「核のごみ」の問題を考えることについて
何年も前に書いたブログがふと人の目に留まり、原稿のご依頼につながるとは不思議なものだ。やはり書きためておくことには意味がある。
コロナ禍中に一念発起して飛び込んだ社会人大学院で修士論文を書いたものの、「放射性廃棄物の処分問題における市民参加の可能性――環境倫理学の観点から」なんていうタイトルで読んでくれる人はごく限られているので、さて、これからどうしたものか…と思っていた。まさに渡りに船のようなタイミングでご依頼をいただき、思い切って書いてみた。
内容的には、修士論文の「はじめに」で書いた「原子力に関してまともに話をすることができない空気」への問題提起と、第4章「市民参加による持続的熟議の可能性」の事例の一つとして挙げている「中学生サミット」の話を結びつけたもので、「未来の世代に引き継いでいかざるを得ない核のごみをどうすればいいのか?堂々巡りしがちな考えを整理し直しながら、中学生だけでなく、沈黙している周りの人たちの様々な意見を聞いてみたい」というような結びで今後につなげたつもり。
元々は記事のタイトルに「核のごみ」と書いていたのだが、メディア側の方針で「高レベル放射性廃棄物」になった。一方、小見出しや本文中の核のごみが、初出だけでなく全てカッコつきの「核のごみ」の表記とされたので、「核のごみ」がくどいほど繰り返されて、結果的に却って目立っている。
原子力について、一般公開されているウェブメディアに記名で書くことには毎度躊躇があり、今回は言葉遣いにもかなり心を配ったつもりだが、やはり不安は不安だった。SNS(と言っても年代的にfacebookが中心なので若い世代への発信にはなっていないが)でつながっている範囲の友人・知人から好意的な反応や感想をもらうとホッとするやら励まされるやら。
嬉しかったのは、「これまでのマスメディアの報道ではなかった視点で、新鮮でした」という感想や、「二項対立の問題にしがちですが、もはや世界は原発抜きでは成立しないほどのエネルギーを使っております。(中略)これから先をどう考えるのか、そしてこれまでの核廃棄物をどうすればいいのか 極めて重要な問題だと思います」というコメントだった。
家族にも読んでもらったところ、「瑞浪」「神恵内」といった地名にはフリガナを打った方がいいという実用的な指摘があった。確かに、「みずなみ」「かもえない」という地名を当然知っていると無意識に想定してしまうのは、かれこれ何年かこの問題に関わっているからであって、多くの人たちには馴染みのない地名だし、報道で耳にしてもすぐに忘れるのだということに気づかされた。
核のごみについて初めて書いたのは、まだジャパンタイムズに勤めていた頃だった。2010年代に広告局が発行していたThe Japan Times for WOMENという雑誌のコンテンツとして、求められるままに提案してみた特集「行動する女性が地球を救う」(なんという凄いタイトル!)の中身の一つで、「原発から出る『核のごみ』をどうすればいいのか?」という記事だ。(『The Japan Times for WOMEN』Vol.4, 32-35, ジャパンタイムズ)
残念ながらネットでは読めないが、手元の掲載誌を読み返すと、ずいぶんいろいろな人に話を聞いて一生懸命書いたものだ。当時の自分の必死さに胸が熱くなる。ちょっとでもチャンスがあると自主取材を敢行していた。
その後、新聞社を退職してから、折々このブログに書いた「核のごみ」関連の記事があちこちに散らばっている。検索機能が今ひとつ効かず、自分でも探すのが不便なので、この際、まとめておこう。
はじめは、やはり稲垣美穂子さん開催の小規模イベントだった。
おそらく、この2つのブログを読んで、中学生サミットの同行取材にお声掛けいただいたと記憶している。「地下500メートルの研究坑道に入ってみませんか?」という誘い文句に直感的に「行きたい!」と思ったのが運命だったのか。まずは好奇心に衝き動かされてのことだったが、あの時行っておいて良かった。もはや瑞浪の研究坑道は埋め戻されて入れないのだから。
岐阜県・瑞浪超深地層研究所で当時は見学できた地下500mの研究坑道
初めて同行したのは、2017年1月だから2016年度の「中学生サミット」だった。
中学生サミット2017その② 中学生の疑問にNUMOが答える
毎年、参加生徒も行き先も異なり、あとから振り返ると、2016年度は少人数でおとなしい活動ではあったが、私にとっての初めての同行取材の印象は強く、これが”対話”とか”話し合い”というものについて考えるきっかけになった。依頼を受けて、ブログをもっとコンパクトにまとめた「報告」を原子力学会誌にも書いた。
以来ほぼ毎年、年に一度開催される中学生サミットに同行取材を重ねてきたが、次にブログに書いたのは2018年12月に開催されたものだ。
ブログに書いたのはこの2シリーズ。2022年度に北海道の神恵内村で開催された中学生サミットについては、過去の話も含めて原子力学会誌に「報告」を書いた。
残念ながら昨年度は行けなかったが、よくまあ何度も同行させてもらったものだ。
IEEI(国際環境経済研究所)のサイトに書いた今回の記事を読んで、ちょっと辛口のコメントをくださった方もいる。
- 個人的な好みかも知れませんが、「未来を担う子どもたちに委ねよう」という発想にはある種のうさんくささを感じます。放射性廃棄物を将来世代に押しつけてしまったのは現代の大人世代であり、そもそも選択権のない子ども世代に委ねるという発想自体が、自らの責任を免罪する行為であるように思えます。
おっしゃる通り、現代の大人世代が自らの責任を免罪するわけにはいかない。私は、中学生サミットをことさら礼賛しようとしているわけではないし、次の世代に委ねればいいと思っているわけでもない。ただ、これほど大人同士で原子力の話をしづらくなっている状況をどうにかするために、中学生たちのオープンな話し合いを少しは見習ってみたらどうかと思う。
また、今の法律通りに進めていくにしても、最終処分地を選んで処分場を建設して核のごみを運び込んで閉鎖するまでに100年かかるという事業である。よく言われることだが、現在の大人世代どころか、中学生だって、核のごみの処分事業の完了を見届けることはできないのだ。さらに、今の法律とは違ったやり方に変えようというような議論が出てきたら、もっと時間がかかるかもしれない。そういう難案件であることがわかっているのなら、次の世代にどうやって引き継いでもらうかを考えるのが、現代の大人世代の責任ではないだろうか。
「読みました!たくさんの人が読んでくれるといいと思います。」
と言ってくれた先輩ライターの激励に勇気100倍! 少しずつ、なるべく硬くならない連載を目指していきたいと思う。
還暦にあたりブログを再開します
おかげさまで還暦を迎えた。早いものだが、生まれることができ、ここまで生きてこられたことに感謝するほかない。
なぜか私は何かを書こうとしてきた。いつ頃からだろう? 昨年、実家に残っていた自分の持ち物を整理していたら、小学校に上がった頃に作った絵本が出てきて驚いた。宿題でも何でもなく、画用紙を何枚か折ってセロテープで貼り合わせただけの数ページの冊子に稚拙な文章が綴られ、下手くそな動物の絵が色鉛筆で描かれている。お菓子の動物たちが動き出すという自作の物語には確かに憶えが・・・恥ずかしい素朴さだが今見るとただ懐かしい。よく置いてあったものだ。
何かを書こうとするのは、誰かに何かを伝えたいから、のはずだが、ほかにも伝える方法はなかったのか? 人によっては、絵を描いたり、歌を歌ったり、楽器を奏でたり、あるいは、踊ったり、演じたり、スポーツしたりといった身体全体を使う形で、より良く伝えられるのかもしれない。言葉では伝えきれないことまで伝わるかもしれない。
言葉を連ねた文章では伝えきれないことがたくさんあるとわかっている。それでも、自分には文章を書く以上に伝えたいことを伝えられる方法がないから、私は何か書こうとするのだろう。たとえ思ったようには伝えられなくても。
何を伝えたいのかすらはっきりしない場合もある。師匠の一人は「書くことがない時には書かないことです」と言ったが、ただ黙って考え込んでいることは結構苦しい。自分の中でモヤモヤしている考えを、自分にとってはっきりさせたい思いに駆られて、とりあえず何らかの言葉にしてみようとする。それでモヤモヤがいくぶん整理されたような気になる。
だから日記もよく書いていた。小学校の高学年あたりから断続的に、大人になっても折に触れて書いていた日記が我が家の段ボール箱に数十冊ある。およそ他人様に見せられる代物ではなく歴史的価値は一切ない。やがて、ウェブ時代の流行りに倣いブログを書くようになった。ウェブ上で他人様も読める文章だから、自分だけの日記とは違うはずだが、なぜかブログを始めたら紙の日記帳を使わなくなった。そんなにあちこちに書いていられないし、自分だけのために書く気にならなくなったのかもしれない。やはり、読んでくれるであろう誰かと何かを共有したいのか? 手違いで消えてしまったブログも入れると、この「よろず編集後記」で3代目のブログだ。
昨年の初め、父が亡くなった直後に書いて以来、1年半ほど更新していなかった。理由はいろいろある。さすがにしばらく落ち込んでいたし、確かに忙しかった。誰に頼まれたわけでもないのに敢えて社会人大学院の門を叩いたからには論文というものを形にしなければと思い詰めていた。2年の修士課程はあっという間で、ひたひたと迫る〆切に焦りながら、道半ばの内容を何とかまとめるだけで精いっぱいだった。しかし、そんな日々であっても、食べるとか眠るとか、洗顔とか歯みがきとかはするのだし、減らしていたとはいえ仕事も続けていたわけだから、ブログが劣後扱いになっていたことは間違いない。そうこうするうちにブログを書く気持ちにブロックがかかってしまった。
長い空白期間を経て久しぶりに読み返してみると、あれやこれやと長々しい文章をよくぞ書いたものだ。我ながら呆れる・・・どうやって時間を捻出したのだろう? 今よりヒマだったのか? 寝てなかったのか? どうしても書かずにいられなかったのか? 仕事でもないのに。
いや、仕事と言える場合もあった。原子力の問題をテーマにした中学生の研修ツアーに何度となく同行取材した時のレポートは、どこのメディアに載ったわけでもなく、このブログが唯一の記録になっているものが結構ある。逆に、仕事で音楽関連のプレビュー記事を書いた後で、実際のコンサートに行って、感激のあまり感想を綴っている場合もある。どちらもある意味、書かないわけにはいかなかった。
雑多な内容がランダムに並んでいて、検索機能もないので、様々な記事があちこちに埋もれている。何か特定のテーマに特化したウェブサイトにしたほうが良いとか、ジャンルごとに分類してスッキリさせた方が良いとアドバイスしてくれた友人もいる。確かにその通りだろう。
しかし、音楽を聴きに行く自分も、原子力関連施設を見に行く自分も、自分という一人の人間であり、自分の中では、それぞれの取材は決して別々の異なるジャンルではないのだ。それがどう繋がっているのかは、うまく言えないが、音楽も科学の法則に則った現象であるし、どんなテクノロジーも人間の営みである以上、両者は無関係ではないと思っている。そこまで言うと雑すぎるかもしれないが、さまざまなことを繋げて、そこに何かを見出すのが編集の妙ではないだろうか。
ということで、今後も強いてジャンルに分けることはせず、その時その時に書きたいことを書き連ねることにする。どうやら心のブロックが外れたようだ。何かを書こうとするサイクルに戻ってきたのかもしれない。モヤモヤとはっきりしない自分の頭の中を整理したり心の内を探ったりすることを再開してみようと思う。マイペースで。
5歳の頃に描いた自画像。これも実家の母が長年保管してくれていた。幼少期を過ごした西独(当時)デュッセルドルフの幼稚園で、卒園前にどの子もそれぞれ描いたはずだ。黄色い太陽から下向きに赤いビーム光線が描かれているのがドイツっぽい。下の方に書いてあるDas bin ich!!!(It's me!!!)という流麗な筆記体は担任の先生の字だろう。三つ子の魂百まで。私はこの当時から基本的に変わっていないのだと思う。まだ文章は書けなかったけれど。
父を見送って
父が亡くなって二週間。まだ心の整理がついたとはとても言えないけれど、東京の自宅に戻って久しぶりに近所の川べりを歩きながら、ようやく、少なくとも、自分を取り戻しつつある。
心配性で先々のことまで考えを巡らし、万全の準備をしないではいられなかった父は、もう何年も前から「終活」に取り組み、書置きをファイルとUSBにまとめていた。「ここにあるからな」と聞いたのはいつだったか。私が嫌そうな顔をすると、「いや、大事なことなんや」とたしなめられた。お正月に私たち一家が帰省して家族が揃うと、父は上機嫌で乾杯しながら、「これが最後の正月やからな」と言ったものだ。夫も息子たちも覚えているだろう。「毎年言ってるよね」と苦笑しながら、それがいつまでも続くような気がしていた。コロナ前の話だが。
昨夏、父が自宅で倒れたという知らせを受けてから、この半年あまり、できる限り帰省しては、父の入転院や介護施設への入居に関して、家族と力を合わせて対応してきたつもりだが、それでもごく限られた時間だ。日頃の具体的な段取りは、突如一人暮らしになった母のケアも含め、近くにいる妹や弟に全面的に頼ることになる。私は「遠方の親不孝な姉」である自分が心苦しかった。気持ちを言葉や物で表すのも上手くなく、実家に帰り、施設にいる父に会いに行く時にも、父の話に精いっぱい耳を傾けることぐらいしかできなかった。
一月の最も寒い時期、大阪でも雪が降った日の夕刻、父は息を引き取った。直前に施設で父に会っていた母と妹は帰宅途中で知らせを受けて引き返し、弟も大急ぎで駆けつけたが、間に合わなかったという。新幹線に飛び乗った私がようやく到着したのはもう夜更けの10時過ぎだったか。待っていてくれた家族のおかげで、私は施設の父の部屋で最期の姿にありのまま会うことができた。もう冷たくなってしまった顔は穏やかで、信じられないほど瘦せ細った胸にはまだ人肌の温かみが残っていた。
そこから葬儀が終わるまでの場面をぼんやり振り返ると、家族葬と仏教が融合したカタチの中に世の中と家族のありようが立ち現れ、やがて諸行無常を悟るのだった。
通夜の読経の後、僧侶は語った。
「生前に何もしてあげることができなかった、もっとこうしてあげたらよかった、と後悔するのは自分中心のとらえ方です。」
そうではなく、故人にしてもらったことのほうがずっと大きいのだと。してもらったことの有り難さに思いを致すようにという説法に、まるで自分の心を見透かされているような気がした。
その通り。してもらったことばかりではないか。幼い日の自分と若かりし父のかすかな記憶がよみがえる。生まれてこの方、今日に至るまで、父にしてもらったことばかりだ。
昨年の秋、施設で父の体調が比較的安定していた頃、我が家では予定通り、長男と次男がそれぞれ東京で結婚式を挙げた。孫の結婚式に来てくれた母の楽しそうな写真を見ると、心から嬉しく、幸せな気持ちになる。父は母に「気をつけて行っておいで」と言って送り出してくれたそうだ。そんな最高のプレゼントをした上で、父は無事の挙式を見届けてくれたように思えてならない。これもとんでもなく自分中心のとらえ方だ…罪深い娘でごめんなさい。
年末に誤嚥性肺炎から敗血症まで併発して入院した父の重度の炎症が、年明けに収まったのは今から思えば奇跡だ。病棟でちらっとだけ見た父は、満身創痍で最後の力を振り絞って闘う戦士のようだった。何としても退院しようと。父の意思も踏まえた医師との面談を経て、私たち家族が選んだのは、慢性期病院への転院や延命治療ではなく、昨夏以来とても良くしてくれた信頼できる施設での看取りだった。
施設に戻っての最後の二週間、母や妹一家や弟一家はもちろん、東京方面から週末にようやく駆けつけた私の夫や3人の息子たちにももう一度会えるまで、一日一日命をつないでくれた強さは、もう心配性で怖がりだった父とは違っていた。そして、家族が直接会って過ごす最後の時間を大切にしてくれた施設の対応も有り難かった。
台湾で生まれ10歳で終戦を迎えた父。日本に引き揚げ大阪で再起を図った一家の長男として、家業の材木屋を手伝って大八車を押したことをよく話してくれたものだ。満州生まれで日本に引き揚げた母との出会いは運命の赤い糸としか言いようがない。日本の敗戦がなければ私たち三人姉弟は生まれていないのだ。ことあるごとに父は子どもたちや孫たちに平和の大切さを説いた。
日本で最初にできたニュータウンに新婚の居を構え、社内初の海外駐在員として当時の西ドイツに赴任した父は、高度経済成長期の先端をひた走った昭和の企業戦士の一人である。若き日の海外生活の影響は大きく、帰国後も終生ドイツびいきだった。当時、幼稚園児だった私は良くも悪くも「三つ子の魂百まで」のようだ。
信念を持って我が道を行く父は、世の中に迎合せず、時に気難しく、私は何度となくひどい言い返し方をして父を本気で怒らせた。いや、悲しませてしまったに違いない。その時は反発を覚えた父の言葉を何年も経ってからふと思い出し、嚙みしめるうちに、やっとその意味がわかることもあった。そんな愚かな娘を黙って許してくれた父からの宿題のような問いがたくさん残され、私はこれからも考えずにはいられないのだろう。
葬儀と同日、骨上げの後に営まれた初七日の法要での説法が一段と心に沁みた。
「故人はこの世の苦しみから解放され、これからは仏さまとなって私たちの心に在って導いてくださるのです」
諸行無常。
でも、残された家族のそれぞれの心の中に父はいてくれるのだ。私の心の中にも確実にいる。そう思うと、少し救われるような温かい気持ちになる。仏さまか・・・「アホやなあ、あんたはなんもわかっとらん」という父の声が聞こえてきそうだ。
楽都松本の人々 ~セイジ・オザワ松本フェスティバル30周年 その③
2008年の夏に初めてサイトウ・キネン・フェスティバル松本に行くことができたのは、実家の母のおかげだった。
かねてより、世界のセイジ・オザワのカリスマ性を求心力に錚々たる演奏家が集結するサイトウ・キネン・オーケストラには、興味も憧れも大いにあったが、チケットはほぼ即日完売で入手困難と聞いていたし、松本まで出かけるのもなかなか大変なので、私には縁がないものだと思っていた。
ところが、思いがけず、そのサイトウ・キネンのチケットを母から譲り受けたのである。当時、ちょくちょく音楽の雑文を書き始めた私が、少し前に、大枚はたいてパリ国立オペラを観てきた記事を読んだ母は、「そういうことなら、これはあなたが行ってらっしゃい」と、自分が買ったチケットを郵送してくれた。まことに親というものは有り難い。
そもそも母がサイトウ・キネンの貴重なチケットを購入できたのは、松本在住の友人がいるからだ。松本市民枠というのがあるらしい。Y夫人はかれこれ50年来の付き合いという母の旧友で、私も学生時代に信州旅行の拠点としてご自宅に泊めていただいたことがある。このフェスティバルが始まる前の話だ。
2008年、母に代わって松本へやって来た私は、懐かしいY夫妻と実に20年ぶりの再会を果たした。Y夫妻に勧められるまま、コンサート前の腹ごしらえにと、とびきり美味しい信州の手打ちそばをごちそうになり、まだ時間があるからと、市内のご子息宅でお茶をいただいた上に、きっと駐車場がいっぱいだからと、ご子息の奥様に文化会館まで車で送っていただいた。とにかく、何から何までお世話になり、感謝するやら恐縮するやら。
Y夫妻は、サイトウ・キネンを初回から今年まで17回、毎年欠かさず、オペラもオーケストラ・コンサートも聴いてきたという。
1992年に初めて開催されたサイトウ・キネン・フェスティバル松本で「エディプス王」を観た時のことをY氏はこんなふうに語ってくれた。
「僕にとっては初めてのオペラだったんです。ジェシー・ノーマンの存在感に圧倒的されましたね。僕は別にクラシック音楽ファンではなかったけど、こんな凄いものを自分たちの町で生で聴いたら、これはもう来年も絶対聴きに行かなきゃと思ったし、実際ずっとそうしてきました。」
ぜひ来年もまた聴きたいと思わせる力がこうした新しいファンを育て、そういう積み重ねがあってこそ、遠方の友人も誘ってみようという話になり、巡り巡って私のところにもチャンスが来たのである。
マエストロ小澤征爾の入魂の指揮がオーケストラから素晴らしい音楽を引き出し、聴く人の心を動かし、行動を促す。その行動は別の人にも影響を与えるかもしれない。いったんポジティブな連鎖が始まれば、それはどんどんつながって広がっていく可能性がある。
地元で技術力の高いベンチャー企業を経営していたY氏は、オーケストラの個々のメンバーの力を引き出し、全体をまとめ上げるようなリーダーシップにいたく興味を示しておられた。
2008年のコンサートの冒頭、小澤氏は、サイトウ・キネン・オーケストラの若い仲間であり、その年の初めにガンで亡くなったコントラバスの都筑道子さんに黙祷を捧げる旨を告げ、会場は水を打ったようにシーンとなった。目を閉じる。ステージ上の音楽家達と満席の聴衆が結集して沈黙をつくる。
こうして荘厳な沈黙から始まったコンサートの沈黙の緊張感は、2曲目の武満徹の「ヴィジョンズ」が終わった後にも感じられた。
「最初の頃はね、どこで拍手したらいいのか、係の人が合図してくれたのよ」
休憩時間にY夫人が笑いながら言った。
「さっきの曲みたいに余韻を味わいたいのもあるじゃない? 松本のお客さんもレベルアップしたのよね」
ちなみに、聴衆の半分強は地元の人達、あとは関東方面を中心に県外から来るらしい。
あの日、メインのマーラーの交響曲第1番の演奏が終わって拍手万雷の中、「元気をもらったわ」と言っていたY夫人は元気にしておられるだろうか。
あれから14年。
2022年の30周年記念公演終演後、マエストロ小澤征爾は車椅子でステージに現れた。マエストロと同い歳である我が父も今では車椅子の身である。マラ9の終楽章がことのほか心に沁みた。
終演後の夜半、私はとある蕎麦屋のカウンターで余韻に浸っていた。開演前には食べる時間がなかったので、手打ちの信州そばと、「季節限定」と張り紙がしてあった「信州きのこの朴葉焼き」というのをいただいてみたら、これが実に美味しくて、思わず地酒のちょい呑みも頼んでしまった。
店の入口近くの壁にOMF(セイジ・オザワ松本フェスティバル)のロゴ入りTシャツのミニチュアが各色飾ってあってカラフルに目を引く。お勘定の時に、
「今このコンサートを聴いてきたんです。素晴らしかった…!」
と伝えると、朴葉焼きの食べ方やオススメの地酒を教えてくれた感じの良いその女性は、
「いいですね~ お店があるからなかなか聴きに行けないんですよ。うらやましいです」と言った。
松本市民に愛され、支えられ、遠方からも聴衆を引きつけるフェスティバルが、これからも続いていくことを心から願う。来年は母と一緒に聴きに来たいな……。(完)
サイトウ・キネンの記憶 ~セイジ・オザワ松本フェスティバル30周年記念 その②
コロナ禍中、一旦ほぼゼロになった音楽会。感染状況に応じて開催方法を模索する大変な時期を経て、有観客の演奏会が復活してきたのは有り難いことだ。松本のフェスティバルもこの夏、3年ぶりの有観客公演となった。
そうした幾多のコンサートのうち、自分が実際に行ける会はごく僅か。ある演奏を生で聴くことができるのは、よっぽどの奇遇であり、そこにはきっと何らかの縁がある。
もう一度サイトウ・キネンに関する記事を書くことになるとは予想していなかったこの夏、取材のために過去の資料をあれこれひっくり返していたら、2008年に初めて松本のフェスティバルに行った時に書いた原稿が出てきた。読み返すといろいろ思い出す。(以下、当時の原稿からリライト)
1992年、日本アルプスの麓にある長野県松本市で誕生したサイトウ・キネン・フェスティバル松本が、2008年で17回目を迎えた。小澤征爾氏とサイトウ・キネン・オーケストラが母体となって、オーケストラコンサートとオペラの2本を柱に毎年8月下旬から9月上旬にかけて開催される。
サイトウ・キネン・オーケストラは、桐朋学園創立者の一人である齋藤秀雄(1902-1974)没後10年にあたる1984年、彼の弟子であった指揮者の小澤征爾氏と秋山和慶氏を中心に、世界各地に散る同門の教え子たちなどが結集して臨時編成されたメモリアル・オーケストラである。
実は、マエストロ小澤征爾の指揮を私が生で見たのは、この2008年のフェスティバルが初めてだ。体調を崩されたというニュースに心配したが、思ったよりお元気そうでホッとする。
2008年9月6日のBプログラムは、モーツェルトの交響曲第32番ト長調で始まり、2曲目には、武満徹の「ヴィジョンズ」、そして、メインはマーラーの交響曲第1番ニ長調「巨人」というものであった。驚いたことに、1曲ごとにコンサートマスターが変わり、さらに、小澤さんが最初からステージ上にいらっしゃる。皆が対等の仲間であるということが徹底された形であろうか。
オーケストラには、様々な個性をもった楽器が集まり、各人が決められた役割を忠実に果たすことによって秩序ある音楽を作り上げていく。その意味で社会の縮図だと常々感じていた私は、指揮者の号令の下、個人の自由をある程度犠牲にしてでも、全体における自分の役割に徹するのが、オーケストラの奏者のあるべき姿だと思っていたのだが、今日の演奏を聴いていると、別に個人の自由を犠牲にすると思う必要はないようだった。
サイトウ・キネン・オーケストラは、普段はさる一流オーケストラのコンサートマスターだったり、管楽器の首席奏者だったり、あるいは、オーケストラなどに属さず室内楽やソロ活動に専念していたり、とにかく誰もが、その他大勢ではない「自分が主役」みたいな人たちの集まりだ。だから、ヴァイオリンには、コンサートマスターみたいな弾き方をしている人が多くて、なかなか見応えがある。マスゲームのように揃った弓の動きでない代わりに、のびのびと鳴っている楽器が、小澤さんの指揮と共に熱くなっていく感じだ。また、クラリネットのカール・ライスター氏は、ひとこと「カッコウ」の鳴き声を吹くたびに目いっぱい首を振る気合いの入りようだし、あんなに激しく弾くコントラバスも、学生オケならともかく、プロではあまり見たことがない。
そういう集団だとバラバラになる危険性もあるが、そこを一つにまとめるのが、やはり小澤征爾氏の凄さなのだろう。と言っても「オレの言う通りにしろ」と上から押さえつけるのでは決してない。個々人が目いっぱい自己主張している良さを生かしつつ、そういう構成員の自己主張を上回る音楽への理解のための努力と捨て身の献身をもって全体の方向性を示し、一音一音に渾身の指示を出すのである。熱い指揮ぶりは聞きしに勝る全力投球だ。身体全体を使って語る「音楽語」は奏者達にも聴衆にも直接伝わる。
その「音楽語」に納得したメンバーが、自分の技量の最大限をもって応えるという関係なのか、あるいは、もっと感覚的に、マエストロの内から迸るような音楽におのずと巻き込まれていく状態かもしれない。そうやって個々の奏者が発する音から一つの音楽が出来上がってくるのは見事だ。たとえば、一流のチェロ奏者達やヴィオラ奏者達が目いっぱいの弓使いでブンブン鳴らしてくれるユニゾンは、ばっちり揃っている上に、なんとパワーに溢れていることだろう。オーケストラから客席に押し寄せる熱い音塊は、クラシック通であろうがなかろうが、聴く人の心を揺さぶらずにはいない。
あらためて生で聴いて、マーラーの交響曲第1番が以前よりもっと好きになった。とくに、2,3楽章は演奏もとてもよかった。いかにもヨーロッパ的な、ウィーンの街角を思わせるフレーズには、気のせいかも知れないが、西洋のクラシック音楽への憧れや実際に体験したヨーロッパでのほろ苦い思い出など、日本人演奏家ならではの思いが込められているようで、味わい深かったのである。
さらに次々展開する曲想は、いろいろなことが起こる人生のようで、なかなかうまく行かなかったマーラー自身の生涯や、小澤征爾その人の波瀾万丈の歩みともダブって聴こえてくる。終楽章にあれ?と思った箇所があったが、そんな小さなミスをものともせず、音楽はあくまでも前へと進んで行く。やがて輝かしいクライマックスに至り、ホルンが一斉に立ち上がった時には無性に感動し、演奏が終わって隣席の知人から「すばらしかったね」と声をかけられた時にも、まだ口もきけずにただただ拍手していた。
小澤さんは聴衆に応えながら、ステージ上を駆け回って、オーケストラのほとんどすべてのメンバーに挨拶していった。一番後ろのティンパニに至るまで、一人一人と握手して言葉を交わす。最後は、いったん舞台袖に下がったオーケストラのメンバーがもう一度出てきて小澤さんを真中にして並び、客席に手を振っていた。客席でも立って拍手する。高く掲げた両手を振る人もいた。
「元気をもらったわ」
拍手がまだ続く中、知人は言った。本当にそうですね。「終わりよければすべてよし」だし、その過程の紆余曲折もすべて尊いではないか。心からそう思えて元気が出る。そして、来年もまた聴きに来たいと願うのだった。
*****
そして翌2009年、The Japan Timesでサイトウ・キネンの記事を書くことになった。プレビューだから、前年に一度でも聴いておいてよかったと思った。それとも一度でも聴きに行ったから、このような仕事が巡ってきたということか。その頃はマエストロ小澤へのインタビューの機会はなく、話を聞ける人たちを必死で探し、そこで出会った元マネージャーの平佐素雄氏のアドバイスで水戸まで出かけ、水戸室内管のコンサート終焉後、楽屋の前の長蛇の列の最後尾に並んで、浴衣姿の小澤氏に短いコメントをいただいた。
病気療養中だったマエストロが2013年に指揮復帰。初の単独ロングインタビューという信じられない機会にも恵まれた。
2017年に再びロングインタビュー。カナダ人のエディターと長野県の奥志賀まで日帰りで取材に行ったのが良い思い出。若い世代への教育にかけるマエストロの情熱とその薫陶を受けた若者たちの熱い合奏、とくにあのチャイコフスキーの弦楽セレナーデに彼も心を打たれたようだ。
やはり、ご縁は不思議なものだ。機会に恵まれたことにしみじみ感謝する。(続く)
晩秋のマラ9 ~セイジ・オザワ松本フェスティバル30周年記念 その①
どうも信州に縁があるようで、中学校の修学旅行、家族旅行、学生時代の農協でのアルバイト、最初の職場のスキー旅行、新聞社での取材など、何かと訪ねる機会が多いエリアだったが、晩秋の信州は初めてだ。中央線の車窓から見える枯葉色の山並みの向こうに、異次元に荘厳な雪山が現れて息をのむ。富士山がこういうふうに見えるのか! これから聴きに行く音楽の予告編のようだった。
サイトウ・キネン・フェスティバル松本が始まったのは1992年。華々しかったに違いないそのオープニングを残念ながら私は知らない。ちょうど仕事を辞めて夫の赴任先に同行した夏だった。スマホどころかネット以前の時代、幼い長男を抱えての外国暮らしに慣れるのに精いっぱいで、日本の新聞などほとんど見ていない。
のちに英字新聞社で音楽の記事を書き始めた頃、初めて松本のフェスティバルに行ったのは2008年だった。だから、今年30周年を迎えたフェスティバルの歴史の中で後半(の一部)しか知らないわけだが、それでも、サイトウ・キネン・オーケストラの演奏をたびたび聴き、記事を書く機会に恵まれた幸運には感謝するほかない。
直近の記事は、小澤征爾氏の愛娘で2020年にサイトウ・キネン・オーケストラの代表に就任された小澤征良(せいら)さんへのインタビュー。オーケストラへの思いとフェスティバルをしっかり守っていきたいという決意を語っていただいた。
そんなわけでこの夏は久々に松本を訪ねた。さらに11月、30周年記念コンサートも聴きに行けるとはなんと有り難いことだろう。しかも演目はマーラーの交響曲第9番なのだ。
大学時代、学生オケ三昧のきっかけになったのが、入学式で聴いたワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー前奏曲」の祝典演奏だったとすれば、マラ9は学生オケでの日々をしめくくる最後の演奏会だった。
開演前、キッセイ文化ホールの客席で私は必要もなく緊張していた。微かなチェロから始まる第1楽章の入りの緊張感を思い出して身体に力が入る。ハープの弦がはじかれ、遠い角笛のようなホルンがちゃんと鳴り(あたりまえだがさすが!)、子守歌みたいな甘美なメロディが流れ出して、ようやく力みが抜けた。
うっとりする間もなく曲はどんどん変容していく。ああ、そうだったそうだった。さまざまな楽器が代わる代わるテーマの断片を気持ちよさそうに歌う。セカンドヴァイオリン、ホルン、コールアングレ、ファーストヴァイオリン、クラリネット、オーボエ、フルート、トランペット……とても追いきれない、めくるめく展開に見事なソロの連続。ティンパニまでが旋律を奏でてハッとするが、考えてみれば驚くに当たらない。なにしろカッコいい役だ。しかし、主役でいられる時間は長くは続かず、次々とその座を他の楽器に受け渡し、絶えず絡み合い、時にぶつかり、そして溶け合い、あちこちで何事かが為されている複雑なサウンドが立ち現れてくる。何がどこにつながるかわからない。複雑なこの世の中がそうであるように。
トランペットが高らかに響き渡る青春の歓喜がいつまでも続いてほしいと、大太鼓とシンバルが盛り上げる願いも空しく、浮き沈みの激しいジェットコースター人生は一気に奈落の底へと突き落とされ、トロンボーンが絶叫する。そこは亡者が蠢き恨み節をつぶやく地獄なのであった。葬送行進曲と子守歌が入り混じる。葬送の鐘が鳴る中、トランペットの不吉なファンファーレに呼応して弦楽器群が決然と増幅する旋律がホールを切り裂く時、戦慄しながら悟るのだ。生まれ落ちた時からいずれ死ぬことは決まっていると。子守歌は生まれてしまった子どもを慰めるためのものなのか……。
第1楽章ですでに人生が終わったような気がするのに、続く第2楽章はなんとも俗で脳天気。いや、それでいいのだ。楽しいし、時々甘美だし、世界も人生もそれでオッケーというふうに聴こえる。それは死すべきさだめの人間が、悪あがきしながら精いっぱい生きている姿ではないか。ファゴットやホルンがドレミファソッソッなんて冗談のような音階を繰り返し、ティンパニがバンバン叩かれ、酔っぱらいのようなクラリネットに乗せられて一同狂ったように踊りだす。ええじゃないか、ええじゃないか!
第3楽章も違った意味で俗っぽい。勇ましいような不穏な、何の行軍か。しかし、やっぱり全部冗談ですと言っているようなパッセージを集団で激しく弾きまくる弦楽器のダウンの弓使いが鬼気迫り、トライアングルやグロッケンの澄んだ金属音が冷たくきらめく。そんな冗談が続くのかと思っていたら、突然崇高な感じになって何事かと驚く。なになに?急に美しいではないか。俗世に突如現れた天の啓示か?それとも若くて純粋だった頃の理想みたいなものを急に思い出したということ?・・・いやいや、そんな夢想は霧散し、一段と狂気の度合いを増したイケイケドンドンが最後は猛烈に走り出し、弦も管も打楽器も滅茶苦茶な勢いのまま幕切れ。
そして第4楽章。
これはもう異次元……崇高な美しさにひれ伏すしかない。まさに車窓から遥かに仰ぎ見た雪の富士山のようだ。いつもそこに在りながら、なかなか見えず、ましてや登ることなど叶わぬ冬山の頂は神々の居所。日々憧れつつも、この世に別れを告げなければ辿り着けない彼岸の境地である。世俗の第3楽章で一瞬垣間見えたその何かに向かって、もはや冗談を言うのは止め、魅せられたる魂はゆっくりと彼岸に近づいていく。ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスの弦が熱く擦られ、重なり合った轟音がうねり出し、木管も金管も加わって一つになる。聖なる和声の妙なる響きに心を合わせる奏者たちの渾身の姿が神々しくて、同じ人間として胸が熱くなる。人間って、こんなことができるのか! クライマックスに向かって大太鼓の地鳴りが最大音量に達した頂点でシンバルが炸裂し、抗い難く涙腺が決壊する。休符ばかりの楽譜の意味を疑いながらじっと耐え、要所ですっくと立ち上がってホールの床まで震わせる大太鼓が、ここで登場するのだ。私はあんなに重要な、大それた役割を担っていたのか……涙が止まらない。
末尾はゆっくり、やがて消え入るように、生まれる前に戻るように、音は彼岸へと去った。アンドリス・ネルソンス氏の手はなかなか下がらない。静寂がホールを満たす。
……なんという音楽。
サイトウ・キネン・オーケストラの演奏でこの曲をもう一度聴くことができたとは、なんという巡り合わせだろう。ホルンのデレク・バボラ―ク氏やフルートのジャック・ズーン氏をはじめとする超一流のソリストたちの妙技に痺れ、まさに「野球で言えばオールスター・ゲーム」(マエストロ小澤征爾の元マネージャー平佐素雄氏の言)である。また、それぞれの弦を擦る弓の動きが身体も楽器も揺らさんばかりの弦楽奏者たちの大合奏のうねりが胸に迫る。まさに「全員全力投球」(これも平佐氏)なのであった。アンドリス・ネルソンス氏はそんな音楽家たち一人ひとりの力を存分に引き出す的確なキュー出しに徹しつつ、共に高みを目指す指揮ぶりだった。
鳴り止まない拍手の中、マエストロ小澤征爾がステージに現れた。娘の征良さんが車椅子を押し、孫息子君も一緒に。30年間大切に育くんできたフェスティバルとオーケストラへの思いを込めて、マエストロは客席に手を振る。この夜はマスクを外していたマエストロの万感の表情に、一同総立ちで拍手を送る。マラ9の第2楽章や第3楽章のような俗な世の中での毀誉褒貶を超越して、ひたむきに音楽の高みを目指し続けた人の姿がそこにあった。(続く)
世界に一つだけのバラ、あるいは、あじさい?
ひと昔もふた昔も前のことになるが、SMAPの『世界で一つだけの花』という歌がヒットした。
「ナンバーワンにならなくてもいい。もともと特別なオンリーワン♪」
励まされるような気もするし、慰めにもならない気もするこの歌詞。当時の私は不快感を覚えた。
確かに、一つの物差しでナンバーワンからビリまで序列をつけて、ナンバーワンだけを褒めそやすのが良いとは思わない。でもこの歌、人のやる気を削いで適当にあしらおうとしてないか?と感じたのだった。
その後、「2番じゃいけないんですかっ!」という発言が耳目を集めた時代もあった。別に2番でもいいと思う。ただ、2番は結果であって、はじめから2番でいいやと思うと、2番にもなれないのではないか。オリンピックの銀メダルは、金メダルを目指した人しか手にできないものだろう。
いや、一つの物差しだけで測るのがよろしくないのであって、多様な観点が必要だという意見もある。しかし、物差しが一つであろうが多様であろうが、それは誰もが自分を認めてもらいたがっているということの表れだ。誰もがもともと特別なオンリーワン? 何か気が抜けないか? もう余計な努力もアピールも要らないよと。
あのホンワカしたメロディが、あきらめと開き直りのように聞こえた、当時の私の焦燥感のせいかもしれない。2003年と言えば、海外駐在から帰国して、当然、夫は職場へ、息子たちは3人とも小学校へ。私は家に一人。専業主婦歴が10年を超え、この先どうしようかと悶々としながら、引きこもっていた。
ふと思い出すのは、『星の王子さま』に出てくるバラの花のこと。王子さまの星に一輪のバラの花が咲いた。それは、王子さまを心から感動させる美しさと良い匂いと光に溢れた花だった。しかし、花は、咲いたかと思うとすぐ、自分の美しさを鼻にかけて、王子さまを苦しめ始める。評者によっては、著者サン=テグジュペリの妻のことをほのめかすとされるこのバラの花は、自己顕示欲が強く、気まぐれで、嘘をついてまで自己主張するのだ。
「夕方になったら、覆いをかけてくださいね。ここ、とても寒いわ。星のあり場が悪いんですわね。だけど、あたくしのもといた国では……」
こう言いかけて花は口をつぐむ。この星に飛んできた種から生まれたバラが、他の世界など知っているはずもなく、もといた国なんてありもしないからだ。そんなすぐばれそうな嘘を言いかけたのが決まり悪くて、ごまかすために、花はわざとらしく咳をする。
あーもう面倒くさい女だと、イライラしながら読み進むうちに、案の定、けなげな王子さまは振り回されてバラの花とうまく行かなくなり、やがて別れを告げて自分の星から遠くへ旅に出る。
地球にやってきた王子さまは5千ものバラの花が競うように咲き誇る庭にやってきた。自分の星に残してきた花に似ているのに驚いて「あんたたちだれ?」ときくと、花たちは、「あたくしたち、バラの花ですわ」と答える。
王子さまはとても寂しい気持ちになって考える。遠くに残してきた花は、自分のような花は、世界のどこにもない、と言ったものだった。
「もし、あの花がこのありさまを見たら、さぞ困るだろう……やたら咳をして、人に笑われまいと、死んだふりをするだろう」
それからこうも考えた。
「ぼくは、この世にたった一つというめずらしい花を持っているつもりだった。ところが、実は、当たり前のバラの花を、一つ持っているきりだった」
そして、王子さまは草の上につっぷして泣いた。
自分が、この世にたった一つの特別な存在でありたいと願う気持ち。そして、自分が大切にしている相手が、この世でたった一つの特別な存在であってほしいと願う気持ち。それは、人がより良く生きようとする原動力になる。
と同時に孤独にする。
ありのままの凡庸な自分やありのままの凡庸な相手を受け容れられなくて、もがいて背伸びする。しかも、自己評価だけでは心もとなく、余計なプライドとコンプレックスに引き裂かれ、外からの評価に一喜一憂するのだ。
孤独というのは、良くも悪くも、他者と異なる自分というものを意識することから来るのではないか。
だから一方で、そんな自分を受け容れてくれる集団に属して安心を得たいという欲求もある。そこでは、自分だけが特別でありたいという願望は、いったん放棄してもいいような気にさえなる。集団に溶け込むことができれば孤独を感じないかもしれない。
この二つの気持ちの間で絶えず揺れ動きつつ、私は子どもの頃から集団に溶け込むのがあまり得意ではなかった。だからこそ、棘のあるバラの花に共感するのかもしれない。それが自分を支える術だったのかもしれない。
しかし、バラの花が精一杯自己主張して、多少の賛美者を得たところで、所詮、ほかのバラの花とたいして違わない。そして、自己愛に囚われている限り、心の平安はなかなか得られない。
『星の王子さま』では、王子のバラの花が王子にとって大切な存在であるのは、この花のために王子が費やした時間と花に対する王子の思いによるのだと、キツネに教えられ、王子は自分のバラの価値をようやく再発見したのだった。
時に梅雨の季節。ひと雨ごとに色づくあじさいの花がそこかしこに咲いている。あじさいは「あづさい」が変化したものという説もあり、「あづ」は「あつ(集)」、「さい」は「さあい(真藍)」で、青い花が集まって咲く様を表したという。集まって咲く青い花か……なんと無邪気で無欲なことだろう。
集まって咲く小花のどれ一つとして「私がいちばん美しい」とか「私だけはちょっと変わっててステキ」などと自己主張することはない。ある小花を別の小花と場所を入れ替えてもさほど違いはないだろう。それでいて、全体として均整の取れた花を形づくるべく、小花たちは自然界の厳然たる掟を素直に(無意識に)守っているのだ。掟を破って自分だけ目立とうとする者がいないからこそ、きれいな丸い形になる。
あじさいの小花は、自分がその他大勢と同じく凡庸な存在であることを全く苦にせず、むしろ仲間の小花たちと共により大きな全体を構成することに喜びを感じているかのように見える。互いの違いなど意識したことがなく、優劣をつける必要もなく、個々の花は地味な生涯を過ごす。別にそれを消極的な生き方だと言う必要もなく、ある意味、清々しい無私の姿である。そこかしこで、さりげなく咲くあじさいは逞しい。
完璧な調和の中に小花たちは満足し、小さな合唱団のように嬉しげなコーラスを奏でる。土壌の性質により、また、時の経過につれて、緑、白、青、赤紫……と色変わりしながら、皆で雨に打たれ、一層生き生きとする。
そのような花があたり一面に咲きそろっているという「あじさい寺」は、さぞや極楽浄土の風情……そんな場所に身を置けば、己への執着を捨てて、同様に命を享けたすべての存在と共に仏の道に帰依し、悟りを開くことができる気がするかもしれない。行ってみたいものだが、今の季節は観光客で混雑し境内に入るのも大変だという。似たような憧れに駆られた人々が殺到する。それが俗世というもの。
それでも。
「世界に一つだけの特別なバラだよ」と言ってもらえたら、やっぱり嬉しいだろうなあ……所詮、ほかのバラの花とたいした違いはなくても。たとえ棘があっても。自己愛に囚われている限り心の平安はなかなか得られなくても。その葛藤や努力こそが人生のドラマを彩る。それはそれで良いではないか。星の王子さまのたった一つの自意識過剰なバラが、今では愛おしく思える。
自分なりに、外の世界に出て、もがき続けてきたからだろうか。
SMAPの歌詞も不快に思わなくなった。そうだな。ナンバーワンにならなくてもいい。もともと特別なオンリーワン。あじさいの丸い形を構成している小花の一つ一つだって「世界に一つだけの花」だ。小花たちはそんなことに頓着してないけれど。