よろず編集後記

よろず編集者を目指す井内千穂のブログです。

楽都松本の人々 ~セイジ・オザワ松本フェスティバル30周年 その③

2008年の夏に初めてサイトウ・キネン・フェスティバル松本に行くことができたのは、実家の母のおかげだった。

かねてより、世界のセイジ・オザワのカリスマ性を求心力に錚々たる演奏家が集結するサイトウ・キネン・オーケストラには、興味も憧れも大いにあったが、チケットはほぼ即日完売で入手困難と聞いていたし、松本まで出かけるのもなかなか大変なので、私には縁がないものだと思っていた。

ところが、思いがけず、そのサイトウ・キネンのチケットを母から譲り受けたのである。当時、ちょくちょく音楽の雑文を書き始めた私が、少し前に、大枚はたいてパリ国立オペラを観てきた記事を読んだ母は、「そういうことなら、これはあなたが行ってらっしゃい」と、自分が買ったチケットを郵送してくれた。まことに親というものは有り難い。

そもそも母がサイトウ・キネンの貴重なチケットを購入できたのは、松本在住の友人がいるからだ。松本市民枠というのがあるらしい。Y夫人はかれこれ50年来の付き合いという母の旧友で、私も学生時代に信州旅行の拠点としてご自宅に泊めていただいたことがある。このフェスティバルが始まる前の話だ。

2008年、母に代わって松本へやって来た私は、懐かしいY夫妻と実に20年ぶりの再会を果たした。Y夫妻に勧められるまま、コンサート前の腹ごしらえにと、とびきり美味しい信州の手打ちそばをごちそうになり、まだ時間があるからと、市内のご子息宅でお茶をいただいた上に、きっと駐車場がいっぱいだからと、ご子息の奥様に文化会館まで車で送っていただいた。とにかく、何から何までお世話になり、感謝するやら恐縮するやら。

Y夫妻は、サイトウ・キネンを初回から今年まで17回、毎年欠かさず、オペラもオーケストラ・コンサートも聴いてきたという。

1992年に初めて開催されたサイトウ・キネン・フェスティバル松本で「エディプス王」を観た時のことをY氏はこんなふうに語ってくれた。

「僕にとっては初めてのオペラだったんです。ジェシー・ノーマンの存在感に圧倒的されましたね。僕は別にクラシック音楽ファンではなかったけど、こんな凄いものを自分たちの町で生で聴いたら、これはもう来年も絶対聴きに行かなきゃと思ったし、実際ずっとそうしてきました。」

ぜひ来年もまた聴きたいと思わせる力がこうした新しいファンを育て、そういう積み重ねがあってこそ、遠方の友人も誘ってみようという話になり、巡り巡って私のところにもチャンスが来たのである。

エストロ小澤征爾の入魂の指揮がオーケストラから素晴らしい音楽を引き出し、聴く人の心を動かし、行動を促す。その行動は別の人にも影響を与えるかもしれない。いったんポジティブな連鎖が始まれば、それはどんどんつながって広がっていく可能性がある。

地元で技術力の高いベンチャー企業を経営していたY氏は、オーケストラの個々のメンバーの力を引き出し、全体をまとめ上げるようなリーダーシップにいたく興味を示しておられた。

2008年のコンサートの冒頭、小澤氏は、サイトウ・キネン・オーケストラの若い仲間であり、その年の初めにガンで亡くなったコントラバスの都筑道子さんに黙祷を捧げる旨を告げ、会場は水を打ったようにシーンとなった。目を閉じる。ステージ上の音楽家達と満席の聴衆が結集して沈黙をつくる。

こうして荘厳な沈黙から始まったコンサートの沈黙の緊張感は、2曲目の武満徹の「ヴィジョンズ」が終わった後にも感じられた。
「最初の頃はね、どこで拍手したらいいのか、係の人が合図してくれたのよ」
休憩時間にY夫人が笑いながら言った。
「さっきの曲みたいに余韻を味わいたいのもあるじゃない? 松本のお客さんもレベルアップしたのよね」
ちなみに、聴衆の半分強は地元の人達、あとは関東方面を中心に県外から来るらしい。

あの日、メインのマーラー交響曲第1番の演奏が終わって拍手万雷の中、「元気をもらったわ」と言っていたY夫人は元気にしておられるだろうか。

あれから14年。

2022年の30周年記念公演終演後、マエストロ小澤征爾は車椅子でステージに現れた。マエストロと同い歳である我が父も今では車椅子の身である。マラ9の終楽章がことのほか心に沁みた。

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終演後の夜半、私はとある蕎麦屋のカウンターで余韻に浸っていた。開演前には食べる時間がなかったので、手打ちの信州そばと、「季節限定」と張り紙がしてあった「信州きのこの朴葉焼き」というのをいただいてみたら、これが実に美味しくて、思わず地酒のちょい呑みも頼んでしまった。

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店の入口近くの壁にOMF(セイジ・オザワ松本フェスティバル)のロゴ入りTシャツのミニチュアが各色飾ってあってカラフルに目を引く。お勘定の時に、

「今このコンサートを聴いてきたんです。素晴らしかった…!」

と伝えると、朴葉焼きの食べ方やオススメの地酒を教えてくれた感じの良いその女性は、

「いいですね~ お店があるからなかなか聴きに行けないんですよ。うらやましいです」と言った。

松本市民に愛され、支えられ、遠方からも聴衆を引きつけるフェスティバルが、これからも続いていくことを心から願う。来年は母と一緒に聴きに来たいな……。(完)

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