よろず編集後記

よろず編集者を目指す井内千穂のブログです。

シューベルト最後の3大ピアノ・ソナタ

また半年が経って初夏。このところ、田崎悦子さんのピアノを聴きに行くことで、とっ散らかった日々をリセットしている気がする。昨秋、田崎さんのブラームスを聴いた頃とは自分の状況もだいぶ変わった。今回はシューベルトの人生最後の大作ピアノ・ソナタを3曲まとめて弾くという凄まじいプログラム。人の生涯というものを思わずにいられない。

演奏会の余韻から一週間経っても脳内音楽は今なおシューベルト。耳に残る断片が脈絡なく流れ、不意に琴線に触れる。

ソナタ19番の4楽章に出てくるタッタタッタ、タッタタッタというリズムが、以前は同じくシューベルトの歌曲「魔王」(あれは三連符の連打だが)に似た馬の疾走に聞こえたのだが、今回の田崎さんの演奏を聴いていると、高熱にうなされたシューベルトが苦しい夢の中で踊りまくるダンスのように感じられた。あのコ(誰?)の肩を抱いてラッタタッタ、ヨットトットとステップを踏み、ふらつきながらぐるぐる回ってふと相手に目を遣ると、骸骨じゃないか!? 驚愕の転調の果てに「なんでこうなるんだよ!」という絶望と怒りが鍵盤に叩き付けられる。

20番の4楽章は、幼年時代を懐かしむような温かさに満ちている。ゲルマン的な正しさに溢れた善なるメロディは、昔どこかで聴いたような……ひょっとすると子どもの頃にデュッセルドルフの幼稚園で似たような歌を習ったのかもしれない。そういう童謡の元ネタが実はシューベルトの短い覚えやすいメロディであっても不思議はない。それとも、もっと古い時代の素朴な民謡がシューベルトの中で発酵したのかもしれない。しかし、そのシンプルなメロディは絶えず変容していくのであった。移ろいやすい人生のように。

21番の冒頭は、穏やかな悟りの境地。時折、死が遠くないことを告げる遠雷が轟くが、もはや怖れることはない。魂は既に天上に向かい、短い人生を振り返る。本源的な哀しみを抱えつつ喜びも与えてくれる人生は、短くても長くても、いずれ儚く消える。

天から降りてきたフレーズに、尽きることのないアイデアを加えて、ああでもないこうでもないとシミュレーションを続ける繰り返し。若くして老いてしまったような嘆きのワルツ。途中から始まってあちこちに飛ぶような曲想。そして、唐突な終わり。

田崎さんご自身によるプログラムノートにはこう記されている。

「いつ、どこに運ばれていくかわからない転調。光と闇の間を自由に果てしなく、はかなくさまようその魂は、私をまったく無防備にする。あたたかく抱かれながらも、不安とおののきがおそうのだ。」

遺作となった3つのピアノ・ソナタが完成したのは1828年シューベルトの死の数カ月前だった。初演されたのはいずれもその10年ほど後だったという。シューベルト自身もピアノの名手だったが、これらのソナタを自分で弾くことはおろか、他人の演奏としても一度も聴くことはなかったのだ。なんということだろう。すべては天から降りて来た旋律に着想を得て自分の脳内を駆け巡る展開を追いかけ、苦しい死の床で五線紙に書きつけておいた音の調べである。

「死とひきかえに遺していった音符のひと粒ひと粒を、私も残りの1分1秒をもって感じ取り、生きた音楽に吹き返らせる努力をしたいと思う」と田崎さんは綴っておられる。

そしてその通り、田崎さんの演奏は演奏家としての名声など超越して作曲家に捧げ尽くされる。限りなくやわらかいタッチにも、高音のきらめきにも、全身で決然と叩き込む和音にも、おのずと腕が振り上がる所作にも、「わたしってピアニストなんです」というあざとさやナルシシズムが一切ない。ただそこに200年も前にシューベルトが書き遺した音楽の素晴らしさが立ち現れてくる。

そこで私は理解するのだ。わざわざ演奏会に行こうと思うのは、超絶技巧をミスなく成功させるのを目撃するためでは断じてないと。今日の田崎さんが甦らせようとしているシューベルトの音楽のイデアのようなものを感じ取り、たった今生まれた奇跡の響きを受け取りたいからなのだ。東京文化会館小ホールの巨大な洞窟のような空間でそんな秘儀が執り行われた。

できるだろうか? あらゆる虚栄心も恐怖心も乗り越えて、無私の何かを生み出すことができるだろうか? シューベルトのように。田崎さんのように。

 

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日本発・美しき・谷崎オペラ「卍」

久々にオペラを堪能しました。

今の世の中には長らく意識の外に行ってしまったものを呼び戻してくれる便利な仕組みがいろいろあります。ある日、作曲家 西澤健一氏のオペラ公演の案内が画面に流れて来た時、今これに行くべしというサインだと直感しました。

 

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チラシの裏面に2017年初演とあります。あれからもう4年も経つんですね。恥ずかしながら、初演を観て読みたくなった原作、谷崎純一郎の『卍』を読み始められないまま、一体何をしていたのかと呆れる年月が流れました。

舞台もピットもよく見える極上の席で気持ちが高揚する中、台本と作曲を手がけ、今夜みずから指揮者を務める西澤氏が、いつになく小ざっぱりした髪型で颯爽と登壇。そのお姿に映画『アマデウス』を思い出しました。

冒頭の旋律。そう、これです。取り返しがつかないけど強烈に懐かしいこの感じ、覚えていました。いえ、正確にはその旋律の断片が耳に残っていて、もう一度聴いてみたいと願っていたと言ったほうがいいかもしれません。それでも、一度しか聴いたことがないのに記憶に残るとは。ほかの何かと混同しているのでしょうか・・・ひょっとすると、プロコフィエフの『ロミオとジュリエット』のどこかでこういう場面を聴いたかもしれません。フォーレの『ペレアスとメリザンド』のどこかにこんな感じの和音があったかもしれません。ちゃんと思い出せません。酔ったように揺らぐ三連符(じゃなくて、「ラ~ララ」というリズムかも)が挟まった甘美な破滅の予兆にうっとりしました。

初演の室内楽版は、昔のラジオドラマのような趣きが魅力的でしたが、それが、よりゴージャスに映画化されたような今回の管弦楽版です。ポロンポロンかき鳴らされるハープや、ぶつぶつ呟くクラリネットや、篠笛のようなピッコロなど、彩り豊かな音色に魅せられ、時折シャリンとあの世から降ってくるような鈴の音に戦慄が走ります。そして、たくさんの弦楽器が重なった妖しい和音は、一筋縄ではいかない人の心の複雑さそのもののように琴線に触れる・・・そういう音の厚みはオーケストラの醍醐味です。

日本語の歌だから字幕がなく、プログラムに掲載されている台本の文字も暗がりの老眼には見えませんが、ほとんどの歌詞がよく聴き取れて逆に驚きました。時々「今なんて言うてはったんかなあ?」と思う箇所もありますが、まあ、大体のストーリーはわかっていますし、園子の透き通った声で「しとしとしとしと・・・みつみつみつみつ・・・」なんて、女同士のラブレターを読み上げられると、細かい文面はともあれ、気持ちはもう切々と伝わってきます。あかんあかん、こんな手紙書いたら。

一人だけ、黙して歌わず精力的に動き回る女性は誰だろう?と訝しんでいると、それは陰であれこれ画策する女中のお梅どんだと途中でわかりました。今回の演出で加わったキャラです。妄想も加わるのでややこしくなりますが、舞台上の赤枠という抽象的な額縁の中で重層的に展開するシーンも相俟って、なんでこうなるねんと思う物語に何やらリアリティがありました。

それにしても、日本語の小説がこんなにオペラに合うとは改めて意外です。

「原作が原作なので、艶めかしくてヤバいオペラですが、メロディは美しかった記憶が・・前回室内楽版だったのが、今回は管弦楽版初演ということで楽しみです」というだけの情報で、「面白そう」と誘いに乗ってくれた友人とも、「うん、この話って歌舞伎にするよりオペラのほうが合うよね」と意見が一致しました。さらに、フランスに縁のある彼女は、「これ、フランスでもウケると思う。海外公演とかやればいいのに」と言います。そう言えば、会場には外国人の姿もちらほら。彼らがこのオペラをどう受けとめたのか、興味そそられます。

なぜ、オペラに合うのか・・・やはり、谷崎潤一郎の小説が、明治以降の近代化・西洋化が進んだ昭和初期のハイカラな雰囲気を醸し出しているからでしょうか。『蝶々夫人』のような西洋人の目から見た日本女性ではなく、『夕鶴』のような民話の世界でもなく、生身の日本人の男と女、女と女、男と男のやり取りが濃密に歌い上げられます。

一方で、園子の楚々とした和装や大阪の料理屋のようなディープな世界には日本の伝統文化が脈々と流れており、登場人物はみな関西人です。大阪のことばを音程にする中で、「いわゆる『日本的な音程』の上にちょうど良い音があるのを発見した」と作曲者の西澤氏が創作ノートに書いておられました。日本人のDNAに埋め込まれた物悲しい節回しが随所に散りばめられています。

「私は器楽曲の作家として、『日本的な音程』を用いたことはなかった。歌曲作家としても避けてきた。そうした符丁をもって日本の作曲家でございますと名乗るつもりはなかった。しかし、ことばがそれを望む以上、躊躇してはいられない。」(プログラムの創作ノートより)

へーえ、ことばがそれを望む! 私は一応、大阪の人間ですが、大阪のことばが日本的な音程を持っているとは、これまで意識したことがありませんでした。確かに、いわゆる標準語より、関西弁のほうが抑揚がありますね。しかし、そもそも原作の関西弁がなんとなく不自然で、全編その調子で書かれているのが少々読みづらく、はじめは昔のことば(今は「あて」とか言いませんし)だからかなと思いましたが、東京人である谷崎潤一郎が、関東大震災の後、関西に引っ越してから周囲で耳にする関西弁を研究しつつ書いた頃の作品だったと知り、合点がいきました。つまり、外国語みたいな関西弁で書かれた、どこか翻訳ものっぽさのある小説なのです。だから、西洋音楽をベースにして日本的な音程が入り混じるオペラ化がしっくりくるのかなと思いました。

光子が何度となく園子に呼びかける「ねえちゃん」「ねえちゃん」という右下がりの音程や、「僕はわたぬき云うもんですー」というゾゾッとする挨拶が耳につき、どのキャラにも共感できないのに成り行きに引き込まれずにいられない物語。その中で、今の気分にいちばん刺さったのは、園子の夫で真面目な常識人、孝太郎の叫びです。

「おまえ、僕のことパッションないない言うけど、僕かてパッションあったんや!」

苦しげなハイトーンには却って訴える力がありました。

初演のラストシーンは、舞台上に園子が光子をモデルに描いた観音様の絵だけが残り、なるほどと思ったものですが、今回は光子本人が観音様になるという大胆なエンディング。しかも、あの記憶に残る冒頭の旋律は、光子観音が読む(歌う)お経となって甦るのでした。あれってお経だったんですか?!

そんな余韻に浸りながら、ようやく4年越しで『卍』の原作を読み終わりました。

なんでそないなことになるんかいなぁ…という物語ですが、因果の絡みを紐解いていけば、誰が悪かったわけでもなく、いつの間にやら巻き込まれて逃がれられなくなった愛のカタチというほかありません。世間的に言えば、新聞の三面記事を賑わす「有閑階級の罪状」と謗られ、「あてらの居どころ、もうこの世にあれへん」ということですが。生き残った園子のその後の人生も気になります。ご本人は、せっかく死んでもあの世で邪魔者扱いされるんやないかと、その疑いさえなかったら、今日までおめおめ生きてる私やあれへんけど、と言うてはりますが、まさに生きるも地獄、死ぬも地獄。嗚呼。

でも。なんでそないなことになったんかわからんけど、今日までおめおめ生きてきて、ここでこないしている自分かて、人のこと言われへん。パッション? そんなん誰かてあるに決まってますやん。

このオペラまた聴きたいです。なんでやろ。

 

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田崎悦子ピアノリサイタル「Joy of Brahms」

かのブラームスの最晩年に遺言として書かれたピアノ曲ばかりを集めたリサイタル。コロナ禍に疲れた心身にこれほど沁みる音楽はないだろう。そんな音楽を求める人々が集まったのか、日曜の昼下がり、東京文化会館小ホールの客席は予想以上に埋まっていた。

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晩秋の紅葉を思わせるシックな赤のドレスをまとって舞台に現れた田崎悦子さんは相変わらず素敵だ。よかった。コロナが猛威を振るった間も無事に過ごしておられたようだ。しゃんと背筋を伸ばして。

今日のブラームスの遺言たちは、6年前に初めて聴いた田崎さんの「三大作曲家の遺言」シリーズの演奏会の曲目とも重なっているが、今日はまた違って聴こえた。

 

www.japantimes.co.jp

 

年輪を重ねてアーティストはさらに音楽を深め、聴き手の自分も多少の馬齢を重ねた。人は絶えず変わっていく。そして、世の中も変わる。

ベーゼンドルファーの重めの鍵盤への絶妙なタッチは、いくつもの音が重なるオーケストラのように分厚い和音の連なりから、肝心な音を響かせ、儚い旋律を浮かび上がらせた。遠くで渦巻いているような仄暗いアルペジオに包まれてうっとりしていると、突如、悲劇的な和音がこちらの肩を掴んで激しく揺さぶる。そんな鋭い音を繰り出す時にはおのずと振り上がる田崎さんの腕がまたカッコいい。しかし、勇ましい場面はそう長くは続かない。あきらめのような調べがポロポロ流れ去り、聖なる和音がしばしの余韻を残して、やがて消え去るのだ。

時折、彼の交響曲を彷彿とさせるパッセージも現れた。ああ、これって何番のどこだっけ? サッと思い出せないのが情けないが、青春時代を過ごした学生オケでブラームス交響曲1番を初めて生で聴いた時の心の震えが甦る。きっとブラームスも若かりし自分を思い返しているのだろう。青年ブラームスは、長い髭をたくわえた老境の肖像写真と同一人物とは思えない、とびきりのイケメンだった。

「7つの幻想曲 作品116」「3つの間奏曲 作品117」「6つの小品 作品118」「4つの小品 作品119」。この日演奏された20曲の”珠玉の遺言”を書いた当時の彼は59歳。今の自分の年齢とさほど違わないではないか。なんということ! そして数年後に亡くなる。なんということだ。

短い曲の一つ一つに聴き入りつつ、とりわけ琴線に触れたのは「6つの小品 作品118」の2曲目の間奏曲。穏やかな幸福感に満ちた語らいに続く切ない中間部は、切々たる恋情の絡み合いとすれ違いなのだった。以前は女の嘆きのような高音部ばかりが耳に残っていたが、この日田崎さんが奏でる左手の三連符から立ち現れた低音の旋律が胸に迫る。あれは追憶の彼方に秘められたブラームスの慟哭だったのか。

この曲は、「聴きやすいからね」と田崎さんもおっしゃるが、ブラームス好きや趣味でピアノを弾く人にも特に人気の曲だという。そうなんだろう。多くの人の心を捉える何かがあるということだ。この日、3曲も弾いてくださったアンコールの中で、もう一度この間奏曲を聴くことができて幸せだった。二度目は……なぜか涙が溢れてくる。たいしたことのない人生経験でも、未熟者が失敗を重ねながら三児の命を育むのは決して簡単ではなかったし、心もとない仕事も精いっぱい背伸びしてやってきた。この人と、この子たちと、二度と会えないかもしれない、ひょっとしたら自分はこのまま死ぬのかもしれないという恐怖も何度となく乗り越えてきたではないか。

今回初めて田崎さんの演奏に接した夫は、「人生を聴いたようだ」と言った。学生時代にブラームス交響曲を実際に弾く機会に恵まれた彼にとっても、初めて聴く最晩年の遺言たるピアノソロは心に沁みたようだ。

「生まれ持ったとてつもない優しさと、よりどころのない孤独」「例えようもなく繊細なブラームスの心の旅路」(田崎さんのプログラムノートより)。

コロナ禍だけではない。これからも何があるかわからないけれど、ブラームスが遺したこんな音楽が存在する世界で、ほんのひととき、それぞれの孤独を抱えながら、たまたま出会った人たちと共に生きられるのは幸せなことだと思う。

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いつだったか、田崎さんが繰り返し読んだというブラームスの「素晴らしい伝記」のことを話してくださった。驚いたことに、この日の演奏会場にも、分厚い年季の入ったそのペーパーバックを持参してこられたのだった。改めてタイトルを知ることができ、早速注文した。今後の人生の糧に、日々少しずつ読んでみたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

苦手な話にも耳を傾けてみること ~福井南高校での学びその2

矢座君のドキュメンタリー映画の上映会に端を発する福井南高校での教科横断型授業。

 

chihoyorozu.hatenablog.com

 

生徒による生徒のための授業、NUMOの講師による高レベル放射性廃棄物地層処分のレクチャーを含めた4時間目の座学に参加し、生徒たちと共に大いに刺激を受けたが、もう一つのハイライトはこの後の5,6時間目を使ったグループワークだった。

直前に浅井先生からの打診で、私は一つの班に参加することになった。これは今までにないケースだ。これまでに同行取材した「中学生サミット」や中高生の福島研修ツアーでは、大人の一員としてオブザーバーに徹していた。生徒たちの話し合いを決して邪魔しないように、いわば透明人間になって各グループでどんな話をしているのかを聞いて回るという役回りだったが、今回は自分もグループに参加するというのでドキドキする。どう参加すればいいのか?

3年生Oさん、2年生Yさん、1年生I君というメンバーに、T先生はアドバイザーか。そして、卒業生のKさんがPC画面越しにオンライン参加というグループに入った。生徒たちにとっては、「誰?」というオバサンが登場して戸惑ったに違いない。

まとめ役の3年生Oさんが、「どうですか?何かないですか?何でもいいよ」と1、2年生に声をかける。

私にも話を振ってくれるので、「福井県には原子力発電所がたくさんあるから、学校でも結構習うのかな?どんなイメージ持っていますか?」などと投げかけてみるが、「あまり考えたこともない」というI君の返事の後が続かない。かろうじて「怖い」「危険」というイメージが出てくるが、また沈黙。

話し合いが一向に盛り上がらないのは私というよそ者がいるからだろうか?

しかし、聞いてみると生徒同士も初対面だという。各学年3クラスあり、学年も違うから、確かに知らなくても無理はない。初対面で「原子力に関わる難題」について話し合い、その内容を模造紙にまとめるとは、なんとまあ大変な課題だろう。

自分が発言すべきなのか、黙って見守るべきなのか、迷っていたが、

「難しいよね。この問題をみんなにもっと知ってもらうためにどうしたらいいかを考えてみようか」という、T先生のやや予定調和的な方向付けに反応して、「SNSを使って拡散する」という発言が出たあたりで、私は咄嗟に口を開いた。

SNSもいいけれど、その前に自分がどう思っているのかをもう少し話し合ったほうがいいんじゃないかな」

教員ではないので、生徒たちをどのように導くのが適切かなんてことは、私にはわからない。しかし、少なくとも、これまで原発について「あまり考えたこともない」と言った生徒たちの対話が、SNSで拡散する方法論に流れていくのは安直すぎるのではないか? 中学生サミットや福島研修ツアーでも何度となく見聞きしたパターンだが、いつも思うのは、「いいんだけど、一体何を伝えるの?」ということだ。

それにしても話し合えない。とくに、ほとんど声を発しない2年Yさんの表情が気になる。各グループが話し合う声で騒然とするホール内、小さな声だと向かい側からはほとんど聴き取れない。と言って、大人が大声で何か言うと、みんなもっと黙り込んでしまいそうだ。

ちょっとアプローチを変えて、各人の隣に移動して個別に声をかけてみることにした。

 

井内地層処分の説明聞いてどうだった?

3年Oさん:難しいし、興味のない話なので、なかなか頭に入ってこなかったです。

 

そうだろうなあ。関心を持っていても、私も決して得意分野ではないので、始めはなかなか頭に入ってこなかった。ここ5年間、何度も何度も聞いたから、ようやく技術的な考え方は大体わかるようになったところだが、難問中の難問であることに変わりはないと感じている。

 

井内矢座君の映画を見るのは初めてなの? どうだった?

1年I君:今日初めて見た。内容の前に、いろんな人にインタビューしたり、外国まで行ったり、高校生なのにすごい行動力だなと思った。

2年Yさん:映画を見るのは2回目。1回目の時、申し訳ないけど苦手な分野の話だったので、そのあと、なるべく考えないようにしていた。今日も見たけれど、そこはそんなに変わらない。

井内もし、福井市が最終処分場の文献調査に応募したらどう思う?

卒業生Kさん:文献調査ぐらいだったらいいと思う。次のステップの概要調査や精密調査の条件をクリアしたら、高レベル放射性廃棄物を福井で引き受けてもいいと私は思う。

1年I君:文献調査を受け入れるぐらいはいいと思う。

2年Yさん:自分は何も言わないと思う。自分の意見を言ったところで、何も変わらないと思うから。みんながそれでいいと思うのなら、それでいい。

井内:「みんな」って言うけど、あなたと同じように感じている人も多いかもしれないよ。そうすると「みんな」がいいと思うっていうのはどういうことなんだろう?

2年Yさん:上の人が決めたら、そうなるんだと思う。

 

話し合いは低調なまま推移し、こんなコメントも私が隣に近寄ってかろうじて聞き出したものだ。余計なことをしないで生徒たちを見守ることに徹したほうがよかっただろうか。しかし、3年Oさんが「どうですか?何かないですか?」と後輩の2人に聞いても、なかなか何も出てこないのだ。

共有できたのは、原子力発電の話は「むずかしい」「怖い」「危険」「わからない」ということぐらいだったか……。

先輩Kさんは、PC画面の向こうでどうしていただろう。申し訳ない状況だった。「後輩のみんなが考えてくれててすごいなと思った」とはじめに言ってくれたのにね。近い年齢の先輩がこの場にいてリードしていたら、また違った展開になったかもしれないと思うと、いたたまれない気持ちになる。

どうやら、この発展クラスの人選やグループ分けは学校側が決めたようだ。このグループの3人は初対面だった上に、まさか自分が「発展クラス」のグループワークに参加するとは思っていなかったという。ほかに基礎クラスもあり、同時進行で別メニューの授業を行っていた。

「自分がこれに参加するって聞いてびっくりしました。だって、私以外の3年生はみんな賢い人たちばかりなんですよ。今日、学校休もうかと思ってました」と3年Oさんが隣でつぶやく。

「このグループ決めたの誰ですか?」と1年I君がT先生に聞いていた。

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ようやく模造紙にまとめ始めたのは、発表までの残り時間がわずかになった頃だった。どうしようと焦る3年Oさんだったが、真ん中に「わからない」と思っている子の顔を描いて、顔の周りに吹き出しを4つつくり、中にコメントを書き入れていこうということに話がまとまった。

2年Yさんが、やおらイラストを描き始めた。模造紙の真ん中に、慣れた手つきでサッサッと顔の輪郭と髪、目鼻の造作を下描きすると、あっという間にかわいい女の子の顔ができあがる。

「上手だねー!」と言った3年Oさんは、どこからかカラーのマーカーも4色ほど調達してきた。2年Yさんは真剣に描き続け、瞳を黒く塗った。画竜点睛で、疑問を抱えた女の子が立ち現れた。クエスチョンマークが飛んでいる。これが彼女の表現なんだね。ええやん!「わからない」「むずかしい」「??」という思いがイラストに込められている。そうだよね〜

そして、3年Oさんは、大きな吹き出しを4つ描き、その1つに「原子力発電のイメージ」とレタリングして、「怖い」「危険」「危ない」「なくしたほうがいいもの」と下書きし、その下の吹き出しには「でも、もっと考えていかなきゃいけない」と下書きした。

「せっかくだから、矢座君の映画を見た感想も書いたらいいんじゃない?」と促すと、1年I君は、「高校生なのに行動力があるのがすごいと思った」という自分の素朴な感想を一生懸命書き込んでいた。

彼らが書き込む下書きの薄い文字と吹き出しのうち、私は自分の手が届く範囲を逆向きで難儀しながらマーカーでなぞるのを手伝ったが、全部は仕上がらないうちに、発表の順番が回ってきた。

「えーっ、うちのグループも発表しなきゃダメですか?」と3年Oさんが小声で訴える。「それはやっぱり、みんなやるんじゃないの? ありのままでいいと思うよ」と私が言うと、観念したのか、彼女はマイクを手に話し始めた。なんとなく、2年Yさんと私で模造紙を掲げる感じになる。

「うちのグループでは、原子力発電のイメージは、やっぱり、怖い、危険、なくしたほうがいいものという意見が出ました。話が難しくてわからないということで、これ、かわいくないですか?」と真ん中のイラストを指す。かわいいよね!

そして、1年I君は矢座君の映画に刺激を受けた自分の素直な感想を述べたのだった。

せっかく下書きした吹き出しと文字を全部マーカーでなぞれば、もう少し完成度は高まったかもしれないが、発表後、3年Oさんは「もういいですよ」と言い、模造紙は未完成のまま回収された。

彼らは自分たちの模造紙を完成させることより、他のグループの発表を聞くことを優先させたようだ。とくに、2年Yさんが前方のスクリーンに映し出された各グループの模造紙をじっと見つめながら発表に耳を傾けているのが印象的だった。表情は相変わらず硬いけれど、心の内はどう動いていたのだろう。

「答えのない原子力の難題」の中で、何に焦点を当てて話し合うかということから自分たちで決めて、話し合って、さらにそれを模造紙にまとめるなんて、40分じゃ無理だと私は思う。模造紙にまとめて発表する形を整えるために話し合うことになってしまうのではなかろうか。

なかなか立派な発表が多かった。テーマの立て方から切り口やまとめ方の体裁、ビジュアルまで、さまざまだから、確かに多様性を大いに感じたものの、ちょっと「出来過ぎ」のような気もした。ひょっとするとアドバイスという名の大人の入れ知恵が相当あったのではないかと勘ぐってしまうけれど、イマドキの高校生は日頃からこういう活動に慣れているのかもしれない。舐めてはいけないのだろう。あるいは、前の時間に「ゆ」の字トリオや矢座君の発表に刺激を受けて、「負けてはいられない」と奮起したのかもしれない。今日は一つのグループに張り付きだったから、ほかのグループがどんなふうに進めていたのかはわからないが、各グループで活発な話し合いが展開されていたようで、確かにホール内はにぎやかだった。

「もしも福井市に最終処分場ができた場合のメリットとデメリット」という切り口の発表があった。

曰く、メリットには交付金などの経済的効果、デメリットとしては、将来世代の賛同を得られないのではないかということが挙げられた。

そのような発表を聞いた2年Yさんはどう感じただろうか? 同級生たちが最終処分場について考えを進めたり深めたりしていることに感心しただろうか? いや、そういうことは苦手だから考えたくない、誰かが決めたらそれでいいとまだ思っているだろうか? 彼女の表情からは何も読み取れない。とにかく人の話をじっと聞いていたのは確かだ。

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最後にもう一度だけ声をかけてみた。

 

井内どうだった?

Yさん:ほかの人の意見を聞けたのはよかったです。

井内マンガ上手ね!よく描いているの?

Yさん:ときどき描いてます。

 

大人の思惑に容易に乗ってこない、ある意味、頑固に自分というものを持っている若者の秘めたる魂を、初対面の大人が無理やりこじ開けることはできない。変なオバサンに絡まれてめんどくさかったと思ってるだろうなぁ。それでも何らかの刺激になっていると思いたいけれど……。

全体としては、いい感じに盛り上がって大成功だったのではないか。終了後も澤田先生やNUMOの講師陣や矢座監督(!)があちこちで質問攻めやら記念撮影やらに引っ張りダコだったのはその証と言えるだろう。

私は自分の役割が何だったのか ーー オブザーバーなのか?ファシリテーターなのか?アドバイザーなのか? ーー 結局よくわからないまま、中途半端な関わり方をしてしまったのかもしれない。

なかなか始まらず発展しない対話をどうすれば促すことができるのだろうか。無関心は無力感がもたらすものなのか。高校生だけでなく、大人も抱える問題がここにある。

それでも、そういう自分をありのままに受けとめ、互いを認め合うことから始めるしかないのだろう。一方、今の姿が未来永劫変わらないわけではなく、周囲からの刺激とその人自身の「問い」の力で、いかようにも変わっていくのではないか。

そのためにも、さまざまな機会や場所に、自発的でも偶然でもイヤイヤでもいいから、参加してみることだと思う。

この日のグループ分けにもそういう深謀遠慮が働いていたに違いない。たとえ、すぐには変わらなくても、若者一人ひとりが内に秘めている可能性は大人の想像をはるかに超えているのだから。

コロナ禍中、このような学びの機会を設け、対面で実施した学校の先生方、生徒のみなさん、外部の関係者の方々に深く敬意を表したい。(終わり)

 

 

自ら問いを立てるきっかけとは ~福井南高校での学びその1

原子力が抱える難問を若い世代と共有する場にリアルで参加したのは久しぶりだ。しかも初めて福井県の高校を訪ねることができたのは有り難いご縁と言うほかない。

これまでに聞いた話を総合すると、昨年11月に鯖江の市民団体の方々が、東京の高校生 矢座孟之進君のドキュメンタリー映画「日本一大きなやかんの話」の上映会を開催した折に、福井南高校の生徒5人が参加し、映画にいたく触発されて原子力の問題について探求活動を始め、活動を進めるうちに、ほかの生徒たちも巻き込む形の学習企画になり、7月の今日、全校挙げて一日がかりの教科横断型授業へと発展したということだった。当初から企画に関わってきた関係者それぞれが感慨深げに語ってくれた。

思いがけず、私はそのような成果である企画に参加する機会に恵まれた格好だが、今回とくに印象深かったのは、実に多様な生徒たちそれぞれのありのままの姿を、これまでより一歩近い位置から垣間見たことだった。

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北陸本線 福井行きで北鯖江の次、各駅停車しか停まらない無人大土呂駅から用水路脇の道を5分ほど歩くと、田んぼの向こうに学校が現れた。猛暑の炎天下、広い田んぼを半周する道をさらに5分ほど歩くと汗が吹き出す。校門にたどり着いたのは正午頃だったか。

コロナ禍が続く中、PCR検査や日々の検温など最大限の感染対策を講じて参加する緊張感のまま、初めて訪ねる福井南高校で指示通りの通用口に向かうと、私に気づいた先生が会議室の扉を開けてくれた。メールでお名前を見た浅井先生だとわかった。

ここでもまず検温と手指消毒。ほとんどの関係者は既に到着しているようだ。ぎりぎりの列車でなく、1本早めてよかった。初対面の方々、また久々に会う方々に、とりもあえずご挨拶。矢座君が笑顔で声をかけてくれて少し緊張が解ける。福井の学校で再会するのは不思議な感じだ。

まもなく、本日の進行役の生徒3人が入ってきて打ち合わせが始まり、まだ自分の役割がよくわかっていない私も促されて着席する。各人の名前の由来を語る自己紹介を聞いて、彼女たちの名前に、なんと3人とも「ゆ」の音が入った名前であることを知った。「ゆめ」さん、「友里(ゆり)」さん、「夕乃(ゆの)」さん。「ゆ」の字トリオだ。「ゆ」のつく名前って何気にやわらかい雰囲気を醸し出していいなぁと思った。それにしても、「孟之進(たけのしん)」という矢座君の名前は何度聞いてもインパクトが大きい。

準備万端の様子だったが、私自身はよくわからないままに会場の中ホールに移動。既に「発展クラス」の生徒たち60名がグループごとに着席している。まごついている私に、「おわかりになりますか?」と声をかけて席を指示してくださったのは、たぶん校長先生だったようだ。

外部からの参加者の中で、「講師」の末席の位置づけで紹介されてうろたえる。あれ?今日は取材じゃない? 資料をよく見ると、原産新聞だけでなく、毎日新聞や地元紙数社が取材予定と書いてあった。そうか。

この日の1時間目には各クラスで、矢座君の映画「日本一大きなやかんの話」が上映されていた。全校生徒があの映画を見たわけだ。

そして午後一番、「ゆ」の字トリオによる「授業」が始まった。

まず、発電コストについて、最近の記事を紹介。

mainichi.jp

一方、こういう記事もある。

news.yahoo.co.jp

 

「ここまで聞いて、みなさんはどう思いましたか?難しくてよくわからないと感じた方が多いのではないでしょうか」と彼女たちは投げかけた。

確かに、試算根拠も計算結果も門外漢には判断がつかないので、どちらを信じればいいのか、大人だってよくわからない。

続いて、彼女たちがオンラインでインタビューした福島県立小高産業高校の3人の生徒の言葉を伝えてくれた。「福島県の高校生の総意ではないことにご注意ください」と念を押す慎重さに感心する。

Q:福島第一原子力発電所の事故の前後で変わったことはあるのか?

A:事故当時は幼く実感がわかなかったが、事故で原子力発電の存在を知った。今は学んできて、原子力発電はこういうものだということがわかってきて、質問に対する明確な答えはないが、このような経験が、原子力の原理を学ぶ原動力でもある。

Q:被害を受けた福島の高校生として原発が再稼働していることをどう思うか?

A:原発がなくなると困るから反対はできない。でも、原発の仕組みについて授業があったのは自分たちが小学生の時であまりわからなかった。だから理解できる歳である高校生が学べる環境が要る。事故が起こると今まで積み上げてきたものがなくなる。

Q:原子力発電所は無くすべきだと思うか?

A:原子力発電所を無くしても、生活水準は変わらないので、また違う発電で補わなければならないから、問題の解決にはならないと思う。

 

「私たちはどう考えますか?」というスライドをバックに、彼女たちはそれぞれ自分の感想を述べた。

「高校生が原発の仕組みを学べる環境が大切だという言葉を聞いて、私自身、この活動に関わることがなければ原発について知ろうと思うことはなかったと思うので、同じような高校生に知ってもらえるように努力したいと感じました」(3年:ゆめさん)

「私は、高校生を『理解できる歳』と言っていたことがとても印象に残っています。このような話題を学ぶと難しいと感じてしまいますが、理解できる私たちだからこそ、もっと考えていきたいと思いました」(2年:ゆりさん)

「福島でつくった電気を都市部に供給していたことについて聞いたとき、『田舎でやったほうが万が一何かあった時に安全だよね』と言った人もいて、福島第一原子力発電所の事故の時に大変な思いをして、人が多い都会だったらもっと被害が大きくなると思っているのかなと思うと、避難を経験した人だからこそ言える貴重な意見だと思いました」(1年:ゆのさん)

 

原発立地である福井県から廃炉現場となった福島県へ。オンラインを活かして実現したインタビューだ。初対面のオンラインでこれだけ真摯なやり取りができたのは、お互いの立場ひの共感が大きかったからだろうか。

 

そして、本日のテーマである「高レベル放射性廃棄物の最終処分場」の問題に話を進める。

「最終処分場が自分の家の近くに建つとしたら・・・?」

ここでNIMBY(not in my back yard=我が家の裏庭にはごめんだ)問題について説明する中で、NIMBYの例として、最終処分場だけでなく、原子力発電所、火力発電所、清掃工場、墓地、保育園など、さまざまな施設がスライドに列挙されていた。

驚いたのは、

「もちろん、私たちが通う福井南高校もNIMBYです」

という言葉だった。スライドにも書かれていた。ゆめさんは、「でも、通う学校がなくては困りますよね。NIMBYとは、自宅の近くにあったらイヤだと思うものです。そこで、福井南高校も、M(ゆの)さんがしているように、駅の掃除の際に挨拶を交わすなど、地域と交流し、開かれた学校であることで、近所の方にイヤだと思われなければ、NIMBYではありません」と続けた。

 

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自分にとっての「迷惑施設」のことは、誰しも気にして反対もするだろうが、自分(たちの学校)が迷惑な存在であるという自己認識はなかなかできないのではなかろうか。そのように捉える、何か心の痛みのようなものが、私自身の思春期の記憶をよみがえらせて突き刺さる。ありのままの自分では受け入れられないのかという恐怖だ。そして、どうすれば「NIMBYな存在」でなくなることができるかに思いを致す姿勢に参った。

彼女たちは落ち着いて話している。原稿を作って何度も練習して読み上げて覚えて発表したのだろう。前回の発表の時はもっとガチガチだったと聞いたが、ここまで準備して臨む努力が清々しく、周りの人たちに伝えたいという思いが緊張に勝っていることが、ひと言ひと言から伝わってきた。

「ゆ」の字トリオの後、「日本一大きなやかんの話」の監督として、矢座君が「福島で見聞きしたこと、NIMBY問題について」と題して「授業」を行った。

彼独特の、自分の思考を高速で言語化しながら思考の試行錯誤を示しながら話を進める回転の速さや、帰国子女らしいネイティブの発音でProbably not in my back yardと言ったり、learn(論理的に学ぶ)とacquire(経験的に獲得する)の違いを説明したりするのを生徒たちはどう感じただろう。ほとんど呆気にとられて「何言ってんのかわかんない」と思いながら、しかし、大いに刺激を受けたに違いない。「これがあのドキュメンタリー映画をつくった高校生なんだな!すげーな!!」と。

矢座君が語ったところによると、そもそも自分が住んでいる都内に原子力発電所や最終処分場が建つかもしれないなどとは実感できず、字面ではわかっても、「自分ごと」として想像することができなかったという。

「福島の浜通りを何度か訪ね、富岡町で夜の森の桜並木が見られなくなったと知った時に、その喪失感を、自分が住んでいる国立市の桜並木に置き換えることで初めて感じ取れました」と彼は言った。

3年ほど前に同行した東京の高校生たちの福島研修旅行が懐かしく思い出される。これから2年生になるところだった矢座君は、「実はいま映画をつくってるんです」と言っていた。それが完成して国内外で上映されるようになり、見た人に影響を与え、こんな波及効果をもたらしているのだ。

続編「日本一大きい空気椅子の話」も、この翌日に東京で初公開された。

www.youtube.com

若者たちの可能性は大人の想像をはるかに超えている。(続く)

 

 

 

咲いて、散って、La La La

「咲いて、散って、ラララ」

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このタイトルに心惹かれ、ひさびさに立川のアーティスティックスタジオLaLaLaに行ってきた。

ギャラリーにもコンサートサロンにもダイニングキッチンにもなる居心地の良い空間。6年ほど前、当時勤めていた新聞社を辞めるかどうか、なかなか踏ん切りがつかなかった私の背中を押してくれた場所の一つだ。

音楽とアートは人生を変えることがある。

いろいろお世話になったものだが、その後フリーランス稼業が忙しくなって〆切に追われるうちに足が遠のいてしまっていた。2年ぶりかな・・訪ねる前に少し緊張する。

橋詰健さんと知り合ったのも、このLaLaLaを主宰するしおみえりこさんのご縁のご縁(笑)。ご縁はご縁を呼ぶのだ。

昨夏、お母様が亡くなられた時の橋詰さんのFB投稿が心に響いた。82歳といえば、私の実家の母とほぼ同い年。驚いたのは、橋詰さんのお母様が81歳で突然絵を描き始めたという話だった。最後の一年間、毎日毎日、夢中になって描いておられたという。残された30数点の絵の展覧会がLaLaLaで開かれることになった。お知らせをいただいた時、ああ、ぴったりの場所だと心が温かくなった。そして、この方の絵をぜひ見てみたいと思ったのだ。

 

ひさびさのLaLaLaに、なんとなく恐る恐る足を踏み入れると、明るい色彩が目に飛び込んできた。それぞれの絵にぴったりの赤や青や黄色の額縁(と言うか台紙?)も鮮やかで、LaLaLaの白い壁に映える。

野の花、ハイビスカス、松ぼっくりざくろの実、ほおずき、そらまめ、チューリップ・・・この懐かしい感じは何だろう? そうだ。小学校の写生の時間だ。図画工作の教科書で見たような、教室や廊下に掲示される上手な子の絵のような、天真爛漫な年頃の絵を思い出した。花々と果物の姿をありのままとらえようと、画用紙の上で無心に筆を動かしペタペタと色を重ねておられたという一生懸命な姿が目に浮かぶ。

私は子どもの頃、絵を描くのが苦手だったので、美術の授業にはトラウマがあるけれど、こんなふうに身の回りのものを描いてみたいなぁと思った。授業じゃないし、今なら自由に描いても怒られないかな、いやー楽しそうだ。

81歳の母の日に、次女である橋詰さんの妹さんから贈られた紫陽花の花を見て、「これを描きたい!」とお母様は突然絵筆を持つようになったそうだ。長女である橋詰さんのお姉さんが綴られた文章が味わい深い。

亡くなられる前の最後の一枚も紫陽花だった。唯一の未完成。余白が切ない。

LaLaLaの空間に包まれ、三姉弟妹のお母様への思いのこもった展覧会だった。

会場の片隅に控えめな年譜が記されていた。病に倒れたご夫君を支え、苦労しながら3人のお子さんを育て上げたこと。60代でご夫君を看取られてから、突然バイクの免許を取り、単身アメリカのシアトルに留学したこと。その後、自身の病にも負けず、イタリア・ギリシアを旅したこと。その行動力と自由な精神に感服する。人間、いくつになっても何か新しいことを始められるのだと。そして、橋詰静穂さんは最後まで、やりたいことを精いっぱいやったんだなぁ・・・一度もお会いしたことがない静穂さんに思いを馳せる。

コロナ禍中、鬱々と引きこもって過ごしているであろう両親に電話してみようと思った。父にはメールのほうがいいかもしれない。今はなかなか大阪まで会いに行けないから。

 

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えりこさんと橋詰さんとひさびさの再会。橋詰さんのお姉さんにもお会いできた。買って帰った小さな画集はお姉さんが編集なさったものだ。ページをめくり、カラフルな絵に添えられた文章を読み返しながら、原画を思い出している。

「咲いて、散って、La La La」

それにしても言い当て妙のタイトルだ。

やろうと思うことをぜひともやろう。

 

 

 

 

 

 

絶世の未来へ 林英哲 和太鼓独奏の宴@サントリーホール

「太鼓をたった一人で打つ大舞台、一世一代の独奏を、50年の節目にやらせていただきます」

サントリーホールで開演直前、姿は見えねど、おそらく舞台袖からマイクで、あるいは録音だったのか、英哲さんのご挨拶の声が会場内に流れた。コロナ禍中の来場への謝意が繰り返される。数々の著書の明晰な文章から受ける印象通りの穏やかな声の主と、これから太鼓を打つその人が同一人物であるとは、私には不思議に思われた。

明かりが消え、独奏の宴が始まる。

広い舞台に和太鼓だけ。「宇宙」を感じさせる抽象的な空間だ。暗闇の中、いつの間にか舞台にいた英哲さんは、スプリングドラムを手に、風変わりな音を鳴らしながら歩みを進める。舞台の前方にいくつか置いた(何という名前かわからないが小ぶりな)太鼓を巡っては打ち、素足で床を打ち鳴らし、一つ一つ意味ありげな所作の連なりを経て舞台の中央、締め太鼓や団扇太鼓をぐるりと並べたドラムセットのような和太鼓セットへと辿り着く。バチを持ち替え、太鼓を打つ。打つ。打つ。打つ。やがて、片方の撥を口にくわえ、衣装の片袖を外し、撥を持ち替えてもう片方の袖も外すと、美しい筋肉に包まれて鍛え上げられた背中と腕が露わになる。若々しい肌はとても69歳には見えない。動きはだんだん速く、激しくなり、時折ヤァッ!と気合の声を入れながら猛烈に打ちまくるソロ太鼓が続いた。

その没入を呆然と見ていると、上手側で舞台真横の席という間近から見ているのに、その人は遠い世界へ行ってしまったかのようだった。誰も寄せ付けず、ひたすら太鼓を打つ人。時に笑みさえ浮かべ、全身で太鼓に向かう人。

ああいう時、人はどのような精神状態にあるのだろうか。太鼓を打つ自分を見る別の自分が斜め上から見下ろしていたりするのだろうか。足腰は、腕は、脳は、どうつながっているのだろう?

たとえば、オーケストラの一団が舞台に乗っていると、「社会」の比喩か縮図のように見えるのだが、たった一人の奏者がその他大勢の観客の注目を浴びながら渾身の演奏に没入する姿は、何か神事に近い。神官か巫女か、この世ならぬ者になったその特別な人間が、何事か天の声を地上の人々に伝えている。その場に居合わせた人々は畏怖の念に打たれ、一部始終を見守るしかない。

 

休憩後、舞台は巨大な和太鼓一つだけになった。まさに宇宙の中心だ。

今回の拙記事の担当エディターは写真のキャプションにBig bangと書いた。当たってる。

www.japantimes.co.jp

英哲さんが打ち込む巨大な太鼓の低い音がホールに響き渡り、振動がドウンとお腹にくる。こういう響きは和太鼓にしか出せないし、サントリーホールで和太鼓の音だけを聴く機会は滅多にないだろう。

以前のインタビューで、心臓の鼓動の音を拡大した音は太鼓のような低域の音だと聞いて驚いた。英哲さんの著書にも出てくる。

「記憶の彼方で聞いた音は、胎内で聞いた母親の心音だったのではないか、ある日、突然のようにそう思いました。

――そして、それは自分の親も、そのまた親も聞き、たどってゆけば、そのまたずっとずっと先の、途方もないほど先の、宇宙の中で生命が誕生する瞬間から、今に至るまで一瞬も絶えることなく続いた音なのだ――そう気がついた時、僕は一種の戦慄のような思いに包まれました。

 その一番端に、今、奇跡のように自分がいる――、愕然とするような認識です。」

林英哲著『あしたの太鼓打ちへ』より)

 

それは、私にとっては「母の胎内で聞いたであろう懐かしい音」という感じではない。むしろ、中学生の頃から感じるようになった「自分はなぜ、今ここにいるのか?」とか「この世があるのはなぜか?」といったような、誰にも答えられない、問うてもしょうがないような問いを思い出させる音である。

「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」というゴーギャンの絵を見た時、ああ、そう思っていたのは自分だけはなかったのだと安堵したものだ。

子どもを産んで母親になってからもその思いは変わらない。母の胎内というのはトンネルのようなもので、息子たちがどこから来たのか、不思議というほかない。

そんな根源的な音の振動をずっとお腹に受けながら、一心不乱に太鼓を打つ人を真横から見つめていた。伝統の祭り囃子とは異なる独自の表現を編み出し、「僕は小柄だから」という自身の体躯から最大で最深の響きが出せるように工夫したという、太鼓の真正面に立って打ち込む独自の奏法。太鼓レジェンドのあまりに孤高の境地を目の当たりにすると、おのれの中途半端さに恥じ入るような、いたたまれない気持ちになる。

「祈り」「厄払い」、
そして「良き未来」のための「ひとり舞台」、
 空前絶後、一世一代

チラシに並ぶ言葉が奮っている。確かに、今年は東日本大震災から十年だ。さらに度重なる自然災害、追い打ちをかけるコロナ禍。古来、厄払いは太鼓打ちの役割だったと英哲さんは言う。だから神事なのだ。

そして、却って英哲さんという人間が際立つ。

日本の伝統芸能とは違う道を模索した「越境者」に違いないのだが、英哲さんが創った独自の表現世界には、普遍的でありながら、日本らしさが強烈に感じられる。それが日本人にとっては誇りに思え、世界の人々を魅了するのだろうか。

最後にカァーッ!と一喝、全身伸び上がっての一撃で太鼓の轟きは締めくくられた。

コロナ感染対策のため、隣席を空けて並ぶ客席から、魅せられたる人々は熱い拍手を送っていた。1階席にはスタンディングオベーションの姿も多い。英哲さんは深々とお辞儀を繰り返した。

しかし、なぜか私はその温かい輪の中に入っていけないような疎外感を覚えた。何なんだろう? 

古来、アジアの国々では太鼓は祈りに結びつけられ、厄払いは太鼓打ちの役割だと英哲さんはインタビューの時に語った。

舞台で一人、ひたすら太鼓を打つ英哲さんの姿を見ていると、「お前の役割は何なんだ?」と問われているような気がしてくるのだ。

それと同時に、自分が日本人でありながら、昭和の高度成長期以来の時代の中で失ったもの、二人とも敗戦後の引揚者である両親の元に生まれニュータウン育ちの帰国子女という生まれ合わせ上、元から欠けているもの、そんな根無し草のアイデンティティの心もとなさにも否応なく向き合わせられる。普段はそんなことを気にすることもないのに。むしろ、日本にこだわらないコスモポリタンでありたいと願っているのに。

最後に、団扇太鼓を片手に歌う英哲さんの声が切々と響いた。そこには英哲さん自身の心もとなさがあった。19の歳で「わけもわからず乗ってしまった舟」という演奏活動50年の人生。その重みと心もとなさに、ほんの少し勇気づけられた。誰しも、心もとなくとも、大海原を行くしかない・・・絶世の未来の岸辺へ?

 

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