よろず編集後記

よろず編集者を目指す井内千穂のブログです。

マザー・テレサを撮った日本人:百瀬恒彦 写真展「祝・列・聖」

去る9月4日、故マザー・テレサが列聖された。

列聖に合わせて、9月1日から9月6日まで、百瀬恒彦 写真展「祝・列・聖」が東京・表参道のプロモ・アルテ・ギャラリーで開催された。

写真展に寄せた百瀬氏の言葉。 

「・・・亡くなってから、聖人に列聖されるには時に数百年かかると聞いていました。マザー・テレサが亡くなったのは1997年(87歳でした)。20年も経っていません。まさか僕が生きている間に!

昨今、眼にまた耳にするニュースはあまりにも殺伐、血なまぐさい出来事ばかり、人がひととして人に対してどうして? あまりに色々な出来事があって、どんどんと記憶の片隅に押し込まれてしまっていますが、今一度マザー・テレサを思い起こして、愛・優しさ・思いやりの心、考えてみたいと思います。」

 

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これまでに見たことのない厳しい表情のマザー・テレサがそこにいた。

1995年、インド・コルコタの「死を待つ人々の家」に赴く機会を得た百瀬氏は、写真を撮らせてほしいと願い出た。大の写真嫌いだというマザー・テレサは、百瀬氏の顔を凝視したそうだ。百瀬氏も決して目をそらさず全力で凝視し返す。しばしの真剣勝負で向き合う人間と人間。そして、マザー・テレサは承諾の意を示した。

ミサに臨む姿、祈りを捧げる横顔に、至近距離でレンズを向けたその写真は、最晩年のマザー・テレサの苦悩を映し出すようだ。深く刻まれた彫刻のような皺。真一文字にきつく結ばれた口元。インドの青年たちに囲まれたシーンが唯一の笑顔だったが、それ以外は、何と言おうか、自身を戒めるような峻厳さが見る者をたじろがせる顔である。

会場で百瀬氏とお話した。

「死を待つ人々の家の入り口で選ぶわけですよ。コルコタの町は貧困や病気で死にそうになっている人々で溢れかえっている。すべての人の最期を看取ることはできない。迎え入れる人をマザー・テレサが決めれば、中に入れてもらえなかった人に外で死ねと言っているのに等しいことを彼女自身もわかっているわけです。」と百瀬氏は当時を振り返って語る。「でも、すべての人を助けようとすると誰も助けられない。」

その不条理を自覚しながら、自らに課した務めを果たそうとするマザー・テレサの厳しい表情に私心は一切感じられない。

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今回の写真は、すべて和紙に現像されたモノクロの作品だった。

「印画紙を、和紙を使って自分で作って、何か表現できたら」と思った百瀬氏の、大変な手間をかけた現像過程を記録したビデオ映像をギャラリーの一角で見られるようになっていた。

8畳ほどの暗室。薄暗く赤い電球の下で、まず和紙にモノクロ感光用の乳剤を塗る。今や製造中止になってしまった貴重な乳剤を刷毛を使ってムラなく。刷毛も硬いものや柔らかいものを4種類ほど、現像する写真の絵柄によって使い分け、二度塗りする。塗り終わったらドライヤーを使って乾燥。水分をたっぷり含んでいるので結構な時間がかかる。そり曲がってしまったらプレス機で熱を加えながら伸ばす。これで和紙の印画紙の出来上がり。やっとプリントを始められる。

フィルムをセットし、ピントを合わせて、でき上がった和紙の印画紙に露光する。露光時間を長くしたり短くしたり、部分的に光を加えたり減らしたり。面白いのは光にかざした手を細かく震わせながら光の量を加減するところ。いちばん緊張する場面だそうだ。絵柄によってのイメージ作業だが、現像液をつけるまで全くどうなるのかわからない。

普通は感光させた印画紙全体を現像液につけるが、百瀬氏は刷毛を使って、イメージする所だけに現像液を塗っていく。真っ白な和紙の印画紙に像がジワーっと浮かび上がってくる。これが「いちばん幸せな瞬間」というテロップがあった。そのあと停止液、定着液に浸ける。ここまでが暗室での作業だ。

一時間、流水で水洗いし、丸一日かけて自然乾燥して、やっと完成!

この手法では、同じものは二つとできない。元のフィルムは同じでも、和紙の印画紙を作る際に塗る乳剤の刷毛さばきや現像の際の光の当て具合いによって、全く違った印象になる。たとえば、マザー・テレサの背後にいたはずのメガネをかけたシスターは現像されず、そこに白い空間として抽象化されたバージョンもあるのだ。それぞれが一点もののアート作品と言える。

対象の本質を捉えてシャッターを切る瞬間、そして、デザインするように図柄をあぶりだす現像技術。日頃、スマホで安直に撮っている大量のデジタル画像とは対極にある、こだわり抜いたアナログの世界である。

しかも、その手作りの印画紙は、一昨年ユネスコ無形文化遺産に登録された、日本が誇る手漉きの和紙だ。まるで日本古来の墨絵のような写真が切り取った現代の一断面。

 

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急ピッチで決定した列聖もあれば、逆に誹謗・中傷も今なお絶えない。そんな動きに超然とした彼女の力強さが、その死後も伝わってくるようだ。

(続く)

 

 

 

National Day supplementという広告特集

少し振り返ると、今年の1月いっぱいで実質的に退職するまで私は、広告特集のコンテンツを編集する部署で主に大使館のPR記事を担当していました。

大使館がPRする機会として、ジャパンタイムズでは私が担当していた頃よりはるか昔から、たぶんかれこれ50年、ナショナルデー特集という独特の広告特集を掲載してきました。

建国記念日独立記念日などを祝うナショナルデー。年に一度のナショナルデーにはどの国にもPRのスペースを提供しようという趣旨の企画です。その機会に祝賀広告を募り、協賛企業などから広告が入れば、提供できる紙面スペースも大きくなるという仕掛けになっています。

2009年以降の特集記事のPDFがウェブサイトにアーカイブされています。

The Japan Times -- National Day supplement

この中で2010年1月から2016年の1月までは、繁忙期に同僚に助けてもらった以外は、ほとんどが私が編集・レイアウトした紙面です・・今見るとちょっと懐かしいですね。

このような広告特集は邦字紙ではめったに見ません。たまに日経新聞に載せている国があるぐらいでしょうか。国内の英字紙では、読売新聞が発行しているJapan News (以前のThe Daily Yomiuri)も同じような特集をやっています。諸外国ではどうなのか? リサーチ不足でわかりません。

中身としては、たいていは大使の名前で発信する記事で、各国のPRポイントと日本との良好な関係を謳い、さらなる政治経済関係の発展や文化交流を呼びかけるという外交プロトコルに則ったメッセージです。広告がたくさん入りスペースが大きくなると、その国の独立に到るまでの苦難の歴史を振り返ったり、二国間関係について詳細に語ったりという長大な文面になります。その国の美しい風景や外交上重要な写真が添えられたり、大使のメッセージ以外に日本の政財界から祝賀メッセージが寄せられたりする場合もあります。

そういう編集関係の諸々のアレンジを担当していた私は、各国のナショナルデーの時期が近づくと、その国の大使館に原稿依頼をして発行日に間に合うように紙面をレイアウトし記事を編集しておりました。ルーティンワークですが、なにぶん年間100か国以上あるので量的になかなか大変でした。

 担当者としては、各国大使館と小まめに連絡を取り、新聞の一面トップにどんな天変地異が掲載されていても、よほどのことがない限り世界各国のナショナルデーを祝う紙面を粛々と作り続けたのでした。

東日本大震災の直後にはナショナルデーの祝賀レセプションなどが自粛された時期もありましたが、紙面に掲載されたナショナルデー特集には、各国から被災地へのお見舞いの言葉や支援と連帯の呼びかけが見られました。

ニュース記事ではありませんが、ナショナルデーの紙面からも国際情勢が垣間見られます。

たとえば、2011年までは掲載されていたシリアのナショナルデー特集が2012年以降は発行できていません。

リビアのナショナルデーは2009年までは9月1日で故カダフィ大佐の肖像写真が掲げられていましたが、2011年のアラブの春からしばらくは発行できず、久々に掲載したのは2014年でその日付は2月17日に変わりました。

同じくアラブの春を経たチュニジアはナショナルデーの日付は3月20日で変わりませんが、2010年まではベンアリ元大統領の肖像写真が掲げられ、2011年には発行できず、2012年には総選挙の写真とともに掲載されています。

少なくとも、ある大使館がナショナルデー特集を発行したいと思えばできるということが、その国の現政権の状況を推し測る一つの指標にはなります。

もちろん、大使の意向や広告の多寡にもよりますし、そもそもナショナルデー特集企画に興味のない国も多いですが。

大使館にとっては貴重なPRの場、スポンサー企業にとっては大使館に協力するチャンスであり、読者にとっては普段そんなに馴染みのない国についてニュースとは違った形で知る機会、そして、新聞には広告料が入るという「四方良し」みたいな絶妙なパッケージをかつて思いついたのは誰だろう?と感服しておりました。

しかし、このような特集に出稿する企業がじりじり減ってきて、特集に意義を見出す大使館が減ってきているのも現実です。

このナショナルデー特集を含めた広告特集の編集を担当する中でしみじみ実感したのは、新聞はもともと広告あってのビジネスであるということでした。

今後どういう形になっていくのか?現在進行形の模索が続いています。

 

 

 

 

江戸のジャーナリズムを垣間見る

週末。何気なくテレビをつけていたら「林修今でしょ!講座」の傑作選をやっていて、「かわら版で見る江戸時代の大事件簿」というのがなかなか面白かった。元々は8月23日の夜に放送されたトピックのようだ。解説は、映画にもなった『武士の家計簿』の著者で歴史学者の磯田道史先生。ちょっと備忘録。

tvtopic.goo.ne.jp

1853年に神奈川・浦賀にやってきた黒船来航という大事件は、かわら版で江戸庶民にも伝えられていた。ぺるり(ペリー)のビジュアルも詳細に描かれていて、それがまた版によって違うのが、伝聞内容の解釈の具合で話が変わってくる伝言ゲームのようで面白い。肩書や名前が意外に正確なのは、外交担当の幕府の役人から仕入れた情報だろうとのこと。ちなみに江戸の庶民は地球が丸いことだって「あめりか」という国の名前だって結構知っていたとか。寺子屋教育のおかげか、鎖国してたわりには大したものだ。

新聞や週刊誌の役割をしていたかわら版だが、非合法だったため読んだらすぐに捨てられていたという。記事の内容によっては捕まることもあるため、顔がバレないように覆面をつけて売っていたとか。江戸時代以前から存在していたらしい。現存する最古のかわら版は1615年大阪夏の陣の速報。これは当局側の話だから捨てられずに残ったのか?

将軍吉宗の時代には、倹約令に反し贅沢三昧していた姫路城の榊原政岑が、かわら版のスクープによって城を取り上げられ雪国の越後高田に移され数年で病死するなど、やはりペンは剣より結構強い。栃木のイケメン大名の奥方や側室の江戸屋敷での顛末を格好のワイドショーネタとして取り上げる一方、浅間山大噴火の際には迫力ある絵だけでなく文字で細かい情報を伝えたのも、かわら版だった。

うーん、いつだって情報は重要だったのだ。誰だって世の中で何が起きているのか知りたいというもの。たとえ非合法でも、そのニーズに応えていた優秀なかわら版屋たちのネットワークに拍手!

また、磯田先生が「江戸のジャーナリスト」と紹介した藤岡屋由蔵と馬場文耕の話も面白かった。

「藤岡屋由蔵はもともと古本屋だったが、情報は金になると気付き情報ビジネスを確立させた。各藩の役人は江戸の情報を国元に送る必要があったため、藤岡屋由蔵に接触していたという。」とgooのまとめには書いてあるが、本屋を構えるようになるまでは、広場にむしろを敷いただけの露店で素麺の箱を机にして、人から仕入れた情報を一日中書きつけていたという。相当変わった人物だ。

www.geocities.co.jp

幕末を生きた彼が書き残した膨大な日記は、明治維新後、東京帝国大学の教授が買い取って、後年、『藤岡屋日記』(全150巻152冊)として刊行されたが、原本は関東大震災で消失してしまったという。へーえ・・何が書いてあったのだろう。

今でもその一端を知ることはできる。

『江戸巷談 藤岡屋ばなし』(鈴木棠三著/ちくま学芸文庫)

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馬場文耕のほうは、磯田先生の言い方によれば「スクープに命をかけていた」講釈師。郡上一揆を弾圧する幕府の様子を語ったことは、それを捜査した田沼意次が出世するきっかけとなったが、やがて、講談の場で幕府や諸藩の機密情報を書本や講談の形で公開したため幕府の怒りを買い、最終的には打首獄門になったという壮絶な生涯。

『馬場文耕集』(叢書江戸文庫)というのがあるようだ。

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江戸のジャーナリズムの話を聞いていてとくに興味深かったのは、担い手がかわら版屋や古本屋や講釈師などのマイナーな存在であり、小規模な組織もしくは個人が勝手にやっていたということ。政府広報とか広告ビジネスでなければ、メジャーな大組織には無理な仕事なのだろう。庶民に情報を知らしめる大義のためというよりは、情報の売買で儲けていたわけで、露店からスタートした藤岡屋由蔵は、そのうち店一軒を構えられるようになったのだから、ずいぶん稼いだに違いない。それにしてもその取材力が凄い。幕府の役人や諸藩の家臣もこっそり巻き込んたネットワークが張りめぐらされていたのだ。

江戸のジャーナリズム、侮りがたし。

 

 

今さらだが炊飯器でケーキを作ってみた

突然思い立ってケーキを焼いた。

何年ぶりだろう?ひょっとして10年ぶり?

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なぜ急にそんなことをしたかと言えば、バナナを捨てるのがもったいなかったからだ。

記事が一段落したら家の中がグチャグチャなのは毎度のことだが、部屋に漂う甘すぎる香りの理由は・・・完熟バナナだった。

バナナって夏場は冷蔵庫に入れたほうがよかったんだっけ?と思ったけれどもう遅い。誰も食べないうちにこの暑さで熟れ過ぎてブヨブヨだ。このままではちょっと食べる気にならない。捨てちゃおうか。いや待って!

これまで小耳にはさんだ話をぐるぐると思い出した。「ホットケーキミックスを使えば簡単よ」「オーブントースターでも焼ける」「ヨーグルトも入れる」「炊飯器でできちゃう」・・・そうだケーキだ。でも、材料を量ったりふるったり面倒だし、そもそもオーブンなんてないし・・・ホットケーキミックスと炊飯器で行こう。

そこで、Googleの検索キーワードに「バナナ」と「炊飯器」を入れると、ダーーーーーッとレシピが出てきた。こんなにあるんだ!中にはベーキングパウダーを使うのもあるが、ベーキングパウダーなんて久しく買ってない。ダメ。さらに「ホットケーキミックス」と「簡単」をキーワードに足しても、まあたくさんあることあること。2つ目に写真付きで出ているクックパッドのこれは簡単そう。うん。やってみよう。

cookpad.com

と言っても全くこの通りではなく、バナナは2本じゃなくて4本全部入れて、バターはやめてヨーグルトを入れて砂糖は少し減らして・・と勝手に適当に変えたがまあ大丈夫。あんなにたくさんレシピがあるんだから少々違ってても何かでき上がるだろう。ぐるぐるぐるぐる混ぜて炊飯器に入れてスタート!いや~簡単だわ。

「竹串を刺してみて何もついてこなければOK。まだ焼けてないようならもう一度、炊飯キーを押してください。」と書いてあるが、最初に「炊き上がり」でピーピー鳴った時は、上のほうは全然焼けてなかった。普通にフライパンでホットケーキを焼く時の所謂「泡がプツプツ出ている」状態だ。もう一度炊飯キーを押す。竹串で刺してみたり表面を見たりしながら、炊飯キーを押すこと4回だったか5回だったか。2回目以降は9分毎に炊飯器が止まることもこのたび初めて知った。普段は二度押しすることなんてないから。結局かれこれ1時間ぐらい炊いただろうか。さすがにもういいよね。

ということで取り出した。 

おおー!ケーキだ!できたできた!!

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甘過ぎずバナナ風味が優しいしっとりしたケーキ。おいしい♡

ほんとに炊飯器でできるんだな~~

最近あまり甘いものを食べなくなってきた我が家の男子たちも「へー作ったの!」「そりゃまた珍しい」「何年ぶり?!」とか言いながら、おかわりを申し出る。かくして、あの末期的な完熟バナナはペロッと家族のお腹に収まったのであった。

めでたしめでたし。

こんなに簡単に作れるんだったらいろいろやってみよう。俄然やる気が湧いてほかのレシピも見てみる。

ホットケーキミックス」「炊飯器」だけで検索すると、トップに出てくるクックパッドのレシピは実に3112品!世の中に炊飯器でケーキ作ってる人がこんなにいるんだなあ。

秋に向けて・・我が家で次に熟れ過ぎになる可能性が高いのは柿だ。完熟柿を使ったレシピを見つけた。やっぱりあるね。この秋やってみよう。

cookpad.com

レシピを保存するまでもないほど簡単。要は熟れ過ぎの柿とホットケーキミックスと牛乳を適当に混ぜた生地を炊飯器で炊けばいいわけだ。うちの男子でもできるな。

検索キーワードを入れるといくらでも情報が出てくるという世の中だと改めて実感した。料理本を買わなくてもネットの中にレシピは溢れている。敢えて紙媒体で欲しいと思うのはどういう場合だろうか。

それから、たまにケーキを作るぐらいの精神的余裕のある生活というのはやはり悪くない・・・天変地異と動乱が続く世界で、ささやかな「おいしさ」に感謝しよう。

ドキュメンタリー映画『FAKE』・・・佐村河内氏から見れば

新垣隆氏についての記事を書くにあたり、やはり、物事は両面から見ないと・・・と思い、あのスキャンダル後の佐村河内守氏に迫ったという森達也監督のドキュメンタリー映画『FAKE』を観に行きました。

しかも2回行ってしまいました。というのも、「誰にも言わないでください、衝撃のラスト12分間。」と宣伝されていたラストの途中で、あろうことか睡魔に襲われてしまったからです。ハッと気がついたら、なにやら壮大な音楽とエンドロールが流れているではありませんか。

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しまった! 

ところがそのあと映画がまだ続く(!)と思ったら数分後に「オチ」があって、そこでふと終わるという体裁でした。エンドロールの時点でそそくさと帰ったりしたらずいぶん印象が違ってしまいます。結局、この世は狐と狸の化かし合いという話かと、文字通り、狐につままれたような気持で席を立ちました。ただ、先ほど重要シーンを見逃したのではないか?ほかにも衝撃があったんだろうか?と気になってもう一度足を運んだ次第です。

さすがに2度目は全部起きて観たところ、睡魔に襲われたのはやはり例の音楽のせいだとわかりました。自分にとっての重要シーンは見逃していなかったと確認できましたが、全編そのまま信じてはいけないと念押しながらおさらいする感じになりました。

「『真偽は簡単に決められないし、そもそも真実はひとつではない』と気づかなければいけない。」という森監督の意図のためにネタにされただけだとしたら、佐村河内氏も気の毒と言えますが、佐村河内氏の立場から見たらどうなのか?を全身で伝える機会を与えられたのだから良しとしましょう。観客としては、少なくとも森監督の目を通して、これまで知らなかった佐村河内氏の別の一面(愛妻家とか愛猫家とか)を見せてもらいました。それも森監督の言う「白か黒かの二項対立的な発想ではないグレーの部分の魅力」の一端ということでしょうか。

スキャンダル後、新垣氏があの記者会見の時とは全く別人のような姿で様々なテレビ番組や雑誌に登場している様子を見つめながら佐村河内氏は苦々しそうに「新垣って世間が思うようなイイ奴なんですかね」とぼやきます。確かにちょっと調子に乗り過ぎのようにも見える新垣氏の姿ですが、それは、その少し前まで佐村河内氏が演じておられた「全聾の天才作曲家」のパロディにすら見えます。

新垣氏からすれば、記者会見で表に登場された時に、おそらく初めて彼を見た多くの人々が感じたであろう「え?どういうこと?この人は何だろう??」という当惑や、下手をすればそのまま「堅苦しいクラシック音楽業界で現代音楽を作っているらしい真面目な先生でゴーストライターやってた人」というイメージが固定化したまま忘れ去られるのを打ち破り、人間にはいろんな面があるのだ、ということを身体を張って示したのだとも言えます。確かに、メディアに現れる姿によって私たちのイメージが誘導されることがここでも示されていますが、新垣氏は結果的にそれを逆手に取った形になったのではないでしょうか。誰にだって「知られざる意外な一面」があるんだろう(新垣氏にも佐村河内氏にも)、ぐらいの受け止め方を常にしておいたほうがいいのでしょう。

映画の中で佐村河内氏は、「耳が聴こえない」ことまで否定されたのはひどい、新垣氏がなぜ嘘をつくのかわからないと言います。そうなんだろうか?あらゆることを一応疑ってみることにして、新垣氏が著書で述べている事とも照らし合わせて考えてみました。

仮に新垣氏が嘘を言っていて、佐村河内氏は「かなり耳が不自由」だとすると・・・新垣氏の「アレンジ」が佐村河内氏の「指示書」の意図に沿った内容になっているかどうか、楽譜の読み書きができない佐村河内氏はどうやって検証したのでしょうか?オケ合わせの響きなら聴き取れるのか?その辺の聴こえ具合は他人にはどうにもわかりかねますが。そして指示書だけでなく、かつてゲーム音楽のアレンジを新垣氏に頼んだ頃のように、楽譜が書けないなりに「こんな感じのメロディ」という音源があって、それが仕上がった楽曲の少なくともある部分に反映されているのでなければ、やはり共作と言うには無理があります。

そこのところの疑問を代弁するような外国人ジャーナリストによるインタビューが見事でした。「耳がかなり不自由である」ということを認めた上で厳しく突っ込みます。

「なぜ、楽譜の読み書きを学ぼうと思わなかったのか?」

「なぜ、楽器を捨ててしまったのか?!」

このインタビューを含めた彼らの膨大な取材が長大な記事にまとめられています。

newrepublic.com

「全聾の天才作曲家」と詐称したことが問題だったのであり、この期に及んで「耳がかなり聴こえないのは本当なのに」と世間の誤解を不当だと訴え続けても、あまり建設的だとは思えません。

やはり、自分を「自分とかけ離れた誰か」に見せかけるのは、周りに迷惑がかかりますし、自分だって苦しいはずです。誰しも憧れの職業やなりたい自分はあるでしょう。それを目指すことが生きる原動力になったりします。なので私は「ありのままの自分でいい。今のままの自分でいいのだ」とは思っていません。でも、本当に何かを目指すのであれば、多少背伸びしつつも日々それに向かって地道な努力を続けるものではないでしょうか。たとえその目標を実現できなかったとしても、そこに向かう過程にその人の生き様が出ると思います。どこかで方向転換する決心もまたアリです。佐村河内氏には「耳がかなり不自由ながら敏腕プロデューサー」として活躍する道もあったと思うのですが、やはり、どうしても作曲家になりたいということであれば、地道に自分の曲作りを続ければいいのです。このドキュメンタリーの続きを楽しみにしたいと思います。

この映画について書かれている様々な記事やブログも読んでみました。とくに面白かったのは、宮台真司氏の映画評論です。

realsound.jp

前編、中編、後編(前半+後半)という大長編をつい全部読んでしまったら頭がくらくらしてきましたが、『FAKE』は「そもそも社会も愛も不可能であるのに、それが可能だと勘違いさせるために、何かが働いて社会や愛が可能だと勘違いさせられている。社会は、善悪二元論や真偽二元論や美醜二元論によって言語的に構成された(悪)夢のようなものだ」という構造の映画だという見方でした。善悪も真偽も美醜も社会を維持するための擬制だと承知の上で一歩引いて、すべて「話し半分」に聞いていればあまり極端な間違いはしないということでしょうか。

確かに森監督が言う通り、真実は一つではなく、あの曲をどう思うかも人それぞれのようです。私が睡魔に襲われ、「なぜ佐村河内氏が新垣氏を必要としたかわかった」と思った同じ場面で、涙が止まらなかった人もいれば、「なぜ佐村河内氏が新垣氏を必要としたのかわからない」と思った人もいるわけです。同じ音にどう反応するかは、各人のそれまでの音楽環境やその日の体調や気分で違ってきます。何が100%正しいなんて言えません。そして、どういうわけか、そのメロディはいまだに私の脳内に残っており、口ずさむことすらできます(!)アレンジ次第ではヒットするかもしれませんね。音楽は不思議です。宮台氏の言葉を借りれば「そもそも社会や愛が不可能である中で、何か完全な法則を希求する一つの方法、それが音楽」と言いたくなりました。

(終わり)

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エンタメとしての音楽と芸術としての音楽の違いって?

エンタメとしての音楽と芸術としての音楽の違いってなんでしょう?

それは誰かが決められるものなんでしょうか?

このたび新垣隆氏の記事を書くにあたり、それなりに考えてみましたが、考えれば考えるほどわからなくなります。

新垣氏自身も著書『音楽という<真実>』の中で

  • 芸術としての音楽:みずからの理想や音楽観を追求し表現する音楽
  • エンタメとしての音楽:聴き手と文化が存在するという前提に立って、市民に受け入れられるための音楽

という説明を試みつつ、「その違いを言うのは実は難しい」と書いています。聴き手や文化が存在しない「閉じられた状態」において、それまでの音楽にはなかった、ありえなかったものを生み出すのが芸術としての音楽ということのようですが、それを受け取るのは誰でしょう? 豊富な知識と鋭敏な感性を持ったごく少数の理解者だけなのでしょうか? それとも自分だけ?!

わりとそれに近い活動をかつて新垣氏はされていたのかもしれません。私もたまに現代音楽の自主コンサートなどに出かける機会がありますが、20人ぐらいお客さんがいたらまあまあという感じですし、そこまで前衛的な演奏会でなくても、集客には常に苦労するのが現実です。 

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たとえば、こんな大きなホール(写真は広島国際会議場のフェニックスホール。8月15日『連祷-Litany-』初演後、お客様が帰られた後の客席です。1500席)を満席にするには、クラシック音楽であれば、よほど親しみやすい演目であるか、超有名な演奏家が出演するということでもないと難しいでしょう。

そういう意味では、『HIROSHIMA』がブームになっていた頃に大勢の人々がそのコンサート会場に足を運び、CDが18万枚も売れたというのはきわめて異例のことですが、新垣氏は、あの『HIROSHIMA』は、自分が追求する「芸術」ではなく、あくまでもエンタメであり職人としての仕事だったと書いています。「ただ、請け負ったからには、どんな仕事であれ良いものを作るのが作り手としての誇りだ、と考えるのが職人というもので、私自身もそうありたいと思っています」という一節は、新聞社在職中、どんな広告特集でも自分にできる限り良い紙面作りを目指した私も共感するところでした。

つまり、誰かの依頼に応えて作曲するにしても、自身の持てる限りの能力を使って何かを作り出すことに変わりはないはずです。

初演の翌日、広島市内で新垣さんにお話を伺いました。記事にも書いたところですが、興味深かったのは、佐村河内氏名義で書いた『HIROSHIMA』も、それを乗り越えようとしてこのたび取り組んだ、自身の名による『連祷-Litany-』も作曲の手法においては変わりはないとおっしゃったことです。

新垣氏は、佐村河内氏とのやり取りの中でしばしば「現代の芸術家が作品を世に問う時に多くの人たちとの間に乖離があるのではないか?それはなぜなんだ?」と問われたそうです。それはその通りで、既によく指摘されていることでもありますが、いったい誰のための音楽なのか?改めて考えさせられます。

新垣氏は、自分は「芸術家」であると称して、理想の新しい音楽表現を追求する自分とエンタメとしての音楽をアレンジする自分を分けていたが、両方含めて現代の作曲家であるということに思い至ったとも言いました。そして、「ヨーロッパのクラシック音楽の美しき伝統を全く捨て去っていいのか?19世紀のスタイルも現代の文脈で読み直すことができるのではないか?」と。

・・・佐村河内氏に影響を受けたことを素直に認めておられるように感じました。

今回の記事を書くに当たっては、新垣氏と親しい作曲家の西澤健一氏にもお話を伺いました。東京公演の後で、西澤健一氏とロビーで落ち合い、新垣氏に挨拶したときのことです。行列をなしたサイン会を終えて楽屋に戻りかける新垣氏に、西澤氏が「おめでとう」と声をかけると、新垣氏は握手しながら「全部詰め込んだよ!」と満足気に言いました。その笑顔は、テレビ出演などの時とはまた異なる、親しい友人だけに見せる屈託のない表情でした。

さすが、自身も作曲家である西澤氏は、一度聴いただけで今回の『連祷-Litany-』には、アメリカ、フランス、ロシアをはじめ、その他の東欧諸国の影響や、アジア的な器楽法も認められ、19世紀以降のさまざまな国の音楽の技法が詰め込まれていることを感じ取っておられました。そして、面白かったのは「いかにも現代音楽っぽい箇所よりも、むしろ、一見19世紀的なきれいなメロディに、新垣氏らしい独自のオーケストレーションの工夫が見られる」というご指摘でした。そうなんですね~ 確かにきれいで不思議な響きでした。

今回の交響曲は芸術なのか?エンタメなのか? それは誰が決めるんでしょう?どっちであるか決めることに何か意味があるのでしょうか?

自分でもわかりかねて、周りの人に聞いてみました。

「エンタメは仕事で疲れて帰ってきた聴き手に安らぎを与えます。エンタメを楽しむための知識といったものは特に必要なく、聴いているだけで人を癒す効果があります。一方、芸術は、作曲家がなぜこう考えたのか、自分はどう生きるべきなのかなどといった強烈な問いを聴き手に投げかけてきます」と答えてくれた人がいました。なるほどと思います。「今日を生きた人にエンタメ(安らぎ)が求められ、明日を生きる人に芸術(思考)が求められる。」・・・うまい表現だなあと感心しました。

芸術を理解するのに知識が絶対に必要なのかどうかは確信が持てません。ただ、好きであればおのずと知識が蓄えられ、それがさらに好みを洗練させていくという部分があるのは認めます。ましてや作り手になろうというのであれば、その大好きな分野へのあくなき探求の過程で知識はいつの間にか豊富になり、そういう知識の引き出しからさまざまな素材を取り出しては新しい組み合わせ方を考えて、ああでもないこうでもないと作っていく過程がきっと苦しく楽しいのでしょう。どんな創作もゼロから突然生み出されるわけではなく、過去の人類の蓄積をベースに自分が意識的・無意識的に選び取った要素をベースに作られていくのではないでしょうか? 単なる模倣やもっと悪くすれば盗作なのか、本人の創作なのかは、過去の素材をどれだけ自分の中で消化して独自に組み合わせたり発展させたりした表現なのか?というところにかかっていると思います。

しかし、作り手が豊富な知識を総動員して悩みながら生み出した力作が、残念ながら誰もピンとこない駄作だったり、逆に軽い気持ちでできてしまった傑作が人々の心を打ったりする、なんてこともあるかもしれません。

さらにわからないのは演奏との関係です。たとえベートーヴェン交響曲が芸術であっても、下手くそなオーケストラのいい加減な演奏だったらどうなのか? それは芸術なんですか? いや、下手な学生オケであっても一生懸命高みを目指して演奏していたら伝わってくるものがあるのではないか? その伝わってくるものは何なんでしょう? 少々通俗的な作品でも演奏によっては芸術になるんでしょうか? 子どもの合唱祭に感動して涙がこぼれることもありますが、あれは何でしょう? オペラ歌手が演歌を歌ってもピンとこないけれど、演歌歌手のあの怨念のこもったコブシにグッとくるのはなんなのか? ジャンルによって芸術かエンタメか分かれるなんてことはないんじゃないか? 

どんな音楽がどういう人の心をどのように動かすのか? 生まれた国の文化や幼少期からの音楽的な習慣も絡み合って、なかなか簡単に決めつけられるものではありません。ただ、はっきりしているのは聴き手あっての音楽だということです。

西澤氏は言いました。

・・・今のところポピュラー音楽の歌手たちが歌う音楽はポピュラー音楽として認識されていますが、中世のストリートミュージシャンたちが歌った歌は古楽の一分野となって、今日では芸術の歌手の仕事です。もしかしたら200年後にも芸術として遺される歌謡曲や大衆歌、ポップスもあるかもしれません。過去に行われた仕事でも、ベートーヴェンを「ベートーヴェン」にしているのは現在の我々です。つまり、芸術を「芸術」にするのは歴史と言えるでしょう。・・・

今回の新垣氏の作品にも既に「歴史」と言えるさまざまな背景があります。佐村河内氏のスキャンダルがあったからこそ、このような形で実現したとも言えます。今後それが長い時の試練に耐えるかどうかはまた別の問題です。ただ今回は、少なくとも新垣氏自身の作品であることを人々は知っている・・・ここで記事は終わりです。

エンタメと芸術の違いについて、私自身はざっくり言って、基本的にエンタメは「この世はこれでいい」という現状の肯定に立ち、「いや、これではいけない」と現状を超えた高みを目指さずにはいられない感じが芸術ではないかと思っていますが、そう言い切れるのか?何がそれに当たるのか?ということには、はっきりと答えられません。

ただ、両者はきっぱりと分かれるものではなく、親しみやすく楽しめることと、高みを目指すことが一つの作品や一つの演奏の中にも両立しうるのではないか・・・新垣氏の新しい交響曲を聴きながらそんなことを思いました。

(続く)

 

 

 

 

 

 
 

『HIROSHIMA』を超えて『連祷-Litany-』へ、広島より。

ずっと気になっていた新垣隆さんのことを書く機会をいただいたのはとても有り難いご縁でした。ジャパンタイムズを辞めてから初めての音楽の署名記事です。

何回かに分けて振り返ってみたいと思います。

 

1.『HIROSHIMA』を超えて『連祷-Litany-』へ、広島より。

2.エンタメとしての音楽と芸術としての音楽の違いって?

3.ドキュメンタリー映画『FAKE』・・・佐村河内氏から見れば

 

2014年2月、新垣氏が大勢の記者の前で頭を下げ、謝罪会見を行ったことは多くの方々の記憶に残っていることでしょう。

www.oricon.co.jp

先月8月15日、新垣氏は再び広島で頭を下げました。しかし、今回は聴衆の温かい拍手に応えて舞台に登場し、花束を手にしてにこやかに。広島国際会議場のフェニックスホールで新垣氏作曲の交響曲第2番「連祷ーLitanyー」が初演されたのです。

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初演は市民オケである東広島交響楽団の松尾亮平氏の指揮で演奏され、新垣氏は客席で聴いておられましたが、8月23日に都内の東京芸術劇場で行われた東京室内管弦楽団の平和祈念コンサート2016では新垣氏自らの指揮で演奏されました。

13年前、新垣氏は佐村河内守氏に求められ交響曲第1番を手がけました。当初は『現代典礼』というタイトルで作曲されましたが、後に『HIORSHIMA』と改題され佐村河内氏の作品として2008年に広島で初演されました。

スキャンダルから1年経った2015年の2月、新垣氏は東広島交響楽団から新しい交響曲の委嘱を受けました。この市民オケは2013年に交響曲『HIROSHIMA』を演奏しています。それはアマチュア団体としては初めてのことで、また、広島では初めての全曲演奏でした。

「スキャンダルでいろいろ騒がれましたが、あの夏、我々があの作品と本気でに向き合ったことに変わりありません」と同オケの代表 工藤茂氏は語っています。「お客様にとっても出演者にとっても、反響の大きい演奏会だった」とのことで、今後、演奏できる機会があれば、また『HIROSHIMA』を演奏したいともおっしゃっています。そして、同オケの結成10周年を記念して、今度は新垣さんご自身の名義の作品が演奏したいと思い、その想いをご本人にぶつけたということでした。

作曲されてから改題された『HIROSHIMA』ではなく、今回は自分の意志でヒロシマに向かい合い、作品に取り組んだという新垣氏は、プログラムノートにこう書いています。

「・・・「ヒロシマ」「ナガサキ」は私たち、つまり人類の共有する永遠の問題だ。原子爆弾が開発され、その地に投下された。なぜそれは起こったのか。私たちは常にその事を考え続けていかねばならない。1945年、8月15日から、やがて日本は奇跡的な復興を遂げた。その後の繁栄の中で私は生まれた。原子力は平和利用として電気を生み出すためのエネルギーとなり、私(達)はその恩恵を受けていた。そして2011年3月11日を迎えた。・・・」

広島で初演を聴いた私の印象では、『連祷 ーLitany-』は、前作の『HIROSHIMA』ほどわかりやすいメロディのオンパレードではなく、盛りだくさん、かつ、渋い曲でした。中間部には現代音楽らしい混乱をきたす部分があったり、シーンと沈黙する場面が出てきたり、タイトルにもなっている昔の宗教儀式のような掛け合いによる祈りが弦楽合奏の形で現れたりします。金管楽器のファンファーレで盛り上がりますし、木管のコラールも美しいです。

打楽器の使い方に面白いところがあり、東京公演ではそうでもなかったのですが、広島では途中、打楽器奏者たちがしゃがみこんだと思ったら、なにやらシューシューいう音が聴こえてきました。私の席からは何をしているのかよく見えなかったのですが、後で聞いたところでは、床を擦っていたそうです。新垣氏によると「自然の音」ということでした。また、時折ドドドド・・と鳴る大太鼓の響きも不気味でした。

冒頭と最後は美しい響きとメロディに満ちています。弦楽器の重なりによるハーモニーが琴線に触れるのはなぜかといつも思ってしまいますが、ここでも悲しみを湛えた祈りが胸に染みます。また、最後は、明るい希望のメロディがやはり美しいのですが、その下でずーっと鳴っているコントラバスの低音が不気味でした。

新垣氏自身の解説によると、そのベース音は『HIROSHIMA』の冒頭に出てくる音で、「時間は遡行し『HIROSHIMA』以前に回帰する」ということでした。その場ではそんなことは私にはわかりませんでしたが、とにかく美しい希望に満ちたメロディの下で何かが鳴っているという違和感や不穏な感じが強く印象に残りました。単純な楽観的な希望だけではすまない。この世の中に残念ながら当然のように存在する不安な諸々と共に生きていくということでしょうか。

メロディが終わってもその低音だけが残り、やがてそれも消えると後にはシーーーーンとした沈黙が訪れます。

この静けさがどれぐらい続いたでしょう。こんなに美しい沈黙を聴いたホールは今までにありませんでした。会場全体が祈りを捧げているような静けさです。指揮の松尾氏の腕がようやく下りてから、じわじわと拍手が起こり始めました。誰一人「ブラボー!」なんて場違いな声を発する人はおらず、真剣に耳を傾けた人々の心のこもった温かい拍手がただただ続きました。

(続く)

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