よろず編集後記

よろず編集者を目指す井内千穂のブログです。

苦手な話にも耳を傾けてみること ~福井南高校での学びその2

矢座君のドキュメンタリー映画の上映会に端を発する福井南高校での教科横断型授業。

 

chihoyorozu.hatenablog.com

 

生徒による生徒のための授業、NUMOの講師による高レベル放射性廃棄物地層処分のレクチャーを含めた4時間目の座学に参加し、生徒たちと共に大いに刺激を受けたが、もう一つのハイライトはこの後の5,6時間目を使ったグループワークだった。

直前に浅井先生からの打診で、私は一つの班に参加することになった。これは今までにないケースだ。これまでに同行取材した「中学生サミット」や中高生の福島研修ツアーでは、大人の一員としてオブザーバーに徹していた。生徒たちの話し合いを決して邪魔しないように、いわば透明人間になって各グループでどんな話をしているのかを聞いて回るという役回りだったが、今回は自分もグループに参加するというのでドキドキする。どう参加すればいいのか?

3年生Oさん、2年生Yさん、1年生I君というメンバーに、T先生はアドバイザーか。そして、卒業生のKさんがPC画面越しにオンライン参加というグループに入った。生徒たちにとっては、「誰?」というオバサンが登場して戸惑ったに違いない。

まとめ役の3年生Oさんが、「どうですか?何かないですか?何でもいいよ」と1、2年生に声をかける。

私にも話を振ってくれるので、「福井県には原子力発電所がたくさんあるから、学校でも結構習うのかな?どんなイメージ持っていますか?」などと投げかけてみるが、「あまり考えたこともない」というI君の返事の後が続かない。かろうじて「怖い」「危険」というイメージが出てくるが、また沈黙。

話し合いが一向に盛り上がらないのは私というよそ者がいるからだろうか?

しかし、聞いてみると生徒同士も初対面だという。各学年3クラスあり、学年も違うから、確かに知らなくても無理はない。初対面で「原子力に関わる難題」について話し合い、その内容を模造紙にまとめるとは、なんとまあ大変な課題だろう。

自分が発言すべきなのか、黙って見守るべきなのか、迷っていたが、

「難しいよね。この問題をみんなにもっと知ってもらうためにどうしたらいいかを考えてみようか」という、T先生のやや予定調和的な方向付けに反応して、「SNSを使って拡散する」という発言が出たあたりで、私は咄嗟に口を開いた。

SNSもいいけれど、その前に自分がどう思っているのかをもう少し話し合ったほうがいいんじゃないかな」

教員ではないので、生徒たちをどのように導くのが適切かなんてことは、私にはわからない。しかし、少なくとも、これまで原発について「あまり考えたこともない」と言った生徒たちの対話が、SNSで拡散する方法論に流れていくのは安直すぎるのではないか? 中学生サミットや福島研修ツアーでも何度となく見聞きしたパターンだが、いつも思うのは、「いいんだけど、一体何を伝えるの?」ということだ。

それにしても話し合えない。とくに、ほとんど声を発しない2年Yさんの表情が気になる。各グループが話し合う声で騒然とするホール内、小さな声だと向かい側からはほとんど聴き取れない。と言って、大人が大声で何か言うと、みんなもっと黙り込んでしまいそうだ。

ちょっとアプローチを変えて、各人の隣に移動して個別に声をかけてみることにした。

 

井内地層処分の説明聞いてどうだった?

3年Oさん:難しいし、興味のない話なので、なかなか頭に入ってこなかったです。

 

そうだろうなあ。関心を持っていても、私も決して得意分野ではないので、始めはなかなか頭に入ってこなかった。ここ5年間、何度も何度も聞いたから、ようやく技術的な考え方は大体わかるようになったところだが、難問中の難問であることに変わりはないと感じている。

 

井内矢座君の映画を見るのは初めてなの? どうだった?

1年I君:今日初めて見た。内容の前に、いろんな人にインタビューしたり、外国まで行ったり、高校生なのにすごい行動力だなと思った。

2年Yさん:映画を見るのは2回目。1回目の時、申し訳ないけど苦手な分野の話だったので、そのあと、なるべく考えないようにしていた。今日も見たけれど、そこはそんなに変わらない。

井内もし、福井市が最終処分場の文献調査に応募したらどう思う?

卒業生Kさん:文献調査ぐらいだったらいいと思う。次のステップの概要調査や精密調査の条件をクリアしたら、高レベル放射性廃棄物を福井で引き受けてもいいと私は思う。

1年I君:文献調査を受け入れるぐらいはいいと思う。

2年Yさん:自分は何も言わないと思う。自分の意見を言ったところで、何も変わらないと思うから。みんながそれでいいと思うのなら、それでいい。

井内:「みんな」って言うけど、あなたと同じように感じている人も多いかもしれないよ。そうすると「みんな」がいいと思うっていうのはどういうことなんだろう?

2年Yさん:上の人が決めたら、そうなるんだと思う。

 

話し合いは低調なまま推移し、こんなコメントも私が隣に近寄ってかろうじて聞き出したものだ。余計なことをしないで生徒たちを見守ることに徹したほうがよかっただろうか。しかし、3年Oさんが「どうですか?何かないですか?」と後輩の2人に聞いても、なかなか何も出てこないのだ。

共有できたのは、原子力発電の話は「むずかしい」「怖い」「危険」「わからない」ということぐらいだったか……。

先輩Kさんは、PC画面の向こうでどうしていただろう。申し訳ない状況だった。「後輩のみんなが考えてくれててすごいなと思った」とはじめに言ってくれたのにね。近い年齢の先輩がこの場にいてリードしていたら、また違った展開になったかもしれないと思うと、いたたまれない気持ちになる。

どうやら、この発展クラスの人選やグループ分けは学校側が決めたようだ。このグループの3人は初対面だった上に、まさか自分が「発展クラス」のグループワークに参加するとは思っていなかったという。ほかに基礎クラスもあり、同時進行で別メニューの授業を行っていた。

「自分がこれに参加するって聞いてびっくりしました。だって、私以外の3年生はみんな賢い人たちばかりなんですよ。今日、学校休もうかと思ってました」と3年Oさんが隣でつぶやく。

「このグループ決めたの誰ですか?」と1年I君がT先生に聞いていた。

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ようやく模造紙にまとめ始めたのは、発表までの残り時間がわずかになった頃だった。どうしようと焦る3年Oさんだったが、真ん中に「わからない」と思っている子の顔を描いて、顔の周りに吹き出しを4つつくり、中にコメントを書き入れていこうということに話がまとまった。

2年Yさんが、やおらイラストを描き始めた。模造紙の真ん中に、慣れた手つきでサッサッと顔の輪郭と髪、目鼻の造作を下描きすると、あっという間にかわいい女の子の顔ができあがる。

「上手だねー!」と言った3年Oさんは、どこからかカラーのマーカーも4色ほど調達してきた。2年Yさんは真剣に描き続け、瞳を黒く塗った。画竜点睛で、疑問を抱えた女の子が立ち現れた。クエスチョンマークが飛んでいる。これが彼女の表現なんだね。ええやん!「わからない」「むずかしい」「??」という思いがイラストに込められている。そうだよね〜

そして、3年Oさんは、大きな吹き出しを4つ描き、その1つに「原子力発電のイメージ」とレタリングして、「怖い」「危険」「危ない」「なくしたほうがいいもの」と下書きし、その下の吹き出しには「でも、もっと考えていかなきゃいけない」と下書きした。

「せっかくだから、矢座君の映画を見た感想も書いたらいいんじゃない?」と促すと、1年I君は、「高校生なのに行動力があるのがすごいと思った」という自分の素朴な感想を一生懸命書き込んでいた。

彼らが書き込む下書きの薄い文字と吹き出しのうち、私は自分の手が届く範囲を逆向きで難儀しながらマーカーでなぞるのを手伝ったが、全部は仕上がらないうちに、発表の順番が回ってきた。

「えーっ、うちのグループも発表しなきゃダメですか?」と3年Oさんが小声で訴える。「それはやっぱり、みんなやるんじゃないの? ありのままでいいと思うよ」と私が言うと、観念したのか、彼女はマイクを手に話し始めた。なんとなく、2年Yさんと私で模造紙を掲げる感じになる。

「うちのグループでは、原子力発電のイメージは、やっぱり、怖い、危険、なくしたほうがいいものという意見が出ました。話が難しくてわからないということで、これ、かわいくないですか?」と真ん中のイラストを指す。かわいいよね!

そして、1年I君は矢座君の映画に刺激を受けた自分の素直な感想を述べたのだった。

せっかく下書きした吹き出しと文字を全部マーカーでなぞれば、もう少し完成度は高まったかもしれないが、発表後、3年Oさんは「もういいですよ」と言い、模造紙は未完成のまま回収された。

彼らは自分たちの模造紙を完成させることより、他のグループの発表を聞くことを優先させたようだ。とくに、2年Yさんが前方のスクリーンに映し出された各グループの模造紙をじっと見つめながら発表に耳を傾けているのが印象的だった。表情は相変わらず硬いけれど、心の内はどう動いていたのだろう。

「答えのない原子力の難題」の中で、何に焦点を当てて話し合うかということから自分たちで決めて、話し合って、さらにそれを模造紙にまとめるなんて、40分じゃ無理だと私は思う。模造紙にまとめて発表する形を整えるために話し合うことになってしまうのではなかろうか。

なかなか立派な発表が多かった。テーマの立て方から切り口やまとめ方の体裁、ビジュアルまで、さまざまだから、確かに多様性を大いに感じたものの、ちょっと「出来過ぎ」のような気もした。ひょっとするとアドバイスという名の大人の入れ知恵が相当あったのではないかと勘ぐってしまうけれど、イマドキの高校生は日頃からこういう活動に慣れているのかもしれない。舐めてはいけないのだろう。あるいは、前の時間に「ゆ」の字トリオや矢座君の発表に刺激を受けて、「負けてはいられない」と奮起したのかもしれない。今日は一つのグループに張り付きだったから、ほかのグループがどんなふうに進めていたのかはわからないが、各グループで活発な話し合いが展開されていたようで、確かにホール内はにぎやかだった。

「もしも福井市に最終処分場ができた場合のメリットとデメリット」という切り口の発表があった。

曰く、メリットには交付金などの経済的効果、デメリットとしては、将来世代の賛同を得られないのではないかということが挙げられた。

そのような発表を聞いた2年Yさんはどう感じただろうか? 同級生たちが最終処分場について考えを進めたり深めたりしていることに感心しただろうか? いや、そういうことは苦手だから考えたくない、誰かが決めたらそれでいいとまだ思っているだろうか? 彼女の表情からは何も読み取れない。とにかく人の話をじっと聞いていたのは確かだ。

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最後にもう一度だけ声をかけてみた。

 

井内どうだった?

Yさん:ほかの人の意見を聞けたのはよかったです。

井内マンガ上手ね!よく描いているの?

Yさん:ときどき描いてます。

 

大人の思惑に容易に乗ってこない、ある意味、頑固に自分というものを持っている若者の秘めたる魂を、初対面の大人が無理やりこじ開けることはできない。変なオバサンに絡まれてめんどくさかったと思ってるだろうなぁ。それでも何らかの刺激になっていると思いたいけれど……。

全体としては、いい感じに盛り上がって大成功だったのではないか。終了後も澤田先生やNUMOの講師陣や矢座監督(!)があちこちで質問攻めやら記念撮影やらに引っ張りダコだったのはその証と言えるだろう。

私は自分の役割が何だったのか ーー オブザーバーなのか?ファシリテーターなのか?アドバイザーなのか? ーー 結局よくわからないまま、中途半端な関わり方をしてしまったのかもしれない。

なかなか始まらず発展しない対話をどうすれば促すことができるのだろうか。無関心は無力感がもたらすものなのか。高校生だけでなく、大人もかかえるもんだいがここにある。

それでも、そういう自分をありのままに受けとめ、互いを認め合うことから始めるしかないのだろう。一方、今の姿が未来永劫変わらないわけではなく、周囲からの刺激とその人自身の「問い」の力で、いかようにも変わっていくのではないか。

そのためにも、さまざまな機会や場所に、自発的でも偶然でもイヤイヤでもいいから、いざなってみることだと思う。

この日のグループ分けにもそういう深謀遠慮が働いていたに違いない。たとえ、すぐには変わらなくても、若者一人ひとりが内に秘めている可能性は大人の想像をはるかに超えているのだから。

コロナ禍中、このような学びの機会を設け、対面で実施した学校の先生方、生徒のみなさん、外部の関係者の方々に深く敬意を表したい。(終わり)

 

 

自ら問いを立てるきっかけとは ~福井南高校での学びその1

原子力が抱える難問を若い世代と共有する場にリアルで参加したのは久しぶりだ。しかも初めて福井県の高校を訪ねることができたのは有り難いご縁と言うほかない。

これまでに聞いた話を総合すると、昨年11月に鯖江の市民団体の方々が、東京の高校生 矢座孟之進君のドキュメンタリー映画「日本一大きなやかんの話」の上映会を開催した折に、福井南高校の生徒5人が参加し、映画にいたく触発されて原子力の問題について探求活動を始め、活動を進めるうちに、ほかの生徒たちも巻き込む形の学習企画になり、7月の今日、全校挙げて一日がかりの教科横断型授業へと発展したということだった。当初から企画に関わってきた関係者それぞれが感慨深げに語ってくれた。

思いがけず、私はそのような成果である企画に参加する機会に恵まれた格好だが、今回とくに印象深かったのは、実に多様な生徒たちそれぞれのありのままの姿を、これまでより一歩近い位置から垣間見たことだった。

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北陸本線 福井行きで北鯖江の次、各駅停車しか停まらない無人大土呂駅から用水路脇の道を5分ほど歩くと、田んぼの向こうに学校が現れた。猛暑の炎天下、広い田んぼを半周する道をさらに5分ほど歩くと汗が吹き出す。校門にたどり着いたのは正午頃だったか。

コロナ禍が続く中、PCR検査や日々の検温など最大限の感染対策を講じて参加する緊張感のまま、初めて訪ねる福井南高校で指示通りの通用口に向かうと、私に気づいた先生が会議室の扉を開けてくれた。メールでお名前を見た浅井先生だとわかった。

ここでもまず検温と手指消毒。ほとんどの関係者は既に到着しているようだ。ぎりぎりの列車でなく、1本早めてよかった。初対面の方々、また久々に会う方々に、とりもあえずご挨拶。矢座君が笑顔で声をかけてくれて少し緊張が解ける。福井の学校で再会するのは不思議な感じだ。

まもなく、本日の進行役の生徒3人が入ってきて打ち合わせが始まり、まだ自分の役割がよくわかっていない私も促されて着席する。各人の名前の由来を語る自己紹介を聞いて、彼女たちの名前に、なんと3人とも「ゆ」の音が入った名前であることを知った。「ゆめ」さん、「友里(ゆり)」さん、「夕乃(ゆの)」さん。「ゆ」の字トリオだ。「ゆ」のつく名前って何気にやわらかい雰囲気を醸し出していいなぁと思った。それにしても、「孟之進(たけのしん)」という矢座君の名前は何度聞いてもインパクトが大きい。

準備万端の様子だったが、私自身はよくわからないままに会場の中ホールに移動。既に「発展クラス」の生徒たち60名がグループごとに着席している。まごついている私に、「おわかりになりますか?」と声をかけて席を指示してくださったのは、たぶん校長先生だったようだ。

外部からの参加者の中で、「講師」の末席の位置づけで紹介されてうろたえる。あれ?今日は取材じゃない? 資料をよく見ると、原産新聞だけでなく、毎日新聞や地元紙数社が取材予定と書いてあった。そうか。

この日の1時間目には各クラスで、矢座君の映画「日本一大きなやかんの話」が上映されていた。全校生徒があの映画を見たわけだ。

そして午後一番、「ゆ」の字トリオによる「授業」が始まった。

まず、発電コストについて、最近の記事を紹介。

mainichi.jp

一方、こういう記事もある。

news.yahoo.co.jp

 

「ここまで聞いて、みなさんはどう思いましたか?難しくてよくわからないと感じた方が多いのではないでしょうか」と彼女たちは投げかけた。

確かに、試算根拠も計算結果も門外漢には判断がつかないので、どちらを信じればいいのか、大人だってよくわからない。

続いて、彼女たちがオンラインでインタビューした福島県立小高産業高校の3人の生徒の言葉を伝えてくれた。「福島県の高校生の総意ではないことにご注意ください」と念を押す慎重さに感心する。

Q:福島第一原子力発電所の事故の前後で変わったことはあるのか?

A:事故当時は幼く実感がわかなかったが、事故で原子力発電の存在を知った。今は学んできて、原子力発電はこういうものだということがわかってきて、質問に対する明確な答えはないが、このような経験が、原子力の原理を学ぶ原動力でもある。

Q:被害を受けた福島の高校生として原発が再稼働していることをどう思うか?

A:原発がなくなると困るから反対はできない。でも、原発の仕組みについて授業があったのは自分たちが小学生の時であまりわからなかった。だから理解できる歳である高校生が学べる環境が要る。事故が起こると今まで積み上げてきたものがなくなる。

Q:原子力発電所は無くすべきだと思うか?

A:原子力発電所を無くしても、生活水準は変わらないので、また違う発電で補わなければならないから、問題の解決にはならないと思う。

 

「私たちはどう考えますか?」というスライドをバックに、彼女たちはそれぞれ自分の感想を述べた。

「高校生が原発の仕組みを学べる環境が大切だという言葉を聞いて、私自身、この活動に関わることがなければ原発について知ろうと思うことはなかったと思うので、同じような高校生に知ってもらえるように努力したいと感じました」(3年:ゆめさん)

「私は、高校生を『理解できる歳』と言っていたことがとても印象に残っています。このような話題を学ぶと難しいと感じてしまいますが、理解できる私たちだからこそ、もっと考えていきたいと思いました」(2年:ゆりさん)

「福島でつくった電気を都市部に供給していたことについて聞いたとき、『田舎でやったほうが万が一何かあった時に安全だよね』と言った人もいて、福島第一原子力発電所の事故の時に大変な思いをして、人が多い都会だったらもっと被害が大きくなると思っているのかなと思うと、避難を経験した人だからこそ言える貴重な意見だと思いました」(1年:ゆのさん)

 

原発立地である福井県から廃炉現場となった福島県へ。オンラインを活かして実現したインタビューだ。初対面のオンラインでこれだけ真摯なやり取りができたのは、お互いの立場ひの共感が大きかったからだろうか。

 

そして、本日のテーマである「高レベル放射性廃棄物の最終処分場」の問題に話を進める。

「最終処分場が自分の家の近くに建つとしたら・・・?」

ここでNIMBY(not in my back yard=我が家の裏庭にはごめんだ)問題について説明する中で、NIMBYの例として、最終処分場だけでなく、原子力発電所、火力発電所、清掃工場、墓地、保育園など、さまざまな施設がスライドに列挙されていた。

驚いたのは、

「もちろん、私たちが通う福井南高校もNIMBYです」

という言葉だった。スライドにも書かれていた。ゆめさんは、「でも、通う学校がなくては困りますよね。NIMBYとは、自宅の近くにあったらイヤだと思うものです。そこで、福井南高校も、M(ゆの)さんがしているように、駅の掃除の際に挨拶を交わすなど、地域と交流し、開かれた学校であることで、近所の方にイヤだと思われなければ、NIMBYではありません」と続けた。

 

www.chunichi.co.jp

 

自分にとっての「迷惑施設」のことは、誰しも気にして反対もするだろうが、自分(たちの学校)が迷惑な存在であるという自己認識はなかなかできないのではなかろうか。そのように捉える、何か心の痛みのようなものが、私自身の思春期の記憶をよみがえらせて突き刺さる。ありのままの自分では受け入れられないのかという恐怖だ。そして、どうすれば「NIMBYな存在」でなくなることができるかに思いを致す姿勢に参った。

彼女たちは落ち着いて話している。原稿を作って何度も練習して読み上げて覚えて発表したのだろう。前回の発表の時はもっとガチガチだったと聞いたが、ここまで準備して臨む努力が清々しく、周りの人たちに伝えたいという思いが緊張に勝っていることが、ひと言ひと言から伝わってきた。

「ゆ」の字トリオの後、「日本一大きなやかんの話」の監督として、矢座君が「福島で見聞きしたこと、NIMBY問題について」と題して「授業」を行った。

彼独特の、自分の思考を高速で言語化しながら思考の試行錯誤を示しながら話を進める回転の速さや、帰国子女らしいネイティブの発音でProbably not in my back yardと言ったり、learn(論理的に学ぶ)とacquire(経験的に獲得する)の違いを説明したりするのを生徒たちはどう感じただろう。ほとんど呆気にとられて「何言ってんのかわかんない」と思いながら、しかし、大いに刺激を受けたに違いない。「これがあのドキュメンタリー映画をつくった高校生なんだな!すげーな!!」と。

矢座君が語ったところによると、そもそも自分が住んでいる都内に原子力発電所や最終処分場が建つかもしれないなどとは実感できず、字面ではわかっても、「自分ごと」として想像することができなかったという。

「福島の浜通りを何度か訪ね、富岡町で夜の森の桜並木が見られなくなったと知った時に、その喪失感を、自分が住んでいる国立市の桜並木に置き換えることで初めて感じ取れました」と彼は言った。

3年ほど前に同行した東京の高校生たちの福島研修旅行が懐かしく思い出される。これから2年生になるところだった矢座君は、「実はいま映画をつくってるんです」と言っていた。それが完成して国内外で上映されるようになり、見た人に影響を与え、こんな波及効果をもたらしているのだ。

続編「日本一大きい空気椅子の話」も、この翌日に東京で初公開された。

www.youtube.com

若者たちの可能性は大人の想像をはるかに超えている。(続く)

 

 

 

咲いて、散って、La La La

「咲いて、散って、ラララ」

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このタイトルに心惹かれ、ひさびさに立川のアーティスティックスタジオLaLaLaに行ってきた。

ギャラリーにもコンサートサロンにもダイニングキッチンにもなる居心地の良い空間。6年ほど前、当時勤めていた新聞社を辞めるかどうか、なかなか踏ん切りがつかなかった私の背中を押してくれた場所の一つだ。

音楽とアートは人生を変えることがある。

いろいろお世話になったものだが、その後フリーランス稼業が忙しくなって〆切に追われるうちに足が遠のいてしまっていた。2年ぶりかな・・訪ねる前に少し緊張する。

橋詰健さんと知り合ったのも、このLaLaLaを主宰するしおみえりこさんのご縁のご縁(笑)。ご縁はご縁を呼ぶのだ。

昨夏、お母様が亡くなられた時の橋詰さんのFB投稿が心に響いた。82歳といえば、私の実家の母とほぼ同い年。驚いたのは、橋詰さんのお母様が81歳で突然絵を描き始めたという話だった。最後の一年間、毎日毎日、夢中になって描いておられたという。残された30数点の絵の展覧会がLaLaLaで開かれることになった。お知らせをいただいた時、ああ、ぴったりの場所だと心が温かくなった。そして、この方の絵をぜひ見てみたいと思ったのだ。

 

ひさびさのLaLaLaに、なんとなく恐る恐る足を踏み入れると、明るい色彩が目に飛び込んできた。それぞれの絵にぴったりの赤や青や黄色の額縁(と言うか台紙?)も鮮やかで、LaLaLaの白い壁に映える。

野の花、ハイビスカス、松ぼっくりざくろの実、ほおずき、そらまめ、チューリップ・・・この懐かしい感じは何だろう? そうだ。小学校の写生の時間だ。図画工作の教科書で見たような、教室や廊下に掲示される上手な子の絵のような、天真爛漫な年頃の絵を思い出した。花々と果物の姿をありのままとらえようと、画用紙の上で無心に筆を動かしペタペタと色を重ねておられたという一生懸命な姿が目に浮かぶ。

私は子どもの頃、絵を描くのが苦手だったので、美術の授業にはトラウマがあるけれど、こんなふうに身の回りのものを描いてみたいなぁと思った。授業じゃないし、今なら自由に描いても怒られないかな、いやー楽しそうだ。

81歳の母の日に、次女である橋詰さんの妹さんから贈られた紫陽花の花を見て、「これを描きたい!」とお母様は突然絵筆を持つようになったそうだ。長女である橋詰さんのお姉さんが綴られた文章が味わい深い。

亡くなられる前の最後の一枚も紫陽花だった。唯一の未完成。余白が切ない。

LaLaLaの空間に包まれ、三姉弟妹のお母様への思いのこもった展覧会だった。

会場の片隅に控えめな年譜が記されていた。病に倒れたご夫君を支え、苦労しながら3人のお子さんを育て上げたこと。60代でご夫君を看取られてから、突然バイクの免許を取り、単身アメリカのシアトルに留学したこと。その後、自身の病にも負けず、イタリア・ギリシアを旅したこと。その行動力と自由な精神に感服する。人間、いくつになっても何か新しいことを始められるのだと。そして、橋詰静穂さんは最後まで、やりたいことを精いっぱいやったんだなぁ・・・一度もお会いしたことがない静穂さんに思いを馳せる。

コロナ禍中、鬱々と引きこもって過ごしているであろう両親に電話してみようと思った。父にはメールのほうがいいかもしれない。今はなかなか大阪まで会いに行けないから。

 

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えりこさんと橋詰さんとひさびさの再会。橋詰さんのお姉さんにもお会いできた。買って帰った小さな画集はお姉さんが編集なさったものだ。ページをめくり、カラフルな絵に添えられた文章を読み返しながら、原画を思い出している。

「咲いて、散って、La La La」

それにしても言い当て妙のタイトルだ。

やろうと思うことをぜひともやろう。

 

 

 

 

 

 

絶世の未来へ 林英哲 和太鼓独奏の宴@サントリーホール

「太鼓をたった一人で打つ大舞台、一世一代の独奏を、50年の節目にやらせていただきます」

サントリーホールで開演直前、姿は見えねど、おそらく舞台袖からマイクで、あるいは録音だったのか、英哲さんのご挨拶の声が会場内に流れた。コロナ禍中の来場への謝意が繰り返される。数々の著書の明晰な文章から受ける印象通りの穏やかな声の主と、これから太鼓を打つその人が同一人物であるとは、私には不思議に思われた。

明かりが消え、独奏の宴が始まる。

広い舞台に和太鼓だけ。「宇宙」を感じさせる抽象的な空間だ。暗闇の中、いつの間にか舞台にいた英哲さんは、スプリングドラムを手に、風変わりな音を鳴らしながら歩みを進める。舞台の前方にいくつか置いた(何という名前かわからないが小ぶりな)太鼓を巡っては打ち、素足で床を打ち鳴らし、一つ一つ意味ありげな所作の連なりを経て舞台の中央、締め太鼓や団扇太鼓をぐるりと並べたドラムセットのような和太鼓セットへと辿り着く。バチを持ち替え、太鼓を打つ。打つ。打つ。打つ。やがて、片方の撥を口にくわえ、衣装の片袖を外し、撥を持ち替えてもう片方の袖も外すと、美しい筋肉に包まれて鍛え上げられた背中と腕が露わになる。若々しい肌はとても69歳には見えない。動きはだんだん速く、激しくなり、時折ヤァッ!と気合の声を入れながら猛烈に打ちまくるソロ太鼓が続いた。

その没入を呆然と見ていると、上手側で舞台真横の席という間近から見ているのに、その人は遠い世界へ行ってしまったかのようだった。誰も寄せ付けず、ひたすら太鼓を打つ人。時に笑みさえ浮かべ、全身で太鼓に向かう人。

ああいう時、人はどのような精神状態にあるのだろうか。太鼓を打つ自分を見る別の自分が斜め上から見下ろしていたりするのだろうか。足腰は、腕は、脳は、どうつながっているのだろう?

たとえば、オーケストラの一団が舞台に乗っていると、「社会」の比喩か縮図のように見えるのだが、たった一人の奏者がその他大勢の観客の注目を浴びながら渾身の演奏に没入する姿は、何か神事に近い。神官か巫女か、この世ならぬ者になったその特別な人間が、何事か天の声を地上の人々に伝えている。その場に居合わせた人々は畏怖の念に打たれ、一部始終を見守るしかない。

 

休憩後、舞台は巨大な和太鼓一つだけになった。まさに宇宙の中心だ。

今回の拙記事の担当エディターは写真のキャプションにBig bangと書いた。当たってる。

www.japantimes.co.jp

英哲さんが打ち込む巨大な太鼓の低い音がホールに響き渡り、振動がドウンとお腹にくる。こういう響きは和太鼓にしか出せないし、サントリーホールで和太鼓の音だけを聴く機会は滅多にないだろう。

以前のインタビューで、心臓の鼓動の音を拡大した音は太鼓のような低域の音だと聞いて驚いた。英哲さんの著書にも出てくる。

「記憶の彼方で聞いた音は、胎内で聞いた母親の心音だったのではないか、ある日、突然のようにそう思いました。

――そして、それは自分の親も、そのまた親も聞き、たどってゆけば、そのまたずっとずっと先の、途方もないほど先の、宇宙の中で生命が誕生する瞬間から、今に至るまで一瞬も絶えることなく続いた音なのだ――そう気がついた時、僕は一種の戦慄のような思いに包まれました。

 その一番端に、今、奇跡のように自分がいる――、愕然とするような認識です。」

林英哲著『あしたの太鼓打ちへ』より)

 

それは、私にとっては「母の胎内で聞いたであろう懐かしい音」という感じではない。むしろ、中学生の頃から感じるようになった「自分はなぜ、今ここにいるのか?」とか「この世があるのはなぜか?」といったような、誰にも答えられない、問うてもしょうがないような問いを思い出させる音である。

「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」というゴーギャンの絵を見た時、ああ、そう思っていたのは自分だけはなかったのだと安堵したものだ。

子どもを産んで母親になってからもその思いは変わらない。母の胎内というのはトンネルのようなもので、息子たちがどこから来たのか、不思議というほかない。

そんな根源的な音の振動をずっとお腹に受けながら、一心不乱に太鼓を打つ人を真横から見つめていた。伝統の祭り囃子とは異なる独自の表現を編み出し、「僕は小柄だから」という自身の体躯から最大で最深の響きが出せるように工夫したという、太鼓の真正面に立って打ち込む独自の奏法。太鼓レジェンドのあまりに孤高の境地を目の当たりにすると、おのれの中途半端さに恥じ入るような、いたたまれない気持ちになる。

「祈り」「厄払い」、
そして「良き未来」のための「ひとり舞台」、
 空前絶後、一世一代

チラシに並ぶ言葉が奮っている。確かに、今年は東日本大震災から十年だ。さらに度重なる自然災害、追い打ちをかけるコロナ禍。古来、厄払いは太鼓打ちの役割だったと英哲さんは言う。だから神事なのだ。

そして、却って英哲さんという人間が際立つ。

日本の伝統芸能とは違う道を模索した「越境者」に違いないのだが、英哲さんが創った独自の表現世界には、普遍的でありながら、日本らしさが強烈に感じられる。それが日本人にとっては誇りに思え、世界の人々を魅了するのだろうか。

最後にカァーッ!と一喝、全身伸び上がっての一撃で太鼓の轟きは締めくくられた。

コロナ感染対策のため、隣席を空けて並ぶ客席から、魅せられたる人々は熱い拍手を送っていた。1階席にはスタンディングオベーションの姿も多い。英哲さんは深々とお辞儀を繰り返した。

しかし、なぜか私はその温かい輪の中に入っていけないような疎外感を覚えた。何なんだろう? 

古来、アジアの国々では太鼓は祈りに結びつけられ、厄払いは太鼓打ちの役割だと英哲さんはインタビューの時に語った。

舞台で一人、ひたすら太鼓を打つ英哲さんの姿を見ていると、「お前の役割は何なんだ?」と問われているような気がしてくるのだ。

それと同時に、自分が日本人でありながら、昭和の高度成長期以来の時代の中で失ったもの、二人とも敗戦後の引揚者である両親の元に生まれニュータウン育ちの帰国子女という生まれ合わせ上、元から欠けているもの、そんな根無し草のアイデンティティの心もとなさにも否応なく向き合わせられる。普段はそんなことを気にすることもないのに。むしろ、日本にこだわらないコスモポリタンでありたいと願っているのに。

最後に、団扇太鼓を片手に歌う英哲さんの声が切々と響いた。そこには英哲さん自身の心もとなさがあった。19の歳で「わけもわからず乗ってしまった舟」という演奏活動50年の人生。その重みと心もとなさに、ほんの少し勇気づけられた。誰しも、心もとなくとも、大海原を行くしかない・・・絶世の未来の岸辺へ?

 

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With コロナの音楽祭@ミューザ川崎

コロナ禍で3月以降自粛を余儀なくされたオーケストラ。東京では東フィルが先頭を切って6月21日にBunkamuraオーチャードホール定期演奏会を再開し、その模様は「情熱大陸」でも放映された。

www.mbs.jp

 

翌6月22日、同じ東フィルが東京オペラシティで開催した演奏会を聴いた。久々にコンサートホールに入るだけで胸が高鳴り、生のオーケストラの響きに酔いしれ、楽団員のみなさんの渾身の弾き姿に心を揺さぶられる。特別な時間だった。

その少し前にフェスタサマーミューザKAWASAKIを今年も開催するというニュースリリースを目にした。セイジ・オザワ松本フェスティバル(旧サイトウ・キネン・フェスティバル松本)も、草津の音楽祭も、8月に延期されていた宮崎国際音楽祭も、恒例の音楽祭が軒並み中止という中で、毎夏首都圏のオーケストラの競演が目玉のサマーミューザは開催するという。インターネットライブ映像配信と有観客公演のハイブリッドとは!?

ということでジャパンタイムズに記事を書くことになった。

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今年のサマーミューザは、3月末に開催を発表してから新型コロナの影響で4月に予定していたチケットの発売を延期し、その後、緊急事態宣言の発令によるホールの臨時休館も重なり中止判断も止むを得ない中だったと公式サイトに記されているが、インタビューに応じてくださったミューザ広報の前田さんの言葉は力強かった。

「中止するという考えはなく、問題はどうやって実現できるかということでした。」

どんなやり方であっても今年なりの音楽祭を開催するということで、サマーミューザとしては初となる有料オンライン配信(ライブとアーカイブ)が先に決まっていたが、緊急事態宣言解除後には「やはり有観客演奏会も」ということになり、チケット販売の複雑なプロセスや、ホール内だけでなく入退場時の「密」を避けることを考慮して、最終的にキャパ2000人のホールに「600人」という人数に落ち着いたそうだ。

600人ぐらいだったら、7月10日~12日までに行われたミューザ友の会先行抽選で埋まってしまうのかと思ったらそうでもない。やはり、友の会の中心を成すシニア層はチケット購入に慎重だったのだろう。600人に達するまでは前売りも当日券の販売もある。

経済活動を再開すると当然ながら感染者数がまた増えてくる。感染者数増加の中でスタートしたGoToトラベルキャンペーンは直前になって東京発着の旅行が除外されるなど混乱している。首都圏での大きめのイベントである音楽祭はどうなるのか? やきもきする。

ワクチンや治療薬が使えるようになるのはまだ先だが、さすがに医療体制や検査体制が春先と同じままではないこと、感染症自体やその感染対策についての科学的な知見も蓄積されてきていることを睨んで、諸々の活動再開が進められている。何が正しいのか確たることは誰にも言えない。イベント主催者としては、万全の感染対策を講じつつ、様子を見ながら可能なことをじわじわ進めていくことにならざるを得ないだろう。参加するお客の側も、ゼロリスクはないことを踏まえつつ、各々できる限りの感染対策をして出かけて行く(あるいは行かない)という状況である。

記事が出た7月23日、新規感染者が東京で366人、全国では981人に上る中、フェスタサマーミューザは開幕し、私はオープニングを飾る東京交響楽団のコンサートに行ってきた。感染拡大は気になるが、音楽祭の開幕に立ち会いたい。今日の体調は万全だ。ジョナサン・ノット監督がビデオ出演という話にも興味津々。ということでホールに向かう。

 

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会場入口ではまず手指の消毒と検温が求められる。大画面の前に立つと眼前に自分の姿が映り、即座に「35.6℃」と表示される最近のテクノロジーは怖いぐらいだ。チケットは自分で切り、プログラムもロビーの棚から自分で取る。スタッフのみなさんは揃いのTシャツにマスクにフェイスシールドに手袋といういでたちで案内しておられる。

ホールに入ると使用しない座席にはカバーがかかっており、S席エリアが満遍なく間引いてある中、カバーがない座席にも結構な空席があったところを見ると、やはり600人には達していなかったようだ。

到着したのが開演20分前で、もたもたしているうちにほとんど聞かずに終わってしまったが、ステージ上ではプレトークをやっていた。

 さて、いよいよ開幕。「音楽のまちのファンファーレ」~フェスタサマーミューザKAWASAKIに寄せて。2009年の開館5周年を記念して作曲されて以来、毎年オープニングを飾るおなじみのファンファーレだそうだ。ミューザ川崎誕生のモチーフ、街の活気、工業都市ベッドタウンとしての川崎などを表現するモチーフが渾然一体となったなかなかパワフルな曲想で、コロナ禍に屈せず未来をどうにかしたい今の気持ちを鼓舞してくれる。作曲者の三澤慶氏が客席におられた。ステージ上で高らかに吹き鳴らすトランペット4人、ホルン4人、トロンボーン3人にチューバ1人。そして、ティンパニ、大太鼓、小太鼓、シンバルという4人の打楽器奏者がマスク姿で叩く姿にぐっとくる。 

 ファンファーレチームが一旦退場した後、オケの全メンバーがステージに。距離を取りながらメンバーがゆっくり出てくる間、客席から温かい拍手が続く。弦楽器パートもマスクを着用している。管楽器パート以外は揃いのマスク姿である。それが白でなく、淡いグレー(あるいはベージュ?)という絶妙な色調で顔色に馴染むシックなマスクだった。

ストラヴィンスキーのハ長の交響曲は指揮者なしの演奏。ヴァイオリンはファースト、セカンドともに4プルトヴィオラプルト、チェロ2プルトに、ベースは3本、管楽器は2人ずつという小さめの編成ではあったが、こんなややこしい曲が指揮者なしで崩壊せずに進行するのは見事というほかない。コンマスのグレブ・ニキティン氏が身体ごと合図したり弾いてない時には弓で振ったりの指示を出しておられたが、各奏者が自分で入って合わせる箇所も多く、緊張感あふれる高度な室内楽が繰り広げられた。

休憩後戻ってくると、ステージにモニター画面が2台設置されていた。1台は客席の方を、もう1台はチェロとヴィオラの前あたりでオケの方を向いている。

おもむろに画面にノット監督が現れ、いつもステージでやる通りの洗練されたお辞儀。そして、ベートーヴェン交響曲第3番「英雄」が始まった。曲が始まっても、お客の方を向いている画面では当然ながらノット監督はこっちを向いて振っている。ちょうど舞台の真後ろの席にいるかのように指揮者の顔が見え、かつ、オケも正面から見えている。マエストロの華麗な身のこなしや指揮棒さばきに魅了されながらも、時々思わず笑いそうになる。録画された指揮に今現在合わせているオケの生演奏を聴くのは不思議な感覚だった。

画面のバックは白い壁。いつ、どこで録画したのだろう? 当て振りのはずはないから、自分の脳内でイメージする音楽を(その場にいない)オケから引き出すべく身体を動かすのだと思うが、そういう「エア指揮」を交響曲1曲分続けるってどんな感じだろう? このビデオに合わせて何回ぐらいリハーサルをやったのだろう? ノット監督の指揮に慣れている東響だからこそ「ビデオにぴったり合った演奏」ができるのか? 同じ映像でほかのオケが演奏したらどんな感じになるのだろう? こういう映像を何回も使い回せるのなら、生身の人間は必要ないのか?(いやいや)しかし、指揮者が映像ではオケとの一期一会の双方向の音楽作りとは言えないだろう。

・・・疑問が次々湧いてくる。

もちろん、今回はコロナ禍のため来日できないノット監督との「共演」をなんとかして実現するための苦肉の策だったのはわかる。演奏後のお辞儀も撮影されている周到さで、ノット監督の英雄のようなショーマンシップがいかんなく発揮され、まさに時空を超えて音楽祭にビデオ「出演」と言えた。そればかりか、最後には夏のヨーロッパの美しい風景をバックに手を振るノット監督の笑顔まで収録されていて、なんだかもう「やられた!」感じだ。この画面のあたりで団員のみなさんも拍手に応えながら客席に手を振っていた。

逆境にめげず、指揮者のビデオ出演という前代未聞のチャレンジでも何でもやってみる革新的なオケの姿勢に感服し、素直に拍手を送った。そこここにスタンディングオベーションも見られる。テクノロジーを駆使する不屈の人間性。実に英雄的ではないか。そのうち、ホログラムで立体出演、オケの音響も高品質・高速通信で、互いに離れた土地にいる指揮者とオケで双方向の演奏というのも可能になるのだろうか?

余韻に浸りながらビデオ出演への疑問がいろいろ湧いてくると、もう一度観たい、もう一度聴いてみたいという気持ちが募ってくる。そこで、サマーミューザの初試みという有料配信のオンライン鑑賞券を買ってみることにした。勢いで「全公演おまとめ券」というのをネットで申し込んだ。もちろん、1公演ごとに1000円で買うこともできるが、17公演が9000円で、当日のライブ配信+8月いっぱいアーカイブ配信を聴き放題というのはかなりおトクだと思う。フィナーレの8月10日まで何度も川崎に通うのは難しいが、家に居ながらにしてマイペースで首都圏のプロオケの聴き比べができるのは悪くない。オープニングのファンファーレもノット監督のビデオ映像も、何度でも視聴できる。

記事の中にも書いたが、確かに、前田さんが言ったように、これからのコンサートは、会場での生の音楽は限定された観客数での特別な経験になっていく一方、オンラインでは、住んでいる地域にかかわらず幅広いオーディエンスが気軽に楽しめるものになっていくのかもしれない。

もちろん、コンサートホールの響きとネットのオーディオで聴く音は違う。また、その場での感激はアーカイブ配信では得られまい。生の音楽の感動があってこそのネット配信だが、それでも、消え去った音の記憶をよみがえらせ、一度も聴いたことのない音への憧れをかきたてる意味はあると思う。制約の多いwith コロナの世の中で、やれることは何でも試してみたい。

 

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中学生が福島民報にインタビュー ~2020京都発ふくしま「学宿」その9

福島民報の渡部さんの話が終わり、今度は生徒たちから渡部さんに質問する番になった。熱心に聴き入っていただけに質問も熱心だ。

 

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Q:福島で原発事故が起きてからいろんな情報が入ってくると思いますが、上の人から「その情報だけは出すな」みたいな隠蔽と言うか、ストップがかかることはありますか?(3年T君)

 渡部:まさに日常的に電話でそういう問い合わせをいただいていますが、「ある」「ない」で言えば隠蔽はないですね。たとえば、福島の食べ物が危ないという人がたくさんいますが、それが科学的な根拠として本当にそうなのか? 取材を尽くせない問題は、安全という主張もできないし、逆に危ないとも、私たちの記事では書けません。食べ物が危ないのかどうか取り上げる場合は、たとえば明確に根拠を持って主張している人の言葉として取り上げる。それに対して反論も取り上げる。実際、危ないのかどうかわからない状態がずっと続いて来ました。チェルノブイリ原発事故などがありましたが、それでも経験値としてじゅうぶんではありません。取材を尽くせないものは書かない。書かないという方針だから書かないのではなく、取材が足りないから書けないということはあります。


Q:ニュースには自分に関係のあるものと関係ないものの2つに大まかに分けられると思うんですよ。自分に関係があるニュースは、たとえば、今だったら福島のことだったり新型コロナウイルスのことだったり。で、関係ないニュースは、たとえばSMAPの中居君が独立したり槇原敬之が麻薬で捕まったり。でも、一般の人は、ゴシップネタって言うんですか?そういうものを見てるほうが好きなわけですよ。新聞社は慈善活動ではないので、利益を追求していかなければならないと考えたら、もし、めっちゃ大切なことがある、伝えなければならないことがある、でも、こっちのほうが視聴率は取れるという時に、どっちを選ぶのかなっていうのを聞いてみたいです。(3年F君)

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渡部:新聞の特徴っていうのは、でっかいニュースだと思うものはでっかい見出しをつける。それに対して相対的にちっちゃいニュースだと思うものはちっちゃく取り上げる。その差をつけて、そういう価値判断と共にいろんな記事を載せるのが新聞の特徴なんです。ネットの場合だと基本的には箇条書きでダーッと並んでいる。

その中で、芸能人が逮捕されたということは、関心があるし話題性もありますが、じゃあ、その芸能人を知らない世代にとってはどうか、それが社会的にどういう影響を与えるか、大麻を使ったということ自体のニュース性、そういうことも考えます。いわゆるゴシップネタもあるんですけど、硬い政治のニュースなども含めて、記事がどれだけ多くの人に影響を与えるのかということも考える。いろんな意見があり「芸能人逮捕のほうが大事だ」と主張する人もいるわけです。議論しながら判断するんですけど、新聞は毎日出さなきゃいけないので、その時点で結果として芸能ネタが小さくなるということはあります。芸能ニュースは小さく載せるということがルールとして最初から決まっているわけではありません。

 

Q:先ほど、同じ情報でも、できるだけポジティブに伝えようと心がけておられるというお話があったんですけど、実際に被災された方々にはネガティブにとらえている人と前を向いてポジティブなとらえ方をしている人がいると思います。数で比べるのがいいのかわからないんですけど、何かエピソードとかイメージを教えてください。(2年I君)

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渡部:ネガティブ、ポジティブの例を具体的にということですよね。あまりにも事例がたくさんあるんですけど・・・たとえばですね、ネガティブなことを取り上げないというわけではなく、そもそもネガティブなことのほうが多いわけです。その中で真っ暗にしないという意味ですけど。私がこの辺に住んでいた時の知り合いの話だと、震災はまさにいやな出来事だったんだけど、それがあったことによって家族の大切さがわかったとか、日常というものがどれだけ大事だったかということが改めてわかったとか、震災があったことによって、自分が常々接していることがどれだけ貴重なことで、あたりまえだと思っていたけれど、実はあたりまえじゃないんだということがわかったと私自身もそう思います。

なによりも、いろいろな方々から本当に温かい支援を受けているわけです。ボランティアもそうです。そういうこともしっかりと取り上げていく。福島県民としてはなかなか一歩踏み出せなかったりするんですけど、元々福島県に全然関係ないのに、福島に住んで大きな支えになってくれている人もたくさんいるんですよ。そういう方が私たちを引っ張ってくれているという一面もあり、それを取り上げるということもしています。こういう事態にならなければわからなかったことはものすごくたくさんありますし・・・わかったようなわからないような答えになってしまいましたが。

 

Q:福島の人たちは風評被害、ほかの地域の人たちが福島のことを危ないと思っていることに対してどのように思っているのでしょうか。国にどのような対策をしてほしいのか、また、自分たちがおこなっている対策はあるのか、などを教えてほしいです。(2年Tさん)

渡部:個人個人がどう思うかは、我々はコントロールできないしね。京都から福島を見ていたら、やっぱり危ないと思ってしまうこともあるのかもしれません。そう思わない人も含めて、人の心はそういうものだと思います。ただ、それを私たちは、たとえば、食べ物についてはこういう検査をしてるんですよ、それで数字はこうです、ということをひたすらに伝えるわけです。伝えることが、言ってみれば私たちの唯一の仕事です。福島民報だけでは限界があるので、通信社ですとか、他の地方紙なども含めて、それをつないでいく。協力を求めながら伝え続けていくということです。

風評被害対策ということで、国の官庁が福島県の米を使ったり、いろいろなところで積極的に福島県のものを食べたりということはずいぶん前からやっています。それがどれだけ成果になっているか、具体的にはわかりませんが。

それから、原発トリチウムという放射性物質を含んだ水が溜まり続けています。処分するにはいろんなやり方があるんですけど、国はつい最近、海に流す、あるいは大気中に放出するというこの2つの選択肢のどちらかにしましょうよと。海に流すということは他の国でもやっていて、人体に影響はないという知見がありますが、それを流すと当然、福島の海で獲れた魚はヤバいという風評にまたつながってくるんじゃないかということで、地元としては反対する声が強いです。

じゃあ、海に流すんであれば、どこから流すんですか? 福島の汚染水なんだから当然、福島から流すっていう感覚かもしれませんけど、それでいいんですか? 福島のものだから福島から流すということが常識なんですか? 少なくともそういう議論をしなくちゃいけないんじゃないの? そうしないと、危険はほとんどないと言われていても風評被害がまた広がるわけで、結果として福島から流すことになっても、そういう問題意識は持ってくださいよというのが、私たちが今現在、報道していることなんです。いろいろな見方が地元の中でもあるんだっていうことをもう少しきめ細かく丁寧に拾い上げて、何か物事を決める議論を丁寧にしてほしいというのが、私たちが意識して報じていることです。

 

Q:原発についていろいろ調べる中で、自分が体験したことじゃないことを伝えるってすごく難しいことだなあと思うんですけど、そういう場合って、どんなことに気をつけたらいいでしょうか?(3年K君)

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渡部:私も事故当時、原発の近くにいたわけではありません。人から聞く。新聞を読む。テレビを見る。ネットにも情報がたくさんあるでしょうけど、そういった情報を、さっき言った思い込みだけは置いといて、客観的にもこれは事実だなと思うことは自分の知識としてどんどん蓄積していく。ネットに書いてあることをそのままではなく、どこか別の情報で裏付けをとる。そういったことをすれば、その気持ちがあれば・・・それを質問する時点で君は大丈夫です。

 

Q:今までいろんな人のお話を聞いてきた中で、ほとんどの人が震災が大きな転換点になったとおっしゃっているのですが、取材する中で震災で何か変わったことはありますか?(3年Wさん)

渡部:個人として? 震災で変わりましたよね。

自分たちが作っている新聞そのものが、震災以降、あの日から福島県をどうやって復活させるんだ?もしかしたら、もっといい福島県にできるかどうかということが、まさに新聞づくりのど真ん中になったというのはあります。このような場でお話をさせていただく機会もそれまではなかったことですし。

うちは男の子2人なんですけど、震災当時は小学校6年生と幼稚園児だったんです。まさに避難どうしようかと。もうしっちゃかめっちゃかで、長男は卒業式なしになりましたし、サッカー続けていいのかどうかとか、いろんな悩みがありました。さっきも言ったけど、普通にサッカーができる、卒業式がある、一つ一つがものすごく大事なことなんです。かけがえのないことなんです。それはもうあたりまえの大切さです。それをものすごく感じるようになりました。

 

 

Q:福島民報京都新聞を見比べると、福島民報さんの新聞は、見ていてすごく明るくなれます。私もポスター発表の時に、福島民報の記事をたくさん使ったら、見てくれた人が「前向きになれて素晴らしい」と言ってくれました。震災前の新聞はどんな感じだったのかなっていうのと、あと、地元の人たちがやっている前向きな活動が前からあったのか、震災後にそうなったのか、知りたいです。(3年Iさん)

渡部:元々、うちはたぶん日本有数と言えるぐらい身近なニュースが載ってるんです。地域のお祭りとか運動会とか、どこの地区の消防団がどうしたとか、そういうことまで載せる。新聞に載ったことがあるという人が多い県だと思います。ライバル紙があることも影響していると思います。福島では自由民権運動が盛んで、それで明治時代にできた新聞なんです。暗いニュースと明るいニュース、身近なものまで含めれば明るいニュースのほうが多いと思います。今日のこの様子も取り上げようと思ってます。それぐらい細かい記事が多いのは、震災の前からです。地元を盛り上げるための住民の活動は震災後に増えたと思います。

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Q:関連死に自殺っておっしゃっていたじゃないですか。その自殺って、大人と子どもだったら、どっちが多いのでしょうか?いじめとか偏見とかで、子どものほうが多そうなイメージがあるのですが。(3年女子)

渡部:子どもの事例は把握していません。

 

Q:さっき、F君がどうでもよいゴシップみたいなのを載せたほうが売れるみたいな話をしていましたが、福島の原発事故も、とくに風評のことなんかは書き方によってはゴシップっぽく書けたりして、そういうのが風評を煽ってると思います。さっきのトリチウム水の話も、ほとんどの新聞は汚染水って書いているけど、新聞によっては処理水って書いてあるものもあって、汚染水と処理水では受けるイメージが全く違うと思うんですよ。それ以外にも、原発のいじめだって、新聞に載っているぐらい少数しかないのか、それは氷山の一角で本当はもっと何倍もあったりするのか、わからないと思うんです。新聞ってデータに基づいて正確に書けば売れるっていうもんじゃないですよね。利益もあげていかなければいけないけど、そういうふうに書けば風評を助長するというか、そういうジレンマについてはどう思っておられますか?(3年M君)

渡部:何かを必要以上にセンセーショナルに取り上げるとか、必要以上に強調することによって、新聞の売上につなげようという発想自体はないです。私たちもまさに福島県に住んでいる住民の一人であって、家族を亡くした社員もいます。生活者であって当事者なんです。当事者としての意識がまずベースにあるわけです。さっきの「関連死」というのも、政府も含めて公式には「震災関連死」なんですよ。でも、私たちが使っているのは「原発事故関連死」。つまり、原発事故によって亡くなった人。

私たちが取材する問題は、福島県に住む住民として、これをどういう出し方をしたらどういうふうになるか、当然一人ひとり考え方が違うので、それを毎日議論しながら、当事者としての意識をベースとして情報を出す。目立たないかもしれませんが、そういう情報を必要としている人が福島県には多いんだということです。

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Q:新聞って、まずは大きい見出しから見るじゃないですか。気になった見出しから読む人もいます。見出しを作るのに工夫していることはありますか?(女子)

渡部:ある程度以上の規模の新聞社の場合、見出しは記事を書く人がつけるんじゃないんです。記事を書く人は文章だけを書くんです。で、それを編集する整理部っていう内勤の人がいて、記者たちから集まってきた記事をこのようにレイアウトする。その人が見出しをつける。なので、見出しをつける人は取材をしてないんです。文章だけが見出しをつくる材料なんです。ということは、文章に書かれているポイントをそのまま言葉で表すというのがまず第一の基本。その中で、たとえば、このあいだね、春の花が2月に咲いたという話が一面に載ったんですけど、その時の見出しは「あわてんぼうの春」というものでした。記事には「あわてんぼう」という言葉はないんですけど、そういう整理部の人の感性で作られた見出しもあるんです。でも全部がそういう見出しだと、しつこい印象になってしまいます。基本的には文章の中から、この記者が言いたいのはこういうことだよな、ということを取材していない整理部の人が読み取って、それを正しく分かりやすく表現する。

記事も見出しも、私はうまい文章を書くポイントは2つしかないと思っています。一つは「正しく」、もう一つは「わかりやすく」。あたりまえだと思いますけど、私も20年以上この仕事をやっていますが、なかなか到達できないんです。どんな素晴らしい記事でも、読む人に理解してもらえなくては意味がありません。私たちは小学校高学年の子どもたちでも読めるということを目標にしているんですけど、それもなかなか到達できなくて、読みにくい記事を書いてしまったりします(笑)。

 

Q:被災地の方に話を聞いたり原子力のことに関して話を聞いたりするときに、答えたくないという人がいたりしますか?(女子)

渡部:今もいるでしょう。私はもう取材にはあまり携わりませんが、彼はまさにここの地域の支局長で、支局長っていうのは一人で取材して歩いているんですけど。今もいるよね?(と若手の支局長に話を振る)

支局長:あのー、被災者なんですけど、たとえば、息子さんとか娘さんとかが、原発で働いていたりして、東電を責めたりできないという方はいます。なかなか言えないことがあるんだろうなあと思うことは結構ありますね。

渡部:私もこの地域に住んでいましたが、東京電力になんらかの関係を持っている方はとても多いんです。事故を起こした当事者としての東電は、責められる対象ではあるけども、現場で働いていたのは地元の人が大多数なんです。あの事故をあそこで食い止めたのもまた、多くが地元の人なんです。責めたいんだけど、でも、自分の生業が関係していたりすると、やっぱりそれは私たち記者が書いて表に出されると困る。そういう意味で、私たちが聞いても、相手が答えたくないということはあると思います。

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Q:東日本大震災で起こった事故は世界的に見ても大きな事故で、日本にとっても大変な事だったと思いますが、「どういうこと?どういうこと?」って混乱がすごくあったと思っていて、そういう人は得られる情報を知りたいなあと思って、でも逆にわずかな情報でも左右されやすいと思うんですよ。そういう時に、先ほども言っておられたんですけど、自分の主観じゃなくて、客観的にそのことをとらえて客観的に報道する中でいちばん心がけてきたことや大切にしておられることを教えてください。(女子)

渡部:はい。さっきの思い込みという話とつながるんですけど、たとえば、「避難者は帰りたいだろう」という思い込みに基づかないで、必ず、直接話を聞くとか何か資料を調べるとか、まずそれで客観的な根拠を得て、それからでないと表に出さないというのが当然です。

ちょっと見方を変えると、震災当時に力を入れたのは、生活情報というコーナーです。2~3ページをフルに使って、ひたすら、どこに行けば知り合いの身元確認の照会する所があるとか、どこに行けばガソリンがあるとか、どこのスーパーがやっているのか、金融機関でお金の相談はどうすればいいのかとか。そういう生活の情報をひたすらカバーするんです。そこには主観も入りようがない。ひたすら調べて、それを全部載せる。放射線量の数字も福島県が発表したものをそのまま載せる。ひたすら載せる。生活情報は新聞だけじゃなくて、ツイッターとかフェイスブックとかSNSでも流したんですけど、それが当時いちばん求められていた情報です。

 

Q:求められた情報ということを言われたんですけど、今だったら福島民報を読む人たちが必要とされている情報は何だと思われますか?(2年I君)

 

渡部:それはもう、きめ細かい情報っていうことに尽きます。みなさんがいらっしゃった趣旨に沿って原発事故の報道でどういう思いだったかということを今は話しましたが、それは報道の中の一部であって、新聞を見てもわかるように、いろんなニュース、スポーツ、経済、海外のニュースも当然載ってるわけです。いろんな分野にわたって、福島県の人が関心を持つだろう、あるいは、持ったほうがいいだろう・・・これはニュースかニュースじゃないかという判断だけで載せる。載せきれないものは次の日に載せる。自分が出た新聞を喜んで大切に取っておきたいというのも、私たちの大事な役目だと思っているので、引き続きたくさんの人を紙面に載せたいなと思っています。

 

Q:原発事故が起こる前と後で自分の中での原子力発電所という存在の変化とかはありましたか?(2年Kさん)

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渡部:事故は起こるものなんだなと。以前に私も富岡町で、まさに原発を担当する支局にいたので取材していましたし、「県政」と言って、県の政治の担当としても原発を取材していました。いろんな動きがあるわけですよ。原発をもっと増設しようという時期だったので、安全性がいちばん問題なんだけど、安全なんだな、事故は起こりえないんだな、という安全神話がどこかで染みついて、今回のような事故に至るということが自分個人の想定としてはなくなっていたという反省はものすごくありました。

私の中学時代の先生が、原発に否定的な話をよくしていました。その影響もあってか、原発の取材をする時は、ちょっと斜に構えて質問していたかもしれないし、鵜呑みにしちゃいけないというのはありました。その先生の言葉が下地として残っていたんですね。

でも、私もここで生活して、友達・・・良い人がいっぱい、東電関係で仕事している人がいっぱいいるわけです。そういう中で、安全なものなんだっていうほうに、結果としてちょっと縛られていたかなという反省もあります。

 

Q:取材をする中でいろいろなことに関わっておられると思うんですけど、その中で自分の考えとしては原発に反対か賛成かというのを教えてほしいです。(女子)

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渡部:反対とか賛成っていう二言で片づけられない問題ではあるわけです。ただ、原発に頼らない方向にしていかなくちゃいけないと思っています。

 

*****

 

最後に、渡部さんから生徒たちへのメッセージ。

「本当にこの3日間でいろんなことを吸収されると思います。吸収された思いというのを、イメージや印象も含めて、みなさんそれぞれ、何の脚色も要らないので、たくさんの人に話をしてほしいなと思います。で、できることなら、また違った形で、違ったメンバーで、また福島県に遊びに来てもらえたら、それがいちばんありがたいなというふうにも思います。」

 

自分たちがどんなことを聞いても新聞社の人がここまで率直に丁寧に話してくれることに生徒たちはいくぶん驚きながら、渡部さんの人柄と経験がにじみ出た回答ぶりに促されて、質問がどんどん溢れ出てくるようだった。生徒たちの素直に投げかける、大人なら躊躇しそうな本質に迫る問いが、渡部さんの言葉を引き出したとも言える。見守る大人側は、自分も手を挙げたい気持ちを抑えつつ、中学生とベテラン記者のやり取りに聴き入ったのであった。時間いっぱいに展開された真摯な対話の充実感が終了時のひと際大きな拍手にも表れていた。(続く)

 

 

福島民報の話を聞く ~2020京都発ふくしま「学宿」その8

現地の大人との対話に重点が置かれ、生徒たちによる情報発信に期待する今回の福島ツアーの中でも、地元紙 福島民報のベテラン記者との「情報発信についての対話」は、生徒たちの関心の高さが感じられるセッションだった。 

2月23日、朝から盛り沢山だったスタディツアー2日目。浪江町で何か所かバスを降りて歩き、大平山霊園を後にした一行は再びバスに揺られて夕刻、宿泊地「いこいの村なみえ」に到着した。到着早々この日最後の対話セッションに入る。語り手は福島民報社 地域交流局 地域交流部長の渡部育夫さん。 

冒頭、「みなさん、ようこそ浪江までおいでくださいました」という渡部さんの挨拶に応えて生徒たちは「よろしくお願いしまーす」と声をそろえた。朝から次々のプログラムを経ても元気だ。

福島民報は創刊128年。震災前には約30万部の発行部数があったが、避難の関係で23万部ぐらいまで落ち込み、そこから徐々に回復した現在の発行部数は約24万部とのこと。震災当時、機械が壊れるなどの被害を受けたが、休まず発行を続けてきた。

この日、車で1時間半ぐらいの福島市から駆け付けた渡部さんは、震災前に4年間、富岡町の支局に勤務した経験があり、原発なども担当。9年前の震災で原発事故が起きた時は、水素爆発の映像を福島市内でテレビで見ていた。その瞬間、思い出深い土地のたくさんの友だちやお世話になった人たちの顔がワーッと浮かび、言葉にならない衝撃を受けたという。

「昨日からいらっしゃって、どういうふうに福島を見られたか、みなさんそれぞれの思いがあると思います。復興が進んでいる部分もたくさんありますし、今日行かれた請戸小学校のように時間が止まったままの部分もあり、まだまだ課題もたくさんあって、言ってみればまだら模様みたいな、そんな感じかなと思います。」

 

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画面は震災翌日2011年3月12日付の福島民報の紙面。地震の被害が大きく、道路がずたずたに寸断されたので、本当はいつもよりたくさんの情報を伝えなければならないところだが、〆切を早くせざるをえなかった。原発事故の話はほんの少し。

「これ、一面なんですけど、原子炉の圧力が上がったということを扱っただけで、あとは津波の話。死亡も45人という段階で、津波の被害を受けた所でも届けられる所には届けました。」

翌3月13日の新聞。当然、津波地震の被害も甚大だったが、福島県では原発事故のニュースが大きく取り上げられ、以来ずっと原発事故に関するニュースが今日の新聞にも載り続けている。

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「その翌日(3月14日)の新聞では、相当な数の人々が避難をしなければならなくなったことを伝えました。」

福島県の避難者は最も多い時で約16万人だった。現在は約4万人。

「16万から見れば4分の1に減っていますが、10年近くも経つのに4万人の方がまだ避難している。で、そのうち1万人ぐらいは福島県内で避難をしている。これに対して3万人ぐらいの方が福島県外。すべての都道府県にいます。ちなみに京都には250人福島県の方が避難という形で移って、お世話になりながら生活をしているということです。」

福島県仮設住宅に住んでいる人は多い時で3万人ぐらい。今はもちろん減っているが、9年も経つのに今なお100人以上の人が仮設住宅で暮らしている。

仮設住宅というのは本来1年か2年という想定で造っているものですが、そこに9年間も住み続けているというのは日本では今まで例がないような状況かなと思います。」

続いて震災の犠牲者について。

東日本大震災で亡くなった人は、岩手県宮城県にもたくさんいるが、福島県に関しては、今年の2月現在で”直接死”と言って地震津波の被害で亡くなった人が1,605人。それに対して、津波地震で直接亡くなったのではなくて、避難を強いられたことによって体調を崩したり、病気が悪化したり、あるいは自殺をしたりという”関連死”と呼ばれるものが2,302人。関連死のほうが直接死より多い。 

「それが福島県の特徴。これは震災の翌年、この浪江町でスーパーを経営されていた方が自ら命を絶ってしまったということを伝えた新聞です。この時点で、震災の発生から1年以上経っているんですけども、その方はいつ商売を再開できるんだろうということを常々家族や知り合いにため息をつくように言っていたと。しかし、その望みが叶わず亡くなってしまった。このような自殺に関する記事などもたくさん当時、我々は出さざるをえなかった。このような方がたくさんいらっしゃって、原発事故の影響によると思われる自殺が福島県内で100人以上いるんですけども、直接死に比べて関連死というのは本当に原発事故が原因なのかどうか、特定がなかなか難しいケースもありまして、遺族の方が悲しむだけで、うやむやにされるというようなこともあります。」と渡部さんは語った。 

福島民報では、自殺などの関連死に国や東京電力がしっかりと目を向けてくれるよう、連載を通じて継続的にキャンペーンを展開している。

原発事故直後、ある大物国会議員が「福島県では、今回の原発事故で亡くなった人はいない」と発言したことがある。

「確かに原発事故によって、その原発から出た放射線の直接の被害によって亡くなった方はいないかもしれない。ですけども、避難生活を強制されることによって一体どれだけ多くの方が命を落としたのだろうか? おそらく、さっきお伝えした2,302人よりも多いはずですし、そういうところをしっかり見据えて対策を進めてもらわないと復興というのはなかなか進まないんじゃないかというふうに思っています。」と渡部さん。

 この9年間、風評や偏見という問題にも地元記者たちは胸を痛め続けてきた。避難した福島県の子どもが『放射線がうつる』などと、避難先の学校の子どもたちから全くでたらめな言葉を浴びせつけられていじめられたとか、あるいは、福島県の人との結婚を親が許さなかったとか。また、福島県外の大きな花火大会で使う予定だった花火が福島県で作られた花火だったため、市民の抗議によって花火大会が中止になってしまったとか。本当にいろいろなことがあった。

「風評の問題についても、このような記事によるキャンペーンを展開しました。全国に避難した方や福島県出身の方、あるいは、全国各地の地方紙と協力し合って、正しい理解を進めるキャンペーンを続けています。」

風評による被害の大きなものの一つが食べもの。つまり、福島県のものは危ないから食べない、買わないというような問題だ。「福島のものを積極的に食べて福島を支援しよう」という温かい支援が全国各地であり、理解はずいぶん進んできている。

「ただ、今もなお米の値段が下がってしまって、これは、米を作る農家や業者が困っているという記事ですが、米が売れないから値段を下げるしかないと。あと、福島県産の牛肉というのは、品質が良くて結構有名だったんですけど、これも値段が下がったまま戻らなくなって、農家のみなさんが苦しんでいるという状態が今も続いています。」

福島県の食べ物は輸入しないという近隣国もまだある。

「ちなみにこの記事は、風評というものが一体どこから発生して、どのように広まっているのか?ということがなかなかわからなかったので、それを調べて、米だけじゃなくて魚とか肉とか、テーマごとに連載をしました。3年前ぐらいです。そういう中で、福島県の食べ物はちゃんと検査をしているから安全だなんていう記事を出しますと、電話がかかってきます。『お前ら責任とれるのか!』というようなお叱りの電話が、これも数え切れないほど、私たち新聞社にありました。」

放射線についても、新聞では今も毎日のように数字を載せているが、「政府の言いなりになって、事実よりも低い数字を出してるんじゃないか」という苦情の電話がかかってくる。今はずいぶん減ったが、この9年間、たくさんの苦情電話が県外からもかかってきた。

放射線量についてどういう印象を持っているかわかりませんが、たとえば、この浪江町で、先ほどみなさんが行かれた請戸小学校のあたりからは第一原発が見えます。10キロもない。あそこは、あんなに近いんだけど、放射線量が0.08μSv/hぐらいです。昨日、京都の放射線量をホームページで見たんですけど、京都府庁で0.07μSv/hでした。だから、ほぼ同じぐらいの線量です。もちろん、高い所はまだ高いですが、浪江町のように原発に近くても、それぐらいの線量で、今そうなっているだけでなくて、ずっと前から低い所もあるということです。」と渡部さんはデータを示した。 

また、風評と同じように、福島県内と県外で人々の思いが違うだけでなく、同じ福島県の中に住んでいる県民同士でも、この記事のように、住んでいる場所によって原発事故の損害賠償に差があるなど、“心の分断”というような状況も一つの問題だった。たくさん避難者が引っ越してきたせいで、病院の待ち時間が長くなってしまったとか、「もういろんなところで心の分断のようなものが起きてしまったのもまた残念だなというふうに思います」と渡部さんは振り返る。

「とにかく、暗い記事がどうしても多くなりがちだったんですけども、そんな中でも決して真っ暗にはしないで、前向きな記事をしっかり伝えていこうということで、『ふくしまは負けない』というコーナーがあります。今日の新聞にも、みなさんも行ってきた請戸漁港の新しい市場がオープンしたと。あとで見てください。みなさんと同じような中学生が書いた記事も載せています。そんな感じで前向きな動き、明るい動き、あるいはこのような子どもの表情。暗い中でも笑顔はある。それを伝えようじゃないかということで、努めて真っ暗にしないで取り上げてきました。」

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地元の報道機関としての福島民報のスタンスとして、渡部さんは「3つのR」を提示した。

  • Report:知るべき人に知るべき情報を
  • Record:後世のために歴史を記録する
  • Review:多様な視点や論点を提供する

「こういうようなスタンスで報道を続けていますけど、”県民のために”というのが我々の立ち位置です。当たり前かもしれませんが、”被災者の目線で”ということをニュースの切り口にしている。それを折に触れて胸に刻みながらやってきたということです。」と渡部さんは語った。

この浪江町もそうだが、避難しなければならない区域はかなり減った。この3月には、双葉町で3月4日、大熊町で3月5日、富岡町の桜並木で有名な夜の森地区は3月10日、それぞれの一部だが避難指示が解除されるという動きがあった。まだ全住民が避難を続けている双葉町も一部避難解除になり、住民が戻るまでにはまだ時間がかかるだろうが、鉄道が通る駅前や、ある一部の地域については工場が稼働しホテルができる。

この浜通りを南北に貫くJRの常磐線。東京や仙台とつながる、住民にとっては非常に重要な鉄道が3月14日に再びつながるという動きもあった。

「この浜通りは震災が起きるまで、原発がいちばん大きな産業であって、ものすごい数の住民が原子力発電所になんらかのつながりを持ちながら働いて、ものすごい数の企業が原発に関する仕事を担っていました。その原発が福島に2つありますけども、事故を起こしていない第2原発のほうも廃炉が決まりまして、ならば新しい産業をどうやって育んでいくんだ、働く場所をどのように確保するんだということが大きな課題です。」

その中の打開策が「福島イノベーション・コースト構想」。東日本大震災及び原子力災害によって失われた浜通り地域等の産業を回復するために、新たな産業基盤の構築を目指す国家プロジェクトである。この浪江町には世界最大級の再エネ水素製造拠点である「福島水素エネルギー研究フィールド」が2020年3月にオープンした。東京オリンピックパラリンピックを始め、この水素が様々な場面で活用されるという。また、浪江町の北に隣接する南相馬市には、ドローンなども含め災害の時に活躍するようなロボット技術を開発する「福島ロボットテストフィールド」という拠点ができた。これもオープンしたばかりだ。

その後のコロナ禍の影響拡大で事態は激変したが、このツアーの時点では未来のことだった3月26日には東京オリンピック聖火リレー福島県からスタートする予定で、震災の年のワールドカップで優勝したなでしこジャパンのメンバーがスタート地点のJヴィレッジから走るはずだった。競技についても、全競技のスタートとなる女子ソフトボールの開幕が7月22日、また、野球の開幕戦も7月29日、いずれも福島県内で行われる予定だった。「震災で傷ついた福島の復興を世界に見せたい」というメッセージを強く打ち出したことが東京オリパラ誘致の一つの大きなポイントになったわけだが、復興はまだまだ「まだら模様」と表現した渡部さんは複雑な心境を語った。 

震災と原発に関して、福島県内外のメディア報道の違いについて話してほしいと学校側からリクエストがあったそうだが、「はっきり違いがあるかということは簡単には言えないと思います。」と渡部さん。

福島民報を含めて、そもそもメディア・報道機関は、”外からの目線”と言うか、非日常的な出来事、たとえば津波で大勢の方々が亡くなったとか、火事とか交通事故とか殺人事件とか、新型コロナウイルスもそうだが、日常的に常にあるものではなくて、非日常的に発生したことに飛びつく。それがニュースである。それを伝える。というのがそもそもの報道機関の習性であって、それは福島民報も同じだ。非日常には明るい非日常も当然あるわけだが、明るいことではなくて、どちらかというとネガティブなことにスポットを当てる傾向がある。

「でも、私たちが震災で痛感したのは、”内からの目線”と言うか、非日常だけじゃなくて、日常もニュースだということです。たとえば、浪江町のすべての住民が避難をしなければいけないということ、これはもちろんニュースですが、一人でも二人でも、戻ってくる人が少しずつ増えています。まだ少ないけれども、故郷で日常が戻って来たということもしっかり取り上げることが大事なんだなということをすごくこの震災で感じました。」

もう一つ感じたのは「事実と真実は違う」ということ。

「先ほど『原発事故で誰も死んでいない」』という政治家の言葉を紹介しました。これは事実だと思います。事実なんだけども、真実はどうなのか?原発事故さえなければ生きながらえていた命がどれだけあったのかということを伝えなければならないというふうに改めて感じました。」

ただ、注意しなければならないのは、良かれと思って報道したことが逆効果だったという場合もあることだ。たとえば、賠償金を受けられる範囲が広がって一歩前進したというようなニュアンスで記事を書けば、その対象にならない人や内容に納得がいかない人もいるわけで、記事が分断を誘発しかねない。

「あるいは、これは記者の基本中の基本ですけども、みなさんも気をつけたほうがいいのは、思い込みというのはものすごく危険だということです。たとえば、避難した人が自分の家に少しでも早く帰りたいだろうというふうに、避難をしていない私たちは思いがち。なんとなく感覚として、『帰りたい』はずだと思いますが、実際に避難していた人に取材してみると、必ずしもそういう人だけではなくて、子どもの受験を考えると帰るのは難しいとか、新しい仕事がもう成り立っているからとか、いろいろな理由で帰る意思のない人も相当数いることが、話を聞いてみるとわかる。『帰りたい』はずだという自分の頭の中の常識や知識だけで絶対に判断してはいけないと。直接話を聞くことが大事だというのがこの震災を通じてよくわかりました。」

たとえば、避難指示が解除されて1年経った町があり、そこには住民の1割が戻ってきて、9割が戻っていないというような状況があったとする。ある新聞は「住民の9割戻らず」という取り上げ方をする。それに対して、別の新聞は「住民の1割戻る」という見出しで取り上げる。どっちももちろん正しい。

「どっちも正しいんだけど、①9割戻らない、つまり、非日常のものが9割続いているということの方にスポットを当てるのか、それとも、②少しなんだけど町民の1割が帰ったというほうにスポットを当てるのか?全国紙だから①、福島県内の新聞だから②ということは簡単には言えないと思います。少なくとも私たちは②を心がけるようにしています。たった1割かもしれないんですけども、人っ子一人いなくなってしまった町に、一人でも二人でも戻ってきて暮らしが戻る。先ほどの『日常というのがニュースなんだ』ということで、ほんの少しの変化でも復興に向けての大きな前進だというような思いで新聞を作っています。」

「これから3月11日にかけて、テレビなども含めて、震災から9年経つ被災地の様子がいつもよりもたくさん報道される時期です。で、3月11日を過ぎたらまたそういう話題を取り上げることが少なくなりますが、私たちも批判は決してできなくて、1995年の阪神淡路大震災の時には関西のみなさん方のところよりも私たちのほうが冷めるのが早かったというのは事実だと思います。人の心理としていわゆる”風化”というのは避けられないものかもしれません。ただその風化を少しでも防いで、最近も台風や大雨がありましたが、そのような災害がいつ何時起きるかわからないという状況が今までより強くなってきたと思うので、私たちはそれにしっかりとした対応をするためにも地道に伝えていかなければならないと思っています。」 

福島民報社は新聞社で、確かに主力商品は新聞に違いないが、震災後、「あなたの会社はどんな会社ですか?」と聞かれたら、「地域づくり会社です」と答えるということが社員で共有されているそうだ。たとえば、中学生以上を対象とした公募で「ふくしま復興大使」を今までに244人に委嘱し、京都を含めすべての都道府県に、さらにイギリス、フランス、アメリカ、台湾など海外にも派遣し、いろいろ支援をしてもらったことに対する感謝を込めて今の福島の状況を県民の思いも含めて伝えている。また、「ジュニア・チャレンジ」というプロジェクトを昨年から始めた。小学生以上の子どもたちに地域づくり、地元を盛り上げるために実際やっていることやこれからやりたいアイデアを募って表彰するものだ。ものによっては一緒に実現させることも。震災の後に生まれた小学生でも、復興途上の福島で、自分のふるさとをなんとかしたいという意識が強いという印象をこうした取り組みを通じて感じていると渡部さんは語った。

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「復興って、まだ道半ばですけど、その中で先ほど言った風評などの課題も含めてクリアしていくのにものすごく大事なことは、今まさに、みなさんにここにおいでいただいたように、来てもらうこと、実際に見てもらうこと、感じてもらうこと。それがものすごく大きなことだと思っています。それが何よりの力になる。良いことばかりじゃないと思いますけど、京都に帰ってからもお互いにいろんな方に話していただけるといいなと思います。」
そして、福島出身の作曲家 古関裕而がモデルの朝ドラが始まることや、福島の日本酒は金賞受賞銘柄数が日本一多いことをして渡部さんは話をしめくくった。(続く)