よろず編集後記

よろず編集者を目指す井内千穂のブログです。

浪江町を歩く 〜2020京都発ふくしま「学宿」その7

ここ数年、ご縁あって中高生のスタディツアーにたびたび同行させてもらっている。毎度、盛りだくさんなプログラムで、いずれも学びの刺激に満ちていたが、何と言ってもその醍醐味は、生徒たちが日常を過ごす家や学校を遠く離れ、仲間と一緒に未知の土地を自分の目で見て肌で感じる「旅」に出る、そのことにある。

今回のツアーではとくに「現地の大人との対話」に重点が置かれ、それぞれ貴重な対話の場だったし、生徒同士の話し合いも大いに盛り上がったが、プログラム終了後の帰路、多くの生徒が「印象に残ったこと」に挙げたのは「浪江町フィールド学習」だった。やはり、バスから降りて自分の足で歩いた浪江町の姿は強烈な印象を残したようだ。

 

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2月23日、新福島変電所で東京電力との対話を終えてから富岡ホテルで昼食。JR常磐線の富岡駅前にホテルができたのは2017年10月とあるから3年近く経っている。私が初めて浜通りを訪ねた2016年春には、まだ駅舎が津波で流されたままの状態だった。新しい駅舎ができ、復興住宅には少し人の気配がある。毎年少しずつ変わっていく。

さて、バスはまた国道6号線を北上。車窓からの風景を見ながらコーディネーターの菅野孝明さんの解説を聴く。

  「ここから帰還困難区域です。警備員が立っています。先ほどと状況が一変していると思います。横道にそれる道路には全てバリケードをして、自由に立ち入ることができないようになっています。建物も、9年前の3月11日のあの時の地震以来の状況が目に飛び込んできていると思います。これが帰還困難区域の現状だと思って見て行ってください。」

生徒たちから「うわー」とどよめきがあがる。

道路沿いのモニタリングポストは1.76μ㏜/h。菅野さんの説明では、復興のスピードを上げていくために、幹線道路には、線量が高い地域であっても除染をして自由に通過できるようにする「特別通過交通制度」が適用されている。

「帰還困難区域の中にはいくつかこういう場所があります。自由に通行できるようになって便利になりました。一方で、バリケードを張ることによって、帰還困難区域に住宅があって、年間30回、自宅に帰ることが許されている人たちは、いちいち国に鍵を開けてもらって中に入るという手間が増えました。」

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 「この先の道路の両脇をよく見てください。すぐ住宅が迫っている所。そこに鍵がかかったバリケードがずっと並んでいる様子を見ることができます。これだけ近くても、自由には立ち入りができません。帰還困難区域の中はこの状態になっているということをぜひ想像してみてください。」と菅野さん。

 

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このあたりは中間貯蔵施設。県内各地で出た除染の廃棄物を原発周辺に集めている。この日は三連休中だったが、平日は緑色のゼッケンをつけたダンプトラックが多数、この道路を通って中間貯蔵施設に運んでいく姿が見られるという。

 

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大熊町の中に入った。右手に中間貯蔵施設の一部が見える。道路沿いの表示は1.599μ㏜/h。奥に排気筒が1本見えているのが福島第一原発である。クレーンが多数並ぶ。排気筒の解体工事が遠隔操作で行なわれているところ。廃炉作業の安全確保のために、120メートルある排気筒を半分の60メートルまで高さを下げる。

※後日、解体が完了したニュースが5月1日付で流れた。

www3.nhk.or.jp

 

やがてバスは双葉町に入る。2月のツアー時点、全区域で避難指示が続く唯一の町だったが、2020年の3月4日、ごく一部が避難指示解除になった。帰還困難区域としては初めてである。浪江町に接しているエリアで、町の中心部ではない。「生活の場ではなく、産業の集積地。そして、東日本大震災原子力災害伝承館という施設ができるところになります。今年7月開館予定です」と菅野さん。

道路沿いの表示は、0.740μ㏜/h。

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双葉町の中も震災の時のままになっているところがほとんど。復興事業の進展に伴い、2か所のガソリンスタンドだけが営業しているが、それ以外は、店舗も何も再開できていない状況である。

次の坂を登りきると浪江町だと菅野さんが言った。還困難区域はここまで。ここから先は解除区域、つまり、除染が終わって人が住んでいいと言われている区域である。 

浪江町は、震災前の人口約21,000人。7,600世帯が住んでいた町である。東日本大震災津波によって182名が亡くなった。最大高さ15.5メートルの津波が沿岸部に押し寄せ、今なお31名が行方不明。毎月11日の月命日には、警察を中心に捜索活動が行われている。原発立地ではないが、原発事故によって全町が避難を余儀なくされた町である。町の面積の2割は比較的線量が低いということで除染が始まり、最低限のインフラ整備と除染の完了後、2017年3月31日に一部避難指示解除になっている。解除になって約3年が過ぎようとしているが、町内の居住人口は約1,200人。元の人口の6%程度にとどまる。

まもなく、JR常磐線浪江駅が見えてきた。 

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毎年少しずつ変わっていく浪江駅。しばらく経つと細かいことは忘れてしまうが、初めてここを訪ねた2016年春、駅の建物が震災当時の時刻のまま閉ざされ、駅前のロータリーに面して、地震で傾き、今にも倒れそうな建物がかろうじて建っていたことを覚えている。無人の町に自分たちだけが佇む異様さが怖ろしかった。その時点で放射線量は高くなかった。しかし、あたりには人っ子一人いない。何かがひどく間違っていると思った。間違っているのは原発事故なのか?事故への対応なのか?両方なのか? とにかく人が住んでいない。いたたまれない気持ちになったものだ。

 

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駅前でバスを降りて、生徒たちと一緒に駅前界隈の通りをひと回り歩いてみる。いまだに道で地元の人とすれ違ったことはないが、郵便局の前に自販機があるだけで、少し人の気配を感じる。この自販機、昨年もここにあっただろうか?

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角のホテルなみえは主に工事関係者が利用している由。

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浪江町立浪江小学校。2011年の震災後、全町避難により休校となり、5か月後の8月に町内の6校を当校のみに再編をした上で二本松市の仮校舎で学校活動を再開した。震災前は500人の児童が在籍したが、県外避難の影響などにより2012年度の児童数は30人に激減した。2018年4月に開校した浪江町立なみえ創成小学校への統合により、2021年3月末に閉校予定である。震災以来使われていない立派な校舎が物悲しい。
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あちこちで建物の解体工事が進む。

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生徒たちはまだ解体されていない建物に近寄って覗き込んでいた。

 

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一見、地震に耐えたように見える建物も、中の物が倒れたり落ちたりしたまま放置されて今日に到る。「うわ~見て!中はグチャグチャや」と一人の生徒が声をあげた。

 

ひと回りして、浪江駅で再びバスに乗り、沿岸部の請戸地区に向かう。

町内の請戸川を渡る。昨年10月の台風の時には堤防すれすれのところまで水が上がり、一部浸水区域も出たが、それでも堤防の決壊は免れ、被害は比較的少なかったそうだ。

2011年の震災の時、請戸川の川沿いは国道6号線付近まで津波が上ってきたと言われている。

 少しすると広大な農地が見えてきた。

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 昨年、復旧事業が終わり、今年からはこの田んぼで作付けが少しずつ再開されていく予定。ただ、こういう中に除染の仮置き場もまだある。津波の影響はこの辺まで来た。だいたい沿岸から1キロから1.2キロまでは影響があった範囲だと菅野さんは言った。

 

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煙が出ている大きな建物は、仮設の焼却施設。国(環境省)の管轄だ。町内で出たがれきを分別して、燃やせるものは燃やしてごみの量を減らしている。

「この道路の両脇は、震災から2年半、がれきが積まれたまま、田んぼの上には漁船がゴロゴロと打ち上げられたままになっていました。請戸川の河口が見えてきました。左手に白と青の建物、マリンパークという旧・観光施設です。あれ、3階建てです。あの上を津波が乗り超えてきたと思ってもらえればいいです。海水面からの最大高さで15.5メートルです」と菅野さん。

「今みなさんは、いちばん被害が大きかった請戸地区というところに入ってきています。この右手は、先ほど同じ田んぼだった場所ですね。約9年間、何の手も入っていないところです。そして、ちょうどこの辺りからですね、道路の両側には約500世帯、住宅がびっしりあった場所です。」

 

堤防の高さは、元々あった高さより1メートル嵩上げして、7.2メートルの高さになり、ほぼ完成した。

 

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請戸漁港に寄る。2019年10月に左側にある市場が完成し、今年4月からここでせりが始まり水揚げが始まることが決定をしている。請戸漁港には元々94艘の船があった。現在は3分の1の規模だが、ここで試験操業、操業を再開している。

 ここでバスが向きを変え、正面に福島第一原子力発電所が見えてきた。直線距離でわずか6kmという。

「それだけ近くても風の影響によって、原発が爆発した時の放射性物質が濃度の高いところは、あそこから北西方向に向かいましたので、請戸地区はもちろん半径6キロと非常に近いんですけども、ここから遠く離れた福島市とかよりも線量がずっと低かったんですね。もちろん、何があるかわからないという距離ではあったわけですけども、避難をしなくてもいいぐらい線量は低かったわけです。ただ、この地域では特別な状況が起きました。それは何かというと、自然災害が先で住宅を失い、その後の原発事故で避難となりました。その順番によって、この地域の方々は、東京電力による原発事故の建物に対する賠償金はゼロなんです。いつ帰れるのかわからない。そういう状況もあって、みなさん、帰る場所をどうするか悩みましたけど、生活再建資金を確保していくためにも、もう『この地には住まない』ということを決断して、町に土地を売って、そのお金を元に生活再建していく道を選びました。651世帯がすべて移転対象となりました。5カ所のコミュニティがありましたが、それが全てなくなる地域です。」と菅野さんは語った。

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やがて、沿岸部にポツンと残る請戸小学校が見えてきた。 

 

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学校の時計は3時38分で止まったまま。津波が校舎を襲った時刻である。

震災当日は卒業式の練習中だった。「津波が来るぞー!」という知らせを受けて、1.5km歩いたところの大平山の高台に逃げた児童82名が全員助かった。

 

※「請戸小学校物語」完成を伝える5年前の記事。ぜひ見てみたい絵本だ。

www.huffingtonpost.jp

 

2019年3月、請戸小学校の校舎は福島県初の震災遺構として保存されることが決定した。

 

子どもたちが歩いて逃げた大平山へバスで向かう。 

「右手に見えているのが、町内のがれきを集めて分別作業を行っている場所です。分別作業を行って燃やせるものを先ほどの焼却施設で燃やしています。後片付けをまだまだやっている場所ですね。そんな中で、今朝の新聞にも載っていた明るい話題の一つです。正面右手のほうに見えてきた建物にSHIBAEIって書いてありますね。」 と菅野さん。

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4月に請戸漁港の再開と共に、ここで水産品の加工が始まる。昨日お披露目された。元々いた水産業者の柴栄水産が戻って来る。

正面左手に大平山霊園が見えてきた。バスを降りる最後のポイントだ。

この高台は整備はされていなかったが、「高い」ということで、元々一時避難場所に指定されていた。以前の墓地は津波で流されてしまい、この高台に新しく作られた霊園である。2017年に建立された新しい慰霊碑には、犠牲者182名の名が刻まれている。津波は大平山の手前まで来たという。

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請戸小学校の子どもたちはこの高台に逃げて全員助かり、たまたま6号線を通りかかったダンプの荷台に乗せられ救助された。避難経路通りに逃げれば必ず命が助かるとは限らない。当時、津波がこんなところまで到達するとは想定されていなかった。

昨年のスタディツアー浜通りには珍しい雪模様の寒い日だった。大平山に着いた頃には暗くなりかけていたせいか、男子生徒の一人が「遺跡のような所」と言ったのが印象に残っているが、今年は天候に恵まれ、午後の陽光で同じ霊園でもずいぶん違って見える。元気な男子生徒たちは、高台の下に降りてみて、ここまで駆け上がるのに何秒かかるか試していた。ほんの数秒が生死を分けた。

震災直後の原発事故による避難指示により、救助活動を断念せざるを得なかった無念の話を聞くたびに胸がつまる。

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コロナ禍の影響が本格化する直前の2月下旬。ぎりぎりの決断でよく行ってきたものだと改めて思う。

まだまだ人の気配が少なく、震災直後のままの建物も多い浪江町で少しずつ建物の解体作業が進む有り様も、大平山霊園から見渡す沿岸部のスケール感も、この場に実際に来て、歩いて、覗き込んで、見回してみたからこそ感じることがある。どんなに秀逸な映画でもテレビ番組でも、ましてや活字の記事や書物でも、この風や光や匂いを体感することはできない。そして、この体感こそは人を動かすのではないか。

コロナ禍によるオンライン化は世の中の趨勢であり、メリットもポテンシャルも大きいのはわかっている。それは積極的に活用すればよいし、そうせざるを得ないだろう。一方で、どんなオンライン・コンテンツにも代えられないリアルの「旅」を再び実施できることを願ってやまない。(続く)