よろず編集後記

よろず編集者を目指す井内千穂のブログです。

コミュタン福島と語り部の力 ~京都発!「福島震災復興プロジェクト」③~

研修ツアー初日に6号線を北上し、浪江町での見学を終えた後、バスは浜通りを離れて西へ向かった。途中までグーグルマップで辿った限りでは国道114号線と459号線を通っていたはずだが、その頃にはとっぷり日が暮れて、真っ暗な山中の道では車内から何も見えない。一日の疲れもあり、うとうとまどろんでいるうちに二本松市に到着した。あたりは一段と雪景色。だが、厳しい寒さの中にも街並みには人が住んでいる明かりがともっていてホッとする。

研修ツアー2日目は、朝の9時過ぎから夕方の5時までの終日、福島県環境創造センター交流棟「コミュタン福島」に"缶詰め"で、さまざまなプログラムが実施された。コミュタン福島は、「福島のいまを知り、放射線について学び、未来を描く」場を目指して2017年7月にオープン。田村郡三春町の田村西部工業団地内にある約46,000㎡という広大な福島県環境創造センターの敷地内に建つ交流棟で、延べ床面積約4,600㎡の立派な建物である。

教育ディレクターの佐々木清先生の案内で、まずは展示を見学。

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ふくしまの歩みシアターの映像や原発の模型で、2011年3月11日から始まる福島の原子力災害との闘いを学ぶ。研修の「しおり」によれば、福島の環境回復のいま、福島県再生可能エネルギー取り組みの紹介、第一原発の作業員や現在の状況、食品検査についての展示、避難者数の展示、霧箱・スパークチェンバーによる飛散放射線の状況、除染についての展示解説・・・と本当に盛りだくさん。大人でもそうだが、中高生がこれらのトピックを全て消化するには時間が足りなかった。もちろん、生徒たちはメモを取りながら熱心に話を聴いていたので、とりあえず、どういう問題があるかということや、コミュタン福島にこれだけ充実した展示があるということはわかっただろう。

個人的にいちばん印象に残ったのは霧箱だった。いたるところ、自然放射線が飛び交っていることが可視化される。

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また、直径12.8メートルの全球型ドームシアター内で360度全方位の映像と音に包まれる「放射線の話」と「福島ルネサンス」は圧巻だった。とくに、福島ルネサンスに登場する四季折々の素晴らしい自然の風景、伝統の祭りを担う人々の誇りに満ち気迫に溢れる表情や子どもたちの笑顔に触れると胸が熱くなる。地元の人間でなくても、これを復活させたい、守り伝えてほしいと願わずにいられない。これは映像の力である。

駆け足の見学の後には、会議室に移動し、放射線測定器を使って身の回りのものの放射線量を実際に測定するワークショップが行われた。佐々木先生の説明はとてもわかりやすく、理科に苦手意識を持っているかもしれない生徒も(私も)、自分で手を動かして楽しく学べる。湯の花、減塩シオ、花崗岩、肥料、食塩の5品目について、線量の高い順位を予測し、実際に測ってみて予測と照らし合わせる。意外な結果の場合もある。結果から湧いてくる新たな疑問や佐々木先生の解説も含めて、こういった体験学習は放射線を科学的に捉える力を養う上で効果が高いと実感した。

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しかし、全く違った受け止め方をする人もいる。2012年の朝日新聞の投書欄「声」に、放射線副読本に対する批判の投稿があったのを最近あらためて目にする機会があった。その中にこんなくだりがある。

「特に『身近にある放射線を測ってみよう』と計測器の写真がずらりと並べられたページには怒りが抑えられなかった。福島の子どもたちが計測器を首に下げて外出せざるをえないことを考えたことがあるのか問いたい。」

そんな激しい非難の言葉が綴られていた。埼玉の女性の投稿だったが、福島から避難してきた人だったのだろうか。まだ震災から間もない頃の感覚だったのか、あるいは、今でもそのように考える人も結構いるのか。こと放射線の話になると、受け止め方が別格になる。悪いのは放射線なのだろうか?霧箱で見たように、自然の放射線はいたる所で飛び交っているのだが。

 

ワークショップに続き、鳥取大学研究推進機構研究基盤センターの北実助教による「放射線による健康被害について」という講義が行われた。放射線は身体にどういう影響を及ぼすのか?軽妙な語り口で、放射線が細胞の遺伝子を傷つけるリスク、細胞の修復機能、外部被ばくと内部被ばく、自然放射線などの解説があった。除染の方法にもいろいろあること、福島県の食品の検査、とくに米の全量全袋検査と風評被害について。なかなか考えさせられる。締めくくりは、鳥取県にある世界屈指のラジウム温泉である三朝温泉でくつろぐ北先生と息子さんの写真であった。また放射線の安全性を刷り込むのかと思う人もいるかもしれないが、若い世代にとって、さまざまな角度から放射線について学ぶ機会になったことは間違いない。

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なにしろ、盛りだくさん過ぎるぐらいのレクチャーのオンパレードの午前の部であった。

昼食を挟んで午後の部。午前の部とは雰囲気が変わり、被災地の高村美春さんのお話を聴くセッションから始まった。

2011年3月11日、南相馬市にお住まいの高村さんが、福島第一原発の事故直後からの避難の模様を生々しく語る。

原発から25km地点にある自宅は無事。情報がなく、状況がわからず、友人たちから「逃げろ!」というメールをもらっても、なぜ逃げなければならないのかわからなかった。翌12日の朝、県道12号線は西に向かう大型バスや車で大渋滞。3人の息子たちのことも気がかりだが、職場である介護施設の100人のお年寄りを残して行くのか?放射線への恐怖の中、時々刻々、決断を迫られる。川俣町に避難、一旦帰宅。次男三男を先に猪苗代に避難させ、また帰宅。長男を連れて須賀川で避難。「お前どこ行ってんだ⁈」と言われながら右往左往の避難の道中、「自分たちは見捨てられた」と感じた。原発から30km圏内に屋内退避する人々が残っていたが、支援物資は届かない。運んできたトラックは30km圏の表示の手前で物資を投げるようにして置いていく。「福島にいたら死ぬんだよ!死にたくないからこうやって置いていくんだよ!」と。また、避難指示が出たため、その道中で命を落としたお年寄りもいる。避難さえしなければ命は助かったのに・・・。

「こうやって弱い人間を切り捨てていくのが国なんだ、行政なんだというのを目の当たりにしました」と高村さんは語った。

当時4歳だった三男を迎えにいくと、母親と長く別れて過ごした不安から「笑えない子ども」になってしまっていた。南相馬に連れて帰るが、4歳の子どもが外で遊べない。自転車に乗れない。花も摘めない。どうすればいいのか?

多くの大学の先生方に直接話を聞きに行ったが、納得できる答えは得られず。2012年2月、チェルノブイリ原発を訪ねた。その折、原発に近いベラルーシのゴメリ州のお母さんたちから話を聞いた。

「今も子どもは森に行かせない。でも、リスクはリスクとしてマネジメントできるよ」

「安全です」なんて言葉ではなく、リスクをちゃんと捉えて、かつ、ちゃんと生活する。ベラルーシでそういう言葉を聞くことができて、高村さんは南相馬に腰を据えた。

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当時、子どもと一緒に被災地に残ることで、脱原発派の人たちから「お前は子どもを殺すのか?」と言われた。一方、福島の野菜が怖いから食べられないと言うと、同じ県内の人たちからは「福島の農家を殺すのは母親だ」と言われる。「まだ言ってんのか、放射線怖いって。怖いんなら出てけばいい。復興で頑張ったんだよ!」と。

お母さんたちの心は疲れている。高村さん自身、昨年PTSDと診断された。県内では何も言えない。何か言うと叩かれる。だから県外で話をすることが多い。そして、年に数回、水俣に行って学んでいるという。

高村さんはお話の最初と最後に、「安達ヶ原の鬼婆」という昔話を紹介してくれた。

http://www.rg-youkai.com/tales/ja/07_fukusima/01_adachigahara.html

郡山の五百川は、京の都から五百番目の川。それより北は人間が住む場所ではないと言われた。

「なぜ、原発が福島に作られたのか?そこから考えてほしい」と高村さんは話を締めくくった。

時折、涙ぐみ、声を詰まらせる高村さん。目を見開き、驚愕の表情で聴き入る生徒たちの顔。

後日、京都教育大附属小中学校で行われた報告会でも伝えられたように、今回の研修ツアーに参加した生徒たちにとって、最もインパクトの大きい場面であった。実体験を伝える語り部の力である。(続く)