よろず編集後記

よろず編集者を目指す井内千穂のブログです。

人が主役のならはCANvas 〜2020京都発ふくしま「学宿」その4

三春町のコミュタン福島を出たバスが浜通り楢葉町に近づく頃にはだんだん日が暮れてきた。夕闇迫る中、楢葉町の施設みんなの交流館CANvasに到着。迎えてくれた一般社団法人ならはみらい事務局の西崎芽衣さんも言った通り、「田舎にあるにしてはお洒落」な建物で、木がふんだんに使われ、明かりにも温かみがある。

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西崎さんは地元の人ではない。

「私も3年前まで京都にいたので、今日みなさんが来られて嬉しく思います。」

東京・八王子生まれの27歳。転勤族であちこちに移り住む。京都にいたのは大学時代だ。立命館大学の産業社会学部で住民主体のまちづくりを専門に学び、阪神淡路大震災で被害のあった神戸市長田区と中越地震のあった新潟県小千谷市の2つの地域に通い続ける学生時代だった。と同時に授業のご縁もあって、福島県楢葉町にボランティアで通うようになり、卒業後は楢葉町で就職して暮らしている。 

東日本大震災の時、西崎さんは高校卒業直前。3月12日に予定されていた国公立大学の後期試験が震災で中止になり、浪人した。一年間の浪人生活で自分がこれから何をしていくべきかを考える中で、やはり、震災は大きな影響を与えた。

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「では楢葉町についてお話したいと思います。」

人口は震災当時で8011名。2020年1月現在で6816名だが、これは住民登録者数。町内居住者数は3932名で全人口の58%ほど。それ以外の人々は町外で暮らしているという状況である。

広い福島県の中では南のほうで、名物は木戸川の鮭、ゆず、「マミーすいとん」など。

楢葉町広野町にまたがるJヴィレッジは、日本サッカー界初のナショナルトレーニングセンター。かつて日本代表チームが合宿した時にすいとんを出したところ、当時のトルシエ監督が「マミーの味」と絶賛したことから、「マミーすいとん」と呼ばれる郷土料理になったとか。 

「私も震災当時はここにいたわけではないので、たくさんの方々に聴いたお話を集めてみなさんにお話するような形になってしまいますが」と言いながら西崎さんは話を続けた。

 地震津波原発事故という3つの災害が一気に起こった。町内の死者は13名。重傷者が2名。津波による住宅被害が125戸。震災直後は町内の小学校に避難し、翌日3月12日の8時には、もっと南に避難するよう指示が出た。見せてくれた地図の中にある2つの赤い丸は原発の場所だ。

「上(北)の方の丸が福島第一原発です。原発から離れて南に避難しなさいということで、多くの人々がいわき市に避難しました。もう一つの丸福島第二原子力発電所です。」

福島第二原発楢葉町にある。事故は免れたが停止中で廃炉が決まった。もしも第二のほうでも事故があったなら、楢葉町は今でも住める所ではなかったかもしれない。2012年には楢葉町警戒区域に入っていたが、当時の風向きでたまたま南側は放射線量が比較的低かったので、同じ年の8月から避難指示解除準備区域に。除染が進む。

町内に2つあった常磐線の駅(木戸、竜田)は2014年6月に再開している。2019年には新たにJヴィレッジ駅が開業。常磐線は今年の3月14日に全線開通となったばかりだ。

全町避難していた楢葉町は2015年9月に避難指示が解除され、住んでもよいエリアになった。それまでは住民ゼロだった町がここまで復興してきた。お祭が再開し、病院が新設され、小・中学校も再開し、復興公営住宅ができた。今は仮設住宅に住んでいる人は誰もいない。それぞれが元の家や新しく建てた家、あるいは復興公営住宅などに住んでいる。道路がきれいになり、このような新しい施設もすべて完成している。

 「今、楢葉町では目に見える復興はほとんど終わっていると思っています。」と西崎さん。

では、これから楢葉町で大事にしていなかければいけないことは何か?

「ここに住む人たちが主役になっているまちづくり。行政やいろんな組織が主導するのではなく、ここに暮らす人一人ひとりが主役になれる町を目指しています。」

たとえば、楢葉町のお母さんたちによる藍染めの活動では、自分たちで藍を育てるところから取り組んでいる。行政が「やりましょう」と音頭をとったり「やってください」と頼んで始まったわけではない。お母さんたちから「やりたい」という声があって始まったこと。そのような趣味のサークル活動が楢葉町にはたくさんあり、ならはCANvas館内にもたくさんの作品が飾られている。

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「趣味のサークルって結構どこにでもありますが、楢葉ではとても大切なものなんです。」

仮設住宅での避難生活で、それまでは畑をしたり何かやることがあったが、家にこもってしまう人が増えていた。そんな中、手作業の趣味のサークルがどんどん増えていき、避難生活の絆になっていた。仮設住宅のそれぞれの家には手芸の作品がたくさん飾られていたのを西崎さんは覚えている。

 

2015年に避難指示が解除された時にすごく大きな問題が起こった。

「住めるようになってよかった」と思った西崎さんは、8000人がみんな戻ってくると思っていた。当時西崎さんが聴いた話。

「あの人、戻るんだって」

「あの人、戻らないんだって」

朝起きたら、仮設のお隣さんが引っ越していたとか。

「なんで、あんなに危ないところに戻るの?」という疑問。

「なんで、戻れるのに戻らないの?」という疑問。

 避難指示が解除になって、いろいろな選択ができるようになったがゆえに起きた問題だ。みんなで和気あいあいやっていたサークルも、戻るor戻らないで、バラバラになってしまった。これからどうなっていくんだろう? ある程度時間が解決してくれたように思うと西崎さんは言う。今では、いわきに住んでいる人も一緒にやろうという雰囲気になっている。

 

ここでちょっと話が変わり、ならはCANvasの話になった。

目に見えない復興を意識して作られた施設である。田舎にあるにしてはお洒落?

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「実は、町民が集まって設計して作った施設なんです。」

こういう施設は行政の主導で作ることが多いが、ここは敢えて、町民の方々に集まってもらって設計を進めた。「お茶飲み会」という名前のワークショップを全部で9回開催。

naraha-canvas.com

「ワークショップって言うと、ハードルが高くなるので、『ちょっとお茶でも飲みに来ませんか?』と声をかけました。来てくれた人たちと話し合ってどんな施設にするのか決めて行った。「交流ってどんなことなのかな?」「楢葉町の良いところってどんなところかな?」などなど。

施設見学の前に、「ここまでで何か質問はありますか?」ということで質疑応答

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Q:まだ戻ってきている人は少ないということですが、今の仮設住宅はどうなっているのですか?(2年K林君)

西崎:そうですね。ほとんどはもう解体されています。一部、岡山県で大雨の災害があった時に、再利用するために運ばれたものもあります。

 

Q:京都から福島に来るとき、周りの人の反対はありませんでしたか?(3年K田君)

西崎:すごい反対を受けました。親からは家を出て行けと言われました。実は、2015年に避難指示が解除された時に、一年間大学を休学して、今いるまちづくりの団体で臨時職員として働いていました。その後復学して、それから正式に職員として就職してこっちに来たんですけど、私が反対されたのは、避難指示が解除される前のことで、親は身体の心配をいちばんしていました。ただ、それまで3年ぐらいボランティア活動をしていた間に福島には何度も来ていて、放射線量については先生や仲間たちと一緒に勉強してきて、自分なりに親を説得しました。そうですね。反対はありましたが、私は意外と頑固なので、何を言われても変わらないっていうのはあるんですけど。今のほうが、いろんな方とお会いして「親に反対されなかった?」って聞くと、「そういうのはなかったです」っていう子が多くてびっくりしています。

 

Q:福島に来た時に、「京都から来てる関係ないヤツに私たちの何がわかるんですか」みたいな福島の人たちからの反発はなかったですか?(3年T君)

西崎:元々ボランティアで福島に入り、そのボランティアの内容というのが、お話を聴く「傾聴ボランティア」というものだったんですね。自分が何かを言うというよりは、とにかくお話を聴くというところからスタートしたので、あまりそういったことはなかったです。大学として、宮城や岩手でのボランティアには力を入れていたのですが、「福島には行ってはいけません」ということでした。行ってはいけないと言われれば言われるほど気になる。 そういう仲間が何人かいて、サポートしてくれた先生がいました。結局、自分たちで団体を立ち上げて行くことにしました。やっていたのは、仮設住宅の集会所に行って「京都のお茶とお菓子を持ってきましたー!」って言って、集まってもらって、ただただお話を聴くということでした。寒かったので足湯に入ってもらって、ハンドマッサージをしながらお話を聴くということをやっていたんです。ボランティアと言うと、片付けをするようなイメージが私自身あったんですけど、福島の人たちのお話を聴いていると、いろんな立場、いろんな意見の方がいらっしゃって、自分の不安だったり、不満だったり、怒りだったり、逆に嬉しい、というような感情を外に出せないんじゃないか、というのがあったんです。なので、そういうことだったら、話をなんでも聴くことだったら、できるかなということで、そういう活動を3年ぐらいやってました。必ず、名前と顔を覚えることを意識していて、京都に戻ってからもずっと文通を続けました。「被災地の方々」と書くんじゃなくて、○○さん、△△さんと必ず覚えて帰るし、自分のことも覚えてもらって帰るということをすごく意識して活動していたので、その時の出会いは今でも続いています。

 

Q:ボランティアとして福島の人たちのお話を聴く中で何を感じられましたか?(2年I君)

西崎:今考えると大変失礼で恥ずかしいのですが、現地に行けば、震災当時の悲惨なお話を聴くことができると思っていて、そういう貴重なお話を聴きたいと思っていたところが正直ありました。でも、実際に来てみたら、そういう話じゃなくて、お孫さんの話とか、身体の病気の話とか、いわゆる世間話がほとんどでした。なんでこんな話を・・これでいいのかなあ?と思ったこともあったんですけど、そういうことを積み重ねていくうちに関係性ができてきて、京都に帰ってから届く手紙にさまざまな想いが綴られていることもありました。さっき、避難指示解除の時に私はみんな戻ると思っていたと言いましたが、ある時、楢葉のことを教えてくださったおばあちゃんから「私は戻らないことになりました」というお手紙が届きました。息子さんとお孫さんと一緒に住んでいて、お孫さんが学校を変わるのかわいそうだし、これから先のことを考えると、いわき市にずっと住み続けることになったんだと。自分は戻りたいけど、これからのことも不安なので、息子たちと一緒にいることにしたという手紙を読んで初めて、ああ、戻りたいけど戻れない人もいるし、戻らないという選択もあるんだということに気づいて、やっぱり単純じゃないなあって思いました。それで、休学して、自分もここに住んでいろんなことを学ぼうと思いました。そのきっかけになった今でも印象に残る出来事です。

 

さて、西崎さんの案内で施設内を見学。

 

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 みんなのリビング。壁や間仕切りがなく、一部は2階まで吹き抜けの開放的な空間だ。ソファも棚も組み換え可能で“交流”を生む工夫がされている。

「懐かしい人に会えたらいいな」

「目的なく来れる場所だといいな」

「一人でも気楽に来れるカフェのようなスペースがほしい」

ワークショップで出たそんな声が反映されている。

 

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 2階には楽器を使えるサウンドルームや映画を上映できるスペースもある。一段高くなったスペースは、障子で周りを囲むこともでき、少人数の宴会やお月見にぴったり。

 

暖冬とは言え、2月だというのに西崎さんは半そでのポロシャツ姿。この日の昼間にやっていたハワイアンのイベントのために館内を30℃にしていた由。そんな楽しいイベントもやっているようだ。京都の一行が訪ねた頃には町民の方々の姿は既になかったが、日々50人ぐらいは集まるという。次に機会があれば、日中この施設で繰り広げられる自然体の場面も見てみたいし、京都の生徒たちを含め、よそ者が地元の方々と交流できるといいな・・と思った。

それにしても、京都から自分の意志で楢葉町に飛び込んだ西崎さん。自分たちと年齢の近い「お姉さん」のパワフルな生き方は、とりわけ女子生徒たちに大きなインパクトを与えたようだ。学生時代から福島で出会った一人ひとりの顔と名前を覚え、一人ひとりの話に耳を傾け、一人ひとりと文通を続ける中で、楢葉町で生きていくと決意するに至った素晴らしい出会いがあったのだろうか。「人が主役のまちづくり」の実践が続く。(続く)

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