よろず編集後記

よろず編集者を目指す井内千穂のブログです。

父を見送って

父が亡くなって二週間。まだ心の整理がついたとはとても言えないけれど、東京の自宅に戻って久しぶりに近所の川べりを歩きながら、ようやく、少なくとも、自分を取り戻しつつある。

心配性で先々のことまで考えを巡らし、万全の準備をしないではいられなかった父は、もう何年も前から「終活」に取り組み、書置きをファイルとUSBにまとめていた。「ここにあるからな」と聞いたのはいつだったか。私が嫌そうな顔をすると、「いや、大事なことなんや」とたしなめられた。お正月に私たち一家が帰省して家族が揃うと、父は上機嫌で乾杯しながら、「これが最後の正月やからな」と言ったものだ。夫も息子たちも覚えているだろう。「毎年言ってるよね」と苦笑しながら、それがいつまでも続くような気がしていた。コロナ前の話だが。

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昨夏、父が自宅で倒れたという知らせを受けてから、この半年あまり、できる限り帰省しては、父の入転院や介護施設への入居に関して、家族と力を合わせて対応してきたつもりだが、それでもごく限られた時間だ。日頃の具体的な段取りは、突如一人暮らしになった母のケアも含め、近くにいる妹や弟に全面的に頼ることになる。私は「遠方の親不孝な姉」である自分が心苦しかった。気持ちを言葉や物で表すのも上手くなく、実家に帰り、施設にいる父に会いに行く時にも、父の話に精いっぱい耳を傾けることぐらいしかできなかった。

 

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一月の最も寒い時期、大阪でも雪が降った日の夕刻、父は息を引き取った。直前に施設で父に会っていた母と妹は帰宅途中で知らせを受けて引き返し、弟も大急ぎで駆けつけたが、間に合わなかったという。新幹線に飛び乗った私がようやく到着したのはもう夜更けの10時過ぎだったか。待っていてくれた家族のおかげで、私は施設の父の部屋で最期の姿にありのまま会うことができた。もう冷たくなってしまった顔は穏やかで、信じられないほど瘦せ細った胸にはまだ人肌の温かみが残っていた。

そこから葬儀が終わるまでの場面をぼんやり振り返ると、家族葬と仏教が融合したカタチの中に世の中と家族のありようが立ち現れ、やがて諸行無常を悟るのだった。

通夜の読経の後、僧侶は語った。

「生前に何もしてあげることができなかった、もっとこうしてあげたらよかった、と後悔するのは自分中心のとらえ方です。」

そうではなく、故人にしてもらったことのほうがずっと大きいのだと。してもらったことの有り難さに思いを致すようにという説法に、まるで自分の心を見透かされているような気がした。

その通り。してもらったことばかりではないか。幼い日の自分と若かりし父のかすかな記憶がよみがえる。生まれてこの方、今日に至るまで、父にしてもらったことばかりだ。

昨年の秋、施設で父の体調が比較的安定していた頃、我が家では予定通り、長男と次男がそれぞれ東京で結婚式を挙げた。孫の結婚式に来てくれた母の楽しそうな写真を見ると、心から嬉しく、幸せな気持ちになる。父は母に「気をつけて行っておいで」と言って送り出してくれたそうだ。そんな最高のプレゼントをした上で、父は無事の挙式を見届けてくれたように思えてならない。これもとんでもなく自分中心のとらえ方だ…罪深い娘でごめんなさい。

年末に誤嚥性肺炎から敗血症まで併発して入院した父の重度の炎症が、年明けに収まったのは今から思えば奇跡だ。病棟でちらっとだけ見た父は、満身創痍で最後の力を振り絞って闘う戦士のようだった。何としても退院しようと。父の意思も踏まえた医師との面談を経て、私たち家族が選んだのは、慢性期病院への転院や延命治療ではなく、昨夏以来とても良くしてくれた信頼できる施設での看取りだった。

施設に戻っての最後の二週間、母や妹一家や弟一家はもちろん、東京方面から週末にようやく駆けつけた私の夫や3人の息子たちにももう一度会えるまで、一日一日命をつないでくれた強さは、もう心配性で怖がりだった父とは違っていた。そして、家族が直接会って過ごす最後の時間を大切にしてくれた施設の対応も有り難かった。

台湾で生まれ10歳で終戦を迎えた父。日本に引き揚げ大阪で再起を図った一家の長男として、家業の材木屋を手伝って大八車を押したことをよく話してくれたものだ。満州生まれで日本に引き揚げた母との出会いは運命の赤い糸としか言いようがない。日本の敗戦がなければ私たち三人姉弟は生まれていないのだ。ことあるごとに父は子どもたちや孫たちに平和の大切さを説いた。

日本で最初にできたニュータウンに新婚の居を構え、社内初の海外駐在員として当時の西ドイツに赴任した父は、高度経済成長期の先端をひた走った昭和の企業戦士の一人である。若き日の海外生活の影響は大きく、帰国後も終生ドイツびいきだった。当時、幼稚園児だった私は良くも悪くも「三つ子の魂百まで」のようだ。

信念を持って我が道を行く父は、世の中に迎合せず、時に気難しく、私は何度となくひどい言い返し方をして父を本気で怒らせた。いや、悲しませてしまったに違いない。その時は反発を覚えた父の言葉を何年も経ってからふと思い出し、嚙みしめるうちに、やっとその意味がわかることもあった。そんな愚かな娘を黙って許してくれた父からの宿題のような問いがたくさん残され、私はこれからも考えずにはいられないのだろう。

葬儀と同日、骨上げの後に営まれた初七日の法要での説法が一段と心に沁みた。

「故人はこの世の苦しみから解放され、これからは仏さまとなって私たちの心に在って導いてくださるのです」

 

諸行無常

 

でも、残された家族のそれぞれの心の中に父はいてくれるのだ。私の心の中にも確実にいる。そう思うと、少し救われるような温かい気持ちになる。仏さまか・・・「アホやなあ、あんたはなんもわかっとらん」という父の声が聞こえてきそうだ。

 

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楽都松本の人々 ~セイジ・オザワ松本フェスティバル30周年 その③

2008年の夏に初めてサイトウ・キネン・フェスティバル松本に行くことができたのは、実家の母のおかげだった。

かねてより、世界のセイジ・オザワのカリスマ性を求心力に錚々たる演奏家が集結するサイトウ・キネン・オーケストラには、興味も憧れも大いにあったが、チケットはほぼ即日完売で入手困難と聞いていたし、松本まで出かけるのもなかなか大変なので、私には縁がないものだと思っていた。

ところが、思いがけず、そのサイトウ・キネンのチケットを母から譲り受けたのである。当時、ちょくちょく音楽の雑文を書き始めた私が、少し前に、大枚はたいてパリ国立オペラを観てきた記事を読んだ母は、「そういうことなら、これはあなたが行ってらっしゃい」と、自分が買ったチケットを郵送してくれた。まことに親というものは有り難い。

そもそも母がサイトウ・キネンの貴重なチケットを購入できたのは、松本在住の友人がいるからだ。松本市民枠というのがあるらしい。Y夫人はかれこれ50年来の付き合いという母の旧友で、私も学生時代に信州旅行の拠点としてご自宅に泊めていただいたことがある。このフェスティバルが始まる前の話だ。

2008年、母に代わって松本へやって来た私は、懐かしいY夫妻と実に20年ぶりの再会を果たした。Y夫妻に勧められるまま、コンサート前の腹ごしらえにと、とびきり美味しい信州の手打ちそばをごちそうになり、まだ時間があるからと、市内のご子息宅でお茶をいただいた上に、きっと駐車場がいっぱいだからと、ご子息の奥様に文化会館まで車で送っていただいた。とにかく、何から何までお世話になり、感謝するやら恐縮するやら。

Y夫妻は、サイトウ・キネンを初回から今年まで17回、毎年欠かさず、オペラもオーケストラ・コンサートも聴いてきたという。

1992年に初めて開催されたサイトウ・キネン・フェスティバル松本で「エディプス王」を観た時のことをY氏はこんなふうに語ってくれた。

「僕にとっては初めてのオペラだったんです。ジェシー・ノーマンの存在感に圧倒的されましたね。僕は別にクラシック音楽ファンではなかったけど、こんな凄いものを自分たちの町で生で聴いたら、これはもう来年も絶対聴きに行かなきゃと思ったし、実際ずっとそうしてきました。」

ぜひ来年もまた聴きたいと思わせる力がこうした新しいファンを育て、そういう積み重ねがあってこそ、遠方の友人も誘ってみようという話になり、巡り巡って私のところにもチャンスが来たのである。

エストロ小澤征爾の入魂の指揮がオーケストラから素晴らしい音楽を引き出し、聴く人の心を動かし、行動を促す。その行動は別の人にも影響を与えるかもしれない。いったんポジティブな連鎖が始まれば、それはどんどんつながって広がっていく可能性がある。

地元で技術力の高いベンチャー企業を経営していたY氏は、オーケストラの個々のメンバーの力を引き出し、全体をまとめ上げるようなリーダーシップにいたく興味を示しておられた。

2008年のコンサートの冒頭、小澤氏は、サイトウ・キネン・オーケストラの若い仲間であり、その年の初めにガンで亡くなったコントラバスの都筑道子さんに黙祷を捧げる旨を告げ、会場は水を打ったようにシーンとなった。目を閉じる。ステージ上の音楽家達と満席の聴衆が結集して沈黙をつくる。

こうして荘厳な沈黙から始まったコンサートの沈黙の緊張感は、2曲目の武満徹の「ヴィジョンズ」が終わった後にも感じられた。
「最初の頃はね、どこで拍手したらいいのか、係の人が合図してくれたのよ」
休憩時間にY夫人が笑いながら言った。
「さっきの曲みたいに余韻を味わいたいのもあるじゃない? 松本のお客さんもレベルアップしたのよね」
ちなみに、聴衆の半分強は地元の人達、あとは関東方面を中心に県外から来るらしい。

あの日、メインのマーラー交響曲第1番の演奏が終わって拍手万雷の中、「元気をもらったわ」と言っていたY夫人は元気にしておられるだろうか。

あれから14年。

2022年の30周年記念公演終演後、マエストロ小澤征爾は車椅子でステージに現れた。マエストロと同い歳である我が父も今では車椅子の身である。マラ9の終楽章がことのほか心に沁みた。

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終演後の夜半、私はとある蕎麦屋のカウンターで余韻に浸っていた。開演前には食べる時間がなかったので、手打ちの信州そばと、「季節限定」と張り紙がしてあった「信州きのこの朴葉焼き」というのをいただいてみたら、これが実に美味しくて、思わず地酒のちょい呑みも頼んでしまった。

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店の入口近くの壁にOMF(セイジ・オザワ松本フェスティバル)のロゴ入りTシャツのミニチュアが各色飾ってあってカラフルに目を引く。お勘定の時に、

「今このコンサートを聴いてきたんです。素晴らしかった…!」

と伝えると、朴葉焼きの食べ方やオススメの地酒を教えてくれた感じの良いその女性は、

「いいですね~ お店があるからなかなか聴きに行けないんですよ。うらやましいです」と言った。

松本市民に愛され、支えられ、遠方からも聴衆を引きつけるフェスティバルが、これからも続いていくことを心から願う。来年は母と一緒に聴きに来たいな……。(完)

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サイトウ・キネンの記憶 ~セイジ・オザワ松本フェスティバル30周年記念 その②

コロナ禍中、一旦ほぼゼロになった音楽会。感染状況に応じて開催方法を模索する大変な時期を経て、有観客の演奏会が復活してきたのは有り難いことだ。松本のフェスティバルもこの夏、3年ぶりの有観客公演となった。

そうした幾多のコンサートのうち、自分が実際に行ける会はごく僅か。ある演奏を生で聴くことができるのは、よっぽどの奇遇であり、そこにはきっと何らかの縁がある。

もう一度サイトウ・キネンに関する記事を書くことになるとは予想していなかったこの夏、取材のために過去の資料をあれこれひっくり返していたら、2008年に初めて松本のフェスティバルに行った時に書いた原稿が出てきた。読み返すといろいろ思い出す。(以下、当時の原稿からリライト)

 

 

1992年、日本アルプスの麓にある長野県松本市で誕生したサイトウ・キネン・フェスティバル松本が、2008年で17回目を迎えた。小澤征爾氏とサイトウ・キネン・オーケストラが母体となって、オーケストラコンサートとオペラの2本を柱に毎年8月下旬から9月上旬にかけて開催される。

サイトウ・キネン・オーケストラは、桐朋学園創立者の一人である齋藤秀雄(1902-1974)没後10年にあたる1984年、彼の弟子であった指揮者の小澤征爾氏と秋山和慶氏を中心に、世界各地に散る同門の教え子たちなどが結集して臨時編成されたメモリアル・オーケストラである。

実は、マエストロ小澤征爾の指揮を私が生で見たのは、この2008年のフェスティバルが初めてだ。体調を崩されたというニュースに心配したが、思ったよりお元気そうでホッとする。

2008年9月6日のBプログラムは、モーツェルトの交響曲第32番ト長調で始まり、2曲目には、武満徹の「ヴィジョンズ」、そして、メインはマーラー交響曲第1番ニ長調「巨人」というものであった。驚いたことに、1曲ごとにコンサートマスターが変わり、さらに、小澤さんが最初からステージ上にいらっしゃる。皆が対等の仲間であるということが徹底された形であろうか。

オーケストラには、様々な個性をもった楽器が集まり、各人が決められた役割を忠実に果たすことによって秩序ある音楽を作り上げていく。その意味で社会の縮図だと常々感じていた私は、指揮者の号令の下、個人の自由をある程度犠牲にしてでも、全体における自分の役割に徹するのが、オーケストラの奏者のあるべき姿だと思っていたのだが、今日の演奏を聴いていると、別に個人の自由を犠牲にすると思う必要はないようだった。

サイトウ・キネン・オーケストラは、普段はさる一流オーケストラのコンサートマスターだったり、管楽器の首席奏者だったり、あるいは、オーケストラなどに属さず室内楽やソロ活動に専念していたり、とにかく誰もが、その他大勢ではない「自分が主役」みたいな人たちの集まりだ。だから、ヴァイオリンには、コンサートマスターみたいな弾き方をしている人が多くて、なかなか見応えがある。マスゲームのように揃った弓の動きでない代わりに、のびのびと鳴っている楽器が、小澤さんの指揮と共に熱くなっていく感じだ。また、クラリネットカール・ライスター氏は、ひとこと「カッコウ」の鳴き声を吹くたびに目いっぱい首を振る気合いの入りようだし、あんなに激しく弾くコントラバスも、学生オケならともかく、プロではあまり見たことがない。

そういう集団だとバラバラになる危険性もあるが、そこを一つにまとめるのが、やはり小澤征爾氏の凄さなのだろう。と言っても「オレの言う通りにしろ」と上から押さえつけるのでは決してない。個々人が目いっぱい自己主張している良さを生かしつつ、そういう構成員の自己主張を上回る音楽への理解のための努力と捨て身の献身をもって全体の方向性を示し、一音一音に渾身の指示を出すのである。熱い指揮ぶりは聞きしに勝る全力投球だ。身体全体を使って語る「音楽語」は奏者達にも聴衆にも直接伝わる。

その「音楽語」に納得したメンバーが、自分の技量の最大限をもって応えるという関係なのか、あるいは、もっと感覚的に、マエストロの内から迸るような音楽におのずと巻き込まれていく状態かもしれない。そうやって個々の奏者が発する音から一つの音楽が出来上がってくるのは見事だ。たとえば、一流のチェロ奏者達やヴィオラ奏者達が目いっぱいの弓使いでブンブン鳴らしてくれるユニゾンは、ばっちり揃っている上に、なんとパワーに溢れていることだろう。オーケストラから客席に押し寄せる熱い音塊は、クラシック通であろうがなかろうが、聴く人の心を揺さぶらずにはいない。

あらためて生で聴いて、マーラー交響曲第1番が以前よりもっと好きになった。とくに、2,3楽章は演奏もとてもよかった。いかにもヨーロッパ的な、ウィーンの街角を思わせるフレーズには、気のせいかも知れないが、西洋のクラシック音楽への憧れや実際に体験したヨーロッパでのほろ苦い思い出など、日本人演奏家ならではの思いが込められているようで、味わい深かったのである。

さらに次々展開する曲想は、いろいろなことが起こる人生のようで、なかなかうまく行かなかったマーラー自身の生涯や、小澤征爾その人の波瀾万丈の歩みともダブって聴こえてくる。終楽章にあれ?と思った箇所があったが、そんな小さなミスをものともせず、音楽はあくまでも前へと進んで行く。やがて輝かしいクライマックスに至り、ホルンが一斉に立ち上がった時には無性に感動し、演奏が終わって隣席の知人から「すばらしかったね」と声をかけられた時にも、まだ口もきけずにただただ拍手していた。

小澤さんは聴衆に応えながら、ステージ上を駆け回って、オーケストラのほとんどすべてのメンバーに挨拶していった。一番後ろのティンパニに至るまで、一人一人と握手して言葉を交わす。最後は、いったん舞台袖に下がったオーケストラのメンバーがもう一度出てきて小澤さんを真中にして並び、客席に手を振っていた。客席でも立って拍手する。高く掲げた両手を振る人もいた。

「元気をもらったわ」

拍手がまだ続く中、知人は言った。本当にそうですね。「終わりよければすべてよし」だし、その過程の紆余曲折もすべて尊いではないか。心からそう思えて元気が出る。そして、来年もまた聴きに来たいと願うのだった。

*****

そして翌2009年、The Japan Timesでサイトウ・キネンの記事を書くことになった。プレビューだから、前年に一度でも聴いておいてよかったと思った。それとも一度でも聴きに行ったから、このような仕事が巡ってきたということか。その頃はマエストロ小澤へのインタビューの機会はなく、話を聞ける人たちを必死で探し、そこで出会った元マネージャーの平佐素雄氏のアドバイスで水戸まで出かけ、水戸室内管のコンサート終焉後、楽屋の前の長蛇の列の最後尾に並んで、浴衣姿の小澤氏に短いコメントをいただいた。

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病気療養中だったマエストロが2013年に指揮復帰。初の単独ロングインタビューという信じられない機会にも恵まれた。

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2017年に再びロングインタビュー。カナダ人のエディターと長野県の奥志賀まで日帰りで取材に行ったのが良い思い出。若い世代への教育にかけるマエストロの情熱とその薫陶を受けた若者たちの熱い合奏、とくにあのチャイコフスキーの弦楽セレナーデに彼も心を打たれたようだ。

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やはり、ご縁は不思議なものだ。機会に恵まれたことにしみじみ感謝する。(続く)

 

晩秋のマラ9 ~セイジ・オザワ松本フェスティバル30周年記念 その①

どうも信州に縁があるようで、中学校の修学旅行、家族旅行、学生時代の農協でのアルバイト、最初の職場のスキー旅行、新聞社での取材など、何かと訪ねる機会が多いエリアだったが、晩秋の信州は初めてだ。中央線の車窓から見える枯葉色の山並みの向こうに、異次元に荘厳な雪山が現れて息をのむ。富士山がこういうふうに見えるのか! これから聴きに行く音楽の予告編のようだった。

サイトウ・キネン・フェスティバル松本が始まったのは1992年。華々しかったに違いないそのオープニングを残念ながら私は知らない。ちょうど仕事を辞めて夫の赴任先に同行した夏だった。スマホどころかネット以前の時代、幼い長男を抱えての外国暮らしに慣れるのに精いっぱいで、日本の新聞などほとんど見ていない。

のちに英字新聞社で音楽の記事を書き始めた頃、初めて松本のフェスティバルに行ったのは2008年だった。だから、今年30周年を迎えたフェスティバルの歴史の中で後半(の一部)しか知らないわけだが、それでも、サイトウ・キネン・オーケストラの演奏をたびたび聴き、記事を書く機会に恵まれた幸運には感謝するほかない。

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直近の記事は、小澤征爾氏の愛娘で2020年にサイトウ・キネン・オーケストラの代表に就任された小澤征良せいら)さんへのインタビュー。オーケストラへの思いとフェスティバルをしっかり守っていきたいという決意を語っていただいた。

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そんなわけでこの夏は久々に松本を訪ねた。さらに11月、30周年記念コンサートも聴きに行けるとはなんと有り難いことだろう。しかも演目はマーラー交響曲第9番なのだ。

大学時代、学生オケ三昧のきっかけになったのが、入学式で聴いたワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー前奏曲」の祝典演奏だったとすれば、マラ9は学生オケでの日々をしめくくる最後の演奏会だった。

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開演前、キッセイ文化ホールの客席で私は必要もなく緊張していた。微かなチェロから始まる第1楽章の入りの緊張感を思い出して身体に力が入る。ハープの弦がはじかれ、遠い角笛のようなホルンがちゃんと鳴り(あたりまえだがさすが!)、子守歌みたいな甘美なメロディが流れ出して、ようやく力みが抜けた。

うっとりする間もなく曲はどんどん変容していく。ああ、そうだったそうだった。さまざまな楽器が代わる代わるテーマの断片を気持ちよさそうに歌う。セカンドヴァイオリン、ホルン、コールアングレ、ファーストヴァイオリン、クラリネットオーボエ、フルート、トランペット……とても追いきれない、めくるめく展開に見事なソロの連続。ティンパニまでが旋律を奏でてハッとするが、考えてみれば驚くに当たらない。なにしろカッコいい役だ。しかし、主役でいられる時間は長くは続かず、次々とその座を他の楽器に受け渡し、絶えず絡み合い、時にぶつかり、そして溶け合い、あちこちで何事かが為されている複雑なサウンドが立ち現れてくる。何がどこにつながるかわからない。複雑なこの世の中がそうであるように。

トランペットが高らかに響き渡る青春の歓喜がいつまでも続いてほしいと、大太鼓とシンバルが盛り上げる願いも空しく、浮き沈みの激しいジェットコースター人生は一気に奈落の底へと突き落とされ、トロンボーンが絶叫する。そこは亡者が蠢き恨み節をつぶやく地獄なのであった。葬送行進曲と子守歌が入り混じる。葬送の鐘が鳴る中、トランペットの不吉なファンファーレに呼応して弦楽器群が決然と増幅する旋律がホールを切り裂く時、戦慄しながら悟るのだ。生まれ落ちた時からいずれ死ぬことは決まっていると。子守歌は生まれてしまった子どもを慰めるためのものなのか……。

第1楽章ですでに人生が終わったような気がするのに、続く第2楽章はなんとも俗で脳天気。いや、それでいいのだ。楽しいし、時々甘美だし、世界も人生もそれでオッケーというふうに聴こえる。それは死すべきさだめの人間が、悪あがきしながら精いっぱい生きている姿ではないか。ファゴットやホルンがドレミファソッソッなんて冗談のような音階を繰り返し、ティンパニがバンバン叩かれ、酔っぱらいのようなクラリネットに乗せられて一同狂ったように踊りだす。ええじゃないか、ええじゃないか!

第3楽章も違った意味で俗っぽい。勇ましいような不穏な、何の行軍か。しかし、やっぱり全部冗談ですと言っているようなパッセージを集団で激しく弾きまくる弦楽器のダウンの弓使いが鬼気迫り、トライアングルやグロッケンの澄んだ金属音が冷たくきらめく。そんな冗談が続くのかと思っていたら、突然崇高な感じになって何事かと驚く。なになに?急に美しいではないか。俗世に突如現れた天の啓示か?それとも若くて純粋だった頃の理想みたいなものを急に思い出したということ?・・・いやいや、そんな夢想は霧散し、一段と狂気の度合いを増したイケイケドンドンが最後は猛烈に走り出し、弦も管も打楽器も滅茶苦茶な勢いのまま幕切れ。

そして第4楽章。

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これはもう異次元……崇高な美しさにひれ伏すしかない。まさに車窓から遥かに仰ぎ見た雪の富士山のようだ。いつもそこに在りながら、なかなか見えず、ましてや登ることなど叶わぬ冬山の頂は神々の居所。日々憧れつつも、この世に別れを告げなければ辿り着けない彼岸の境地である。世俗の第3楽章で一瞬垣間見えたその何かに向かって、もはや冗談を言うのは止め、魅せられたる魂はゆっくりと彼岸に近づいていく。ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスの弦が熱く擦られ、重なり合った轟音がうねり出し、木管金管も加わって一つになる。聖なる和声の妙なる響きに心を合わせる奏者たちの渾身の姿が神々しくて、同じ人間として胸が熱くなる。人間って、こんなことができるのか! クライマックスに向かって大太鼓の地鳴りが最大音量に達した頂点でシンバルが炸裂し、抗い難く涙腺が決壊する。休符ばかりの楽譜の意味を疑いながらじっと耐え、要所ですっくと立ち上がってホールの床まで震わせる大太鼓が、ここで登場するのだ。私はあんなに重要な、大それた役割を担っていたのか……涙が止まらない。

末尾はゆっくり、やがて消え入るように、生まれる前に戻るように、音は彼岸へと去った。アンドリス・ネルソンス氏の手はなかなか下がらない。静寂がホールを満たす。

……なんという音楽。

サイトウ・キネン・オーケストラの演奏でこの曲をもう一度聴くことができたとは、なんという巡り合わせだろう。ホルンのデレク・バボラ―ク氏やフルートのジャック・ズーン氏をはじめとする超一流のソリストたちの妙技に痺れ、まさに「野球で言えばオールスター・ゲーム」(マエストロ小澤征爾の元マネージャー平佐素雄氏の言)である。また、それぞれの弦を擦る弓の動きが身体も楽器も揺らさんばかりの弦楽奏者たちの大合奏のうねりが胸に迫る。まさに「全員全力投球」(これも平佐氏)なのであった。アンドリス・ネルソンス氏はそんな音楽家たち一人ひとりの力を存分に引き出す的確なキュー出しに徹しつつ、共に高みを目指す指揮ぶりだった。

鳴り止まない拍手の中、マエストロ小澤征爾がステージに現れた。娘の征良さんが車椅子を押し、孫息子君も一緒に。30年間大切に育くんできたフェスティバルとオーケストラへの思いを込めて、マエストロは客席に手を振る。この夜はマスクを外していたマエストロの万感の表情に、一同総立ちで拍手を送る。マラ9の第2楽章や第3楽章のような俗な世の中での毀誉褒貶を超越して、ひたむきに音楽の高みを目指し続けた人の姿がそこにあった。(続く)

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世界に一つだけのバラ、あるいは、あじさい?

ひと昔もふた昔も前のことになるが、SMAPの『世界で一つだけの花』という歌がヒットした。

「ナンバーワンにならなくてもいい。もともと特別なオンリーワン♪」

励まされるような気もするし、慰めにもならない気もするこの歌詞。当時の私は不快感を覚えた。

確かに、一つの物差しでナンバーワンからビリまで序列をつけて、ナンバーワンだけを褒めそやすのが良いとは思わない。でもこの歌、人のやる気を削いで適当にあしらおうとしてないか?と感じたのだった。

その後、「2番じゃいけないんですかっ!」という発言が耳目を集めた時代もあった。別に2番でもいいと思う。ただ、2番は結果であって、はじめから2番でいいやと思うと、2番にもなれないのではないか。オリンピックの銀メダルは、金メダルを目指した人しか手にできないものだろう。

いや、一つの物差しだけで測るのがよろしくないのであって、多様な観点が必要だという意見もある。しかし、物差しが一つであろうが多様であろうが、それは誰もが自分を認めてもらいたがっているということの表れだ。誰もがもともと特別なオンリーワン? 何か気が抜けないか? もう余計な努力もアピールも要らないよと。

あのホンワカしたメロディが、あきらめと開き直りのように聞こえた、当時の私の焦燥感のせいかもしれない。2003年と言えば、海外駐在から帰国して、当然、夫は職場へ、息子たちは3人とも小学校へ。私は家に一人。専業主婦歴が10年を超え、この先どうしようかと悶々としながら、引きこもっていた。

 

ふと思い出すのは、『星の王子さま』に出てくるバラの花のこと。王子さまの星に一輪のバラの花が咲いた。それは、王子さまを心から感動させる美しさと良い匂いと光に溢れた花だった。しかし、花は、咲いたかと思うとすぐ、自分の美しさを鼻にかけて、王子さまを苦しめ始める。評者によっては、著者サン=テグジュペリの妻のことをほのめかすとされるこのバラの花は、自己顕示欲が強く、気まぐれで、嘘をついてまで自己主張するのだ。

「夕方になったら、覆いをかけてくださいね。ここ、とても寒いわ。星のあり場が悪いんですわね。だけど、あたくしのもといた国では……」

こう言いかけて花は口をつぐむ。この星に飛んできた種から生まれたバラが、他の世界など知っているはずもなく、もといた国なんてありもしないからだ。そんなすぐばれそうな嘘を言いかけたのが決まり悪くて、ごまかすために、花はわざとらしく咳をする。

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あーもう面倒くさい女だと、イライラしながら読み進むうちに、案の定、けなげな王子さまは振り回されてバラの花とうまく行かなくなり、やがて別れを告げて自分の星から遠くへ旅に出る。

地球にやってきた王子さまは5千ものバラの花が競うように咲き誇る庭にやってきた。自分の星に残してきた花に似ているのに驚いて「あんたたちだれ?」ときくと、花たちは、「あたくしたち、バラの花ですわ」と答える。

王子さまはとても寂しい気持ちになって考える。遠くに残してきた花は、自分のような花は、世界のどこにもない、と言ったものだった。

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「もし、あの花がこのありさまを見たら、さぞ困るだろう……やたら咳をして、人に笑われまいと、死んだふりをするだろう」

それからこうも考えた。

「ぼくは、この世にたった一つというめずらしい花を持っているつもりだった。ところが、実は、当たり前のバラの花を、一つ持っているきりだった」

そして、王子さまは草の上につっぷして泣いた。

 

自分が、この世にたった一つの特別な存在でありたいと願う気持ち。そして、自分が大切にしている相手が、この世でたった一つの特別な存在であってほしいと願う気持ち。それは、人がより良く生きようとする原動力になる。

と同時に孤独にする。

ありのままの凡庸な自分やありのままの凡庸な相手を受け容れられなくて、もがいて背伸びする。しかも、自己評価だけでは心もとなく、余計なプライドとコンプレックスに引き裂かれ、外からの評価に一喜一憂するのだ。

孤独というのは、良くも悪くも、他者と異なる自分というものを意識することから来るのではないか。

だから一方で、そんな自分を受け容れてくれる集団に属して安心を得たいという欲求もある。そこでは、自分だけが特別でありたいという願望は、いったん放棄してもいいような気にさえなる。集団に溶け込むことができれば孤独を感じないかもしれない。

この二つの気持ちの間で絶えず揺れ動きつつ、私は子どもの頃から集団に溶け込むのがあまり得意ではなかった。だからこそ、棘のあるバラの花に共感するのかもしれない。それが自分を支える術だったのかもしれない。

しかし、バラの花が精一杯自己主張して、多少の賛美者を得たところで、所詮、ほかのバラの花とたいして違わない。そして、自己愛に囚われている限り、心の平安はなかなか得られない。

星の王子さま』では、王子のバラの花が王子にとって大切な存在であるのは、この花のために王子が費やした時間と花に対する王子の思いによるのだと、キツネに教えられ、王子は自分のバラの価値をようやく再発見したのだった。

 

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時に梅雨の季節。ひと雨ごとに色づくあじさいの花がそこかしこに咲いている。あじさいは「あづさい」が変化したものという説もあり、「あづ」は「あつ(集)」、「さい」は「さあい(真藍)」で、青い花が集まって咲く様を表したという。集まって咲く青い花か……なんと無邪気で無欲なことだろう。

集まって咲く小花のどれ一つとして「私がいちばん美しい」とか「私だけはちょっと変わっててステキ」などと自己主張することはない。ある小花を別の小花と場所を入れ替えてもさほど違いはないだろう。それでいて、全体として均整の取れた花を形づくるべく、小花たちは自然界の厳然たる掟を素直に(無意識に)守っているのだ。掟を破って自分だけ目立とうとする者がいないからこそ、きれいな丸い形になる。

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あじさいの小花は、自分がその他大勢と同じく凡庸な存在であることを全く苦にせず、むしろ仲間の小花たちと共により大きな全体を構成することに喜びを感じているかのように見える。互いの違いなど意識したことがなく、優劣をつける必要もなく、個々の花は地味な生涯を過ごす。別にそれを消極的な生き方だと言う必要もなく、ある意味、清々しい無私の姿である。そこかしこで、さりげなく咲くあじさいは逞しい。

完璧な調和の中に小花たちは満足し、小さな合唱団のように嬉しげなコーラスを奏でる。土壌の性質により、また、時の経過につれて、緑、白、青、赤紫……と色変わりしながら、皆で雨に打たれ、一層生き生きとする。

そのような花があたり一面に咲きそろっているという「あじさい寺」は、さぞや極楽浄土の風情……そんな場所に身を置けば、己への執着を捨てて、同様に命を享けたすべての存在と共に仏の道に帰依し、悟りを開くことができる気がするかもしれない。行ってみたいものだが、今の季節は観光客で混雑し境内に入るのも大変だという。似たような憧れに駆られた人々が殺到する。それが俗世というもの。

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それでも。

「世界に一つだけの特別なバラだよ」と言ってもらえたら、やっぱり嬉しいだろうなあ……所詮、ほかのバラの花とたいした違いはなくても。たとえ棘があっても。自己愛に囚われている限り心の平安はなかなか得られなくても。その葛藤や努力こそが人生のドラマを彩る。それはそれで良いではないか。星の王子さまのたった一つの自意識過剰なバラが、今では愛おしく思える。

自分なりに、外の世界に出て、もがき続けてきたからだろうか。

SMAPの歌詞も不快に思わなくなった。そうだな。ナンバーワンにならなくてもいい。もともと特別なオンリーワン。あじさいの丸い形を構成している小花の一つ一つだって「世界に一つだけの花」だ。小花たちはそんなことに頓着してないけれど。 

 

初心忘るべからず。そこからまた喜劇が始まる

田崎悦子さんのピアノリサイタルシューベルトの遺作を聴いて思い出した拙短編「喜劇はまた始まる」の続き。

前編はこちら。

chihoyorozu.hatenablog.com

 

*****

 

「喜劇はまた始まる」(後編)

 

その頃、ウィーン郊外のとある教師のつましい住まいでは、親族や近隣の友人を招いてささやかな祝いの宴席の真っ最中であった。
「また男子の誕生とは、これで貴君の学校も安泰だな」
身内も友人達も羨ましそうに祝福する。
(そうだ、妻よ、よくやった)校長として小さな小学校を経営する夫は、満足げに妻を見つめる。

 息子達が長じてみな教師になり、自分の学校で教える姿を想像すると、我知らず笑みがこぼれる。
「いやあ諸君、実にめでたい。神に感謝し、諸君の健康を祈ってもう一度乾杯しようじゃないか」
彼は上機嫌で、とっておきの白葡萄酒を客人達に惜しげなく振舞うのであった。

「皮肉なものよ」
今日は誕生委員会も非番なのでヒマな長老は、ぼんやりと地上に目を落とし、甥っ子の運命を見守っている。
「よくあることですよ、あなたも割り切りが足りませんな。身内でなければ気にもならないだろうに」
死神の言うことは、例によって図星である。
「いや、まあ。あまりにも父親に恵まれんヤツでな。だから、つい伯父であるわしがいらぬ気遣いをしてしまうんじゃよ。おお、ついに決裂した。ヤツめ、家を飛び出しおったわ。一銭も稼げんくせに、どうするつもりじゃ」
「ここから先は友達が頼りですね。しかし、親というものは、子どもが生まれた時にはあんなに喜ぶくせに、自分の思い通りに育たないと、なんで邪魔立てするんでしょうな。子どもの好きなようにやらせればいいものを。愚かなことです」
「まったくじゃ。しかし、親としては我が子のためと勘違いしておるのじゃろう。だいたいあの男には芸術なんぞわからんのじゃ。息子の才能に気づこうともせん。なんたるミスマッチ」
「ま、そんなことも全部織り込み済みなんですよ、長老殿」

やがて、恵まれない作曲家の31年の生涯を生き終えた甥は、地上と天界を結ぶ定期船に乗って戻ってきた。
「おお、戻ったか。ごくろうじゃったな。よくやった」
「ああ、おじさん、ただいま戻りました」
甥は疲れきって、その顔はますます青ざめていたが、天才ならではの過酷なシナリオを演じきった彼の瞳は、いつになくスッキリと澄みきっている。
「いやあ、今回の役はとてもやりがいがありました。おじさん、ご尽力に感謝します」
「ほう、そうか。それは何よりじゃった。しかし、いろいろと苦労があったであろう」
「苦労だなんて、僕の人生はいつだってそうでしたよ。でも、このシナリオはとても有意義な経験をさせてくれたのです。そう、音楽です。楽譜を書きながら、いつも涙が溢れてきました。その調べが天界から降りてきていることが地上にいる間もハッキリとわかりました」
「なんと!地上に行く前に記憶を消し去ったのに」
「天才でしたからね。芸術は地上と天界を結ぶのです」
「おお、甥よ。一皮むけたのう」
「おじさん達のおかげです。もう人間の生を無意味だと悲観したりはしません」

 長老は、大きな水晶玉を取り出すと中を覗き込んだ。
「ほれ、ごらん。確かにおまえの言う通り、たいした音楽家だったようじゃなあ。200年ぐらい経つと、信じられんようなお祭り騒ぎをしとるぞ」
「本当ですか?」
甥が水晶玉を覗き込むと、見知らぬ国の都の真ん中に大きなコンサートホールがいくつもあって、オーケストラやピアニストや歌手が一斉に彼の残した曲を奏でているところだった。あとからあとから何十万もの聴衆が集まって、うっとりと耳を傾けている。
「やあ、あれは僕の顔じゃないですか。ああいうふうに描いてくれると、いっぱしの者に見えますね。おかしなもんだなあ。生きていた頃には親しい友達ぐらいしか、僕の音楽を聴いてはくれなかったのに。なんだか面映ゆいです。ま、天界の音楽だから良いのは当たり前ですよ」
それから、長老のほうに向き直って言った。
「おじさん、あの人生で僕が尊敬していたベートーヴェンが死ぬとき、僕、そばにいたんです。あの人は亡くなる間際にこう言ったんです。『喜劇は終わった。諸君、拍手したまえ』って。あの人らしくてカッコいいなあって、僕、感心したんですけど、今、急にわかりました。ベートーヴェンは間違っています」
「はて、どういうことかな?」と長老は訝しげに問う。
「喜劇は終わらないんです。また、何度でも始まるんです。そして、毎回拍手してもらえるんですよ。ね、おじさん、人生って面白いですね」

長老はグラスを二つ持ってきて一つを甥にすすめた。
「さあ、飲むがよい。お前もきっといいシナリオライターになれるに違いない」
輝く水晶のグラスには、丹念に濾過された人生の滴を集めた究極のスピリッツが満たされている。長老とその甥は、地上で経験した数々の人生の悲喜こもごもを思い返しながら、舌の上に美酒を転がし味わうのであった。(終わり)

 

***** 

 

これを書いたのは2008年。当時通っていたライタースクールの課題として、小説やエッセーなどいろいろ書いたものだ。シューベルトをネタにしたのは、その少し前にジャパンタイムズで初めて英語でインタビューして記事を書いた時に、シューベルトのことを少しばかり調べていたからだろう。ちょうど、ラ・フォル・ジュルネ2008のテーマも「シューベルトとウィーン」だった。

当時の私は、ジャパンタイムズの正社員に転換する前の編集アルバイトの身で、文化紙面の情報欄に載せる展覧会やコンサートのリストをせっせと作り、短い紹介文をシコシコ書いていた。

お金を稼ぐために始めたバイトだったが、ある日突然、オランダ人の指揮者にインタビューするという話が舞い込み、驚きのチャンスを与えられた私はビビりながら張り切った。シューベルトのことも実はちゃんと知らないなぁと思い、図書館で子ども向けの伝記を借りてきたら、これがなかなかの秀作で、ひのまどかさんの文章に引き込まれたのを思い出す。

そして、初めて英語でインタビュー。ものすごく緊張した。その指揮者に同行してきたオーケストラの広報担当者に「これ、あなたが記事を書かれるんですか?」と尋ねられた。それほど頼りなかったんだろう。もちろん、書いた原稿にも赤がいっぱい入る。伝えたい内容がネイティブのエディターの手でもっと上等な英語に仕上がることに目を見張る感じだったが、それでも取材者である自分の名前で記事が出る。

www.japantimes.co.jp

 

紙面の大きさにびっくりした。え?あれってこんな大きな記事になるんだったの?!(英字新聞の文化面にはよくあることだと、そのうちわかったが)

嬉しくて、その新聞をコンサート当日の楽屋に持っていったら、マエストロ・スダーンはサインしてくれた。なんともミーハーな、素人丸出しの自分。でも、その紙面は今でも大切に取ってある。

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たまたまバイトで入ったのが英字新聞社の学芸部で、猫の手も借りたそうな外国人エディターの「確かあなた、クラシック音楽が好きって言ってたよね?」という無茶振りから来た、私にとっては超〜背伸び案件に「無理ですー」と言わなかったのが最初の一歩。インタビューも、書いた原稿も、どう思われるかなんて考える余裕もなく必死だった。

初心忘るべからず。

一歩一歩、あれこれ試行錯誤するうちに、主題が転調し、どこへ向かうのか予想もつかないのはシューベルトソナタと同じ。それもまた喜劇のうちだ。

初心忘るべからず。

喜劇はまた始まる

田崎悦子さんのピアノリサイタルシューベルトの遺作を聴いて、昔、ライタースクールの課題として書いた短編小説(笑)を思い出した。探してみたら、PCのフォルダーの奥の方から出てきた。懐かしくて思わず読み返す。恥ずかしい代物だが、せっかく発掘したので、(二度と書けない)当時の記録として、ここに貼っておこう。

 

*****

 

「喜劇はまた始まる」

 

天界には満月と流星群。地上では海の潮が引き、かの有名なモン・サン=ミシェルはノルマンディーの湾内で地続きになる。大勢の巡礼達が礼法通りに泥の上を這いつくばって聖地の修道院を目指すが、やがて来る満ち潮に幾多の哀れな命が飲み込まれることになっている。最後まで神の栄光を讃えながら。目を転じれば、太平洋のどこかの島の火山が噴火し、ポリネシアの伝説では今日がこの世の終わりと予言されていた。明日には、アフリカの喜望峰皆既日食に怖れ慄く人々が、太陽の神の怒りを鎮める儀式を行うことだろう。

「やれやれ、騒々しいことじゃな」

「まったく、こういう時は忙しくなってかなわん」

 天界の長老達は、あくびをしながら円卓を囲んだ。卓上には、薄っぺらな帳面が何冊も積み上げられ、その隙間に置かれたいくつもの酒瓶は、血のようにねっとりした葡萄酒や八百よろずの社から集められたお神酒で満たされている。

 天変地異が起これば、おびただしい亡者の群れが地上から返されてくる。その分、新しく生まれるべき人間達を地上へ送り込む作業に追われるのだ。長老達は本日の誕生委員会の当番である。思い思いの酒をついだ杯を手に、次から次へと帳面をパラパラめくっていた。少し読んでは、「まあまあだろう」とか「こういうこともあるな」とか「しょうがないな、こりゃ」などとつぶやきながら、末尾にサインして、「既決」と書いた箱に放り込んでいく。読んでいる帳面は、人生のシナリオの要約である。「既決」の箱に入れられたものは、誰かによって地上で実践されることとなっている。

天界の長老とは言っても、別に崇高な神ではない。ついこの間までは地上で試行錯誤する人間の一人だった。何度かこういう帳面に書かれたシナリオを演じ終わり、人間の生涯に対する一定の見識があると見なされると、誕生委員会のメンバーになれるのである。今は、他人の生涯を選ぶ偉そうな役割に任ぜられているのであるが、シナリオを読んでいると、かつて、自分が演じたものと比べてしまうので、つい、「いいなあ、こういうのやってみたかったなあ」とか、「ううむ、ここまでひどくはなかった」などと、長い鬚をしごきながらブツブツ言ってしまうのだった。ふと、長老の目に留ったシナリオがあった。

 「誰じゃ?これを書いたのは」

 そう、誕生委員会はシナリオの書き手と読み手、そして、地上に送り込むための事務方に分かれている。原則として、書き手が自らの作品を選ぶことは許されない。

 「え?どうかしたんですか?」

 比較的最近メンバーになった元十字軍の騎士が、鎖かたびらをガチャガチャいわせながら近寄ってきて覗き込んだ。

  • 18世紀の終わりに生まれ19世紀の始めに死ぬまで、生涯を音楽の都ウィーンで過ごす。
  • 小学校の校長をしている堅実な父の元、決して裕福とは言えない家庭に生まれたが、音楽の才能が抜きん出ていて、宮廷少年合唱団に入る。
  • 当時ウィーンでは、モーツァルトは既に亡く、宮廷楽長サリエリの弟子となる。もっとも活躍していたベートーヴェンに心酔し、ベートーヴェンのようになりたいと憧れる。
  • 丸顔で髪型は「キノコ」とあだ名され、寝るときにも眼鏡を外さない。
  • 身長160センチに満たず、西洋人としては信じられないほどの小柄。
  • 内気で不器用で、およそ女性にもてるタイプではなかった。
  • でも、単純、誠実、実直かつ温和でお人よしな性格により、多くの友達に恵まれ、自分の作った音楽を喜んでくれる友人たちのためにも作曲に励む。
  • 父は音楽家になることに猛反対で、しばらく無理やり息子に教員をやらせたが、作曲以外何もしたくないので、教員を辞めて家を飛び出してしまう。
  • 定職につかず、ふらふらして、収入もなく、友人たちのところに転々と居候して、食べさせてもらう。
  • 作曲だけは熱心で、なりふり構わず、寝る間も惜しんで五線紙に書き続ける。
  • 友人たちが内輪のハウス・コンサートを開いてくれるようになり、ウィーンの上流社会でもなかなかの評判となる。
  • けれど、ついぞメジャーになれず、世渡り下手のため、出版社からは楽譜を安く買いたたかれ、コンサートホールや劇場での大成功を収めることはなかった。
  • 生活力や経済観念の欠如により、ちょっとでも金が入ると、夜な夜なウィーンの街で飲み騒いですぐにスッカラカン
  • 20代で梅毒に感染して次第に体調が悪化。
  • 友人たちの勧めで生涯に一度だけ、自作リサイタルを開く。
  • チフスのため、31歳で兄の家で亡くなる。
  • 生涯に遺した作品は、リート、ピアノ曲室内楽曲のほか、交響曲、オペラ、ミサ曲など、約千曲に及ぶ。作品の多くは死後発見される。

 

「ほう、なかなか難儀な人生ですな。この梅毒っていうのは、仕方がないのでしょうか?」

騎士が尋ねると、痩せて青白いのに目鼻立ちだけは妙に整った死神が答える。

「はい。そういう部分は、最初から決まっていて、シナリオライターでさえ勝手に変えてはいけないことになっております。でないと、人口のバランスが狂いますからね」

「なるほど。それでは、変えられるところはどこですか?」

「そうですね。この人の場合、音楽の才能はあることになっているから、そこを補強することはできます」

死神が淡々と答えると、長老がホッとした声で口をはさんだ。

「それじゃ。補強という手があった。それぐらいしてやらんと、あまりにも哀れではないか」

「そうですかね? もっと悲惨な人生がいっぱいあると思いますが」

「まあ、それはそうじゃが……」

「ところで、今回の役者は誰なんです?」と死神が尋ねると、

「はい。そこらへんにスタンバイしているはずです。ほら、あそこにいる背のひょろ高い青年です」と騎士が答える。

「ああ、あれね。だいぶイメージが違うな。ま、身長とか顔とかは、これから調整しましょう。恵まれない容姿というのは、ポイントが稼げるんですよ。……そうか! あの彼は確かあなたの甥御さんでしたね。なるほど。でも、いくら長老だからって身内に手心を加えるのは感心しませんな。宇宙の秩序が乱れますよ」と死神。

「まあ、そう言うな。もちろん、基本的には従うつもりじゃ。宇宙の秩序とはまた大げさな。しかしだな、あれは、何回地上に送り込んでも、ろくでもない台本ばっかりやらされて、いい加減やる気をなくしているもんでね」と長老は弁解した。

「ふーむ、どれどれ。子ども時代に病死。奴隷として古墳で殉死。水呑み百姓として餓死。雑兵として討ち死に……確かに、どれも悲惨ですなあ。わかりました。ちょっと書き足しましょう」

すばやく検索した死神は、珍しく長老の言い分を聞いて、ライターを数人連れてきた。

ライターの一人である元聖母マリアが静かに言った。

「話は聞きました。彼の作曲家としての運命を最大限生かすように、少しつけ加えましょう。彼にもわたしを讃える調べを授けます。数ある『アヴェ・マリア』の中でも最も美しいバージョンにします。永遠のヒットメロディー間違いなしですわ」

 すると、隣にいた音楽の女神ミューズがむっとした顔で言った。

「あら、マリアさんたら失礼ね。メロディーなら、あたくしがとっくに授けてありますから。700曲も。しかも、歌詞を担当する詩人も近くに派遣しておきました。いっぺんに覚えきれないでしょうから、あたくしのCDにいつでもアクセスできるようにしてあります。彼は地上で楽譜に書き写せばよいのです」

「おお、さすがはミューズ殿。地上の音楽の振興に努めておられますなあ。ならばわしからもプレゼントしよう。『馬が疾走する音は必ず三連符』と。このインスピレーションによってヤツは必ずブレイクするじゃろう」

こう言ったのは、見るもおどろおどろしい姿の魔王であった。

「やれやれ、ありがたや。心強いことじゃ。まあ、友達にも恵まれるようだし、そう悲観することもないか」

長老は、甥のほうをちらりと見て言った。

「そろそろ、サインしてもらえませんかね。ただでさえ、今日は案件が多いんですから」と死神がイライラして催促する。

「わかった、わかった。まったく、死神に急きたてられて、人の人生を決めるというのも妙な話だな」

「当番だからしょうがないんですよ。わたしだって、こんな仕事早く終わりたいんです」

 そうこうするうちに、シナリオがすべて決定し、それぞれの人選が終わると、本日地上に送り込まれる予定のメンバーが名前を呼ばれて整列した。彼らは、事前にシナリオをざっと閲覧することを許されているが、ここを出発するときには、すべての記憶が消し去られる。一人ずつ入り口をくぐると、それぞれの行く先へと異次元トンネルに導かれ、やがて、ある母親の胎内に育まれつつある個体の肉体に宿る。トンネルの行く先、地上に出る時には、人はみな真新しい赤ん坊となって産声をあげるのである。

 長老の甥は、何度かの悲惨な人生の記憶を引きずって、消耗した生気のない様子だったが、今度のシナリオを読むと、微笑を浮かべて

「作曲家か。まあ、マシなほうだな。意味のありそうな人生だし」

と言って、長老の差し出したグラスをぐっと飲み干した。世界中の美酒の粋を集めたこの虹色のカクテルを一杯飲めば、どんなにつらい思い出も忘れて運命に敢然と立ち向かって行けるのである。

「たぶん、これが最後の修行じゃろう。おまえもそろそろ我々の仲間に入ってもいい頃じゃ」

「そうですか。大丈夫です。今なら何でもできそうな気がします。おじさん、行ってまいります!」

「よし!がんばってこい!」

 

甥は誕生委員会の円卓のあるだだっぴろい広間の西側にある青銅の扉をギイィっと開けると、大きく息を吸って中へ一歩を踏みいれた。彼の身体が通路に入るやいなや、死神が扉の取っ手をつかんで閉めた。ギイィッ、がちゃん。非情な響きのあとにはしばし沈黙。

「ああ無情」と長老が恨めしそうに死神のほうを見るが、死神は涼しい顔で言い放つ。

「天才的な芸術家の人生なんて上等じゃないですか」

十字軍の騎士は少し心残りの様子。

「いやあ、才能だけじゃなくて、普通の幸せももう少し書き足してあげたかったものです。せめていい奥さんと温かい家庭を持つとかね」

「甘いな」死神は吐き捨てるように言い、ほかの委員達も唱和する。

「恋は成就せず」

「父からは勘当」

「舞台も成功せず」

「いつも一文無し」

「そして梅毒で若死に」

誕生委員の面々は口々に嘆き、長老は「ああ、哀れなヤツよのう。それでも健気に行きよった」と涙ぐんだ。

「まったく、飲まんとやってられませんなあ」

彼らは各々のグラスを空けては、また葡萄酒やお神酒を酌み交わすのであった。

 

(意外と長いのでこの辺で。続きはまた明日)

 

当時読んで感銘を受けた子ども向けのシューベルトの伝記。ひのまどかさんの文章に引き込まれた。