よろず編集後記

よろず編集者を目指す井内千穂のブログです。

福島民報の話を聞く ~2020京都発ふくしま「学宿」その8

現地の大人との対話に重点が置かれ、生徒たちによる情報発信に期待する今回の福島ツアーの中でも、地元紙 福島民報のベテラン記者との「情報発信についての対話」は、生徒たちの関心の高さが感じられるセッションだった。 

2月23日、朝から盛り沢山だったスタディツアー2日目。浪江町で何か所かバスを降りて歩き、大平山霊園を後にした一行は再びバスに揺られて夕刻、宿泊地「いこいの村なみえ」に到着した。到着早々この日最後の対話セッションに入る。語り手は福島民報社 地域交流局 地域交流部長の渡部育夫さん。 

冒頭、「みなさん、ようこそ浪江までおいでくださいました」という渡部さんの挨拶に応えて生徒たちは「よろしくお願いしまーす」と声をそろえた。朝から次々のプログラムを経ても元気だ。

福島民報は創刊128年。震災前には約30万部の発行部数があったが、避難の関係で23万部ぐらいまで落ち込み、そこから徐々に回復した現在の発行部数は約24万部とのこと。震災当時、機械が壊れるなどの被害を受けたが、休まず発行を続けてきた。

この日、車で1時間半ぐらいの福島市から駆け付けた渡部さんは、震災前に4年間、富岡町の支局に勤務した経験があり、原発なども担当。9年前の震災で原発事故が起きた時は、水素爆発の映像を福島市内でテレビで見ていた。その瞬間、思い出深い土地のたくさんの友だちやお世話になった人たちの顔がワーッと浮かび、言葉にならない衝撃を受けたという。

「昨日からいらっしゃって、どういうふうに福島を見られたか、みなさんそれぞれの思いがあると思います。復興が進んでいる部分もたくさんありますし、今日行かれた請戸小学校のように時間が止まったままの部分もあり、まだまだ課題もたくさんあって、言ってみればまだら模様みたいな、そんな感じかなと思います。」

 

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画面は震災翌日2011年3月12日付の福島民報の紙面。地震の被害が大きく、道路がずたずたに寸断されたので、本当はいつもよりたくさんの情報を伝えなければならないところだが、〆切を早くせざるをえなかった。原発事故の話はほんの少し。

「これ、一面なんですけど、原子炉の圧力が上がったということを扱っただけで、あとは津波の話。死亡も45人という段階で、津波の被害を受けた所でも届けられる所には届けました。」

翌3月13日の新聞。当然、津波地震の被害も甚大だったが、福島県では原発事故のニュースが大きく取り上げられ、以来ずっと原発事故に関するニュースが今日の新聞にも載り続けている。

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「その翌日(3月14日)の新聞では、相当な数の人々が避難をしなければならなくなったことを伝えました。」

福島県の避難者は最も多い時で約16万人だった。現在は約4万人。

「16万から見れば4分の1に減っていますが、10年近くも経つのに4万人の方がまだ避難している。で、そのうち1万人ぐらいは福島県内で避難をしている。これに対して3万人ぐらいの方が福島県外。すべての都道府県にいます。ちなみに京都には250人福島県の方が避難という形で移って、お世話になりながら生活をしているということです。」

福島県仮設住宅に住んでいる人は多い時で3万人ぐらい。今はもちろん減っているが、9年も経つのに今なお100人以上の人が仮設住宅で暮らしている。

仮設住宅というのは本来1年か2年という想定で造っているものですが、そこに9年間も住み続けているというのは日本では今まで例がないような状況かなと思います。」

続いて震災の犠牲者について。

東日本大震災で亡くなった人は、岩手県宮城県にもたくさんいるが、福島県に関しては、今年の2月現在で”直接死”と言って地震津波の被害で亡くなった人が1,605人。それに対して、津波地震で直接亡くなったのではなくて、避難を強いられたことによって体調を崩したり、病気が悪化したり、あるいは自殺をしたりという”関連死”と呼ばれるものが2,302人。関連死のほうが直接死より多い。 

「それが福島県の特徴。これは震災の翌年、この浪江町でスーパーを経営されていた方が自ら命を絶ってしまったということを伝えた新聞です。この時点で、震災の発生から1年以上経っているんですけども、その方はいつ商売を再開できるんだろうということを常々家族や知り合いにため息をつくように言っていたと。しかし、その望みが叶わず亡くなってしまった。このような自殺に関する記事などもたくさん当時、我々は出さざるをえなかった。このような方がたくさんいらっしゃって、原発事故の影響によると思われる自殺が福島県内で100人以上いるんですけども、直接死に比べて関連死というのは本当に原発事故が原因なのかどうか、特定がなかなか難しいケースもありまして、遺族の方が悲しむだけで、うやむやにされるというようなこともあります。」と渡部さんは語った。 

福島民報では、自殺などの関連死に国や東京電力がしっかりと目を向けてくれるよう、連載を通じて継続的にキャンペーンを展開している。

原発事故直後、ある大物国会議員が「福島県では、今回の原発事故で亡くなった人はいない」と発言したことがある。

「確かに原発事故によって、その原発から出た放射線の直接の被害によって亡くなった方はいないかもしれない。ですけども、避難生活を強制されることによって一体どれだけ多くの方が命を落としたのだろうか? おそらく、さっきお伝えした2,302人よりも多いはずですし、そういうところをしっかり見据えて対策を進めてもらわないと復興というのはなかなか進まないんじゃないかというふうに思っています。」と渡部さん。

 この9年間、風評や偏見という問題にも地元記者たちは胸を痛め続けてきた。避難した福島県の子どもが『放射線がうつる』などと、避難先の学校の子どもたちから全くでたらめな言葉を浴びせつけられていじめられたとか、あるいは、福島県の人との結婚を親が許さなかったとか。また、福島県外の大きな花火大会で使う予定だった花火が福島県で作られた花火だったため、市民の抗議によって花火大会が中止になってしまったとか。本当にいろいろなことがあった。

「風評の問題についても、このような記事によるキャンペーンを展開しました。全国に避難した方や福島県出身の方、あるいは、全国各地の地方紙と協力し合って、正しい理解を進めるキャンペーンを続けています。」

風評による被害の大きなものの一つが食べもの。つまり、福島県のものは危ないから食べない、買わないというような問題だ。「福島のものを積極的に食べて福島を支援しよう」という温かい支援が全国各地であり、理解はずいぶん進んできている。

「ただ、今もなお米の値段が下がってしまって、これは、米を作る農家や業者が困っているという記事ですが、米が売れないから値段を下げるしかないと。あと、福島県産の牛肉というのは、品質が良くて結構有名だったんですけど、これも値段が下がったまま戻らなくなって、農家のみなさんが苦しんでいるという状態が今も続いています。」

福島県の食べ物は輸入しないという近隣国もまだある。

「ちなみにこの記事は、風評というものが一体どこから発生して、どのように広まっているのか?ということがなかなかわからなかったので、それを調べて、米だけじゃなくて魚とか肉とか、テーマごとに連載をしました。3年前ぐらいです。そういう中で、福島県の食べ物はちゃんと検査をしているから安全だなんていう記事を出しますと、電話がかかってきます。『お前ら責任とれるのか!』というようなお叱りの電話が、これも数え切れないほど、私たち新聞社にありました。」

放射線についても、新聞では今も毎日のように数字を載せているが、「政府の言いなりになって、事実よりも低い数字を出してるんじゃないか」という苦情の電話がかかってくる。今はずいぶん減ったが、この9年間、たくさんの苦情電話が県外からもかかってきた。

放射線量についてどういう印象を持っているかわかりませんが、たとえば、この浪江町で、先ほどみなさんが行かれた請戸小学校のあたりからは第一原発が見えます。10キロもない。あそこは、あんなに近いんだけど、放射線量が0.08μSv/hぐらいです。昨日、京都の放射線量をホームページで見たんですけど、京都府庁で0.07μSv/hでした。だから、ほぼ同じぐらいの線量です。もちろん、高い所はまだ高いですが、浪江町のように原発に近くても、それぐらいの線量で、今そうなっているだけでなくて、ずっと前から低い所もあるということです。」と渡部さんはデータを示した。 

また、風評と同じように、福島県内と県外で人々の思いが違うだけでなく、同じ福島県の中に住んでいる県民同士でも、この記事のように、住んでいる場所によって原発事故の損害賠償に差があるなど、“心の分断”というような状況も一つの問題だった。たくさん避難者が引っ越してきたせいで、病院の待ち時間が長くなってしまったとか、「もういろんなところで心の分断のようなものが起きてしまったのもまた残念だなというふうに思います」と渡部さんは振り返る。

「とにかく、暗い記事がどうしても多くなりがちだったんですけども、そんな中でも決して真っ暗にはしないで、前向きな記事をしっかり伝えていこうということで、『ふくしまは負けない』というコーナーがあります。今日の新聞にも、みなさんも行ってきた請戸漁港の新しい市場がオープンしたと。あとで見てください。みなさんと同じような中学生が書いた記事も載せています。そんな感じで前向きな動き、明るい動き、あるいはこのような子どもの表情。暗い中でも笑顔はある。それを伝えようじゃないかということで、努めて真っ暗にしないで取り上げてきました。」

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地元の報道機関としての福島民報のスタンスとして、渡部さんは「3つのR」を提示した。

  • Report:知るべき人に知るべき情報を
  • Record:後世のために歴史を記録する
  • Review:多様な視点や論点を提供する

「こういうようなスタンスで報道を続けていますけど、”県民のために”というのが我々の立ち位置です。当たり前かもしれませんが、”被災者の目線で”ということをニュースの切り口にしている。それを折に触れて胸に刻みながらやってきたということです。」と渡部さんは語った。

この浪江町もそうだが、避難しなければならない区域はかなり減った。この3月には、双葉町で3月4日、大熊町で3月5日、富岡町の桜並木で有名な夜の森地区は3月10日、それぞれの一部だが避難指示が解除されるという動きがあった。まだ全住民が避難を続けている双葉町も一部避難解除になり、住民が戻るまでにはまだ時間がかかるだろうが、鉄道が通る駅前や、ある一部の地域については工場が稼働しホテルができる。

この浜通りを南北に貫くJRの常磐線。東京や仙台とつながる、住民にとっては非常に重要な鉄道が3月14日に再びつながるという動きもあった。

「この浜通りは震災が起きるまで、原発がいちばん大きな産業であって、ものすごい数の住民が原子力発電所になんらかのつながりを持ちながら働いて、ものすごい数の企業が原発に関する仕事を担っていました。その原発が福島に2つありますけども、事故を起こしていない第2原発のほうも廃炉が決まりまして、ならば新しい産業をどうやって育んでいくんだ、働く場所をどのように確保するんだということが大きな課題です。」

その中の打開策が「福島イノベーション・コースト構想」。東日本大震災及び原子力災害によって失われた浜通り地域等の産業を回復するために、新たな産業基盤の構築を目指す国家プロジェクトである。この浪江町には世界最大級の再エネ水素製造拠点である「福島水素エネルギー研究フィールド」が2020年3月にオープンした。東京オリンピックパラリンピックを始め、この水素が様々な場面で活用されるという。また、浪江町の北に隣接する南相馬市には、ドローンなども含め災害の時に活躍するようなロボット技術を開発する「福島ロボットテストフィールド」という拠点ができた。これもオープンしたばかりだ。

その後のコロナ禍の影響拡大で事態は激変したが、このツアーの時点では未来のことだった3月26日には東京オリンピック聖火リレー福島県からスタートする予定で、震災の年のワールドカップで優勝したなでしこジャパンのメンバーがスタート地点のJヴィレッジから走るはずだった。競技についても、全競技のスタートとなる女子ソフトボールの開幕が7月22日、また、野球の開幕戦も7月29日、いずれも福島県内で行われる予定だった。「震災で傷ついた福島の復興を世界に見せたい」というメッセージを強く打ち出したことが東京オリパラ誘致の一つの大きなポイントになったわけだが、復興はまだまだ「まだら模様」と表現した渡部さんは複雑な心境を語った。 

震災と原発に関して、福島県内外のメディア報道の違いについて話してほしいと学校側からリクエストがあったそうだが、「はっきり違いがあるかということは簡単には言えないと思います。」と渡部さん。

福島民報を含めて、そもそもメディア・報道機関は、”外からの目線”と言うか、非日常的な出来事、たとえば津波で大勢の方々が亡くなったとか、火事とか交通事故とか殺人事件とか、新型コロナウイルスもそうだが、日常的に常にあるものではなくて、非日常的に発生したことに飛びつく。それがニュースである。それを伝える。というのがそもそもの報道機関の習性であって、それは福島民報も同じだ。非日常には明るい非日常も当然あるわけだが、明るいことではなくて、どちらかというとネガティブなことにスポットを当てる傾向がある。

「でも、私たちが震災で痛感したのは、”内からの目線”と言うか、非日常だけじゃなくて、日常もニュースだということです。たとえば、浪江町のすべての住民が避難をしなければいけないということ、これはもちろんニュースですが、一人でも二人でも、戻ってくる人が少しずつ増えています。まだ少ないけれども、故郷で日常が戻って来たということもしっかり取り上げることが大事なんだなということをすごくこの震災で感じました。」

もう一つ感じたのは「事実と真実は違う」ということ。

「先ほど『原発事故で誰も死んでいない」』という政治家の言葉を紹介しました。これは事実だと思います。事実なんだけども、真実はどうなのか?原発事故さえなければ生きながらえていた命がどれだけあったのかということを伝えなければならないというふうに改めて感じました。」

ただ、注意しなければならないのは、良かれと思って報道したことが逆効果だったという場合もあることだ。たとえば、賠償金を受けられる範囲が広がって一歩前進したというようなニュアンスで記事を書けば、その対象にならない人や内容に納得がいかない人もいるわけで、記事が分断を誘発しかねない。

「あるいは、これは記者の基本中の基本ですけども、みなさんも気をつけたほうがいいのは、思い込みというのはものすごく危険だということです。たとえば、避難した人が自分の家に少しでも早く帰りたいだろうというふうに、避難をしていない私たちは思いがち。なんとなく感覚として、『帰りたい』はずだと思いますが、実際に避難していた人に取材してみると、必ずしもそういう人だけではなくて、子どもの受験を考えると帰るのは難しいとか、新しい仕事がもう成り立っているからとか、いろいろな理由で帰る意思のない人も相当数いることが、話を聞いてみるとわかる。『帰りたい』はずだという自分の頭の中の常識や知識だけで絶対に判断してはいけないと。直接話を聞くことが大事だというのがこの震災を通じてよくわかりました。」

たとえば、避難指示が解除されて1年経った町があり、そこには住民の1割が戻ってきて、9割が戻っていないというような状況があったとする。ある新聞は「住民の9割戻らず」という取り上げ方をする。それに対して、別の新聞は「住民の1割戻る」という見出しで取り上げる。どっちももちろん正しい。

「どっちも正しいんだけど、①9割戻らない、つまり、非日常のものが9割続いているということの方にスポットを当てるのか、それとも、②少しなんだけど町民の1割が帰ったというほうにスポットを当てるのか?全国紙だから①、福島県内の新聞だから②ということは簡単には言えないと思います。少なくとも私たちは②を心がけるようにしています。たった1割かもしれないんですけども、人っ子一人いなくなってしまった町に、一人でも二人でも戻ってきて暮らしが戻る。先ほどの『日常というのがニュースなんだ』ということで、ほんの少しの変化でも復興に向けての大きな前進だというような思いで新聞を作っています。」

「これから3月11日にかけて、テレビなども含めて、震災から9年経つ被災地の様子がいつもよりもたくさん報道される時期です。で、3月11日を過ぎたらまたそういう話題を取り上げることが少なくなりますが、私たちも批判は決してできなくて、1995年の阪神淡路大震災の時には関西のみなさん方のところよりも私たちのほうが冷めるのが早かったというのは事実だと思います。人の心理としていわゆる”風化”というのは避けられないものかもしれません。ただその風化を少しでも防いで、最近も台風や大雨がありましたが、そのような災害がいつ何時起きるかわからないという状況が今までより強くなってきたと思うので、私たちはそれにしっかりとした対応をするためにも地道に伝えていかなければならないと思っています。」 

福島民報社は新聞社で、確かに主力商品は新聞に違いないが、震災後、「あなたの会社はどんな会社ですか?」と聞かれたら、「地域づくり会社です」と答えるということが社員で共有されているそうだ。たとえば、中学生以上を対象とした公募で「ふくしま復興大使」を今までに244人に委嘱し、京都を含めすべての都道府県に、さらにイギリス、フランス、アメリカ、台湾など海外にも派遣し、いろいろ支援をしてもらったことに対する感謝を込めて今の福島の状況を県民の思いも含めて伝えている。また、「ジュニア・チャレンジ」というプロジェクトを昨年から始めた。小学生以上の子どもたちに地域づくり、地元を盛り上げるために実際やっていることやこれからやりたいアイデアを募って表彰するものだ。ものによっては一緒に実現させることも。震災の後に生まれた小学生でも、復興途上の福島で、自分のふるさとをなんとかしたいという意識が強いという印象をこうした取り組みを通じて感じていると渡部さんは語った。

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「復興って、まだ道半ばですけど、その中で先ほど言った風評などの課題も含めてクリアしていくのにものすごく大事なことは、今まさに、みなさんにここにおいでいただいたように、来てもらうこと、実際に見てもらうこと、感じてもらうこと。それがものすごく大きなことだと思っています。それが何よりの力になる。良いことばかりじゃないと思いますけど、京都に帰ってからもお互いにいろんな方に話していただけるといいなと思います。」
そして、福島出身の作曲家 古関裕而がモデルの朝ドラが始まることや、福島の日本酒は金賞受賞銘柄数が日本一多いことをして渡部さんは話をしめくくった。(続く)