣言するように。

シューマンダヴィッド同盟舞曲集は不思議な曲だ。そもそも「ダヴィッド同盟」って何だ?と思って調べたら、それはシューマンが考え出した架空の団体(!)で、保守的な考えにしがみついた古い芸術に対して新しいものを創作するために戦っていく人達だという。主要メンバーは明るく積極的なフロレスタンと冷静で思索的なオイゼビウスということになっている。もちろん架空の人物でどちらもシューマンだ。18もの短い曲が続くが、たいてい前の曲とがらっと雰囲気が変わるのは、フロレスタンかオイゼビウスか、どちらかの性格が交代で出ているということらしい。彼らに代弁させるように、クララに恋する自分の憧れ、情熱、憂い、夢、喜び、不安など様々な思いが切々と語られ、若き日のシューマン君に共感し応援せずにいられない。自分自身のほろ苦い青春もよみがえる。シューマンの恋は実りクララとの結婚は成就するも、その後の悲劇的な末路を思うとますます切なくなる。何がいけなかったのだろう?クララがいけなかったのか?結婚がいけなかったのか・・・一つ一つキラキラ瞬くような曲たちに込められたシューマンの魂を、田崎さんは時に力強く抱きしめ、時に信じられないほど微かなピアニシモの響きで包み込むのだった。

それにしても、ショパンシューマン、リストというロマン派きっての三大作曲家の愛に溢れた偉大な3曲を並べるとは、なんと大変なプログラムだろう。休憩を挟んだ後半、リストのソナタロ短調が圧巻だった。ショパン幻想ポロネーズの冒頭も荘厳だが、このリストのソナタの冒頭は、ただならぬ2音の問いかけと禁断の領域へ暗闇の階段をゆっくりと降りていくような一音一音の厳粛な響きに息が止まる。続いて打ち鳴らされるおどろおどろしいテーマが全曲に渡って繰り返され、発展し、やがて美しい歌へと驚きの変容を遂げてまた登場し、ソナタと言いながら1楽章も2楽章も3楽章もぶっちぎりの30分間が迸り駆け抜けていくのである。そして再び厳粛な階段をいちばん低い段まで降りきった時、天上からの救いの和音に静かに迎え入れられるように曲は終わる。昇天・・なのか。

ピアノという楽器の強みは、人間の手指がなしうる限りの動きが音の響きに直結することではないだろうか。管楽器の息や弦楽器の弦を擦る弓に自ずと備わる制約を抜きにして、優しく愛撫する指に直接触れられる鍵盤で紡ぎ出す得も言われぬやわらかい響き。逆に田崎さんの華奢な身体のどこにそんなパワーが秘められているのかと思う強烈な一撃が、全身全霊の集中をもって叩き出される。鍵盤に噛みつくような鋭い音の立ち上がりもピアノの特権だ。なんという音色の幅の広さ。もちろん、両手のすべての指を駆使した怒濤の連打も、めくるめく音階も。一人で旋律も裏旋律も伴奏音も弾きこなして作り上げるオーケストラのようなスケール感は、ほかのどんな楽器にも真似できない。

19世紀の初めに生まれ、愛と葛藤の人生を駆け抜けた3人の作曲家が言いたかったことが今、目の前で息づいている。そういう稀有な儀式のような音楽会に立ち会って心を震わせ、私はただただ拍手するばかりだった。。

10代で単身渡米し30年間ニューヨークを拠点に世界の第一線で活躍し続けたピアニスト田崎悦子。そして国境を越えた恋の数々。

「ピアノを弾くというのは、恋愛すること。作曲家が誰かを愛する思いが、こちらに伝わって感じられるから私は曲が描く彼女の身にもなれる。」

そう堂々と言える生き方を貫いてこられた田崎さんに、同じ女性として嫉妬する。

私はどういう生き方をしているだろう? 自分なりに精いっぱい人を愛し、命を大切に育んできたのではないのか? 別に責められているわけでもないのに、おのずと問い直してしまう。魂は何かを渇望しているのだ。

「愛と葛藤」の日々に鍛えられ磨かれた田崎さんは年輪を重ねてさらに美しく、万雷の拍手に応えて両手で投げキッスを贈る。ああ、カッコ良すぎる!

音楽会が好きではないという田崎さんの文章はこう締めくくられている。

「私の胸をいっぱいにしているものを手のひらですくいあげ、それを人の心に一滴でも落とせるような、そんな音楽を私はしようといつも心がけている。」

魂の渇きと限りない憧れに導かれて、私は田崎さんの音楽を聴きに来るのだ。