よろず編集後記

よろず編集者を目指す井内千穂のブログです。

フィデリオ仮装合戦

人間は自由じゃない・・脳の働きや決定論のややこしい話は抜きにしても、罪人と判定されれば拘束され、自由な身だと思っている人々各々の自由な考えだって所詮は思い込みの産物に過ぎず、その思い込みは誰かに操作されている。そんな怖ろしい舞台を観た。

ベートーヴェンが遺した唯一のオペラである「フィデリオ」を新国立劇場開場20周年を記念して新制作。リヒャルト・ワーグナーのひ孫で現在バイロイト音楽祭の総監督を務めるカタリーナ・ワーグナーが演出を手がけ、今シーズンで任期を終える飯守泰次郎オペラ芸術監督が最後に自ら指揮する話題作ということで、The Japan Timesでも紹介させていただいた。

www.japantimes.co.jp

まず、 飯守監督にインタビューさせていただき、ワーグナー女史については、単独インタビューは(ほぼ)なし、稽古場もゲネプロも(ほぼ)非公開という彼女の対メディア・ポリシーに則って公演前に開催された記者懇談会に参加し、そして、5月20日の初日を観るという機会に恵まれた。6月2日までさらに4公演を控えていたため、23日付の記事では極力ネタバレしないように気を遣ったつもりだが、なにしろ、新国立劇場であんなにブラボーとブーイングが飛び交うカーテンコールも珍しかった。既にあちこちに賛否両論のレビューが書かれており、少なくとも物議を醸す舞台であったことは間違いない。「現代の人々に問いを投げかける舞台にしたい」という飯守監督とワーグナー女史の狙い通りだったと言えよう。

飯守監督もおっしゃったように、オペラと言えば「愛と嫉妬の三面記事的なドロドロしたドラマ」が多い中で、「フィデリオ」は夫婦愛をネタにした珍しい作品である。男装してフィデリオと名乗り監獄に潜入したレオノーレが、政治犯として投獄されている夫フロレスタンを救出する。フランス革命前後にそういう救出劇が流行ったそうだ。ベートーヴェンの理想にも叶う物語だったのだろう。

ほかの交響曲などと同様、ベートーヴェンの音楽はあくまでも甘美で深刻で華々しい。フィデリオは若干「とっつきにくい」と聞いていたが、どう歌われてもよくわからない現代オペラに比べたら遥かにとっつきやすく音楽を堪能できる。音楽に集中するなら、むしろコンサート形式のほうがいいかもしれない。実際、5月の始めに聴いたチョン・ミョンフン指揮、東フィルの「フィデリオ」もなかなかよかった。フィナーレの合唱は美しい夫婦愛を讃えるめでたいものだった。

しかし、ワーグナー女史の手にかかると話はそうめでたくはならない。1カ月も経つので、細かいことは忘れたが、印象に残っているのは舞台がいくつかの階層と小部屋に分割されていたことだ。各層の各部屋の内部の様子は、別の層の異なるスペースにいる登場人物からは窺い知れない。まさに世の中がそうであるように。たとえばレオノーレは自分のプライベートスペース(?)で密かに着替えてフィデリオになり、その下の層にある地下牢に閉じ込められたフロレスタンは希望を失わぬよう、愛しい妻にそっくりの天使の絵を牢獄の壁一面にひたすら描き続ける。そんなあちこちでやっていること全体を俯瞰できる言わば神様目線は観客だけの特権だ。

恥ずかしながら「フィデリオ」を生で観るのは今回が初めてなのだが、映像でいくつか観たバージョンでは、レオノーレはいきなり男装のフィデリオとして登場し、看守ロッコにもその娘マルツェリーナにも本当は女であることがばれない。それどころか、娘は本気で「彼」に恋心を抱き、父は「彼」を娘の婿にしようとする。(え~?なんで気づかへんかな?!)その不自然さについて、ワーグナー女史は「今回の演出では女性が男装するところと変装を解くところを見せるということが正しい演出だと信じる」と懇談会で語った。なので、レオノーレ⇔フィデリオの着替えシーンを舞台上で何度となく見せられたわけだが、どういうことかと訝しんでいたところ、第2幕の後半になって、やっとその意図がわかった。つまり、変装するのはレオノーレだけではなかったのだ。悪役、いや、政敵も同じ手を使うではないか。

悪役の刑務所長ドン・ピツァロが政敵フロレスタンを殺そうとやってきた地下牢で、フィデリオから女性の姿に戻ったレオノーレが身を挺して夫を守り、ドン・フェルナンド大臣の到着を告げるラッパの音と共にすべては好転する・・・そういう話のはずが、なんとピツァロはフロレスタンとレオノーレを殺害した(もしくは瀕死の重傷を負わせた)後、フロレスタンの上着を奪って変装し、レオノーレに変装させた別の女性(誰?)を伴って人々の前に現れる。そこへ到るまでの場面転換でレオノーレ序曲第3番が盛大に演奏される間、悪役ピツァロが地下牢の通路にどんどんブロックを積み上げて塞いでしまい、フロレスタン&レオノーレ夫妻がアイーダのラストのように地下牢に封じ込められる(ええーっそんな!?)のを観客はなすすべもなく見ているしかない。

レオノーレの男装がばれないのであれば、ピツァロの変装もばれなくて当然。「なりすまし」を信じさせることができればそれは現実と化す。長い獄中生活から解放された囚人たちやその家族たちは、ピツァロを解放者フロレスタンだと信じ込み、「夫を救った妻レオノーレの勇気と二人の夫婦愛を讃える」歌を大合唱するのだ。

フィデリオことレオノーレ役のリカルダ・メルベートもフロレスタン役のステファン・グールドも素晴らしい歌唱を聴かせてくれたが、そうした独唱よりも重唱よりも、「フィデリオの音楽の中で一番好きなのは合唱」と言い切ったワーグナー女史は、懇談会の席で新国立劇場合唱団を絶賛した。その素晴らしい大合唱のフィナーレは、世の中の人々がいかに簡単に騙されてしまうかをこの上なく雄弁に語っていた。この演出にカタルシスはなく、この結末はベートーヴェンの音楽に対する冒瀆だという意見もあちこちで見たが、私は、情報操作された民衆が虚偽を真実と思い込んで理想を讃える合唱の凄いパワーにゾッとした。これもベートーヴェンの音楽の力というものではなかろうか。

偽物の解放者に先導された囚人たちが向かった先に待っていたのは、自由への出口ではなく、次の牢獄の入口であった。なんという結末!何かを安易に信じてはいけないのだ・・・

自由であることは難しい。ただ、自由を望む切なる気持ちだけが真実なのかもしれない。第1幕の暗がりの中で「囚人の合唱」が切々と響いたのだった。

   おお何という喜び 自由な大気の中で
   軽やかに呼吸をすることは!

フィデリオ」は数々の歴史的場面で上演されてきた。

1945年9月4日、第2次世界大戦後のベルリンで最初に上演されたのは「フィデリオ」だった。1955年11月5日、第2次世界大戦で焼失し再建されたウィーン国立歌劇場再開の演目も「フィデリオ」だった。そして1989年、東独建国40周年を記念してドレスデンで上演された「フィデリオ」は、その4週間後のベルリンの壁崩壊を予感させる演出だったという。いずれの舞台も、人々が希望を託した、どんなにか感動的な「フィデリオ」だったことだろう。

フィデリオ」が作曲されたのはフランス革命からナポレオン戦争にいたる激動の時代。昨年ベストセラーとなった「サピエンス全史」(ユヴァル・ノア・ハラリ著/柴田裕之訳)の言葉を借りれば、「適切な条件下では、神話はあっという間に現実を変えることができる。たとえば、1789年にフランスの人々は、ほぼ一夜にして、王権神授説の神話を信じるのをやめ、国民主権の神話を信じ始めた」という激変の時代である。革命の旗印は自由・平等・博愛の理想だった。しかし、その後世界はどうなったか。自由と平等と博愛は両立し得るのか?人々がみな自由に行動すれば平等にはならないだろう。博愛どころか、人々はこの矛盾から生じる争いと抑圧に苛まれ、命を落とし、何度も何度もやり直してきたが、そのたびに権力者が交代して新たな抑圧が始まるばかりではなかったか。

「私たちは、自由な世界を所与のものと思っているのではないでしょうか」と飯守監督は言った。監督が言う「ベートーヴェンの崇高な理想」とは、永遠に解決しない自由の問題をそれでも諦めない人間の希望のことなのだろうか。

巧みな「なりすまし」と熱狂的な「大合唱」の罠にご用心。自由はなかなか手に入らない。

f:id:chihoyorozu:20180622143655j:plain