よろず編集後記

よろず編集者を目指す井内千穂のブログです。

日本発・美しき・谷崎オペラ「卍」

久々にオペラを堪能しました。

今の世の中には長らく意識の外に行ってしまったものを呼び戻してくれる便利な仕組みがいろいろあります。ある日、作曲家 西澤健一氏のオペラ公演の案内が画面に流れて来た時、今これに行くべしというサインだと直感しました。

 

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チラシの裏面に2017年初演とあります。あれからもう4年も経つんですね。恥ずかしながら、初演を観て読みたくなった原作、谷崎純一郎の『卍』を読み始められないまま、一体何をしていたのかと呆れる年月が流れました。

舞台もピットもよく見える極上の席で気持ちが高揚する中、台本と作曲を手がけ、今夜みずから指揮者を務める西澤氏が、いつになく小ざっぱりした髪型で颯爽と登壇。そのお姿に映画『アマデウス』を思い出しました。

冒頭の旋律。そう、これです。取り返しがつかないけど強烈に懐かしいこの感じ、覚えていました。いえ、正確にはその旋律の断片が耳に残っていて、もう一度聴いてみたいと願っていたと言ったほうがいいかもしれません。それでも、一度しか聴いたことがないのに記憶に残るとは。ほかの何かと混同しているのでしょうか・・・ひょっとすると、プロコフィエフの『ロミオとジュリエット』のどこかでこういう場面を聴いたかもしれません。フォーレの『ペレアスとメリザンド』のどこかにこんな感じの和音があったかもしれません。ちゃんと思い出せません。酔ったように揺らぐ三連符(じゃなくて、「ラ~ララ」というリズムかも)が挟まった甘美な破滅の予兆にうっとりしました。

初演の室内楽版は、昔のラジオドラマのような趣きが魅力的でしたが、それが、よりゴージャスに映画化されたような今回の管弦楽版です。ポロンポロンかき鳴らされるハープや、ぶつぶつ呟くクラリネットや、篠笛のようなピッコロなど、彩り豊かな音色に魅せられ、時折シャリンとあの世から降ってくるような鈴の音に戦慄が走ります。そして、たくさんの弦楽器が重なった妖しい和音は、一筋縄ではいかない人の心の複雑さそのもののように琴線に触れる・・・そういう音の厚みはオーケストラの醍醐味です。

日本語の歌だから字幕がなく、プログラムに掲載されている台本の文字も暗がりの老眼には見えませんが、ほとんどの歌詞がよく聴き取れて逆に驚きました。時々「今なんて言うてはったんかなあ?」と思う箇所もありますが、まあ、大体のストーリーはわかっていますし、園子の透き通った声で「しとしとしとしと・・・みつみつみつみつ・・・」なんて、女同士のラブレターを読み上げられると、細かい文面はともあれ、気持ちはもう切々と伝わってきます。あかんあかん、こんな手紙書いたら。

一人だけ、黙して歌わず精力的に動き回る女性は誰だろう?と訝しんでいると、それは陰であれこれ画策する女中のお梅どんだと途中でわかりました。今回の演出で加わったキャラです。妄想も加わるのでややこしくなりますが、舞台上の赤枠という抽象的な額縁の中で重層的に展開するシーンも相俟って、なんでこうなるねんと思う物語に何やらリアリティがありました。

それにしても、日本語の小説がこんなにオペラに合うとは改めて意外です。

「原作が原作なので、艶めかしくてヤバいオペラですが、メロディは美しかった記憶が・・前回室内楽版だったのが、今回は管弦楽版初演ということで楽しみです」というだけの情報で、「面白そう」と誘いに乗ってくれた友人とも、「うん、この話って歌舞伎にするよりオペラのほうが合うよね」と意見が一致しました。さらに、フランスに縁のある彼女は、「これ、フランスでもウケると思う。海外公演とかやればいいのに」と言います。そう言えば、会場には外国人の姿もちらほら。彼らがこのオペラをどう受けとめたのか、興味そそられます。

なぜ、オペラに合うのか・・・やはり、谷崎潤一郎の小説が、明治以降の近代化・西洋化が進んだ昭和初期のハイカラな雰囲気を醸し出しているからでしょうか。『蝶々夫人』のような西洋人の目から見た日本女性ではなく、『夕鶴』のような民話の世界でもなく、生身の日本人の男と女、女と女、男と男のやり取りが濃密に歌い上げられます。

一方で、園子の楚々とした和装や大阪の料理屋のようなディープな世界には日本の伝統文化が脈々と流れており、登場人物はみな関西人です。大阪のことばを音程にする中で、「いわゆる『日本的な音程』の上にちょうど良い音があるのを発見した」と作曲者の西澤氏が創作ノートに書いておられました。日本人のDNAに埋め込まれた物悲しい節回しが随所に散りばめられています。

「私は器楽曲の作家として、『日本的な音程』を用いたことはなかった。歌曲作家としても避けてきた。そうした符丁をもって日本の作曲家でございますと名乗るつもりはなかった。しかし、ことばがそれを望む以上、躊躇してはいられない。」(プログラムの創作ノートより)

へーえ、ことばがそれを望む! 私は一応、大阪の人間ですが、大阪のことばが日本的な音程を持っているとは、これまで意識したことがありませんでした。確かに、いわゆる標準語より、関西弁のほうが抑揚がありますね。しかし、そもそも原作の関西弁がなんとなく不自然で、全編その調子で書かれているのが少々読みづらく、はじめは昔のことば(今は「あて」とか言いませんし)だからかなと思いましたが、東京人である谷崎潤一郎が、関東大震災の後、関西に引っ越してから周囲で耳にする関西弁を研究しつつ書いた頃の作品だったと知り、合点がいきました。つまり、外国語みたいな関西弁で書かれた、どこか翻訳ものっぽさのある小説なのです。だから、西洋音楽をベースにして日本的な音程が入り混じるオペラ化がしっくりくるのかなと思いました。

光子が何度となく園子に呼びかける「ねえちゃん」「ねえちゃん」という右下がりの音程や、「僕はわたぬき云うもんですー」というゾゾッとする挨拶が耳につき、どのキャラにも共感できないのに成り行きに引き込まれずにいられない物語。その中で、今の気分にいちばん刺さったのは、園子の夫で真面目な常識人、孝太郎の叫びです。

「おまえ、僕のことパッションないない言うけど、僕かてパッションあったんや!」

苦しげなハイトーンには却って訴える力がありました。

初演のラストシーンは、舞台上に園子が光子をモデルに描いた観音様の絵だけが残り、なるほどと思ったものですが、今回は光子本人が観音様になるという大胆なエンディング。しかも、あの記憶に残る冒頭の旋律は、光子観音が読む(歌う)お経となって甦るのでした。あれってお経だったんですか?!

そんな余韻に浸りながら、ようやく4年越しで『卍』の原作を読み終わりました。

なんでそないなことになるんかいなぁ…という物語ですが、因果の絡みを紐解いていけば、誰が悪かったわけでもなく、いつの間にやら巻き込まれて逃がれられなくなった愛のカタチというほかありません。世間的に言えば、新聞の三面記事を賑わす「有閑階級の罪状」と謗られ、「あてらの居どころ、もうこの世にあれへん」ということですが。生き残った園子のその後の人生も気になります。ご本人は、せっかく死んでもあの世で邪魔者扱いされるんやないかと、その疑いさえなかったら、今日までおめおめ生きてる私やあれへんけど、と言うてはりますが、まさに生きるも地獄、死ぬも地獄。嗚呼。

でも。なんでそないなことになったんかわからんけど、今日までおめおめ生きてきて、ここでこないしている自分かて、人のこと言われへん。パッション? そんなん誰かてあるに決まってますやん。

このオペラまた聴きたいです。なんでやろ。

 

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