よろず編集後記

よろず編集者を目指す井内千穂のブログです。

田崎悦子ピアノリサイタル「Joy of Brahms」

かのブラームスの最晩年に遺言として書かれたピアノ曲ばかりを集めたリサイタル。コロナ禍に疲れた心身にこれほど沁みる音楽はないだろう。そんな音楽を求める人々が集まったのか、日曜の昼下がり、東京文化会館小ホールの客席は予想以上に埋まっていた。

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晩秋の紅葉を思わせるシックな赤のドレスをまとって舞台に現れた田崎悦子さんは相変わらず素敵だ。よかった。コロナが猛威を振るった間も無事に過ごしておられたようだ。しゃんと背筋を伸ばして。

今日のブラームスの遺言たちは、6年前に初めて聴いた田崎さんの「三大作曲家の遺言」シリーズの演奏会の曲目とも重なっているが、今日はまた違って聴こえた。

 

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年輪を重ねてアーティストはさらに音楽を深め、聴き手の自分も多少の馬齢を重ねた。人は絶えず変わっていく。そして、世の中も変わる。

ベーゼンドルファーの重めの鍵盤への絶妙なタッチは、いくつもの音が重なるオーケストラのように分厚い和音の連なりから、肝心な音を響かせ、儚い旋律を浮かび上がらせた。遠くで渦巻いているような仄暗いアルペジオに包まれてうっとりしていると、突如、悲劇的な和音がこちらの肩を掴んで激しく揺さぶる。そんな鋭い音を繰り出す時にはおのずと振り上がる田崎さんの腕がまたカッコいい。しかし、勇ましい場面はそう長くは続かない。あきらめのような調べがポロポロ流れ去り、聖なる和音がしばしの余韻を残して、やがて消え去るのだ。

時折、彼の交響曲を彷彿とさせるパッセージも現れた。ああ、これって何番のどこだっけ? サッと思い出せないのが情けないが、青春時代を過ごした学生オケでブラームス交響曲1番を初めて生で聴いた時の心の震えが甦る。きっとブラームスも若かりし自分を思い返しているのだろう。青年ブラームスは、長い髭をたくわえた老境の肖像写真と同一人物とは思えない、とびきりのイケメンだった。

「7つの幻想曲 作品116」「3つの間奏曲 作品117」「6つの小品 作品118」「4つの小品 作品119」。この日演奏された20曲の”珠玉の遺言”を書いた当時の彼は59歳。今の自分の年齢とさほど違わないではないか。なんということ! そして数年後に亡くなる。なんということだ。

短い曲の一つ一つに聴き入りつつ、とりわけ琴線に触れたのは「6つの小品 作品118」の2曲目の間奏曲。穏やかな幸福感に満ちた語らいに続く切ない中間部は、切々たる恋情の絡み合いとすれ違いなのだった。以前は女の嘆きのような高音部ばかりが耳に残っていたが、この日田崎さんが奏でる左手の三連符から立ち現れた低音の旋律が胸に迫る。あれは追憶の彼方に秘められたブラームスの慟哭だったのか。

この曲は、「聴きやすいからね」と田崎さんもおっしゃるが、ブラームス好きや趣味でピアノを弾く人にも特に人気の曲だという。そうなんだろう。多くの人の心を捉える何かがあるということだ。この日、3曲も弾いてくださったアンコールの中で、もう一度この間奏曲を聴くことができて幸せだった。二度目は……なぜか涙が溢れてくる。たいしたことのない人生経験でも、未熟者が失敗を重ねながら三児の命を育むのは決して簡単ではなかったし、心もとない仕事も精いっぱい背伸びしてやってきた。この人と、この子たちと、二度と会えないかもしれない、ひょっとしたら自分はこのまま死ぬのかもしれないという恐怖も何度となく乗り越えてきたではないか。

今回初めて田崎さんの演奏に接した夫は、「人生を聴いたようだ」と言った。学生時代にブラームス交響曲を実際に弾く機会に恵まれた彼にとっても、初めて聴く最晩年の遺言たるピアノソロは心に沁みたようだ。

「生まれ持ったとてつもない優しさと、よりどころのない孤独」「例えようもなく繊細なブラームスの心の旅路」(田崎さんのプログラムノートより)。

コロナ禍だけではない。これからも何があるかわからないけれど、ブラームスが遺したこんな音楽が存在する世界で、ほんのひととき、それぞれの孤独を抱えながら、たまたま出会った人たちと共に生きられるのは幸せなことだと思う。

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いつだったか、田崎さんが繰り返し読んだというブラームスの「素晴らしい伝記」のことを話してくださった。驚いたことに、この日の演奏会場にも、分厚い年季の入ったそのペーパーバックを持参してこられたのだった。改めてタイトルを知ることができ、早速注文した。今後の人生の糧に、日々少しずつ読んでみたい。