よろず編集後記

よろず編集者を目指す井内千穂のブログです。

晩秋のマラ9 ~セイジ・オザワ松本フェスティバル30周年記念 その①

どうも信州に縁があるようで、中学校の修学旅行、家族旅行、学生時代の農協でのアルバイト、最初の職場のスキー旅行、新聞社での取材など、何かと訪ねる機会が多いエリアだったが、晩秋の信州は初めてだ。中央線の車窓から見える枯葉色の山並みの向こうに、異次元に荘厳な雪山が現れて息をのむ。富士山がこういうふうに見えるのか! これから聴きに行く音楽の予告編のようだった。

サイトウ・キネン・フェスティバル松本が始まったのは1992年。華々しかったに違いないそのオープニングを残念ながら私は知らない。ちょうど仕事を辞めて夫の赴任先に同行した夏だった。スマホどころかネット以前の時代、幼い長男を抱えての外国暮らしに慣れるのに精いっぱいで、日本の新聞などほとんど見ていない。

のちに英字新聞社で音楽の記事を書き始めた頃、初めて松本のフェスティバルに行ったのは2008年だった。だから、今年30周年を迎えたフェスティバルの歴史の中で後半(の一部)しか知らないわけだが、それでも、サイトウ・キネン・オーケストラの演奏をたびたび聴き、記事を書く機会に恵まれた幸運には感謝するほかない。

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直近の記事は、小澤征爾氏の愛娘で2020年にサイトウ・キネン・オーケストラの代表に就任された小澤征良せいら)さんへのインタビュー。オーケストラへの思いとフェスティバルをしっかり守っていきたいという決意を語っていただいた。

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そんなわけでこの夏は久々に松本を訪ねた。さらに11月、30周年記念コンサートも聴きに行けるとはなんと有り難いことだろう。しかも演目はマーラー交響曲第9番なのだ。

大学時代、学生オケ三昧のきっかけになったのが、入学式で聴いたワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー前奏曲」の祝典演奏だったとすれば、マラ9は学生オケでの日々をしめくくる最後の演奏会だった。

chihoyorozu.hatenablog.com

 

開演前、キッセイ文化ホールの客席で私は必要もなく緊張していた。微かなチェロから始まる第1楽章の入りの緊張感を思い出して身体に力が入る。ハープの弦がはじかれ、遠い角笛のようなホルンがちゃんと鳴り(あたりまえだがさすが!)、子守歌みたいな甘美なメロディが流れ出して、ようやく力みが抜けた。

うっとりする間もなく曲はどんどん変容していく。ああ、そうだったそうだった。さまざまな楽器が代わる代わるテーマの断片を気持ちよさそうに歌う。セカンドヴァイオリン、ホルン、コールアングレ、ファーストヴァイオリン、クラリネットオーボエ、フルート、トランペット……とても追いきれない、めくるめく展開に見事なソロの連続。ティンパニまでが旋律を奏でてハッとするが、考えてみれば驚くに当たらない。なにしろカッコいい役だ。しかし、主役でいられる時間は長くは続かず、次々とその座を他の楽器に受け渡し、絶えず絡み合い、時にぶつかり、そして溶け合い、あちこちで何事かが為されている複雑なサウンドが立ち現れてくる。何がどこにつながるかわからない。複雑なこの世の中がそうであるように。

トランペットが高らかに響き渡る青春の歓喜がいつまでも続いてほしいと、大太鼓とシンバルが盛り上げる願いも空しく、浮き沈みの激しいジェットコースター人生は一気に奈落の底へと突き落とされ、トロンボーンが絶叫する。そこは亡者が蠢き恨み節をつぶやく地獄なのであった。葬送行進曲と子守歌が入り混じる。葬送の鐘が鳴る中、トランペットの不吉なファンファーレに呼応して弦楽器群が決然と増幅する旋律がホールを切り裂く時、戦慄しながら悟るのだ。生まれ落ちた時からいずれ死ぬことは決まっていると。子守歌は生まれてしまった子どもを慰めるためのものなのか……。

第1楽章ですでに人生が終わったような気がするのに、続く第2楽章はなんとも俗で脳天気。いや、それでいいのだ。楽しいし、時々甘美だし、世界も人生もそれでオッケーというふうに聴こえる。それは死すべきさだめの人間が、悪あがきしながら精いっぱい生きている姿ではないか。ファゴットやホルンがドレミファソッソッなんて冗談のような音階を繰り返し、ティンパニがバンバン叩かれ、酔っぱらいのようなクラリネットに乗せられて一同狂ったように踊りだす。ええじゃないか、ええじゃないか!

第3楽章も違った意味で俗っぽい。勇ましいような不穏な、何の行軍か。しかし、やっぱり全部冗談ですと言っているようなパッセージを集団で激しく弾きまくる弦楽器のダウンの弓使いが鬼気迫り、トライアングルやグロッケンの澄んだ金属音が冷たくきらめく。そんな冗談が続くのかと思っていたら、突然崇高な感じになって何事かと驚く。なになに?急に美しいではないか。俗世に突如現れた天の啓示か?それとも若くて純粋だった頃の理想みたいなものを急に思い出したということ?・・・いやいや、そんな夢想は霧散し、一段と狂気の度合いを増したイケイケドンドンが最後は猛烈に走り出し、弦も管も打楽器も滅茶苦茶な勢いのまま幕切れ。

そして第4楽章。

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これはもう異次元……崇高な美しさにひれ伏すしかない。まさに車窓から遥かに仰ぎ見た雪の富士山のようだ。いつもそこに在りながら、なかなか見えず、ましてや登ることなど叶わぬ冬山の頂は神々の居所。日々憧れつつも、この世に別れを告げなければ辿り着けない彼岸の境地である。世俗の第3楽章で一瞬垣間見えたその何かに向かって、もはや冗談を言うのは止め、魅せられたる魂はゆっくりと彼岸に近づいていく。ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスの弦が熱く擦られ、重なり合った轟音がうねり出し、木管金管も加わって一つになる。聖なる和声の妙なる響きに心を合わせる奏者たちの渾身の姿が神々しくて、同じ人間として胸が熱くなる。人間って、こんなことができるのか! クライマックスに向かって大太鼓の地鳴りが最大音量に達した頂点でシンバルが炸裂し、抗い難く涙腺が決壊する。休符ばかりの楽譜の意味を疑いながらじっと耐え、要所ですっくと立ち上がってホールの床まで震わせる大太鼓が、ここで登場するのだ。私はあんなに重要な、大それた役割を担っていたのか……涙が止まらない。

末尾はゆっくり、やがて消え入るように、生まれる前に戻るように、音は彼岸へと去った。アンドリス・ネルソンス氏の手はなかなか下がらない。静寂がホールを満たす。

……なんという音楽。

サイトウ・キネン・オーケストラの演奏でこの曲をもう一度聴くことができたとは、なんという巡り合わせだろう。ホルンのデレク・バボラ―ク氏やフルートのジャック・ズーン氏をはじめとする超一流のソリストたちの妙技に痺れ、まさに「野球で言えばオールスター・ゲーム」(マエストロ小澤征爾の元マネージャー平佐素雄氏の言)である。また、それぞれの弦を擦る弓の動きが身体も楽器も揺らさんばかりの弦楽奏者たちの大合奏のうねりが胸に迫る。まさに「全員全力投球」(これも平佐氏)なのであった。アンドリス・ネルソンス氏はそんな音楽家たち一人ひとりの力を存分に引き出す的確なキュー出しに徹しつつ、共に高みを目指す指揮ぶりだった。

鳴り止まない拍手の中、マエストロ小澤征爾がステージに現れた。娘の征良さんが車椅子を押し、孫息子君も一緒に。30年間大切に育くんできたフェスティバルとオーケストラへの思いを込めて、マエストロは客席に手を振る。この夜はマスクを外していたマエストロの万感の表情に、一同総立ちで拍手を送る。マラ9の第2楽章や第3楽章のような俗な世の中での毀誉褒貶を超越して、ひたむきに音楽の高みを目指し続けた人の姿がそこにあった。(続く)

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