よろず編集後記

よろず編集者を目指す井内千穂のブログです。

白熱教室2016@東工大『甲状腺検査って・・・どうなんだろう?』

日曜の昼下がり。大岡山の東京工業大学蔵前会館で高校生向けの「白熱教室」が開催された。

テーマは、東日本大震災で起きた福島第一原発の事故を踏まえ、県内の子どもたちの健康を長期的に見守るために福島県が実施している甲状腺(超音波)検査。

私がこの検査について現地の方々の話を聞いたのは、震災から2年近く経った2013年1月に開催されたシンポジウム「生活のことばで科学と社会をつなぐ『ミドルメディア』の必要性―福島県甲状腺検査をめぐるコミュニケーションを題材に」に参加した時だった。

www.life-bio.or.jp

検査の意義や検査結果を保護者にどう説明するのかというコミュニケーションひとつをとっても微妙な問題だと思ったし、福島の甲状腺がん原発事故の放射線の因果関係をどう見るかも専門家によって意見が異なり、実際のところ何が正しいのかわからない。チェルノブイリ原発事故5年後あたりから子どもの甲状腺がんが多発したように、日本でも多発するのだとしたら時期的にはこれからなのかも知れない。すぐには断定できず、長期の経過観察が必要だろう。

www.huffingtonpost.jp

今回の「白熱教室」でそのような難しく重いテーマを扱うことに関しては主催者側でも議論があったようだが、検査を受けている当事者である福島の高校生と首都圏の中学・高校生が互いの現実を伝え意見を交わす姿からは、見守るギャラリーの大人たちも学ぶことが多かったのではなかろうか。

甲状腺検査の問題は甲状腺検査にとどまらなかった。

福島県浜通りから参加した高校生3人と横浜の中学・高校生9人、そして、ファシリテーター役として東北大学工学部の女子学生が輪になって座る。

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司会の澤田哲生先生の導入後、まずは福島の高校生の話を聞く。

浪江町出身の高校3年センパイ君:

「自分は毎年、甲状腺検査を受けていますが、今年から自分は受けないと言っている友達もいます。首だけを診てもらうためにわざわざ受診するのが面倒で、どうせ検査を受けるなら甲状腺だけでなく他の異常がないかも調べてもらいたいです。それとも甲状腺検査を全員義務ではなく、希望制にするなどにしてその分の予算を除染やその廃棄物の除去など復興に使ってほしいです。」

高校2年マッツン君:
「この夏、チェルノブイリ原発で被害を受けたベラルーシという国に行ってきました。放射線区域の近くまで行って交流して感じたのは、現地で生活している人たちと遠く離れて暮らしている人たちの考え方や情報のギャップがあることです。日本でも福島県内のニュースが震災当初は流れていましたが今は全国で流れていますか?福島県の現状が知られていないのが気になっています。それから教育の問題。自分たちは甲状腺検査のことをほとんど知らないんですよ。学校でも甲状腺放射線について全然教えてもらっていないんです。ベラルーシでは、小学生から週1回放射線の授業があるのに。」

高校2年ヒヨコさん:
福島県内でも意識の差はあると思います。センパイやマッツンは避難区域で今も帰れないけど、私が住んでいるのは茨城に近い市で、ほかの所と比べて線量が低いのであまり気にしていません。でも、このあいだ地震が起きた時には原発のことが心配になりました。震災後、都内で20万人規模の反原発のデモがあったとかいう話が出たけれど、東京の人たちが現地に行かないでニュースで流れる情報だけで判断して、そのイメージが先行したデモは、被災者がさらに風評被害を受けることにもつながります。当事者を置いたまま、よく知らない人たちが行動を起こすのはあまり嬉しくないです。だったら福島に来てもらってちゃんと事実を知ってもらってその上で原発に反対でも賛成でも主張してほしいと思いました。」

このような討論会に参加しようというだけあって、どの子も自分の考えをしっかり語るのにまず感心。それぞれの発言を受けて、横浜の生徒たちが質問や感想や意見を述べる。

「(甲状腺検査が面倒って)自分たちの健康よりも風評被害のほうが心配っていう話にびっくりしました。」

「検査は学校で受けられるんですか?自分から出向かなければいけないんですか?」

今日のテーマである「甲状腺検査」について、その是非を議論する以前に、彼らが検査のことをほとんど知らないという現実が明らかとなる。横浜の生徒たちはもちろん、当事者である福島の高校生でさえ、「なぜこの検査を受けているのか」を知らないとは驚いた。県から甲状腺検査についてパンフレットが配布されているが、ちゃんと読んでみたことがなさそうだ。よくわからないけれど全員義務だから検査を受けているということ。検査を受け始めた時点ではまだ中学生になるかならぬかという年齢だったから無理からぬことなのか・・・

「知らない」ということについて、横浜の女子生徒のしごく正直な発言に妙に共感した。

「私たちはもちろん何も知らないんですけど、私たちが外からの情報で不安になっちゃうことに対して(福島の人が)モヤモヤした感情を持つっていうのは・・・すみません。言いたいことがまとまっていないんですけど・・・どういうことに感情を持っていくというか考えたらいいのか・・・何を知ってほしいのか・・・私は福島のことに対して、原発あぶないなという感情とか、日常生活大丈夫かなっていう心配とか、当事者じゃないほうが大きいのかなと感じているんですけど・・・ああ、ごめんなさい。うまくまとめられないで・・・」

いえいえ、あなたの言いたいことはわかるし、うまくまとまらなくても言おうとした気持ちが切々と伝わってくる。まとまらない発言でもいいのだ。何でも言ってみる。それをバカにせず耳を傾ける空気が生徒たちの輪の中に醸し出されて、それぞれの率直な発言を促していたように思う。

もちろん、このような会に自主的に参加しようとするのはそもそも意識の高い生徒たちであるのは間違いないけれど、「発言しない」とか「議論できない」とされている日本のイマドキの若者たちが一生懸命に話をしている様は建設的で、感動的ですらあった。

何を知ってほしいのか?

センパイが答える。全国の高校生と交流するイベントに参加した時に、今でもフクシマではみなマスクや防護服を着ていると思っている人たちがいて、普通に暮らしているということを全国では知らない人が多いんだなと思ったと。

原発事故前と同じではないけれど、普通に生活しているというのが一番伝えたいことです。」

福島と横浜の生徒たちの「知りたい」「知ってもらいたい」という気持ちがだんだんと噛み合ってくる。

休憩時間中には生徒たちもギャラリーの大人たちも思い思いに質問や意見を付箋に書いて壁に貼るという趣向になっていて、さまざまな言葉が並び、生徒たちの手で分類された。

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おのずといくつかの論点が浮かび上がってくる。

  • 甲状腺検査⇒なぜ受けるのか?わかりやすく説明してほしい。
  • 教育⇒ 放射線のことをちゃんと教えてほしい。
  • 情報発信 ⇒ 福島の現状を正しく知ってもらいたい。

壁に並んだ付箋の中に、「中高生のみなさんは甲状腺がんが170人を超える人から見つかったことを知っていますか?」という書き込みがあった。

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「この質問を書いて下さった方に聞きたいんですけど、その170人というのは何人分の170人かわかりますか?」という女子生徒からの問いかけに対し、それを書いたギャラリーの大人が「それ書いたの私です」と名乗り出て回答。

「県民健康調査で当時18歳以下だった全員である30万人を対象に甲状腺検査を行ったところこの5年間で甲状腺異常が170人出てきたというのが県から出てきた数字です。」

www.huffingtonpost.jp

それに対して福島の高3センパイ君が即座に質問。

「えっと、異常が見つかったということなんですけど、原発事故との因果関係というか、潜在的ながんの可能性だってあると思うんですけど、原発に関することで異常が見つかったということになるのか、その点に関してはどう考えているのかを教えてください。」

「すごいやん。ええ意見や」と背後から感嘆の声が。参加されていた関西の大御所科学者女史のようだ。

今日はそこまでの議論をする設定ではなく、どうやら直に話をして問題意識を共有するところに眼目があるということだったが、次のステップではこのように大人がたじたじとなる「白熱教室」への可能性が感じられた。

少し時間を延長して1時半から4時前までの2時間半。まだまだ話し足りないようだったが、それなりに充実感があったのは、最初から最後まで輪の中で全員参加の話し合いが続いたからだろう。

発表者によるパワポのプレゼンがメインのよくあるパターンの会では、質疑応答の時間はほんの少ししかなくて受け身で聞いている時間が長い。しかも、発表内容が難しくてイマイチ理解できない場合は質問できる気がしなくて終わってしまい、結局あまり主体的な学びにならないことになりがちなのだ。

そうではなくて今日は、人の話を聞いて自分が思ったことを自由に出し合う中から「何をどう考えたらいいのか?」や「もっと深く知りたいこと、もっと話し合いたいこと」をみずから発見するというプロセスだった。もちろん、それなりのファシリテーション(誘導ではなく)は必要だが。

ただ、実際に時間が足りなかったことからもわかるように、今日のセッションは「ブレインストーミング編」であって、本当に「白熱」するのはこれからだ。ギャラリーに聞かせるのは本当はそれからのほうがいいのかもしれない。もっと多くの大人たちにも、ほかの生徒たちにも聞いてもらいたい。と言うか聞きたいし、なんなら自分も発言したくなるだろう。無関心だった生徒たちまで思わず引き込まれるようなセッションだったら。

今日出てきた「甲状腺検査」「放射線教育」「情報発信」について、もっと話し合うのだとしたら、たとえば敢えて意見の異なる専門家を呼んできて、それぞれの見解について中高生が徹底的に質問するというやり方も有効かもしれない。それもプレゼンは抜きで、お互いしっかり事前準備してきた上で最初から最後まで質問攻めの会はどうだろう。どんな質問にもわかりやすく穏やかに答えてくれる大人の専門家の方々にぜひ参加していただきたい。

若者たちは自分の先入観や固定観念に凝り固まらずに人の話を聞くことができる。若者たちは無知を晒すのを怖れない。大人もそういう心を失くさずに向き合いたい。

「次はぜひ福島でやりましょう!」の声で盛り上がって終了。

 

 

 

バイエルン放送交響楽団来日公演@ミューザ川崎

大学時代の先輩に誘っていただき、来日中のバイエルン放送交響楽団の演奏会に出かけた。

久々のミューザ川崎は早くもクリスマスムードに包まれている。

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今回は舞台下手を見下ろす3階席だったので、舞台上のハープやオルガンあたりは死角になったものの、盛りだくさんな打楽器群が近くに並び、ビオラ、チェロ、コントラバスの奏者が正面から見える。各パートの動きがほぼ上から眺められるという位置だった。そして、現れたマエストロ、マリス・ヤンソンスの横顔と棒の動きを感じながら、身を乗り出し気味にかぶりつきで見守るという贅沢な時を堪能した。

まずはハイドン交響曲第100番「軍隊」。ふわりと軽やかな出だしからして凄いオーケストラだと感じ入る。

100曲を超える膨大な交響曲を書いてこのジャンルを確立した“交響曲の父”ハイドンは、似たような曲が多かったり、退屈に感じられたことも過去にはあったのだが、今日の「軍隊」はオケの動きを上から眺めて飽きることがなかった。指揮棒と右手指先を巧みに使い分けたマエストロの繊細な指示にピタッと反応して絶妙なアンサンブルが繰り広げられ、なんて素敵なハイドン!と思っているうちに曲がどんどん進んでいく。

皮張りのティンパニにはほとんどの場面でミュートが置かれ、硬めのバチを駆使したユニークなフォームの首席ティンパニストは神経質なまでに歯切れよく、時に小太鼓でやるような2つ打ちのロールを繰り出すのに驚く。2楽章の終盤では大太鼓とシンバルとトライアングルがひとしきりトルコの軍楽隊風にドンドンシャンシャン軽快なマーチをやって一旦舞台から出て行った。楽器を持って出て行ったので、いずれ舞台裏で何かやるのかと思っていたら、フィナーレで客席最前列の前に下手側から行進しながら入ってきてびっくり。先頭にはお祭りのシンボルのような大きな鐘のついた飾り物が掲げられ、ハイドンは華やかにしめくくられる。よく見ると大太鼓の白い面にはWe  Japanと書いてあった。

休憩後にはハイドン編成を片づけたステージに夥しい数の椅子が並べられて巨大編成の交響曲を予感させる。ファースト・ヴァイオリンの後ろのほうは死角だが9プルトあったのだろう。セカンド8プルトヴィオラ6プルト、チェロ5プルトコントラバス4プルトと弦楽器だけで64人、管楽器も4管以上、ホルンはワーグナーチューバとの持ち替えも含めて8人、様々な打楽器にハープにオルガンにチェレスタという総勢150人によるリヒャルト・シュトラウスの「アルプス交響曲」が始まった。

夜。静けさに闇がしたたり落ちる感じの中でトロンボーンとチューバの和音が厳かに響く。夜明け前がいちばん暗いのだ。最後の星のようにグロッケンがキラリと鳴ると夜が明ける気配が盛り上がり、シンバルの炸裂と共に日が上る。太陽の光が山頂から谷底まで一面を照らすのを感じて、それだけで泣きそうになる。

なんとまあ、オーケストラ冥利に尽きる曲であろうか。すべてのパートに美味しいところが割り振られて全員が存分に活躍できる感じ。適材適所に人材をうまく配して絶妙のチームワークでプロジェクトを進める優良企業のようだ。舞台裏から狩りのホルンが聴こえてくる。木管金管の見事なソロ(これは何の鳥だろう?)や和音に感服し、次は誰が出番だっけとワクワクしながら見せ場が続く中、曲は夜が明けてから山に登って頂上に到り、嵐に遭いつつ山を降り、また静かになってやがて日が暮れるまでの雄大なアルプスの風景を描いていく。

首席ティンパニスト以外の4人の打楽器奏者がそれぞれの持ち場にセットしてあった大中小さまざまなサイズのカウベルを大真面目にランダムに鳴らす姿が微笑ましい。また、ウィンドマシーンをぐるぐる回して風の音を煽ったり、サンダーマシーンという薄い鉄板をビラビラと揺すって叩いて雷鳴を轟かせたり、というこの曲以外では滅多に見聞きすることのない効果音が出てきて、あれ触ってみたいなあ・・などと思うのであった。

嵐の後、ひとしきりファースト、セカンドのヴァイオリン全体のユニゾンが続き、その間、ヴィオラとチェロとコントラバスがザザザザ、ザザザザ、ザザザザとざわめき続ける場面が妙に印象的だった。全員で一斉に同じことをやる。どんな単調なことでも自分の役割であれば淡々と真摯にこなす。もちろん、ここぞという聴かせどころは全体とのバランスを取りながらバッチリ決める。出番がたった1回ならば、ひたすらその出番を待つ。その集積がオーケストラだ。

世の中の秩序はそういうことをきちんとこなす職人と組織人によって支えられている・・・オーケストラを聴くと、いつもそう思う。革命を起こすのは違う人たちだろう。

リヒャルト・シュトラウスが十代の頃のドイツ・アルプス登山の思い出を温め、それから40年近く経って、1911年に亡くなったマーラーへの思いを込め、ニーチェからの影響も受けて「キリスト教的でないもの」ということで作り上げたこの交響曲。とにもかくにも圧倒的な音の物語に包まれていやおうなく大自然への畏怖の念に打たれるばかりである。

そういうアイデアを人間の集団による音として構築するために作曲家が150人もの人間にこまごま割り振った役割を各人が愚直なまでの職人芸で最高のパフォーマンスを繰り出し、指揮者の采配で絶妙にまとまって整然と前へ進んでいくと、そこに、1915年にリヒャルト・シュトラウスが志向した「偉大な大自然」が立ち現れるとは、この職人組織の仕組みのなんと凄い事だろう。

少し前にインタビューしたソロ・パーカッショニストは、たまにオーケストラに加わって「そのタイミングでその音量でその一発だけ」のような出番のほうがずっと緊張すると語った。好きなように表現できるソロや前衛的な打楽器アンサンブルのほうが自分は合っていると。また、ある元ティンパニ奏者は指揮者の指示にどうしても納得できず、バチを投げつけてオケを飛び出し、ソロのマリンバ奏者に転向した(これはきわめて珍しいケースだが)。

どちらが良いとか悪いとかということではなく、ソリストに向いている人からすると、オーケストラは全くジャンルの違う音楽であり、オケの奏者を「職人」として尊敬するということだった。

とりわけこれほど大掛かりでダイナミックな音楽は、超一流のマイスターたちが150人集まって最高のパフォーマンスを結集させればこそ実現できるのだ。その響きに酔いしれながら、こういう音楽に何故かくも心を揺さぶられるのか、何度も自問するのだった。

 

 

 

ざっくばらんに話し合える場とは?~地層処分カフェに参加して

原発絡みの問題については、自分だけでは何をどう考えていいのかもわからず、無力感と絶望感に陥りがちだ。

どうしたらいいのだろう?自分にできることなんてあるのか?

ということで、稲垣美穂子さんが主催した地層処分カフェに行ってきた。

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参加者がたった4人とは正直あまりにも少ないと思ったが、これはある意味とても贅沢なことだった。

なんと言おうか、この人数にこの料金で、東大の先生の特別講義を受けたわけだ。しかも受動的な聴講ではなく積極的なゼミだった。大昔の学生時代には経験できなかったような質問し放題の活発な。

その日の講師を務めた徳永朋祥教授は、これまでに私が接した限りの中でも出色のわかりやすい説明をしてくださる驚嘆すべき「専門家」であった。なんでも近年は、スウェーデンの放射性廃棄物処分プロジェクトに関してOECD-NEAの国際評価に参画しておられ、「分厚い資料を読み解くのが死ぬほど大変」なのだそうだ。そういう国際舞台の修羅場を度々くぐり抜けてきたからこそのわかりやすさなのか、見事な比喩を駆使しつつ、素人にもわかる話をしてくださった。

  • そもそも、高レベル放射性廃棄物の地層処分とはどういうことなのか?ほかにどんな処分方法が考えられるのか?
  • 地層処分のサイトとなる深部地下環境に期待されるのは、地表に比べて変動を受けにくく、物質が変質しにくく、物質が移動しにくいという条件である。
  • 放射性廃棄物を閉じこめて安定な形態にしたガラス固化体はオーバーパックという強固な金属製の容器に格納され、オーバーパックと周囲の岩盤との間には、ベントナイトを主材料とする緩衝材が充てんされ、地下水と放射性物質の移動を遅らせる。
  • そのように地層に埋設された放射性廃棄物に対して、地下水の流れはどのような影響を与えるのか?
  • 地表の環境変動(特に約10万年程度の周期で発生する寒冷化・温暖化サイクル)は地下水の流れにどのような影響を与えるのか?
  • 地震は地下水の流れにどのような影響を与えるのか?
  • 処分場建設に関わる人間の活動は地下水の流れにどのような影響を与えるのか?

・・・それでも、一方通行で長い話を聞いているばかりだと集中力が持たなくなり眠気を催したりするものだが、稲垣さんの進行はまさにざっくばらんで、ひと通りのレクチャーを受けてから質疑応答コーナーに移るという形にとらわれず、聞いていてわからなかったり、ふと疑問が湧いたりしたら、その時にその場で「あのー?」と手を挙げて素朴な質問をさせてくれるのだ。退屈するとすぐに眠たくなってしまう私のような者でも、地中深くの構造や地下水についての難解な理系の話に、思ったまま質問しながら、ついていくことができたのは画期的!双方向の充実感があった。

無論すべてを理解できたとは言い難いし、その時にはわかったような気がしたことでも、既に3週間も経つと記憶が薄れてしまっているので、もっと早く振り返っておけばよかったと、その後の自分の多忙が悔やまれるが、それでも、あのディスカッションの充実感は確かな印象として残っている。なんならもう一度同じテーマでも参加したいと思える有意義な時間だった。

なぜ良かったのか?改めて振り返るといくつかポイントがあったように思う。

  • 専門分野を熟知した講師が素人にもわかるようにかみくだいて説明する。
  • 参加者は無知を晒すのを怖れず、随時、質問しながら話についていく。
  • 講師は参加者の質問レベルに落胆せず、「いい質問ですね~」と褒める。
  • 参加者の質問レベルに合わせて講師が誠実にわかりやすく答える。
  • 参加者が互いの立場を気にせず質問し、人の質問にも耳を傾ける。
  • 無理に結論らしいものを出そうとしない。

今回の場合は、人数が非常に少なかったからこそ質問しやすかったと言えるが、仮にもう少し人数が多い場であっても、良い議論ができるかどうかは、講師の説明の巧い下手だけでなく、参加者の知識レベルの問題でもなく、両者の姿勢によるものなのだと感じた。もちろん、司会者が双方向の発言を促す雰囲気作りも大事だ。

これは地層処分の話に限らない。

ちなみに、東京の地下が地層処分に適しているのかどうか尋ねてみたところ、地下水の状況から判断すると「適していない」のだそうだ。東京の地下を最終処分場にすることを真剣に検討すべきだと考えていた私としては残念な知見であるが、そうなると一体どこに最終処分場を設けるのが合理的なのだろうか?立候補する自治体があるだろうか?住民を説得することなんてできるのだろうか?

「どこ」という具体的な立地についての明言を避けつつ、処分場となる場所の地下深くに埋めた高レベル放射性廃棄物を“未来永劫”(無理!?)とまでは言わないまでも、数百年は管理する使命を帯びた研究施設を中心とする学研都市を建設するというイメージが示された。そこに原子力や地層処分に関わる研究者が集まり、家族も住まい、そのための商業・教育・医療福祉施設なども作っていくというシュールな町づくり・・・うーん。

元々簡単に結論が出る話ではないが、何をどのように考えて解決策に近づいて行けばよいのか、疑問を投げかけたりアイデアを出したりすることはできる。知識がないならないなりに、教えてもらいながら、学びながら、立場が違ってもそれぞれの意見を自由に述べ合えばよい。何もわかっていない素人は黙ってろと言われる筋合いもないし、「専門家」を無用に非難していてもはじまらない。

原発問題全般を覆う不毛な対立を見るにつけ、ネガティブな態度からは何も生まれないとつくづく思う。

ゲンロンβ7 特別公開版

たった数人でも、建設的なコミュニケーションの可能性を見出せたのは貴重であり、相互不信ばかりが募って何も解決されない絶望感の中で、一筋の光明を見出すようだった。

次回は1月頃に予定しているとのこと。稲垣さん、私はまた参加しますよ。

 

 

核のゴミの地層処分について考える場

原発から出る高レベル放射性廃棄物をどうするのか?

数年前まで私はそんなことを意識することもなく暮らしていた。この問題の深刻さに初めて気づいたのは、東日本大震災福島第一原発が事故を起こしたことがきっかけだから、まあのん気なものだったと恥ずかしく思う。折しもフィンランドの放射性廃棄物最終処分場「オンカロ」を扱った『100,000年後の安全』というドキュメンタリー映画が上映されていて何度か見たことを思い出す。

映画『100,000年後の安全』公式サイト

震災後も被災地の現地取材とは無縁の部署にいたが、あの頃にわかに注目された再生可能エネルギーの送配電を安定させるスマートグリッドや、電気使用量の可視化や蓄電・放電をコントロールできるスマートコミュニティに関する広告特集を担当することになり、全く知識のないテクノロジー関連の紙面を編集するためになりふり構わずアプローチしたネットワークから芋づる式に知り合った人々のうちの何人かが現在にもつながっている。

その中の一人、フリージャーナリストの稲垣美穂子さんは、大学在学中の2006年から高レベル放射性廃棄物の最終処分問題を取材して回り、ドキュメンタリー映画『The SITE』を2012年に発表したというツワモノだ。これは『100,000年後の安全』の日本版とも言える内容の作品で、高レベル放射性廃棄物を巡るきわめて日本的な現状が、体当たり潜入ルポによって赤裸々に映し出されていた。

www.uplink.co.jp

渋谷のアップリンクで開催された上映会&トークイベントに参加して、若い女性でこんなことやっている人がいるなんて!と驚いたものだった。なんとか記事にできないかと思い、その頃担当することになったジャパンタイムズの女性誌The Japan Times for WOMEN(日本語)で「行動する女性が地球を救う」という、なんとも大層なタイトルの特集を作って彼女の活動を紹介したのが、当時の私の立場でできるせめてもの被災地関連の記事となった。

それから数年ご無沙汰していたが、退職後に再び連絡を取るようになったのだから、人のご縁というのはまことに不思議で味わい深いものがある。この春先には一緒に福島の沿岸部を訪ねた。

先月、彼女の企画による地層処分についての勉強会に参加してきた。

勉強会と言っても堅苦しいものではなく、「地層処分について、気になるテーマを一つ設け、その専門家や事業関係者と市民が賛否を超え、直接ざっくばらんに話し合える小規模&カジュアルな場」だという。

ameblo.jp

日本では、原子力発電に伴い発生する使用済核燃料を再処理し、ウランプルトニウムを回収した後に生ずる高レベル放射性廃液を、ガラスで安定的な状態に固形化し(ガラス固化体)、30~50年間、冷却のため貯蔵・管理したうえで、地下300メートル以深の地層に埋設処分(地層処分)することとしている。

www.enecho.meti.go.jp

しかし、最終処分場をどこに建設するかはいまだに決まらない。

なにしろ、どんなに家の中を断捨離してスッキリさせても、私たちは原発開始以来50年分の核のゴミを捨てることができず、青森県六ヶ所再処理工場をはじめ各地の原発に貯めこんだまま、日々電気を使って暮らしているのだ。日頃そこまで意識することがなくとも、断捨離的な考え方で行けば、このゴミは世の中を覆う暗雲にかなり影響しているのではあるまいか・・・非科学的だろうか?

捨てたいのに捨てるに捨てられず、無害になるまでに10万年もかかる高レベルの放射性廃棄物が、ガラス固化体の形で現状でも2万5千本もあるのはどう考えても大変なことだ。

原発の再稼働に反対でも賛成でも、既に発生しているこのゴミをどうにかしなければならない。誰にとっても他人事ではないはずだ。しかも、もんじゅ廃炉するというのだからプルトニウムをどうするかも大問題になる。どうしたらいいのだろう?

そのような問題を独力で調べたり考えたりするのはとても難しい。しかし、そんなことは自分の力の及ばない領域であって、国や電力会社や原子力の専門家が考えるべきなのだと言って、人任せにしてしまって済むものだろうか? 電気を使っている市民として無責任ではないのか? そして、人任せにして放置したリスクは自分や自分の子孫にも降りかかるのだ。

自分のような素人の市民にも何かできることはあるのだろうか?

「関係者と市民が直接対話できる場や建設的な議論の土台作り」を提供しようと、今も地道な活動を続けている稲垣さんにまた会いたい!という気持ちもあり、二度目の開催となる地層処分カフェに行ってみた。今回はテーマは「地下水と地層処分」である。

会場に着いてみると、定員30名に対して参加者が私を入れて4人しかいなくてちょっと拍子抜けだった。今日の講師として、東京大学大学院新領域創成科学研究科環境システム学専攻の徳永朋祥教授が招かれている。そして、司会が稲垣さんということで総勢6名という状況。この少人数では東大の先生がちょっと気の毒だなあ・・と出席した私が思うのもなんだが、ちょっと寂しくないか。

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 しかし、結果的にこれがとてもよかったのだ。(続く)

 

御宿でも黒沼ユリ子さんのヴァイオリンはひるまない

10月1日に千葉の御宿では黒沼ユリ子さんの「ヴァイオリンの家」が初めて一般公開されたはずだ。

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9月30日のオープニングでは、黒沼ユリ子さんと駐日メキシコ大使や御宿町関係者のご挨拶がひと通り終わってから、ヴァイオリンの演奏が披露された。

「今回は友人の波多野せいさんとヴァイオリン二重奏で、このホールの木のひびきをお聴きになりながら、この家の将来に夢を馳せていただけたら、と願っております。」

と案内文にもあった。公のコンサートホールでの演奏は2年前に引退を宣言された黒沼さんのヴァイオリンを再び聴くことができるとは!

久々に聴く黒沼ユリ子さんのヴァイオリンが、しみじみ心に染みた。

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黒沼さんがメキシコに設立した音楽学校アカデミア・ユリコ・クロヌマで3年間子ども達を指導し、帰国後はアンサンブル・コルディエの代表として活躍されている愛弟子の波多野せいさんとぴったり息を合わせる。

自分はなぜコンサートに行きたいのか?と自問するたびに思うのは、それは何も演奏者が機械のように正確に弾けることを検証しに行くわけではないということだ。正確無比でも無味乾燥な演奏には、心を動かされることはない。

何が人の心を動かすのだろう?音楽は不思議だが、演奏家であると同時に非常に明晰な文章を書かれる黒沼さん自身が著書『ヴァイオリン・愛はひるまない』の中で音楽について語っておられる。

「ヴァイオリン・愛はひるまない」: 井内千穂のうたかた備忘録

「音楽とは、文章も色も形も残らず、音という空気とは切っても切れない不可思議な媒体を通じて、作曲家が自分の思いのたけを白紙の五線紙の上に記したモノを、演奏家が作曲家の気持ちを推しはかりながら、自分なりの感情も込めて空気を振動させ、聴く側に生きた楽曲として届け、受け止めてもらうモノ。その曲が作曲されてから何百年たっても演奏者によって生き返らせることができる、全く信じられないようなことを、この地球上で人間のみが創り上げたモノなのだ。コンサートの座席に坐る聴衆は、演奏を聴いている間、自分を非日常な空間に飛翔させ、人間のあらゆるエモーショナルなモノを音から自由に連想している自分を発見するはずだ。」(第1楽章 「ヴァイオリンが人生を決めた」より)

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壁に掲げられた1967年のポスターに当時の黒沼さんの姿があった。1958年に18歳でチェコプラハ音楽アカデミーに留学した黒沼さんは、60年代から世界各地で演奏活動を繰り広げた。60年代にはまだ幼児だった私は残念ながら若かりし黒沼さんの生の舞台に接する機会はなかった。

私の母とほぼ同い年になられた現在の黒沼さんの演奏は、全盛期とは違っているのだろう。しかし、高音域の音程云々という次元を超えた、人生経験のすべてが音に込められた魂を震わせる演奏は、今だからこそなのだと思う。

「メキシコの山田耕作のような作曲家」と黒沼さんが紹介するマニュエル・ポンセは、「エストレリータ(小さな星)」で有名だが、黒沼さんのCDにも収められ、いつもコンサートでも演奏される「ガボット」も本当に美しい曲。サロン風とも言えるロマンチックなメロディが、私には「いろいろあるけれど、それでも生きてきてよかった。いろいろあっても生きていこう」という優しいエールのように聴こえる。憂いを湛えて清々しく、大好きな曲だ。

ショスタコーヴィチの3つの二重奏曲は、東日本大震災以来、さまざまなチャリティにも取り組んでこられた黒沼さんにとってシンボリックな作品だと言う。

「冒頭の前奏曲は、亡くなられた方々への鎮魂歌のようにどうしても思えるのです。2曲目のガボットは、楽しかった思い出。そして最後のワルツは、亡くなった人たちのためにもがんばっていこう、と未来に向かう曲に聴こえます。」

7年前にインタビューさせていただいた時、「子ども達が音楽を好きになるようにさせるにはどうしたらいいんでしょう?」と質問したら黒沼さんは即答した。

「教師がみずから音楽への愛を示すことです。子どもの目の前で、こう~やって(とジェスチャー)ヴァイオリンを弾いて見せてあげることです。そうしたら、ああ、あんなふうに弾きたいなあと子どもは感じますよ」

そんなふうにいつもお手本を見せてあげていたに違いない、気持ちのこもった力強い弓と身体の動き、ほとんど目を閉じた顔の向き。そのすべてが音楽への愛に溢れている。

ああ、この人は一生涯ヴァイオリンを弾き続けるのだ。改めてそう思った。

終戦後まもなくヴァイオリンを始めた幼い女の子は、コンクールで優勝し天才少女として名を成し、チェコへの留学以来、世界へ羽ばたいた。その後40年も暮らしたメキシコの文化やその歴史的背景をはじめ、その時々の社会情勢にも強い関心をもつ探求心に満ちた知性と、出会いや別れが続く人生の喜怒哀楽すべての感情が、音に反映される。

弾いておられる姿に思わず涙が溢れてきた。

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それは、こんなにも間近で演奏に接したからかもしれない。

1,500人収容できるコンサートホールを満席にすることも立派に違いないけれど、たった40人、今この場に居合わせた、それぞれの顔がはっきり見える人たちのために心をこめたヴァイオリンの音が小さな木のホールに響く。

なんと豊かな時間だろう。

御宿に黒沼ユリ子さんのヴァイオリンの家がオープン

2014年1月。紀尾井ホールで開かれた引退リサイタルの舞台でアンコールに応える前にヴァイオリニストの黒沼ユリ子さんは客席に語りかけ、突然宣言した。

「私はこのたび日本に帰ってくることを決意しました」

会場からは驚きのどよめきの後、温かい拍手が沸き起こった。

黒沼さんは、それまで40年以上にわたりメキシコを拠点に活躍してこられた。世界中で演奏活動を続ける傍ら、メキシコで大勢の子ども達にヴァイオリンを教え、教え子の中には今やメキシコを代表するソリストもいる。

私が黒沼さんの著書『メキシコからの手紙』(岩波新書)を読んだのはいつだか思い出せないほど前だが、その頃はまさか実際にお会いすることになろうとは思いもしなかった。2009年4月、インタビューさせていただくことになった時には「あの方にお会いできる!」と胸が高鳴ったものだ。

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それ以来、何度か記事を書かせていただき、お付き合いが続いている。ユリ子さんも、お姉さまで敏腕マネージャーの俊子さんも大好きな女性であり尊敬する大先輩である。

2014年5月、黒沼さんは長年暮らしたメキシコを離れ、千葉県の御宿町に移住されたのだが、なかなか伺えないでいるうちに2年経ってしまった。

先月、俊子さんからご案内が届き、とにもかくにも御宿へ行こう!と決めた。もっと遠いかと思いきや、房総特急わかしおに乗れば、東京駅から1時間20分ほどで着く。小さな静かな駅で降り、メインストリートの「ロペス通り」をまっすぐ歩くと、ほどなく「フリ-ダ・カーロのコヨアカンの青い家のような」とメールに書いてあった通りの鮮やかな青い家が見えてきた。

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 このたび黒沼ユリコさんが作られた「ヴァイオリンの家」であり「日本/メキシコ友好の家」でもある。9月30日、そのオープンを祝う会が開かれた。

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 東京から駆けつけたカルロス・アルマーダ駐日メキシコ大使を迎えてテープカットが行われてめでたくオープン。参加者は床も壁も鮮やかなイエローにペイントされた階段を上がって2階へ。

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 2階には、大小さまざまな人形がずらりと展示されている。ご夫君の故・渡部高揚氏が世界中で集められたもので、すべてヴァイオリンを弾いているというすごいコレクション。ここには300体ほどあるが、まだ全体の3分の1だとか。

さらに階段を上がった3階は、木の床に木の天井が素敵な弦楽器のためのミニホール。40席ほどの小さなコンサートができる。

1609年の9月30日、スペイン領フィリピンの臨時総督の任務を終えたドン・ロドリゴら373名を乗せた帆船サン・フランシスコ号が、メキシコ(当時スペイン領)へ向かう途中、嵐に遭遇し、御宿沖で座礁した。これを見た御宿の人たちは、初めて見る異国の遭難者たちを救出し、献身的に介抱を行った。

「御宿は400年前にメキシコと日本が出会い、交流が始まった場所。そこに小さな交流の拠点としてこの家を作りました」と黒沼さんがご挨拶。

「当時の奇跡のストーリーを現代においても忘れてはならない。子ども達にも語り継ぐべきだ」とアルマーダ大使も応えて述べた。

「1609年の9月30日、まさに今日は暴風雨だったのです。だから、今日も暴風雨が心配でしたが、おかげさまでお天気になりました」と黒沼さんは語り、会場は笑いに包まれた。いつもながらスピーチの巧さにも感服する。

大使ご夫妻のほか、御宿町役場や町議会からも重鎮が出席し、御宿ネットワークのメンバーの方々が、ボランティアとして会場の設営から飲み物・食べ物のサービスまで、和やかにサポートしていた。

ネットワークを代表して挨拶された作家の安藤操氏の言葉が面白い。

「黒沼ユリ子さんは女王様なんです。土地には霊魂が宿っているものですが、黒沼さんは女王として御宿とメキシコの地霊を結びつけ、その接点に立っている不思議な行動力を持った人です。」

それにしても、御宿に移住してまだ2年ばかりの黒沼さんが、町ぐるみ人々を巻き込むパワーは凄い。御宿ネットワークは昨年「この指とまれ!」で立ち上げたそうだが、40人ぐらいからスタートして今は80人ほどのメンバーがいるという。地元の人も首都圏から移住した人も、黒沼さんを核にして集り、知り合い、互いに親しくなり、楽しく活動されているようだ。

この居心地の良い青い家が、これからは週末と祝日に地元の人々が集うコミュニティセンターになり、日本とメキシコという国際交流の場にもなる。もちろん、東京からもぜひお出かけくださいとのことだ。

コンサートだけでなく、メキシコの映画や音楽フィルムなどの上映もやりたいと黒沼さんは述べた。

「そうやってみんなで集まれば、その後でお茶でも飲みながら音楽や映画の感想を話し合ったりできるでしょう。」

立川のアーティスティックスタジオLaLaLaとも相通じるコンセプトで、私は自分がそういう場所にとても惹かれ、ご縁があるのだと改めて感じた。心から尊敬する黒沼ユリ子さん・俊子さん姉妹もそういう場所を作られたのだと思うとますます嬉しくなる。

そんな場所が全国各地にどんどん増えればいいと思う。知らないだけで、実は近所にもあるのかもしれない。探してみよう。なければ、いつか自分で作りたいもんだなあ・・・大きくなくていいのだ。こじんまりと居心地よく、人の温もりが感じられ、老いも若きも集える場所。

ボランティアっていろいろ負担に感じたり、コミュニケーションが難しかったりする場面もあるけれど、「この指とまれ!」で御宿ネットワークに集まってきた、様々な人生経験を経た大人たちが、この素敵な家で和気あいあいとおしゃべりに花を咲かせ、てきぱき動いておられる様子は実に楽しげだった。翌日の一般公開の段取りなど相談しながら、初めて伺った私にも気さくに話しかけてくださる。メキシコ産のコーヒーを淹れてくださったのは、釣り好きが嵩じて御宿に移住したという元プロのコーヒーマンだった。美味しかった!また来ます!!(続く)

(2016年10月1日(土)から一般公開)

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秋を告げる金木犀

以前は金木犀の香りがあまり好きではなかった。クセのある甘い香りは主張が強すぎるような気がした。

しかし、気になる香りではあり、以前のブログにも何度となく書いていた・・・ということを今も覚えているほど、気持ちを掻き立てるインパクトがあるのは確か。

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その後しばらくブログを書かないで年月を経てしまった。毎年10月の始めには必ず金木犀の香りがしていたはずだが、あまり覚えていない。金木犀が香るほんの一週間ばかりの日々が、とくに意識に上ることもなく過ぎ去っていたのだろう。意識に上らないことは書かれもしない。

久々にブログを再開したら、金木犀の季節が来たことに気づいた。どうやら、昨年までより幾分、自分の季節感が戻ってきたようだ。そして、香りによって、過去に書いたことを思い出し、書いたものを読み返すと忘れていたその時の感情がよみがえる。

進歩も成長もないような気がしていても着実に変化はある。今年は昨年と同じではない。昨年の今頃は、会社を辞めることを決め、退社時期を具体的に考えているところだった。

しかし、季節の巡りは几帳面に繰り返し、時は同じところをぐるぐる回っているだけのようにも思える。地球規模で見ると、温暖化やら環境の変化やらで、気づかないほどの変化が毎年少しずつ進行しているのだろうか?そう言えば、金木犀の開花がだんだん早まっているような。

・・・今年は金木犀が香りませんでした・・・

いつかそんな年が来たら世界は滅びるのだろう。

また一年が経ち、金木犀の季節がちゃんと来た。今年はその香りにいち早く気づいたのが妙に嬉しかった。なぜか香りも以前より好きになった。

金木犀が高らかに宣言しているのが頼もしい。

 秋が来た。