よろず編集後記

よろず編集者を目指す井内千穂のブログです。

ひとりの福島県人のおはなし 〜2020京都発ふくしま「学宿」その3

今回のふくしま「学宿」には、昨年のような京都と福島の同世代の生徒同士の交流という部分は含まれていないが、京都の生徒たちと福島の大人とのさまざまな対話の場が用意されていた。現地で暮らす方々と「対話」すること、そして、自分たちがどのようにそれを発信するか? それが今年のテーマである。

コミュタン福島での最後の1時間は、オフィス・クリエイト福島の代表 山口祐次さんのお話。

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「こんにちは。遠いところ京都から足を運んでいただき、 福島を通して学んでいただくということでお越しいただきまして本当にありがとうございます。私も息子と娘がおります。震災の頃、 みなさんと同じぐらいの年頃でした。東日本大震災から間もなく9年を迎えます。その中で何が起きたのか?何を考えてどう行動したのか?何を学んだか? こういったことにつきましてお話させていただきたいと思います。ホープツーリズムの方がその辺のおじさんをつかまえてきたら私だったというだけです。違う人が来たらまた違う話が聞けると思います。そういうことで、ひとりの福島県人からのお話ということで受け取っていただければと 思います。」

穏やかに、山口さんは話を始めた。

山口さんの自宅は富岡町、職場は楢葉町にあった。いずれも福島第一原発から20キロ圏内である。震災後、住むことも、子どもたちは学校に通うことも、山口さんは仕事をすることもできない場所になった。原発事故によって一家は郡山市に避難。長年、民間企業に勤務して総務・人事・経理などの仕事をしていた山口さんは、仕事を続けるために県外へ単身赴任。震災から2年目の時、残念ながら福島の事業所の閉鎖が決定し、山口さんは退職して、家族が避難している郡山市で再起を図った。いろいろな住民がいる。帰れるようになって帰る。 帰りたいけど帰れない人もいる。避難先やほかの土地で新たに生活を始めている人たちもいる。

 山口さんは宮城県出身。福島生まれの福島育ちではないが、幼少期から富岡町のおじ・おばの家が実家のような所だった。県外で社会人生活をスタートした後、20代半ばで富岡町に移住して再就職。恩義のある富岡のおじ・おばと養子縁組をした。

「生まれ育ったところではないが、ある意味、 違った面で強い思いがある。本当に大切な福島、そして、富岡の町」だと山口さんは語った。

2011年の震災でたくさんの命が失われ、 今なお見つかっていない方も多数いらっしゃる。 このあたりでは毎年3月11日、そして毎月11日が月命日。 各地でいまだに捜索活動が続く。もう一つ、 震災関連死が多数ある。福島県では、避難を余儀なくされ、環境が変わり、体調を崩して亡くなった人たちが多い。一方で、小さな子どもや若い世代の命もたくさん失われた。

「みんなと同じようにたくさん夢を持っていた。サッカー選手になりたいとか、ミュージシャンになりたいとか。 我々が当たり前のように迎える一日一日。 かったるいなーと思って迎える朝もあると思いますが、 こういう夢を持った子どもたちは今日という日を迎えられていないのです。そう思うと、一日一日、 当たり前に過ごすのが本当に貴重な一日なんだと思います。」と山口さん。

2011年3月11日のその時、山口さんは会社の会議室にいた。突然の巨大地震。長い揺れが収まると外に出て避難場所に集まった。町の中ではサイレンが鳴り響いていた。津波警報だ。電話が通じない。ネットも通じない。町の様子は全くわからない。不安が大きかった。社員は全員無事だったが、家族が心配だ。しかし、社員たちを帰らせていいのか、判断が難しかった。町の様子はわからない。津波警報が出ている。余震が凄い。そういうときに帰したら何事かあるのではないか?一方で、家族が倒れた家の下敷きになっているかもしれない。津波で流されているかもしれない。そんな状況だった。帰宅指示を出した。結果的に社員たちの家族も無事だったが、あの時の判断が正しかったかどうかはわからない。結果オーライばかり。判断と行動一つで命にかかわっていた。 あの時こうしていれば・・ということは誰にもわからない。

会社に残っていた山口さんは深夜にようやく帰宅し、家族の無事を確認。翌朝、倒壊した家屋や津波の爪痕が目の前に広がっていた。町をぐるっと回って、会社に寄って帰宅すると、町の防災放送で避難を呼びかけていた。「現在、原子力発電所においての事故の報告はありませんが、 念のため、町民のみなさんは川内村方面へ避難してください。」 そういう繰り返し。まだ爆発事故が起きる前。念のためにということだった。

「本当に避難しなくちゃなんないの?」「今日泊まり?」「何持っていくの?」「猫はどうする?」・・・ とりあえずカバンに詰められるだけの荷物を持って川内村方面へ。 これが富岡町の状態。地域によって状況も違っただろう。 富岡町から川内村へ向かう車列で大渋滞。 山口さん一家は富岡の町中でこの渋滞にはまった。いつになったら川内村に着くかわからない。方向を変えて妻の実家がある広野町へ。しかし、広野町にも避難命令が出る。その日はいわき市内へ。その間に原子力発電所の爆発が起きた。翌朝、郡山市へ避難。当たり前の日常が、 巨大地震そして原発事故によって一変する。

親戚の家に避難させてもらったが、やはり、 食料品や生活用品やガソリンを手に入れるのが大変だった。山口さんは、避難所や災害対策本部などを回り、避難した社員の安否確認。町の関係者とも話をしなければならなかった。富岡の自宅に帰れるようになったのは、震災から3か月ぐらい経ってから。初めての一時帰宅の時は、体育館に集合して完全防備のタイベストを着て手袋をつけ、線量計とトランシーバーをぶら下げてバスでみんなで帰った。家の前で降ろしてもらい、2時間だけ家のことをやってバスに戻る。

被災したのは大人だけじゃない。子どもたちも被災した。山口さんには中3から高1になった息子と、中1から中2になった娘がいた。どちらも学校再開の目途が立たない。息子は試験を受けて郡山市内の高校に編入。娘は公立中学だったので、手続きさえすれば転校はできる。しかし、急に転校というのは心配だった・・・単身赴任先から郡山へ一時帰った時、山口さんは車の中から、歩道を歩いて来る楽しそうな中学生の輪の中に娘がいるのを見かけた。娘の笑顔にほっとして涙があふれる・・・ピアノのBGMと共にスライド上の文字で紹介されたエピソードを生徒たちはしみじみ読んだ。「本当にうちの子どもたちは編入先や転校先で温かく迎えてもらった 」と山口さんは振り返る。

福島県内で小中高校生合わせて約16000人が転校し た。避難先の変更で複数回転校した児童・生徒も多数。避難先での不登校や避難いじめの問題も発生していた。環境が大きく変わり、 都会の学校になかなかなじめ ない生徒もいただろう。どう思う? 自分がこういう立場だったらどうだっただろう?あるいは、自分たちのクラスにこういう生徒が来たら、自分たちはどう考え、どう行動するのか?

「これから教員を目指す人たちもいらっしゃると思います。将来、こういう環境になった時に自分たちの生徒がどうしなきゃいけないだろうとか、また、親になったら自分たちはどういうふうに考え、 対応していかなきゃなんないのか。というようなこともいろいろあるわけです。いろいろな立場で考えてもらえたらと思います。」と山口さんは生徒たちに語りかけた。

 この日は2月22日。ニャーニャーニャーの日だそうだ。 「普段あまりこの話はしないのですが・・ 」と言いながら、山口さんは再びスライドで文字で追うストーリーを披露。飼っていた猫のミューが震災から9か月後に見つかった!という奇跡の物語である。捨てられていた子猫を拾い、富岡の家で可愛がっていたシャム風のミューは家族の一員だ。避難の時にペットの問題もいろいろあった。ずっと帰れなくなるなんて思ってもいないから取り残されたペットも・・・

山口さんは県外で仕事をしながら家族の元へ往き来しつつ、 全国に散らばった社員の所を回りながら3年間過ごしたが、残念ながら福島の事業所の再開は断念ということに。
「選択肢は3つです。」
そのまま単身赴任先の九州に行き家族は福島にいるか。九州に家族を連れてくるか。あるいは、退職して自分が福島に戻るか。そういう選択肢の中で山口さんは退職を決意。2014年3月のことだった。

なぜ、避難先で生活再建することに決めたのですか? と時々聞かれることがある。家族は郡山にいた。その時の母親の年齢、妻の年齢、子どもたちの学校のことを考える。自分は九州にいる。そして、その時点ではまだまだあの地域がどうなるか様子がわからなかった。 富岡町としてはまだ帰町はしない。線量、 インフラなどが整ってきたところで帰町を考えて行くという状況だった。そうなると、子どもの学校、自分の年齢での転職の可能性も考える。それからやはり、あの地域ってどうなって行くんだ?原発はどうなるんだろうか?こういったことを考えて、ずっと先延ばしにした状態では生活再建なんてできない。そこで、家族の避難先で生活を再建するということをこの時に決めた。それぞれの住民のそれぞれの環境によって、この選択は異なってくるだろう・・・山口さんの心の葛藤がにじむ。

 生活再建とは言っても、「おじさん」が右も左もよくわからない郡山だ。家族や親戚はいるものの、 知り合いがほとんどいない状態で仕事を始めるのだ。 「それでもなんとかなるもんなんだなと思いました」という山口さんは当時48歳。今は、 地域のいろいろな施設の管理部門をサポートしたり、 研修をしたり、いろんな活動に参加したり。仕事からいろんな広がりがあった。町づくり活動を一緒にやる仲間が増えている。バイクやカメラなど趣味の仲間もできた。

「一からのスタートでどうなるかなと思いましたが、とにかく思いをもって前へ進んで行けば開けてくるんだなあというのが、福島の新しい生活再建の中で気づいたことです。これね、 震災が起きる前は気づかなかったです。本当は今のように道って開けて行くものなんでしょうけど、 なんか当たり前ではそういうのって気づかないですよね。 郡山に行って生活を再建するということで初めて気づかされました。」

生活再建の中で忘れてはいけないことがある。富岡の家をどうするかという問題だ。ずっと放置。管理できない状態で荒れ放題だった。私も子どもたちも育った家だが、残念ながら解体という選択をした。昨年の2月。一年前だ。震災から8年。 まだまだこういった心揺さぶられるような出来事がある。スライドで見せてもらった更地の写真が胸に迫る。

「福島の復興の歩みの中で、光の部分と影の部分とかあります。 富岡も新しい町づくりということでどんどん変わってきています。そして、そこには必ず、それに取り組んでいる人たちがいるということを私たちは忘れてはいけないと思います。」

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 当たり前が当たり前でなくなったが、その代わり、 たくさんの出会いと学びがあった。 今後も自分なりに未来に関わるということを忘れずに、富岡の町を離れたけれど、復興には関わっていきたい・・・山口さんは話をしめくくった。

 さて、残りわずかな時間だったが質疑応答

Q:福島のことをあまり話したがらない人もいますが、京都の中学生になぜ話せるようになったのですか?(3年T君)

山口:震災後、話したくない時期、話せない時期もありました。話せるようになったのは、5~6年経ってからでしょうか。なぜ、話そうと思ったのかというと、この震災のことをこれからの未来に生かさなければならないと思ったからです。どう今後に生かしていくのか?それが大人の役割だと思いました。昨年あたりからまた話が少しできるようになってきました。2019年2月に富岡の自宅を解体したことで、自分の中に区切り、けじめがついたということもあります。

Q:何が今の活動の活力の源になっているのですか?(3年Iさん)

山口:きっかけは震災です。それまでの仕事では総務や人事をやっていました。郡山で仕事を探していた時、従来の業種や職種の求人には気乗りがしませんでした。これからまた一企業人として働くのではなく、残りの人生はこの福島の地域や人や企業のためになることをしたいという思いが自分の中で大きいことに気づいたのです。国や地方自治体の受託事業である就労支援・人材確保支援の仕事に就き、1年半ほど経験した後、独立してオフィス・クリエイト福島を設立しました。人って出会っていきます。そういう人たちと一緒だからやって行けています。

Q:原発に対しては賛成ですか?反対ですか?

山口:福島の浜通りを見て、これからのエネルギーのこと、日本全国どうすればいいのか、みなさんで考えてほしいと思います。東電への感情は考えないようにしています。前に進んで行くことが大事です。

Q:福島の魅力はなんでしょう?

山口:都会が好きか、田舎が好きかにもよりますが、私はこの福島の自然が好きです。食べ物がおいしい、過ごしやすい、そして、人が良いですね。小さい頃から福島に通っていたので、いろいろな思い出がある福島が大好きです。

Q:事故の前と後で家族に対する思いはどう変わりましたか?

山口:震災後、母は体調がだいぶ悪くなりました。単身赴任でたまにしか会えませんでしたが、元気に学校に通っている息子や娘の成長から勇気をもらいました。

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涙ながらに訴えるという「語り部」ではない穏やかな語り口から、家族を思う父親としての、社員を思う元・企業人としての、山口さんの内に秘めた葛藤が伝わって来る。その時々の選択。等身大の「ひとりの福島県人のおはなし」に生徒たちは聴き入った。冒頭で山口さんが言った通り、違う人にはまた違う話があるだろう。ごく普通の一人ひとりが被災して大変な経験をしているのだ。後で感想を聞いた時に、やはり、震災当時は自分たちと同世代だった山口さんの子どもたちの転校のことや猫が見つかったエピソードが心に沁みたと答えた生徒がいた。経験者から直接聞く身近な話に共感したようだ。

福島で学べることがたくさんある。自分たちの暮らしに行かせることがたくさんある。「福島のために」ではなく、そのように取り組んでいってほしいと山口さんは言った。

16時過ぎにコミュタンを離れ、バスはいよいよ浜通りへ向かった。(続く)

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