よろず編集後記

よろず編集者を目指す井内千穂のブログです。

コミュタン福島と語り部の力 ~京都発!「福島震災復興プロジェクト」③~

研修ツアー初日に6号線を北上し、浪江町での見学を終えた後、バスは浜通りを離れて西へ向かった。途中までグーグルマップで辿った限りでは国道114号線と459号線を通っていたはずだが、その頃にはとっぷり日が暮れて、真っ暗な山中の道では車内から何も見えない。一日の疲れもあり、うとうとまどろんでいるうちに二本松市に到着した。あたりは一段と雪景色。だが、厳しい寒さの中にも街並みには人が住んでいる明かりがともっていてホッとする。

研修ツアー2日目は、朝の9時過ぎから夕方の5時までの終日、福島県環境創造センター交流棟「コミュタン福島」に"缶詰め"で、さまざまなプログラムが実施された。コミュタン福島は、「福島のいまを知り、放射線について学び、未来を描く」場を目指して2017年7月にオープン。田村郡三春町の田村西部工業団地内にある約46,000㎡という広大な福島県環境創造センターの敷地内に建つ交流棟で、延べ床面積約4,600㎡の立派な建物である。

教育ディレクターの佐々木清先生の案内で、まずは展示を見学。

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ふくしまの歩みシアターの映像や原発の模型で、2011年3月11日から始まる福島の原子力災害との闘いを学ぶ。研修の「しおり」によれば、福島の環境回復のいま、福島県再生可能エネルギー取り組みの紹介、第一原発の作業員や現在の状況、食品検査についての展示、避難者数の展示、霧箱・スパークチェンバーによる飛散放射線の状況、除染についての展示解説・・・と本当に盛りだくさん。大人でもそうだが、中高生がこれらのトピックを全て消化するには時間が足りなかった。もちろん、生徒たちはメモを取りながら熱心に話を聴いていたので、とりあえず、どういう問題があるかということや、コミュタン福島にこれだけ充実した展示があるということはわかっただろう。

個人的にいちばん印象に残ったのは霧箱だった。いたるところ、自然放射線が飛び交っていることが可視化される。

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また、直径12.8メートルの全球型ドームシアター内で360度全方位の映像と音に包まれる「放射線の話」と「福島ルネサンス」は圧巻だった。とくに、福島ルネサンスに登場する四季折々の素晴らしい自然の風景、伝統の祭りを担う人々の誇りに満ち気迫に溢れる表情や子どもたちの笑顔に触れると胸が熱くなる。地元の人間でなくても、これを復活させたい、守り伝えてほしいと願わずにいられない。これは映像の力である。

駆け足の見学の後には、会議室に移動し、放射線測定器を使って身の回りのものの放射線量を実際に測定するワークショップが行われた。佐々木先生の説明はとてもわかりやすく、理科に苦手意識を持っているかもしれない生徒も(私も)、自分で手を動かして楽しく学べる。湯の花、減塩シオ、花崗岩、肥料、食塩の5品目について、線量の高い順位を予測し、実際に測ってみて予測と照らし合わせる。意外な結果の場合もある。結果から湧いてくる新たな疑問や佐々木先生の解説も含めて、こういった体験学習は放射線を科学的に捉える力を養う上で効果が高いと実感した。

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しかし、全く違った受け止め方をする人もいる。2012年の朝日新聞の投書欄「声」に、放射線副読本に対する批判の投稿があったのを最近あらためて目にする機会があった。その中にこんなくだりがある。

「特に『身近にある放射線を測ってみよう』と計測器の写真がずらりと並べられたページには怒りが抑えられなかった。福島の子どもたちが計測器を首に下げて外出せざるをえないことを考えたことがあるのか問いたい。」

そんな激しい非難の言葉が綴られていた。埼玉の女性の投稿だったが、福島から避難してきた人だったのだろうか。まだ震災から間もない頃の感覚だったのか、あるいは、今でもそのように考える人も結構いるのか。こと放射線の話になると、受け止め方が別格になる。悪いのは放射線なのだろうか?霧箱で見たように、自然の放射線はいたる所で飛び交っているのだが。

 

ワークショップに続き、鳥取大学研究推進機構研究基盤センターの北実助教による「放射線による健康被害について」という講義が行われた。放射線は身体にどういう影響を及ぼすのか?軽妙な語り口で、放射線が細胞の遺伝子を傷つけるリスク、細胞の修復機能、外部被ばくと内部被ばく、自然放射線などの解説があった。除染の方法にもいろいろあること、福島県の食品の検査、とくに米の全量全袋検査と風評被害について。なかなか考えさせられる。締めくくりは、鳥取県にある世界屈指のラジウム温泉である三朝温泉でくつろぐ北先生と息子さんの写真であった。また放射線の安全性を刷り込むのかと思う人もいるかもしれないが、若い世代にとって、さまざまな角度から放射線について学ぶ機会になったことは間違いない。

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なにしろ、盛りだくさん過ぎるぐらいのレクチャーのオンパレードの午前の部であった。

昼食を挟んで午後の部。午前の部とは雰囲気が変わり、被災地の高村美春さんのお話を聴くセッションから始まった。

2011年3月11日、南相馬市にお住まいの高村さんが、福島第一原発の事故直後からの避難の模様を生々しく語る。

原発から25km地点にある自宅は無事。情報がなく、状況がわからず、友人たちから「逃げろ!」というメールをもらっても、なぜ逃げなければならないのかわからなかった。翌12日の朝、県道12号線は西に向かう大型バスや車で大渋滞。3人の息子たちのことも気がかりだが、職場である介護施設の100人のお年寄りを残して行くのか?放射線への恐怖の中、時々刻々、決断を迫られる。川俣町に避難、一旦帰宅。次男三男を先に猪苗代に避難させ、また帰宅。長男を連れて須賀川で避難。「お前どこ行ってんだ⁈」と言われながら右往左往の避難の道中、「自分たちは見捨てられた」と感じた。原発から30km圏内に屋内退避する人々が残っていたが、支援物資は届かない。運んできたトラックは30km圏の表示の手前で物資を投げるようにして置いていく。「福島にいたら死ぬんだよ!死にたくないからこうやって置いていくんだよ!」と。また、避難指示が出たため、その道中で命を落としたお年寄りもいる。避難さえしなければ命は助かったのに・・・。

「こうやって弱い人間を切り捨てていくのが国なんだ、行政なんだというのを目の当たりにしました」と高村さんは語った。

当時4歳だった三男を迎えにいくと、母親と長く別れて過ごした不安から「笑えない子ども」になってしまっていた。南相馬に連れて帰るが、4歳の子どもが外で遊べない。自転車に乗れない。花も摘めない。どうすればいいのか?

多くの大学の先生方に直接話を聞きに行ったが、納得できる答えは得られず。2012年2月、チェルノブイリ原発を訪ねた。その折、原発に近いベラルーシのゴメリ州のお母さんたちから話を聞いた。

「今も子どもは森に行かせない。でも、リスクはリスクとしてマネジメントできるよ」

「安全です」なんて言葉ではなく、リスクをちゃんと捉えて、かつ、ちゃんと生活する。ベラルーシでそういう言葉を聞くことができて、高村さんは南相馬に腰を据えた。

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当時、子どもと一緒に被災地に残ることで、脱原発派の人たちから「お前は子どもを殺すのか?」と言われた。一方、福島の野菜が怖いから食べられないと言うと、同じ県内の人たちからは「福島の農家を殺すのは母親だ」と言われる。「まだ言ってんのか、放射線怖いって。怖いんなら出てけばいい。復興で頑張ったんだよ!」と。

お母さんたちの心は疲れている。高村さん自身、昨年PTSDと診断された。県内では何も言えない。何か言うと叩かれる。だから県外で話をすることが多い。そして、年に数回、水俣に行って学んでいるという。

高村さんはお話の最初と最後に、「安達ヶ原の鬼婆」という昔話を紹介してくれた。

http://www.rg-youkai.com/tales/ja/07_fukusima/01_adachigahara.html

郡山の五百川は、京の都から五百番目の川。それより北は人間が住む場所ではないと言われた。

「なぜ、原発が福島に作られたのか?そこから考えてほしい」と高村さんは話を締めくくった。

時折、涙ぐみ、声を詰まらせる高村さん。目を見開き、驚愕の表情で聴き入る生徒たちの顔。

後日、京都教育大附属小中学校で行われた報告会でも伝えられたように、今回の研修ツアーに参加した生徒たちにとって、最もインパクトの大きい場面であった。実体験を伝える語り部の力である。(続く)

 

 

 

 

雪の浜通り ~京都発!「福島震災復興プロジェクト」②~

震災直後、さまざまなニュースが気になったけれど、実際に福島に来ることはできなかった。私が初めて福島を訪ねたのは2016年の春。新聞社を辞めてすぐだったが、震災から既に5年も経っていた。それ以来たびたび訪れるようになり、数えると結構な回数になるが、それはいつも春先から夏にかけてのことで、厳冬期の福島は初めてだ。東京も福島もこの冬一番の冷え込みというこの日、いわき駅前でも雪が降っていた。浜通りで雪が降るのはきわめて珍しいそうだ。

同じように人の気配のない荒涼とした風景も、新緑の晴れた日と雪混じりの寒い日とではずいぶん違って見える。京都から初めてやってきた生徒たちにとっては、福島浜通りの第一印象はかなり陰鬱なものになりそうだ。

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国道6号線を北上する道中、バス内で岡田先生がいろいろ解説してくださった中に、「以前はこの辺にはもっと除染土があったんですけど」という話があった。大熊町双葉町にできた中間貯蔵施設への除染土の輸送が本格化し、2018年には約180万トンが仮置き場から搬出されたという。

josen.env.go.jp

そう言えば、フレコンバッグがもっとあったはずだが、記憶というのは怪しいもので、前回訪ねた時にそれがどの辺にあったのかという位置はもう忘れてしまっている。2019年には輸送量を400万トンに増やす予定だそうだから、約1400万トンという輸送対象除染土が数年の内には全て中間貯蔵施設に搬入され、30年間保管されることになる。原発被害の象徴のようでもあったフレコンバッグが目に触れることはなくなるわけだが、あの黒い袋がうず高く積み上げられ、目の届く限りはるか遠くまで続いていた光景を忘れてはならないと思う。除染にまつわる何ともややこしい話も。

除染情報サイト:環境省

バスは富岡町に入り、6号線に面して唐突に建つ特定廃棄物埋立情報館「リプルンふくしま」を見学した。

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除染土の中間貯蔵とはまた別で、特定廃棄物埋立処分の対象になるのは、10万ベクレル/キロ以下の廃棄物。福島県内の8000ベクレル/キロを超える放射性物質を含む廃棄物、対象地域内で発生した災害廃棄物や家の片付けごみ、双葉郡8町村の生活ごみなどである。この埋立処分事業を中心に、福島の環境再生について、「見て、触れて、学べる」施設がリプルンふくしまである。そう言えば、昨秋Jヴィレッジで開催されたベラルーシの学生との交流プロジェクトの報告会にもこの施設の名前は出てきた。

chihoyorozu.hatenablog.com

「動かす」「さわる」「遊ぶ」をコンセプトに事業の概要や必要性、安全対策、進捗状況等をデジタルコンテンツを用いた常設展示により、体験しながら理解することができると謳っているだけあって、最新のテクノロジーを駆使した充実の展示内容である。

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特定廃棄物処理場の模型にタブレット端末をかざすと液晶画面に説明が表示されたり、モードを変えると埋め立ての行く末の時系列がARで見られたり、プロジェクションマッピングで説明がわかりやすく表示されたり。小さい子どもにもわかりやすい展示・・とあの時の高校生が語っていたのはこれだったかと合点が行った。

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ヒト型の模型と放射性物質からの距離で放射線量の減衰を示すなど放射線の性質を楽しく学べるマルチタッチテーブルで、制限時間内にクレーン車を動かして画面上の土を盛っていくゲームに興じる生徒たちは、やはりイマドキの子たちである。

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ゲームを通じて楽しく学べることは、放射性物質に対する過度の恐怖心を払拭し、廃棄物の処分に対する理解を得るには確かに良いことだと思う一方、このようなゲームには、放射性物質のリスクを忘れさせる効果もあるような気がする。真新しく立派な展示自体に何となく違和感があった。もちろん、学ぶことは大切なのだが。

実際の特定廃棄物処分施設は、元は管理型処分場だったフクシマエコテッククリーンセンターを活用している。富岡町楢葉町の境目の山間にあり、リプルンふくしまからバスで10分ほどだったろうか。小雪が舞う中、ヘルメットをかぶり、坂道を上ると、敷地の奥に巨大な窪地の工事現場があった。

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後日、公式サイトで確認したところでは、約9.4haの処分場に約4.2haの埋め立て地があり、埋立容量95万㎥のうち、残余容量は74万㎥。土堰堤の分を除いて実際に埋められる廃棄物の容量は65万㎥で、「十分な容量を有している」とあった。

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施設概要 | 特定廃棄物の埋立処分事業情報サイト

埋立完了後も国が責任を持って管理することになっている。埋立期間中と同様に、浸出水の処理や施設の点検・保守を継続し、安全性を確保する。また、地下水や浸出水処理施設からの処理水の水質、敷地境界での空間線量率などについても、継続的にモニタリングを行うという。中間貯蔵施設のように最終処分場に搬出されることはなく、特定廃棄物はこの地にずっと埋められ、埋立地は覆土され、最終的には周囲の山林と区別がない緑地にしていく予定。

安達高校の卒業生として参加していた大学生は、それでは原発事故の悲惨さの証拠隠滅だと厳しく指摘した。山奥に隠した感じにしか思えないと。確かにそうだ。そうかと言って、8000ベクレル/キロ以上の放射性物質が含まれるごみをあちこちに放置するわけに行かないことも理解できる。中間貯蔵施設で保管して30年後には最終処分場へ輸送するというステップを踏んで処分するほど放射線量が高いゴミではないものの、まとまった形で埋めておくほうがよいのだろう。水が浸み出していないかどうか、放射線量はどうか、国が継続的に管理することになっている。そして、この地に放射性廃棄物が埋め立てられていることを忘れず、次の世代にも語り継いでいかなければならないと思う。高レベル放射性廃棄物地層処分の場合は、「人が管理」できる時間を遥かに超えた万単位の年数を想定するから深地層に委ねて「忘れる」しかないという考え方になるようだが、そこまでの放射線量でない場合には、それを管理できる以上、あくまでもそのような廃棄物をもたらした人間社会が管理する責任を負うということだ。放射性物質でなくても、都内の各家庭から出る不燃ごみが一体どこに埋め立てられているのか、日頃は意識していないことにも今さら気づかされる。有毒な化学物質が多々含まれているというのに。

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処分場を後にして、6号線に戻りさらに北上。富岡町にある双葉警察の北側公園内に展示されている津波で被災したパトカーを見る。避難誘導のため最後まで沿岸部を走り回っていたパトカーに乗務していた2人の警察官は殉職された。

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夜の森地区の帰還困難区域との境界のゲートは、何度見ても境界線の不条理を感じないではいられない。厳冬期のこの日は、無人の家々が一層寒々しく見えた。

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浪江町に入った頃には4時を過ぎて、どんよりした空が一層暗くなってきた。時間的に請戸地区はバスで周るだけになったが、大平山霊園では少しだけバスを降りた。以前の墓地は津波で喪失し、現在の高台に新しく作られた霊園である。そこは請戸小学校から避難した児童たちが辿り着き全員助かった高台でもある。2017年に建立されたばかりの新しい慰霊碑があった。

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今回のプログラムがひと通り終わった後、帰路の郡山から東京までの新幹線の中で、生徒たちに少しだけ話を聴いた時、研修ツアーでいちばん印象に残った場所はこの霊園だと答えた生徒がいた。「あの遺跡みたいなところ」と彼は言った。

震災後に新しく作られた霊園なのに、「遺跡」というのは妙な表現、あるいは勘違いかと思ったけれど、確かに、ここは後世、平成の遺跡として残るかもしれない。復興が進むにつれて、フレコンバッグや特定廃棄物というごみが片づけられ、浜通りの風景はどんどん変わっていくだろう。福島第一原子力発電所廃炉が完了するまでにはまだ何十年あるいは百年以上かかってしまうかもしれないが、年々刻々その姿は変わっていくだろう。無人の街並みに人の気配が戻ってくるのはいつだろう? それでも、少しずつ変わっていくはずだと思う。

これまでにも何人かの人から、復興はまず「お墓」からと聞いた。避難している人々も、折に触れてご先祖様や身近な亡き人のお墓参りに帰って来る。そういう大切な場所だから、家を再建するより前に、まずお墓を再建するのだと。前の墓地が津波で流されてしまったから、今度こそ絶対に流されない場所として、この大平山の高台を選んだはずだ。ならば、この霊園は確かに遺跡になっていくに違いない。平成時代にこの地を大きな津波原発事故が襲ったことをいつまでも忘れないための遺跡である。(続く)

 

ご縁に導かれ ~京都発!「福島震災復興プロジェクト」①~

何かアクションを起こすのは、誰かからの何らかの呼びかけがきっかけである場合が多いが、その呼びかけに応じるかどうかは自分の意志である。そして、アクションは、たとえ、それがささやかなものであっても、必ず新しい出会いをもたらし、次のささやかなアクションにつながっていく。

昨年末、中高生たちの「サミット」に同行して六ヶ所村まで行った時、生徒たちを引率してこられた各地の気骨ある大人たちにも出会った。その中で、京都教育大学附属京都小中学校の野ヶ山康弘先生にお声かけいただき、京都の中学生たちが福島の高校生たちと一緒に被災地を見学して学ぶ研修プログラムに同行させていただいた。

それは2月上旬の話だったが、半年も経った真夏の今頃これを書いている。相変わらず余裕なく諸々の仕事の締め切りに追われていたというのは言い訳にならないが、記憶が鮮明な直後とは違った、数カ月を経ても印象に残っていること、その後の福島再訪のこと、都内で日頃見聞きする話も踏まえて、思い出しながら書いておきたいと思う。

まず、いただいた「しおり」から、この研修プログラムの趣旨を。

東日本大震災から7年が経ち、東北地方の震災からの復興が進んできている様子がマスコミでも良く流れるようになってきています。しかし、その陰で福島の震災復興の抱える課題はとても重く、解決には次の世代まで引き継がなければならないことも多く存在します。その課題に自分事として向き合っていくことが、今後の未来を創造していく生徒たちにとって、必要なことではないかと思います。被災地の福島であるとか、被災地から遠い京都であるとかに関係なく、同じ未来に向かう若者同士が知恵を出し合って、解決に向かって行かなければならない、とても難しい課題ではないかと思います。」

 

京都教育大附属京都小中学校は、福島県立安達高校と3年ほど前から交流がある。昨年度、東京で行われたサイエンスアゴラに両校の代表生徒が参加してこれまでの取り組みを共同発表し、福島サイエンスプラットフォームの一員としてサイエンスアゴラ賞を受賞。その後も両校の代表生徒が互いの学校を訪ね合い、昨年12月には、六ヶ所村を訪ねる中学生サミットに一緒に参加するなど、交流を深めてきた。

 

「このように両校が交流を深めてきている中での福島訪問です。これまで以上に深いつながりの中で、生徒たちが自らの力で、この震災復興という難問に立ち向かい、将来につながる解決の糸口を切り開いてくれることを期待しています。」と野ヶ山先生と福島県立安達高校(当時)の石井伸弥先生の連名で記されている。

2月8日。東京から常磐線北へ。その日の朝に京都を発って新幹線と常磐線を乗り継いでやってきた京都の中学生たちと、正午過ぎ、いわき駅のホームで合流する。今回の参加者は中学2年生の女子5名に男子2名。六ヶ所村ツアーにも参加していた3名の顔は覚えている。

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駅前に停車していた貸し切りバスでは、安達高校の生徒たちが待っていた。1年生から3年生までの6名に加え、卒業生の大学生が1名、全員女子だ。やはり、六ヶ所村にも参加していた5名の顔は覚えていた。安達高校は女子高ではないが、たまたま、参加希望者が女子生徒ばかりだったようだ。それに合わせて、今回は京都からの参加者も女子生徒を多めに募集したらしく、一行の中では少数派となった男子2名はやや遠慮がち。日頃と勝手が違うようだ。元気な女子生徒たちは、六ヶ所村以来の再会の喜びも相俟ってバス内で早速盛り上がる。

引率の先生方や、解説を務めてくださった福島大学共生システム理工学類教授の岡田努先生と挨拶を交わすうちに、一同を乗せたバスは国道6号線を北へ向かった。私は自分が今ここにいるご縁の不思議を感じながら、バスに揺られた。(続く)

 

 

 

 

 

 

 

中学生サミット2018その⑤ 自分が自治体の首長だったら?

青森行きを敢行した今回の中学生サミットは例年より1日長い2泊3日の行程であった。さて、最終日。

初日の六ヶ所村での原子燃料サイクル施設の見学、2日目の東京でのNUMO(原子力発電環境整備機構)のレクチャーを踏まえて、3日目は生徒たちによる対話セッションが行われた。ここまでの旅を共にした全国6校29名の中高生たちは、3日目ともなると他校の生徒ともだいぶ打ち解けてきた様子。

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椅子を並べて大きな輪になって座り、互いの意見を出し合うセッションはなかなか盛り上がった。原発立地地域と電力消費地を含め、各地から例年より多人数かつ多様なメンバーが参加していた中には国際色豊かな家庭の生徒たちもいて、さっと手を上げる彼らの積極性は他の生徒たちにも発言を促す刺激になったようだ。

 毎回のサミットで強調されるのは、「生徒たちが主役」ということ。だから、対話セッションの進行も生徒たちにお任せで、大人のコントロールによる予定調和はない。司会も生徒、発言するのも生徒という話し合いに、大人たちはあくまでもオブザーバーとして耳を傾ける。ひょっとすると、通りいっぺんのアイデアしか出なくて議論が低調な場面ではもどかしく感じる人もいたかもしれない。実際、「地層処分やNUMOさんのことをもっと一般の人に知ってもらうためにSNSなども使って発信しよう」という内容の発言が続いたあたりでは、軽い失望の声が大人の間から漏れ聞こえてきた。しかし、そこで出しゃばって話し合いの流れを誘導することなく、大人たちは生徒たちの様子を見守り続けたのであった。

 生徒たちの多くは今回のサミットに参加して初めてNUMOという名前を知った。きっと、友達や家族だってそんな名前を知らない人が多いだろう。そんなことでいいのか?と生徒たちは危機感を持ったようだ。NUMOが開催している対話型説明会などに自分から参加するのは、ある程度、地層処分のことを知っている人たちだけだ。「そもそもNUMOの存在自体知らない人が多い」「興味のない人たちに知ってもらう必要がある」「そのためにはどうしたらいいのか?」というところから話し合いが始まったのは自然なことだった。

 

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司会:自分自身は、この問題になぜ興味を持ってサミットに参加しようと思いましたか?

  • 中1の時に学校で「東日本大震災に学ぶ」という授業があって福島の状況に関心を持ち、周りの仲間と研究を始めた。(東京;高2Kさん)
  • 原子力発電所の体験施設で原子力って面白そうだなと興味を持った。(島根;中1B君)
  • 兄が東京電力で働いていて興味を持つようになった。(新潟;中2K君)
  • 小5の頃から、お父さんから原発の話をいろいろ聞いて興味を持つようになった(新潟;中2Kさん)
  • 学校でサミットへの参加募集をしていて、参加するうちに興味を持つようになり、話している内容もだんだんわかるようになってきた。(京都;中2Uさん)
  • おばあちゃんの故郷が福島で、いろいろ話してくれたので、もっと詳しく知りたいと思ってサミットに参加した。(京都;中2Iさん)

地層処分や最終処分場についてNUMOが行っている理解促進活動を知らない人が多いので、まずは、どうすればもっと知ってもらえるかをみんなで考えた。「外部の説明会に自分から出向くという形だけでなく、学校などにNUMOに来てもらう」「テレビのCMで広める」「ポスターを作って中吊り広告を出す」「文化祭で発表する」「学校からの配布物を作る」といった意見のほか、「SNSで情報発信する」という提案が多かったのがイマドキの若い世代らしかったが、中にはこんな面白いアイデアもあった。

  • ガラス固化体や再処理施設の写真集を作る。廃墟マニアや工場萌えする人って結構いっぱいいると思う。写真集を見ることによって、現状に興味を持ってもらえるのではないか(福島;高2Oさん)
  • ガラス固化体にしぼって、多重バリアの安全性などをアピールすれば、バリア好きなゲームファンは結構そそられると思う。(新潟;中2K君)

SNSか・・・まぁそうだけど。発信の方法に終始するのかと危ぶんでいたところ、発信の中身を問う本質的な質問が司会者から発せられた。

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司会:それでは何を発信しますか? たとえば、家族にこのサミットのことを共有する時に何を話しますか?

  • 地面の中に危ないものがあるのは不安だと思う。その不安を打ち消すことが核燃料や原発について賛成するための鍵になるのかなと思う。(東京;中2Sさん)
  • 地下300メートルと言われてもあまりピンとこない。300メートルがどれぐらい深いのかを知ってもらうことで少しは安心してもらえるのかなと思う。(東京;中1K君)
  • 地層処分が最先端の技術、今いちばん新しいやり方で、しっかり安全性が伝わればよいと思う。(新潟;中2K君)
  • 安心の線引きには個人差があると思う。どのぐらいの線量で人体にどういう影響があるのか知らない人が多い。これぐらいの線量を浴びたらこうなるという放射線の知識をもっと知ってもらう。(福島;高2Sさん)

そして、このあたりから話が面白くなってきた。生徒たちが最終処分場の問題を自分ごととして考え始めたのだ。

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前日のNUMOからの説明の中で、公募制や国による申し入れなどの説明があったが、これまでのところ、正式に手を挙げるところまで行った自治体は皆無だ。処分場の選定は長年ペンディングで、一向に決まらないまま、2045年には六ヶ所村から高レベル放射性廃棄物を運び出すべき期限がやってくる。ここまでダラダラと問題を先送りしてきた大人社会への強い不信感と危機感が、昨日の生徒たちの質問からも感じられた。そんな雰囲気を受けてか、司会役の生徒たちは次のように問いかけた。

司会:自分が自治体の首長だったら、最終処分場の受け入れに賛成ですか?反対ですか?自分が住んでいる地域の市長とか町長になったつもりで言ってください。

中2G君:受け入れに反対。経済は良くなるが、事故が起こった時の対応や対策を含めると、被害を出さないためには初めから(最終処分場を)建てないほうが地域も助かると思う。(愛知県豊田市

中1M君:受け入れに賛成。(地元に)茶畑がたくさんあるが、(処分場に適しているか調査することで)市民がその土地を知ることができて、茶畑以外にも新しいことが発見できそう。(埼玉県所沢市

司会:ちなみに反対する人がいたらどうしますか?

中1M君:たくさんの視点から地域を見て、伝え方を工夫すれば反対の人を説得できると思います。

中1A君:受け入れに反対。東京は経済の中心であり、最終処分場を置くのはリスクゼロではないから。東京はただでさえ自然が少ないのに、最終処分場を受け容れるとその自然を壊して作ることになるから。(東京都練馬区

司会:じゃあ、どうすればいいと思いますか?どこも受け入れないのが現状なんですけど。

中1A君:できるだけ最適な場所を見つけて伝え方を工夫し、最終処分場のことをよく説得したらいいと思います。

中1K君:受け入れに反対。米軍基地があるが特別いいことはない。そういう施設を置いても特別いいことはないと思う。単純にイヤだなと思う。(神奈川県相模原市

司会:それでは、どこに処分したらいいと思いますか?

中1K君:海外に委託する。無理してまで日本でやらなくてもいいのではないか。

中2K君:受け入れに反対原発があるが稼働していない状態。そこへ、最終処分場まで受け入れるとなると、問題が2つになる。原発だけならそれに集中すればいいが、もう一つ大きな問題が出てきたら住んでいる人たちの不満が増える。(新潟県柏崎市

中2A君:受け入れに賛成。地下300メートルは深い。科学的にきちんと放射性物質が漏れないということが証明されているから。(愛知県豊田市

司会:住民からの反対にはどう対応しますか?

中2A君:市長になる選挙の時に処分場のことを公約に掲げます。それで市長に就任したからには、市民の賛成を得ていることになります。ゼロリスクはないので、不安にはキリがない。

中2Kさん:受け入れに賛成。日本は先進国で、最新の技術があるので安心できるし、(地層処分の)安全性もわかっているので、ほかにやる所がないなら自分たちが声を上げなければいけないと思う。(新潟県柏崎市

中2Uさん:受け入れに反対。京都は歴史的建造物が多いので、最終処分場ができると海外からの視線が悪くなり、観光価値が下がるから。(京都府京都市

中2Iさん:受け入れに反対。京都には歴史的なものが埋まっていて、建物を建てるために掘る時にも調査をしなければならない。反対じゃなくて、できないと思う。(京都府京都市

高2Sさん:福島県原発安全神話を信じていて今回の事故が起きたので、メリットとデメリットの両面を伝えて、住民の意見を聞くのが大事だと思う。(福島県二本松市

高3Mさん:原発があり、一度事故をやっているので、ほかの地域よりは地層処分の説明会を聞こうとする基盤はあると思う。(福島県二本松市

中1K君:受け入れに賛成。原発があるので、まとめてそこに処分場を置けば、島根の知名度が上がるし、経済的にもよいことがある。(島根県松江市

司会:最終処分場とほかのごみ処分場の何がそんなに違うのでしょうか?反対する人は絶対にイヤなのか?(こうであれば賛成してもよいという)何か妥協点はありますか?

高2Iさん:お金が出るなら賛成する人は増えると思う。自分も「反対」だけれど、住みやすい町になってほしいので、利点のほうが多ければ「賛成」に変わるかもしれない。(福島県二本松市

中2S君:(処分場を)原発と一緒に置けば、ほかのところに置かなくていい。ニュースになれば玄海町のことが話題になる。(佐賀県玄海町

中2K君:妥協点としては、処分場を受け容れたことによって、東京みたいに人が集まるような大きな施設ができること。人が入ってきてくれるなら妥協はできる。(新潟県柏崎市

中2Uさん:(処分場を作るために)地下を掘るのなら、地下鉄の路線をもっと増やしてほしい。(京都府京都市

中2T君:受け入れに反対で、妥協点なし。京都は他に較べて経済的にも豊かだし、処分場を置いたところでメリットがない。むしろ、東京に置いて都内の人口を減らしてはどうか。(京都府京都市

司会:このままでは六ヶ所村にある核のごみ(ガラス固化体)を50年以上置いておくことになってしまいます。ごみを出した責任をどうやって果たしていけるのでしょうか?

中2Iさん:ごみを出して負担をかけている地域(東京など)は電気料金を高くする。(京都府京都市

中2N君:(核のごみを)埋めるとお金を多くもらえるのはいい。絶対に安全であるなら、地震が起きても安全なら受け入れに賛成する。(佐賀県玄海町

中2O君:受け入れに反対。妥協点ない。大都市圏は、経済的に国を支えている面が多いと思う。核のごみを埋めたらリスクは必ずある。経済的に発展しているところで事故が起きたら国を支えきれない。だから最終処分場は過疎地域に置いたほうがいいのではないかと思う。(京都府京都市

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「自分が首長だったら?」という問いは、地域住民としての意見以上に、リーダーとしての責任を併せて問う絶妙な想定だった。立地地域と電力消費地とでは考え方が異なることは予想されたが、同じ地域でも賛成と反対の両方の意見がある。その中で、京都の生徒たちの「反対」は突出していた。「京都(だけ)は処分場にすべきでない」という強い思いがにじむ。

最後に、 「最終処分場を作るのは簡単じゃないですね。次のサミットまでに何ができるかそれぞれ考えましょう。」という司会の投げかけで、これから自分がやろうと思うことを順に話していった。一人ひとりが語る姿からは、今回のサミットでの体験がいかに貴重なものかを感じ、そこに参加できた自分たちの使命感のような気持ちが芽生えているのが伝わってきた。

  • このように学べる機会をもらったからには、家族や友達など、周りの人に伝えていくのが使命だと思う。
  • どんな土地が最終処分場に適しているのかを、一年通して、じっくり調べていきたいと思う。
  • 核のごみについて、大まかなことしかわかっていないので、もっと調べて自分の考えをより深めていきたいと思う。
  • 作文を書いて、さまざまな人に発信したい。新聞にも投稿したい。
  • 原発が近くにあることをプラスにつなげて地域のことを考えたい。

 

話し合いは参加メンバーが作り上げるもの。そして、メンバーからいかに意見を引き出せるかは司会、即ちファシリテーター次第でもある。今回のファシリテーター役は高校生5人。彼らの絶妙な問いかけと、発言者に対する適切なツッコミのおかげで、各地から参加した生徒たちの多様な意見を聞くことができた。

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以下は、ファシリテーターたちの声。

高1Hさん:ファシリテーターって重要だと思った。議論を面白くするのもファシリテーター。言えなかった意見を引き出せるように、どうやったらみなさんの意見を引き出したり議論を深めたりできるのかを考えたり実践したりしていきたい。(福島)

高2Kさん:後輩とも情報を共有して、学校の中でもつながっていくように、興味を持つ人が増えるようにしたい。(東京)

高2S君:新聞を読んで自分の考えを深め、18歳になれば選挙権が得られるので、投票という形で政治に参加できるようになりたい。(東京)

高2K君:原発のこと、最終処分のことを知る前と知った後では、見る世界が違ってくる。それが分かった上での一年間を過ごしたい。毎回、基本からでは進まないので、一年間で情報を蓄積して、知識を深掘りできるようにしたい。(東京)

高3Mさん:地層処分のポスターを作るっていうのを部活でやりたい。地元にできたカフェで何かできないか、地域との結びつきで何かできないかなあ。来年ここに来てくれる後輩をとっつかまえてくるんで、がんばりましょう。今日はありがとうございました。(東京)

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同じような意見の持ち主が群れを成し、異なる意見の群れとは、顔を合わすことさえほとんどないような分断された大人社会に暗澹たる思いだが、自分も人のことは言えない。「自分の意見だけが正しい」と思い込んでいるのではないか?「異なる意見」とどのように話を噛み合わせ、いたずらに相手を責めたてず、難しい問題に対し、共に解決の糸口を見出していけるのだろうか?

この日の生徒たちの話し合いは、別になんらかの結論を出すのが目的ではなかったが、地元に最終処分場を誘致することについて、「賛成」「反対」の意見を率直に出し合い、さまざまな考え方があることを互いに認め合う姿勢が、その場にフレンドリーな雰囲気を醸し出していた。こういう雰囲気が大人の話し合いにはめったにない。なぜだろう?

「この会は、みなさんが主役ですから、みなさんの要望を周りの大人は力添えします」と澤田先生はその場を締めくくったが、力添えする大人のほうがむしろ学ぶべき「中学生サミット」であった。(完)

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中学生サミット2018その④ NUMOに質問

地層処分問題をサイエンティフィックにダイアローグ」と謳うこの「中学生サミット」のプログラムには、毎回、NUMOの担当者から地層処分の基本について話を聞くというセッションが含まれている。

NUMOというのは、Nuclear Waste Management Organization of Japanの頭文字で、通称「ニューモ」。日本語名は原子力発電環境整備機構という、一見「地層処分」とつながらないような名称だが、原子力発電により発生する使用済燃料を再処理する過程で発生する高レベル放射性廃棄物(=ガラス固化体)の最終処分(地層処分)事業を行う日本の事業体で、「特定放射性廃棄物の最終処分に関する法律(最終処分法)」に基づいて作られた認可法人である。管轄は経済産業省

NUMO広報部の実松由紀さんは、冒頭、「NUMOは法律に基づいて作られた認可法人ですので、何をするにも国の認可が必要です。運営資金は、電気事業者からの拠出金、つまり元はと言えば一般国民が支払っている電気料金で賄われています」と説明した。

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 続いて、「高レベル放射性廃棄物ってなんだろう?」「高レベル放射性廃棄物はどうやって処分するの?」「地層処分って本当に安全なの?」「地層処分はどのように進めるの?」といった地層処分の基本について、資料を見ながら粛々たるレクチャーが30分ほど。その内容がこれまでの中学生サミットや以前に個人的に参加してみたNUMOの(大人向け)「対話型説明会」とほぼ同じだったのは、「何をするにも国の認可が必要」な認可法人の担当者として説明するなら当然のことではあった。

しかし、違っていたのは生徒たちから活発な質問が出たこと。今回は過去2回の「中学生サミット」と較べてもはるかに活発だった。なぜだろう?

  • メンバーの意識が高かったから?
  • 抵抗なく人にものを聞ける性格の生徒が多かったから?
  • 直前に身体を動かすゲーム(六ヶ所バスケット)をやったおかげで会場の雰囲気がいい感じに温まっていたから?
  • 今回はNUMOの担当者が「クールな専門家のおじさん」でなくて、「気さくなお姉さんのような、学校の先生のような親しみやすいキャラ」だったから?
  • 途中で澤田先生が独特のツッコミと補足説明を入れて座をかき回す感じに、「あ、それぐらいのこともみんなわかってないなら、こんなことも聞いていいかな」と思えたから?

理由はいろいろ考えられるが、

「高レベル放射性廃棄物=ガラス固化体のことっていう説明でしたが、なぜ、ガラスでなければならないんですか?」

「科学的特性マップの中の、この四角いマークは何でしょうか?」

といった素朴な質問から、実松さんをたじたじとさせる厳しい問いかけまで、生徒たちの質問ぶりに感心した。

「核のごみ」の最終処分場をどこにするのかをどうやって決めていくのかについて、NUMOからの説明では・・・今は、公募制と言って、各自治体の首長が(最終処分場を受け容れると)手を挙げてくれたら、文献調査(その地域が最終処分場に適しているかどうか、過去の学術論文その他の文献資料によって地質や活断層などの特性を調査すること)を開始することができる。もう一つ、国から、ある程度、国民の理解が得られてから、『ここでやらせてください』という申し入れをするという方法も2007年からできるようになった・・・ということだった。

(註)2015年の閣議決定では、高レベル放射性廃棄物の最終処分に関する基本方針の改定について議論がなされた。基本方針の改定のポイントは下記の通り。
  ・現世代の責任と将来世代の選択可能性
  ・全国的な国民理解、地域理解の醸成
  ・国が前面に立った取り組み
  ・事業に貢献する地域に対する支援
  ・推進体制の改善等

早速、生徒たちから質問が出るわ出るわ。

*****

Q:最終処分場の場所は公募制で決めるということで、各自治体が手を挙げるのを受け身の形で待つということですが、候補が挙がってからも時間がかかるわけじゃないですか。そうすると、ガラス固化体を六ヶ所村に一時的にでなく、ずーっと期限なく置いちゃうことになるんでしょうか?(東京;高2S)

NUMO:とてもいい質問ですね。青森県六ヶ所村とは、30年~50年、最長でも50年経ったら、どこかに必ず搬出するという約束の下でガラス固化体を置かせていただいています。最初に六ヶ所村にガラス固化体が入ってきたのが1995年でしたので、2045年には出さなければならないということになっています。文献調査から始まって時間がかかることを考えると急がなければならないのですが、とは言え、無理やり進めることはしないというのが国の方針であり、NUMOもその方針に従ってやっています。なかなかはっきりと答えるのが難しい問題ではありますね。

Q:そうしたら、六ヶ所村を裏切っちゃうというか・・約束はあるけど、出せないわけじゃないですか、実際。(東京;高2S)

NUMO:出せないと、まだ決まったわけではありませんので。出せなかった場合というのは考えていないんです、はい。もう、どうにかして決めたいと。

Q:2045年に出さなきゃいけないということは・・まず場所が決まってから調査に20年かかるわけですから2025年には決まってなきゃいけないじゃないですか。でも、建設にも10年かかるんだったら本当は2015年に場所が決まってないといけないというところだと思うんです。もし、このまま行った場合はどうするんですか?六ヶ所村に置いておくのか、それとも、どこに移すのかわからないですけど、どこかに移す当てというのか、どういう計画ですか?(東京;高2K)

NUMO:なかなか難しい鋭いご質問ですけど、実際には、決まらなかったらということは想定はされていないんですよ。もう、どうにかして決めるという気持ちで、国もNUMOもやっているので、何度も同じことの繰り返しになってしまいますが・・ただ、青森県との約束は遵守していくということで考えています。

澤田:今の質問は「もうタイムアウトじゃないか」ということを言ってるわけですよね?

NUMO:はい・・おっしゃっていることは重々わかります(苦しそうな実松さん)。でも、無理やりにはやれないというのが国の考え方ですね。

Q:50年間の約束で、2045年までに間に合わなかった場合の対処法を考えていないというなんですけど、今後それを考えていく予定はあるんですか?(京都;中2U)

NUMO:そうですね。もちろん、考えていくと思いますが、国と相談しながらになりますね。基本的には国の方針に従っていくということになるので、そこは協力してやっていくということになります。もちろん、電気事業者も含めてですけど。

Q:自治体から手が挙がるのを待つということですが、何年まで待つかという期間は決まっているのですか?(福島;高2?)

NUMO:手が挙がるのを待つ期間というのは、とくには決まっていないです。いつでも受け付けています。

Q:手が挙がるのを待っている期間は何もできないというか、国から『ここにお願いします』みたいのもないんですか?(福島;高2?)

NUMO:あの、はっきりといつまでにというのは明確には出されていませんが、それは今行っている説明会や理解活動の広がりの状況によって、国が申し入れをするというタイミングがいつかはあると思っています。ただ、それがいつかということは今は明言されてないですね。

Q:期限の話に戻るんですけど、先ほどの質問への答えとして、もし2045年までに決まらなかったらというのをまだ考えていない、そこは国に従うしかないとおっしゃっていたんですけど、まだ考えていない、まだ考えていない、でも、いつかは考えるんじゃないかなみたいなちょっと逃げた言い方をされているんですけど、それって、もし、国民の多数から『早く考えたほうがいいんじゃないか』っていう意見が出れば、『いつか』じゃなくて『今考える』になるものなんですかね?(福島;高1H)

NUMO:そうですね。どういう方法が最短かというのはなかなか答えが出ない問題だとは思うのですが、やっぱり、国民の意見がどこに反映されるかと言うと、政治家、つまり、議員さんなど声が上がってくれば、もっともっと盛り上がってくるとは思います。すみません。答えになっていないかもしれないですが、声を上げていただかないと動けない部分も確かにあります。

*****

このように、最終処分場がなかなか決まらない現状について疑問を呈する質問が相次いだ。実松さんがなんとか答えても、それを受けてさらに質問が出て、生徒たちが代わる代わるNUMOに畳みかけるような展開だった。昨日実際に六ヶ所村に行ってきたから、なおさら実感があるのだと思うが、六ヶ所村との約束である2045年までという期限を守れそうにないことに驚き呆れるのも無理はない。「なんで今まで先送りしていたのか?大人たちは一体何をやっている?!」と責められているようでいたたまれない。

このほかにも、そもそも地層処分で大丈夫なのかを問う質問や、原発再稼働との絡みや、海外の例まで、さまざまな質問が出た。

*****

Q:最終処分のルールみたいなものはどういう人たちがどういう過程で詰めていっているんですか?

Q:(そういうことを検討する)ワーキンググループの中には地層処分に慎重な意見の専門家も入っているのですか?

Q:地層処分が)本当に安全ならどこに埋めてもいいじゃないですか。ということで、「大丈夫です」っていう説明をちゃんとすれば、ある程度、国が指定して「ここに埋めよう」っていうのを決めてもいいんじゃないかと思うんですけど?

Q:原発がほとんど動いていない状況でも既に使用済み核燃料がたまっているということなんですけど、今は最終処分場が決まっていなくてうまく行ってないじゃないですか。その上で、また原発を再稼働すると、また『核のごみ』がたまっていくということになるじゃないですか。その地層処分の説明と、原発を再稼働するとごみがでるという説明はセットなんですか?

Q:フィンランドでは最終処分場を作っている段階に入っているんですよね?なぜ、フィンランドでは決めることができたのですか?

Q:いざ(手を挙げると)決定するのは自治体ということですが、自治体にはどういう働きかけをしているのですか?

Q:六ヶ所村では、ガラス固化体が9段タテに積み重ねられてその上に厚さ2メートルのコンクリートと蓋がありました。そういう保管で大丈夫なら、どうして地下深くに埋めないといけないのですか?

Q:地下300メートルの天然バリアで(放射性廃棄物を)閉じ込めるということですが、一度穴を開けて掘ると、天然バリアが損なわれるのではありませんか?

*****

うーん、なかなかいい質問だ。これらの質問に対するNUMOの回答は割愛するが、以前に、私が参加したNUMOの対話型説明会では、こんなにフランクな質問が出なかった。受付で「関心テーマ」を申告し、テーマごとにグループ分けされ、聞きたいことを紙にメモして、その質問に対しNUMOの担当者が回答して終わりという感じで、とても「対話」と呼べるものではなかった。それはNUMOだけのせいではなく、とかく大人は、「今さらこんなことは聞けない」と忖度して質問を控えたり、そもそも地層処分に否定的な立場から攻撃的な質問ばかりしたり、いずれにしても問題解決にはつながらない。若い世代は、これから50年60年、この最終処分の問題と向き合わざるを得ないことを今日の説明を聞いただけでもわかってしまったことだろう。反対だけしていても何の解決にもならないし、ましてや無知・無関心でいるなんて?!今回の生徒たちの厳しい質問は、NUMOのみならず、自分たち大人世代全般に向けられているように聞こえた。

最後に、NUMOの広報活動についての質問が。

「こういうNUMOの活動がほとんど知られていないと思いますが、もっと多くの人に知ってもらうようなことをしておられますか?」

生徒たちが知らないのは無理もないが、大人でもいまだに知らない人が多いのではないだろうか。どうしたらいい? その話し合いは翌日にということで、青森からの移動に始まった長い一日は終了した。

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会場を後にすると、お台場から対岸にかけて、高層ビル群の灯りが煌々と輝いていた。大電力消費地・東京の夜景である。(続く)

 

中学生サミット2018その③ 六ヶ所バスケット

翌朝、再び八戸駅へ。青森県での滞在時間はトータルで24時間に満たない。せっかく日本各地からはるばる本州の北端まで来たのだから、もう少し長く現地の空気を吸いながら、昨日見聞きした真新しい知識と「物語」について、生徒たちが互いの感想や意見を交換する場があることを期待していたが、「そういう話し合いは東京でやります」というプログラムであった。どうも青森県内で「核のごみ」の最終処分場の話題はタブーらしい。とくに今は、近々の統一地方選挙への配慮といった大人の事情もあるようだ。私はオブザーバーの一人に過ぎず、企画段階に関与できる立場にはないため、このたびの関係者のやり取りの詳細は知る由もない。中学生や高校生がざっくばらんに話し合うことの何が問題なのだろう? 

早々に青森を離れることに軽い落胆と違和感を覚えつつ、大人のオブザーバーとしてはそれ以上どうこう言わず、とりあえず「帰京」の途に就いた。こちらのそんな気分とは関係なく、生徒たちは実に楽しげである。各々ささやかな青森土産を提げて新幹線に乗り込み、仲間たちと語らい、お弁当を広げ、ひと眠りできる車中も有意義な旅のひとコマ。「東京にも行けるのが嬉しい」と島根から参加した中学生は言った。好奇心いっぱいの生徒たちは、その場その場の体験に柔軟だ。

ということで、午後は都内お台場の科学未来館の交流施設で討論会。ここでもまた、生徒たちの柔軟な発想に感心する場面があった。

「中学生サミット」恒例の、生徒たちの 生徒たちによる 生徒たちのための対話である。当然、司会も生徒たちに任せるため、大人にも進行の予想がつかない。昨日来、団体行動してきたものの、ここまでは大体が同じ学校の生徒同士で固まって話していたであろう29名が、学校の枠を取り払って、対話しやすい形として澤田先生おススメの「椅子だけ使って輪になって」座るとかなり大きな円ができた。美術部の高校生のアイデアで瓢箪型にしてみる。面白いアレンジになった。

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まずは簡単に自己紹介。次に隣りの席の生徒を皆に紹介する「他己紹介」。それから隣り同士、昨日の見学で感じた疑問や意見を出し合い、片っ端から付箋に書いてホワイトボードに貼るという作業。ここまでは、これまでにもお馴染みの光景だ。

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ホワイトボードの付箋を数人が整理・分類する間に、残りの面々で話し合いが始まろうとするところ、「その前に」とファシリテーター役の東京の女子高生2人組から提案が。

驚いたことにゲームが始まった。

「みなさん、『フルーツバスケット』って知ってますよね? これから『六ヶ所バスケット』をやります。質問を言いますので、自分が当てはまると思った人は移動してください。椅子は人数よりちょっと足りません。座れなかった人たちには質問に答えてもらいます。」

六ヶ所バスケット!なんだか面白そうだ。

Q1「きのう、六ヶ所村で楽しめた人!」

生徒一同、立ち上がって走り回り、椅子に座れなかった生徒が回答する。

六ヶ所村のろっかぽっかという所でいろいろな話が聞けて楽しかったです。」

Q2「きのう、新しいことを学んだ人!」

またどっと走り出す。

Q3「きのうで六ヶ所村の印象が変わった人!」

Q4「再処理を外国でやったほうがいいと思う人!」

こんな感じで次々に質問が発せられ該当者が走って移動するというパターンが続いたところで、ふいに「六ヶ所村!!」という号令がかかると全員移動だ。生徒たちは瓢箪型に並べた椅子の中を走り回る。

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大人に対しては斜に構えた難しい年頃の中学生たちも、空いている椅子をめがけて必死で走る時は、天真爛漫な子どもに戻る。考えてみたらついこの間まで小学生だったのだ。初対面の硬さがだんだんとほぐれて、発言しやすい雰囲気に会場が温まってきた。

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話し合いの前にゲームをやると決めたのも、どんなゲームをやるのか考えたのも、「六ヶ所バスケット」のネーミングもファシリテーター役の高校生たちだ。絶妙なアイスブレイクを提供した柔軟な発想に拍手!(続く)

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 六ヶ所バスケットが盛り上がっていた頃、高校生2名と昨年からのリピーターである中学3年生が、みんなから出た意見が書かれた付箋を分類・整理していた。いろいろな意見が出ている。

 

中学生サミット2018その② 六ヶ所村の人の話を聴く

原子燃料サイクル施設の見学を終えて再びバスに乗る頃には日が暮れていた。5時過ぎ、六ヶ所村内のスパハウスろっかぽっかに到着。立派な温泉施設だ。そう言えば、村内で見かけた体育館や郷土館も立派だった。

入浴のために立ち寄ったわけではない。施設内の大広間で地元の方々のお話を聴くセッションが始まった。

*****

六ヶ所村の女性団体「エネルギーを考える未来塾」の塾長 伊藤夏子さんと仲間の塾生 土田さんと岩間さん。折々、大学生に向けて話をすることはあるが今回は中学生と聞いて驚いたという御三方は、「うちの孫も中学生です」という元気なおばあちゃま達だ。

山形出身の伊藤さんが、結婚で六ヶ所村に来て以来見てきた村の歩みを語る。

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六ヶ所村の女性団体「エネルギーを考える未来塾」の塾長 伊藤夏子さん

 

六ヶ所村に嫁いできた昭和44年(1969年)、「ここは町になるんだよ」と聞いた。当時は核燃料施設ではなく、大規模な化学コンビナートができるという話だった。高度経済成長の時代だ。青森県が主体になって土地収用・巨大開発が進められた。そこへオイルショックが発生。石油備蓄基地はできたが、その他の 企業は誘致できず、膨大な土地が残った。どうするか?というときに、1985年あたりから核燃料サイクル施設の誘致が始まり、県と村が合意して施設の受け入れが決まった。賛否両論あったが、やはり、それまで所得が低く出稼ぎせざるを得なかった六ヶ所村では、「このままでは将来がない。村が豊かにならなければならない」という当時のリーダー達の声で、施設を受け入れることになったのだ。住民はそれがどういう施設なのか、ほとんどわかっていなかった。核燃料サイクルのことも原発自体もよく知らなかった。施設の受け入れ以来、雇用の場が増えて若い人が採用されていき、自然と村も豊かになった。青森県では国からの交付金をもらっていない唯一の自治体である。

そういう形で今は恵まれているが、果たして住民は、核燃料サイクル原子力や最終処分の問題をわかっているのか?と思い、次世代にツケを残さないためにも大学生たちと一緒に学んでいこうと考えて4年前に立ち上げたのが、「エネルギーを考える未来塾」である。原燃の施設のみならず村内にある青森県量子科学センターの見学も行い、放射線について学んでいる。セットで見学することが大事だと伊藤さんは言った。

「やはり、原子力放射線に対してすごく不安な思いでいましたが、学ぶことによって少しずつ知識が得られ、安心材料の一つになったかなと思っています。人間のやることですので、いろんなところでミスが起こりますが、最小限、ミスを犯さないように、従業員たちも頑張ってほしいなと今思っているところです。」

まだまだ勉強不足ですが、と言って伊藤さんは話を終え、土田さんと岩間さんが、「科学的な知識はなかなか頭に入って来ないけれど、塾に入ってから少しずつ学ぶことによって、少しは入っているかなと思います」と付け加えた。

ここで澤田先生が質問。

澤田:ご家庭でもこういう話をされることはありますか?

伊藤:ないですね。ないけど、子どもたちが大きくなる前から施設はあったし、それが当たり前の生活でずっと来ているので、子どもたちは違和感を持ってないです。若い人たちは就職先としても考えていますし。こちらの岩間さんの息子さんも原燃にお勤めです。

澤田:もうひとつ質問。原燃の施設ができる前は、あそこには何があったのですか?

伊藤:じゃがいもの種いもの試験場でした。じゃがいもを植え付けた所もありまして。だけど、ここはね、「やませ」でダメでしたね。作物は育ちませんでした。

澤田先生が、「みなさん、『やませ』わかりますか?夏にすごく冷たい風が吹いて農作物が育たないんです」とフォロー。

伊藤:あそこは開拓地でしたので、酪農家が何軒か住んでいて、施設ができるときにウチの近所に移転してこられました。何もないところに建物ができたわけではなくて、開拓者が入ってきてできた牧草地が多かったです。

さらに、澤田先生が「君たち、出稼ぎってピンと来てます?」と生徒たちに尋ねる。今の子どもたちは「出稼ぎ」という言葉を知らないのだ。

伊藤:あのー、農家は冬になると仕事がないわけですよ。所得も少ないので、村の人たちはほとんど、東京や関西の方へ、働きに行って収入を仕送りしていました。そういう時代がありました。

 

さて、いよいよ生徒たちからの質問コーナーへ。

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澤田先生の司会で生徒たちが地元の伊藤さんたちに質問。

 

Q:お話ありがとうございました。核燃料サイクル施設が六ヶ所村に来たことによって、経済的に豊かになったということだったんですけど、心の豊かさについてはどう思われますか?(東京;高2Uさん)

伊藤:私はやはり、経済的に貧しい生活をしていると心も荒れてくるように思います。出稼ぎで冬場お父さんがいなくてさみしい思いをしているよりは、家庭団欒もできますし、この近くの三沢に行けば遊ぶところもあります。今は結構マイカーで出かける機会もあります。そういう面では豊かになってよかったかなと思っています。

岩間:私は小学校5年生の時に、両親が開拓者で入ったんですけど、やっぱり、どうしても冬場は仕事がなくなって父親が出稼ぎせざるを得ませんでした。それを考えると近隣にも関連会社とか、勤め先が増えて良かったと思います。

Q:核燃料サイクルの施設ができる時の住民向けの説明会があったと思うんですけど、その時どういう説明を受けたのですか?(福島;高3Mさん)

伊藤:国の人と県の人と村の人と、大きな文化会館で700人も800人も人を集めて説明会がありました。だけど、全然わからない人がそこへ行って話を聞いても、何しゃべっているのか、とんとわかりませんでした。逆に反対の人が、なんでそんな危ないものを入れるんだっていう話を聞くと、あ、危険なんだって思いました。でも、果たしてそれでいいのかなとも思っていました。村長選があって、反対の候補者と賛成の候補者とが立候補しましたが、賛成派の候補が当選しまして。私たち農家は、やっぱり不安で、そんなに賛成する人を聞いた記憶がないんですけど、農家って農業だけで、働くだけで精いっぱいで、六ヶ所の人たちの人柄と言うのでしょうか、こういうリーダーを選んだのだから、そのリーダーについて行こう、という感じでした。ただ、それじゃいけないと思っていろんな説明会に出ますと、何回も聞いているうちに徐々にどういう施設なのかっていうことがわかってきました。

岩間:ウチは一人息子なので、そばに置きたかったんですね。息子は、高校卒業の時に大学進学はしないで仕事で頑張ると言い、地元の原燃で働くことを考えてました。学校の先生は「原燃は危ないんだ!」と反対しましたが、先生を説得しまして、(就職の)試験を受けさせたら受かりました。私は時々言うんです。きちんと仕事しないと、事故が起きたらどうするんだって。責任をもって働いてほしいなと思います。

伊藤:今はプロパーの職員の6~7割は青森の人ですが、青森県全体に施設に対する理解が浸透しているわけではなくて、無関心な人が結構いるので、そういう人たちも巻き込んでいくのがこれからの課題です。

Q:反対意見の人に納得してもらうために、大きな説明会以外のこともやっていたのですか?(愛知県;中3A君)

伊藤:町内会みたいな自治会単位でも小さな会合が結構ひんぱんに開催され、原燃の人と村役場と県の職員が足繁く通って説明されました。「これは必要なものなんだから、あなた方も頑張って受け入れてください」っていう説明を私も何回か聞きました。

 Q:どんなに説明があっても「絶対安全」ではないじゃないですか。六ヶ所村の場合は、どういうふうに理解して、どこで納得されたのですか?(東京;高2K君)

伊藤:今考えると、原発と違って安全なんだっていうことから説明を受けたのを記憶しています。反対運動をしている人たちはずっと反対していましたが、住民はわりと素直に納得していきましたね。六ヶ所の住民って素直な人が多かったんでしょうかね。反対運動もすごくあったんですけど、半分以上は都会の学生でした。ビラ配りとか。その学生たちも自分の本意でそうしているわけじゃなくて、教授から「行ってこい」と言われて来ているようなケースもありました。

土田:そうですね。回数重ねて説得されているうちに受け入れるようになりました。「そんなに簡単に受け入れるの?」と言われたこともありますけど。

Q:未来塾の活動をどのようにほかの人たちにも広めておられるのですか?(東京;高2Mさん)

伊藤:私ははじめ読者愛好会という会に入っていました。科学者の先生から原子力の話などを聴く会です。福島の事故があって、もっと自由に未来のエネルギーを考えた時に、素人の主婦が集まって学ぶ塾を作りました。昔の寺子屋みたいな感じで、いちおう私が塾長みたいになってますが、みんな対等の塾生です。講師は中央から招いて話を聞こうというスタンスで、みんなで話し合って選んでいます。毎年、国の予算をもらって活動しています。一般の人たちにもチラシを配ったりしたのですが、なかなか参加してもらえなくて、このままだと同じメンバーだけで広がりがないなあと思って、若い人たちに声をかけてみました。埼玉の大学と地元の大学の学生さんたちが参加してくれています。大学生だとまた新入生が入ってきてくれます。私たちはオバサンなので広報的にも全然ダメなんですけど、若い人たちはインターネットでもSNSでもいろんな形でつながっていけるので、小さな場ですが、そういう若い人たちの力を借りながらやっていくといいのかなと思っています。

このほか、京都の中学生から最終処分地について、福島の高校生から原燃に息子が就職した時の覚悟について、質問が出た。

最後に御三方から一言ずつ。

伊藤:六ヶ所に関心を持って遠いところから来ていただいたことに本当に感謝しています。やっぱり、賛成だ反対だっていう意見を決める前に、まず現場を見ていただきたいと思います。現場を見て自分が思ったことを帰ってから勉強する機会はいくらでもありますので、そういう形で、これからも六ヶ所に関心を持っていただきたいなと思います。本当に今日はありがとうございました。

土田:中学生で、しかも一年生もいらっしゃって、こういうテーマに関心を持ってすごいです。ありがとうございました。

岩間:大人でさえ原発の話は難しいですが、やはり、日本に原発は必要だと思います。興味を持って一生懸命勉強してください。ありがとうございました。

*****

原子力燃料サイクル施設」の受け入れの時代から現在までの六ヶ所村を見つめてきた地元の人たちのリアルな声を聴く貴重な機会だった。生活者としての現実と向き合い、みずから学び、若い世代にも伝えようという塾のみなさんの力強さに感銘を受ける。

一方で、話にも出た「賛否両論」の反対意見も聞いてみたいと思った。反対する人は、同じ施設に対して全く違った考えを持っているのだろう。いつも感じることだが、何事によらず、同じような考えの人々が集まることはあっても、異なる意見を持つ人々が同席して互いの意見に耳を傾ける場は滅多にない。今回、主催者側は反対派にも声をかけたそうだが、実現しなかったらしい。この中学生サミットは、どちらかと言うと原子力関連施設に「賛成」寄りの企画だと見做されているのだろうか? しかし、生徒たちにはまだ大人のような固定観念はなく、これから見聞きするものから自分の考えを作っていくところなのだから、きっと両方の意見を聞きたいだろう。(続く)

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お話を聴いた後、伊藤さんたちに駆け寄る女子生徒たち。地域を超えて世代を超えて交流が広がる。