よろず編集後記

よろず編集者を目指す井内千穂のブログです。

コロナ禍中の母の日

コロナ禍中、既に家から巣立った息子たちになかなか会えない。長男と次男は都内でそれぞれ一人暮らし。たまに週末ごはんを食べに来ていたのも3月以降やめている。昨年就職した三男は九州に配属で、それこそ正月以来会っていない。

GW最終日にLINEのグループビデオ通話機能を使って、5人家族が久々に揃ったのはスマホ画面の中だった。こういうシュールな邂逅がニュー・ノーマルというものか・・・ちょっと寂しさを感じながら迎えた週末、宅急便が届いた。

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メッセージカードには「3人からです。いつもありがとう。体調に気をつけてね!」と。泣かせる・・

 

母の日が来ると思い出す我が家の「母の日事件」。2007年ということは、もう干支一周分以上前のこと・・・時が経つのは早いものだ。当時通っていたライターコースの課題のネタにしてしまったので、今でもそのエッセーが残っている。

 

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感謝の強要
 
 折にふれて感謝の気持ちを表すのは案外難しい。ことに親子だと甘えや照れが先に立つ。それどころか、感謝の気持ち自体を忘れている。そう、子どもなんてだいたいが親不孝者なのである。年に一度くらい親の恩を思い出させるために「母の日」やら「父の日」というものが、設定されたのではあるまいか。その日に合わせれば、たとえば、黙ってカーネーションを買ってくるとか、照れ屋でもわりと抵抗なく表現する形式があり、受け手も納得するのだから、便利な慣習である。
 しかし、年に一度の「母の日」が近づくにつれて、なにやらプレッシャーがかかってきた。息子達は「母の日」などいちいち覚えていないに違いない。「母の日」にしか感謝の意を表してもらえないのも情けないが、「母の日」にすらそれがないのはもっと情けない。だからと言って、「明日は何の日だっけ?」なんてこちらから問いかけるのも興覚めだ。黙っていよう。
 息子達が、「おかあさん、ありがとう」とたどたどしく書いた手作りのプレゼントや、カーネーションの造花を持って帰ってきたのは幼稚園の頃だったか。小学校に上がり、長ずるにつれてそんなほほえましい行事も廃れ、実際、昨年までの数年間、私も別に気にしていなかった。
 今年、妙に「母の日」を意識してしまったのは、新しく仕事を始めて以前より忙しくなった中でも、いわゆる母の務めを果たそうと、かなり無理をしているからかもしれない。朝から弁当を作り、夕食の支度をして仕事に出かけ、頭の中では絶えず一週間分の献立や買物リストがぐるぐる回っているような生活は、なかなか疲れるものだ。
 さて、5月の第二日曜は、ごく普通に始まった。いつもの週末のごとく、遅めの朝食を用意するのは私。誰も何も言わない。この日一人で外出した私は夕方帰宅したが、不在の間、家の中には何の変化も見られない。急いでベランダの洗濯物を取り込む。6時も過ぎていたので、「すぐにご飯作るね」と、台所に立って料理を始めたら急に涙が溢れてきた。
 昨日も今日も明日も、こうして私は家族のために食事の支度をする。たいして感謝されることもなく、まるで女中か家政婦だ。今日だけは違うかもしれないと、ほんの少し期待したのがいけなかったのか。出かけて帰ってきたら「お母さん、ご飯は僕たちが作っといたよ」と言ってくれるとか、「今日はどこかに食べに行こうよ」と言ってくれるとか。あるいは、さりげなくカーネーションが生けてあるとか。いや、そんな大層な望みを抱いていたわけではない。たったひと言、
「いつもありがとう」
と言ってもらえるだけでよかったのだ。今日って母の日だったよね? と照れながら。
 結局、誰一人、母の日を覚えている者はいなかった。彼らにも、その父親である我が夫にも、別に悪気がないのはわかっていたが、一度溢れ出した感情は止められなかった。泣きながら、たまねぎをみじん切りにし、ひき肉をこねてミートローフを焼く。友人のヨーロッパ土産のホワイトアスパラガスの皮を引いて茹でる。ことさら結構なご馳走を食卓に並べると、私の異様さにようやく気づいた家族は動揺して沈黙し、夕食の席は最悪の気まずさが支配した。家族一同黙々と食べ終えてから、私はおもむろに感情をぶちまける。とりわけ「何をそんなに怒っているのか意味がわからない」という高校生の長男の発言に怒り心頭に発し、ひと通りの修羅場を演じた後、一応謝ったりうなだれたりしている男4人に対し、私は、向こう一週間のストライキを宣言した。
「ご飯も作りませんから。自分達でなんとかしてください」


 翌日、たまたま電話してきた実家の母に話すと呆れられた。
「そんなこと言って、あんただって昨日私に何にも言ってこなかったじゃない」
「だってさあ、一緒に暮らしてるんだよ。もう頭にきちゃう」
「まあねえ。男の子なんてそんなもんよ。あんまりカリカリしなさんな」
母の日に子ども達から感謝してもらい損ねて憤慨する娘をその母親が慰める。妙な構図だ。
 そもそも「母」に対する感謝とは何だろう? 考えてみたら子どもを産むというのは、実に大それたことだ。人は図らずも生まれてしまったから、生きざるを得ないのだし、苦しみも味わい、いつか死ななければならない。その誕生をもたらす親、とりわけ、具体的に妊娠・出産する母親はそのような「さだめ」の子どもを産み出す因果な存在である。子どもからすれば「産んでくれとは頼みもしなかった」のだから。子どもの世話をするのはふつう親の務めだが、それは、一つの生命をこの世にもたらしてしまったことに対する罪滅ぼしのようなものとも言える。そうだとすれば、子どもの側で別に感謝する筋合いはないのではないか。
 いや、そうではない。人はやはり、生まれてきたからこそ、生きることができるのだし、喜びも味わい、いつか死ぬからこそ命が輝くというものなのだ。と考えると、その誕生をもたらした親には「生んでくれたこと」に感謝し、自力で生きていけるようになるまで世話をしてくれたことにも感謝せずにはいられないのではないか。
 結局、親への感謝の念は、子どもが自らの「生」をどうとらえるかにかかっている。そして、子どもからの感謝の念は、親となった人間の「生」をこの上なく祝福してくれるのである。
 しかし一方で、日常生活は、生きる上で必要な諸々の雑事で満たされ、賽の川原の石積みにも似た、その同じことの繰り返しは徒労感で人を苛む。今週、私のストライキを受けて、3人の息子達は健気に家事に励んでいる。毎日毎日、食事を作り、風呂を沸かし、洗濯して干してたたんでしまって……どうだ? 面倒くさいだろう。飽き飽きするだろう。この徒労感を救うのは、感謝のひと言か、はたまた、適正な分担か。
 母の日が赤いカーネーションに彩られて無難に終わらなかったため、かえって家族が真面目に向き合うこととなった。今週末、家族会議が予定されている。感謝の強要より、もっと建設的な提案をしよう。

 

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作文はここまで。よくまあ書いたものだ、こんな恥ずかしいこと。しかし、これは確かに我が家のターニング・ポイントとなった事件。「家族会議」は本当に開かれ、建設的な提案をしたのは私ではなく、どちらかと言えば夫だった。以来、冷蔵庫には一週間の家事当番表が貼られ、曜日ごとに5人のやることが明示された。もちろん、5分の1ずつというわけには行かないが、それまで私が一人でこなしてきた家事を家族が分担するようになったことは大きい。働き盛りの夫は主に週末のシフトに入り、息子たちはサッカー部で疲れていようが、受験生だろうが、日々の洗濯や皿洗いをやるようになった。でなければ、そのうち新聞社のアルバイトから正社員に転換した私が働き続けることはとてもできなかっただろう。

時は移ろい、私は会社勤めとは働き方を変え、息子たちもそれぞれ巣立って行った。夫も近々定年を迎えてライフシフトを考える時期に来ている。

そう言えば、昨年の母の日の記憶がないと思ったら、ちょうど海外取材に出かけていたところだった。イタリアのヴェネツィアからアメリカのクリーブランドへ回る旅なんて当分できそうにない。予想もつかない形で世界は激変する。

コロナ禍の影響で在宅勤務が増え、家族が一緒にいる時間が長い故のストレスも高まっているようだ。家族構成や家事分担によっては、さぞ大変だろうと思う。母の日の夜中に妹から来たLINEを見ると、13年前に私が実家の母と電話で話したのと似たような内容だった。それまで実家を頼りながら上手に家事をアウトソーシングしながらバリバリ働いて来た彼女は、却って家族と向き合う機会を逸していたのかもしれない。

あの時、鬼の形相だったに違いない我が身を振り返ると恥ずかしいし、その後も至らないことだらけだが、共に暮らす家族から逃げたり我慢し過ぎたりすることだけはなかった。

当日の夕方、家族LINEに夫が書いたメッセージが傑作だ。

「3人一緒にいいことしたねぇ。お母さんもお喜びやで」

 

そして、ダメ娘は自分の母には何もせぬまま、母の日の翌日になって電話をかけたのだった。人生100年時代?!自分の心に正直に。そして、感謝の気持ちを忘れずに。

 

 

(※以前のブログ@ココログで「母の日事件」を振り返ったことがあったが、なんと、niftyを解約した時にうっかりバックアップを忘れ、他のブログ記事もろとも消えてしまった。ネット記事というのは危ういものだ。幸い(?)元のワードファイルがあるので、ここに残しておこう。母の日は「母の日事件」記念日なのである。)