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よろず編集後記

よろず編集者を目指す井内千穂のブログです。

ピアノ連弾の喜び

音楽

「ピアニストが二人いたら連弾ができるというものではない。」

公開ゲネプロの途中でピアニストの田崎悦子さんは語った。今回のゲストであるピアノデュオ ドゥオールの藤井隆史さんと白水芳枝さんから聞いた「忘れられない言葉」だという。「私もその仲間に入れてもらいたいと思います」という田崎さんは相変わらず若々しくチャーミングだ。公の場で連弾を披露するのは今回が初めてとのこと。

田崎悦子さんのピアノを初めて聴いたときの感動は忘れられない。

田崎悦子ピアノリサイタル「三大作曲家の遺言」: 井内千穂のうたかた備忘録

田崎さんのピアノがまた聴けるとあらば万難を排して馳せ参じるというもの。しかも、あの田崎さんが連弾!ということにも興味をそそられた。3月17日にカワイ表参道で開催されたJoy of Chamber Musicを公開ゲネプロから聴きに行った。

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毎回錚々たるヴァイオリニスト、チェリストパーカッショニストなど、トップ・アーティストをゲストに迎え、若い学生たちとピアノ室内楽を楽しく学び、指導し、演奏してきたというこのシリーズ、以前の会も聴きたかったものだ。初めて伺うこの10回目は、シリーズ初のピアノ連弾企画。そうか。連弾はピアノの室内楽なのである。

ちょっとだけ調べてみると、19世紀に入って台頭してきた新しい市民層の財力と余暇の一部は、コンサート・劇場・教会などで音楽を聴くことに向けられた一方で、アマチュア音楽家として「習い事」などの実践も盛んに行なわれるようになった。その中で多くの人々が関心をもって参加したのが、コーラスや家庭でのピアノ音楽だったという。そしてピアノによる一番簡単な室内楽として「連弾」が流行ったそうだ。

幾多のオリジナル連弾曲が作曲され出版されたほか、オーケストラ曲をコンサートホール以外で自分の好きなときに楽しむ手段として、有名なオーケストラ曲のピアノ連弾用編曲版も出版された。そういう楽しみ方は、放送や録音でオーケストラ曲をいくらでも聴けるようになってからは廃れていたが、最も少ない人数でスケール感のある合奏が楽しめるということで、最近徐々に連弾が復活しつつあるようだ。そう言えば、今年に入ってから既に2回、ピアノ連弾中心のコンサートを聴いた。

確かに、連弾は楽しそうだ。ピアノにつきまとう孤独のイメージの反動でもあるかのように、連弾する人々の間で醸し出される親密な空気には他の室内楽を凌ぐものがある。なにしろ、1台のピアノに並んで弾く二人は、弦楽カルテットなどのそれなりの距離感とは比べものにならないほど、ぴったり寄り添っているのだ。見ているほうがドキドキする。

 この日のプログラムで言えば、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」や、ラヴェルの「マ・メール・ロワ」は、ドゥオールのお二人やその弟子筋の学生さんたちによって演奏されたが、フランス音楽の微妙な音の重なり具合を探る無言のやり取りがなんとも濃密だった。隣り合って座る二人がピアノに覆いかぶさり、顔を寄せ、アイコンタクトやちょっとしたジェスチャーで互いの手を鍵盤に置くタイミングを計り、左側で低音部を受け持つ奏者が細かいペダルさばきを調整する。二人の人間が一つの楽器を共にする一心同体みたいなアンサンブルである連弾とはこういうことかと感じ入った。連弾に特化した活動を中心にしていく場合、ソロの曲への向き合い方はどのようになるのだろうか?

対照的だったのは、ケラー編曲によるブラームスの「大学祝典序曲」。ピアノ2台8手連弾版があるとは知らなかった。ついこのあいだオーケストラで聴いたばかりなので、ピアノ版がなおのこと新鮮だった。やはり、オ―ケストラの全ての楽器を四人で分担して指揮者もなしに合わせようとすることには無理があり、若干ガチャガチャした印象は否めない。微妙な響きがどう、というよりはタイミングを合わせることが肝心で、田崎さんや学生さんも含めた四人の奏者のアクロバティックな掛け合いを見守る緊張感あふれるセッションであった。

そこへいくと、シューベルトの「人生の嵐」は、元々ピアノ連弾のために作曲されただけあって、二人の奏者によって1台のピアノの可能性が存分に引き出される素晴らしい曲だった。田崎さんがリサイタル「三大作曲家の遺言」シリーズで演奏されたシューベルト晩年の3つのソナタと同じく最晩年の1928年に作曲され、シューベルトはその年の11月に亡くなってしまう。「人生の嵐」というタイトルは死後に出版社が勝手につけたようだが、「嵐」というよりは、生に執着する最後の抵抗を試みながら、心はもう死後の別次元の世界に向かっていくような音楽に感じられる。

冒頭から繰り返し現れるジャジャジャーンという和音のフォルテシモから中間部の厳かなピアニシモまで(いや、もう1つずつフォルテやピアノがついているかもしれない)、ピアノは実に音量の幅が広い。とくに静かな部分がよかった。セコンドの藤井さんが静かに鳴らす死へと向かう葬送の列のような厳かな低音に乗せて、プリモの田崎さんが繊細に響かせる旋律と和音は、戦いに斃れた騎士の世界か、教会の宗教画のような趣き。ここが琴線に触れ不思議な既視感(既聴感か?)がかき立てられるのは、どういう文化的刷り込みかと訝しむが、とにかく美しい。

プログラムの最後は、リストの交響詩第3番「前奏曲」。これも元々はオーケストラの曲だが、リスト自身の編曲による2台4手連弾バージョンを初めて聴いた。

連弾でもピアノが2台になると、2人のピアニストが密着せず距離があるだけに、違った協力関係になるようだ。第1ピアノ、第2ピアノそれぞれの奏者が自分の楽器の上を縦横無尽に腕を振るいながら、絶妙なコミュニケーションを取りつつ同じ音域も含めて音を重ねるピアノ2台分の響きは実に豊かなものだった。元がピアノ協奏曲ではないから、ソリスト部分とオケの部分という分け方ではない。オーケストラの各声部をどのように二人で分担しているのか、実際に楽譜を見てみたいものだ。

冒頭のちょっと不気味な主題は、ピアノで弾くと弦楽器とはまた違った味わいがある。ホルンが深々と歌う愛の主題、トランペットのファンファーレ、オケ全体が嵐のようにうねる激動の音響、ポロンポロンというハープに乗せて弦楽器が奏でる癒やしの旋律、田園風景の中に代わる代わる聴こえてくるオーボエクラリネット、フルートの響きから、打楽器も炸裂する華々しいフィナーレまで、次々に変容する曲想に応じて、オーケストラの楽器をそのまま真似るわけではないけれど、さまざまな音色を弾き分けられるのは、さすがピアノならではの表現力である。木管楽器のさえずりは高音部のトリルなどで表現され、クライマックスへと盛り上げるコントラバスは低音部のオクターブで重厚に打ち鳴らされる。

田崎さんと白水さんが繰り出す高速の音階とめくるめくアルペジオの怒濤に押し流されながら、要所要所でポーンと際立つ和音の響きに酔いしれる。ズーンという低音の圧力も、キラキラと硬質な高音のアタックも、ピアノの音色には鍵盤楽器、いや、打楽器ならではのキレがあり、二人がかりで2台のピアノの両端まで使って叩きだす和音は圧巻の迫力である。

この曲の勇壮な部分が、かつてナチス時代のニュース映画にも使われたのもわかる気はするが、「人生は死への前奏曲」という詩に基づくリストの人生観だと改めて聞くと、もっと切なく胸に迫る音楽である。

「小学生の頃に聴いて胸がキュンとなって以来大好きなこの曲のピアノ連弾版があることを知り、指揮者になったような気持ちで弾くことができるのは大きな喜び」と田崎さんは語った。喜びに満ちた演奏のスケール感からは、ふと大編成のオーケストラを相手にソリストとして輝かしい演奏を聴かせた往年の田崎さんの姿も垣間見えるようだった。

1960年に渡米し、ジュリアード音楽院卒業後もニューヨークを拠点に30年間、国際的に演奏活動を展開された田崎さん。若い頃、マールボロ音楽祭でカザルスやゼルキン等の巨匠から薫陶を受けたことを前回の取材の折にも語ってくださった。

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そのマールボロ音楽祭での貴重な経験を次の世代に伝えたいという思いで、このJoy of Chamber Musicシリーズを始められたという。これほどのキャリアを持ちながら、連弾という「新しいこと」に真剣、かつ、喜々としてチャレンジする田崎さんのパッションは、若手アーティスト達への愛の発破であり、居合わせた聴衆にも音楽の喜びをトータルで伝えてくれた。

単独でも成り立つピアニスト同士が敢えて一緒に弾く形に私は意味深いものを感じた。もちろん、単独で成り立つことも難しい。また、ドゥオールのお二人が言う通り、ピアニストが二人いたら連弾ができるというものではなく、互いへの理解と尊敬が欠かせないのだろう。

他の楽器の伴奏にもなれば、大オーケストラをバックにソリストにもなる。そして、あの「三大作曲家の遺作」シリーズのような究極の孤独に一人で向き合う。そんなピアノは、人間の様々な内面を映し出す奥の深い楽器だと改めて思う。

孤独だからこそ人と力を合わせる喜びがあり、死への前奏曲だからこそ人生は愛おしい。