父を見送って
父が亡くなって二週間。まだ心の整理がついたとはとても言えないけれど、東京の自宅に戻って久しぶりに近所の川べりを歩きながら、ようやく、少なくとも、自分を取り戻しつつある。
心配性で先々のことまで考えを巡らし、万全の準備をしないではいられなかった父は、もう何年も前から「終活」に取り組み、書置きをファイルとUSBにまとめていた。「ここにあるからな」と聞いたのはいつだったか。私が嫌そうな顔をすると、「いや、大事なことなんや」とたしなめられた。お正月に私たち一家が帰省して家族が揃うと、父は上機嫌で乾杯しながら、「これが最後の正月やからな」と言ったものだ。夫も息子たちも覚えているだろう。「毎年言ってるよね」と苦笑しながら、それがいつまでも続くような気がしていた。コロナ前の話だが。
昨夏、父が自宅で倒れたという知らせを受けてから、この半年あまり、できる限り帰省しては、父の入転院や介護施設への入居に関して、家族と力を合わせて対応してきたつもりだが、それでもごく限られた時間だ。日頃の具体的な段取りは、突如一人暮らしになった母のケアも含め、近くにいる妹や弟に全面的に頼ることになる。私は「遠方の親不孝な姉」である自分が心苦しかった。気持ちを言葉や物で表すのも上手くなく、実家に帰り、施設にいる父に会いに行く時にも、父の話に精いっぱい耳を傾けることぐらいしかできなかった。
一月の最も寒い時期、大阪でも雪が降った日の夕刻、父は息を引き取った。直前に施設で父に会っていた母と妹は帰宅途中で知らせを受けて引き返し、弟も大急ぎで駆けつけたが、間に合わなかったという。新幹線に飛び乗った私がようやく到着したのはもう夜更けの10時過ぎだったか。待っていてくれた家族のおかげで、私は施設の父の部屋で最期の姿にありのまま会うことができた。もう冷たくなってしまった顔は穏やかで、信じられないほど瘦せ細った胸にはまだ人肌の温かみが残っていた。
そこから葬儀が終わるまでの場面をぼんやり振り返ると、家族葬と仏教が融合したカタチの中に世の中と家族のありようが立ち現れ、やがて諸行無常を悟るのだった。
通夜の読経の後、僧侶は語った。
「生前に何もしてあげることができなかった、もっとこうしてあげたらよかった、と後悔するのは自分中心のとらえ方です。」
そうではなく、故人にしてもらったことのほうがずっと大きいのだと。してもらったことの有り難さに思いを致すようにという説法に、まるで自分の心を見透かされているような気がした。
その通り。してもらったことばかりではないか。幼い日の自分と若かりし父のかすかな記憶がよみがえる。生まれてこの方、今日に至るまで、父にしてもらったことばかりだ。
昨年の秋、施設で父の体調が比較的安定していた頃、我が家では予定通り、長男と次男がそれぞれ東京で結婚式を挙げた。孫の結婚式に来てくれた母の楽しそうな写真を見ると、心から嬉しく、幸せな気持ちになる。父は母に「気をつけて行っておいで」と言って送り出してくれたそうだ。そんな最高のプレゼントをした上で、父は無事の挙式を見届けてくれたように思えてならない。これもとんでもなく自分中心のとらえ方だ…罪深い娘でごめんなさい。
年末に誤嚥性肺炎から敗血症まで併発して入院した父の重度の炎症が、年明けに収まったのは今から思えば奇跡だ。病棟でちらっとだけ見た父は、満身創痍で最後の力を振り絞って闘う戦士のようだった。何としても退院しようと。父の意思も踏まえた医師との面談を経て、私たち家族が選んだのは、慢性期病院への転院や延命治療ではなく、昨夏以来とても良くしてくれた信頼できる施設での看取りだった。
施設に戻っての最後の二週間、母や妹一家や弟一家はもちろん、東京方面から週末にようやく駆けつけた私の夫や3人の息子たちにももう一度会えるまで、一日一日命をつないでくれた強さは、もう心配性で怖がりだった父とは違っていた。そして、家族が直接会って過ごす最後の時間を大切にしてくれた施設の対応も有り難かった。
台湾で生まれ10歳で終戦を迎えた父。日本に引き揚げ大阪で再起を図った一家の長男として、家業の材木屋を手伝って大八車を押したことをよく話してくれたものだ。満州生まれで日本に引き揚げた母との出会いは運命の赤い糸としか言いようがない。日本の敗戦がなければ私たち三人姉弟は生まれていないのだ。ことあるごとに父は子どもたちや孫たちに平和の大切さを説いた。
日本で最初にできたニュータウンに新婚の居を構え、社内初の海外駐在員として当時の西ドイツに赴任した父は、高度経済成長期の先端をひた走った昭和の企業戦士の一人である。若き日の海外生活の影響は大きく、帰国後も終生ドイツびいきだった。当時、幼稚園児だった私は良くも悪くも「三つ子の魂百まで」のようだ。
信念を持って我が道を行く父は、世の中に迎合せず、時に気難しく、私は何度となくひどい言い返し方をして父を本気で怒らせた。いや、悲しませてしまったに違いない。その時は反発を覚えた父の言葉を何年も経ってからふと思い出し、嚙みしめるうちに、やっとその意味がわかることもあった。そんな愚かな娘を黙って許してくれた父からの宿題のような問いがたくさん残され、私はこれからも考えずにはいられないのだろう。
葬儀と同日、骨上げの後に営まれた初七日の法要での説法が一段と心に沁みた。
「故人はこの世の苦しみから解放され、これからは仏さまとなって私たちの心に在って導いてくださるのです」
諸行無常。
でも、残された家族のそれぞれの心の中に父はいてくれるのだ。私の心の中にも確実にいる。そう思うと、少し救われるような温かい気持ちになる。仏さまか・・・「アホやなあ、あんたはなんもわかっとらん」という父の声が聞こえてきそうだ。