よろず編集後記

よろず編集者を目指す井内千穂のブログです。

安達朋博ピアノリサイタル2016@杉並公会堂その1 ~本番編~

なぜ私はピアノを聴きに行くのか?

とよく自問する。

東京では毎日のようにあちこちで、ピアノだけでもいくつもの演奏会が開かれ、自分も慌ただしい日々、どれもこれもは聴きに行けない中で、あれではなくそれでもなく「これを聴きに行こう」と決めるのはよほどのご縁と選択だろう。人生はそういうご縁と選択の連続なのだ。

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安達朋博氏は、高校を出てすぐ、日本の音大には進学せず単身でクロアチアへ飛んだ。ザグレブ大学音楽アカデミーを最優秀で卒業して帰国後は、日本におけるクロアチア音楽の伝道師のごとくクロアチア人作曲家作品の発掘・普及に務め、クロアチアでの演奏活動も継続中である。この異色の経歴は彼の演奏会のプログラムにも反映され、毎回なにがしかのクロアチア作曲家作品の「日本初演」が聴ける。なにしろ音源もそんなに見当たらない作品が多いので貴重な機会だ。

クロアチアが誇る女流作曲家ドラ・ペヤチェビッチのことは、安達氏に出会わなければ今でも知らなかっただろう。19世紀末から20世紀初頭を駆け抜けた才能豊かな伯爵令嬢は、安達ファンの間では「ドラ様」としてすっかり定着している。産後の肥立ちが悪く37歳の若さで亡くなった悲劇のヒロインに、母としてどんなに無念だったろうか、子どももかわいそうに・・・と、女性としてつい同情しながら聴いてしまうところもあり、ただでさえスラブっぽく陰影に富んだ、若干しつこいまでに転調だらけの曲想がますます哀れを誘うのである。

今回の杉並公会堂は、そのドラ様のピアノソナタ第1番から始まり、次にプーランクの「ナゼルの夜会」という大曲続き。前半を終えた安達氏はピアノから立ち上がって舞台上つんのめって転びそうになりながら、舞台正面席にも向き直ってご挨拶。グレーのスーツの後ろ姿にくっきり見える汗ぐっしょりの力演であった。

休憩を挟んでの後半冒頭が本日の日本初演クロアチアを代表する現代作曲家の一人だというダヴォリン・ケンプの「光の蝶よ」はとても美しい曲だった。

作曲家ケンプがインスピレーションを受けたというスペイン人の詩人フアン・ラモン・ヒメネスの詩がプログラムに紹介されている。

 光の蝶よ

 きみの輝きに惹かれ、近づくたびに、きみはいなくなってしまう。
 知らないふりをして駆け寄ってみると、時々少し近くで感じられることもある
 魔法にかかってしまったきみを僕の手で解き放してあげたい

 (安達朋博 意訳)

高音の繊細なパッセージが、さすがの絶妙なタッチ。暗闇をひらひら飛ぶ蝶の幻を見るようだ。

もう1曲、ボスニア・ヘルツェゴビナサラエボ出身で、現在クロアチアで活躍するムラデン・タルブクの「愛する人の口づけ」も日本初演。こちらはかなり難解。5つの作品からなる「ケイトのキス ~ピアノのためのキス・コレクション~」の中からの1曲ということだが、ほかの「ママの口づけ」「パパの口づけ」「子どもの口づけ」「死の口づけ」がどんな曲なのか想像もつかない、愛する人の口づけであった。安達氏自身の解説によるプログラムには「ザグレブとイタリアで1度ずつ初演されたのみで、演奏が難解なため以後は全く再演されていないそうです。」とあるので、安達氏がもう一度演奏してくれない限り二度と聴くことはないかもしれない。

楽譜のページをつなげて並べ、少しでも手が空くタイミングで弾き終わった譜面をバサッバサッと床に落としながら(譜めくり頼まなかったのかな・・いや~これ譜めくり頼まれてもどこでめくるのかわからないだろうなぁ・・)楽譜を凝視しながら難曲に挑む姿は鬼気迫り、客席まで緊張感に包まれる。少々違っていてもわからないだろうけど。

ここで2度目の着替えを経て、3着目には黒のタキシード姿で再びステージに登場した安達氏。黒なら目立たないが実際はまた汗ぐっしょりに違いない。難曲続きのあとに、さらに難曲にして40分という長大なラフマニノフピアノソナタ第1番が本日のメイン。

ラフマニノフと言えば、浅田真央選手がソチオリンピックのフリーで使ったことでも知られるピアノ協奏曲第2番が有名だが、ピアノソナタ1番は実は初めて聴いた。

交響曲第1番初演の記録的な大失敗で精神的に打撃を受けたラフマニノフが、モスクワの喧騒から逃れ妻と娘を連れてドレスデンに移り住み、交響曲第2番などの作曲に没頭する中で生み出された「ドレスデン3部作」の一つということだ。ピアノ協奏曲第2番のようにスムーズに受け容れられる美しさというのとはちょっと違った独特のクセのある、しかし、人間精神の奥深さを感じた。会場でお会いした指揮者の井上喜惟先生の解説によると「鬱から立ち直ろうとしていた」というラフマニノフの内面の闘いについて、もっと知りたくなった。

録音も演奏も少ないというこの曲でラフマニノフの闘いを追体験するように40分間疾走しきった安達氏だが、なによりも素晴らしかったのは、ほとんど聴こえないぐらいのピアニッシモの精妙な音色であった。CDでは消して再現できない、こんな音を出すことができるのだとすればピアノに勝る楽器はないだろう。静まり返ったホールの舞台から人の心の襞の奥に触れるような混じりけのないポーンという響き。これに魅せられて人生が変わった人が彼の周りに集まっているのではないだろうか。

わざわざピアノを聴きに出かけようと思う理由でもある。

 

人の世は山坂多い旅の道

先月、伯母が亡くなった。

喜寿を目前にして、短命とまでは言えないものの、今の日本女性の平均寿命より十年短い。同い年である私の母にとってもショックだったろう。しかも、病いが見つかってからほんの数か月で逝ってしまった。

この夏、病院にもホスピスにも移らず、伯母は住み慣れた我が家で家族と共に最後の日々を過ごした。昨年金婚式を迎えた夫婦の元へ、既に自立した3人の子ども達が可能な限り帰ってきて「家族だけの時間」を過ごしたのだ。それ以外はどんなに親しい友人にも親族にも決して会おうとしなかった伯母に、お見舞いは叶わなかった。葬儀もごく内々で執り行われた。

四十九日の忌明け法要のために私は帰省した。

優しい笑顔の遺影だけが在りし日を伝えるその家で、伯母が本当にもういないことを実感する。子どもの頃はお正月や夏休みに、当時は祖父母の家があったここに集い、いとこ達ともよく一緒に遊んだものだが、長じてからは冠婚葬祭以外にほとんど会う機会がなかった。それぞれの人生を歩みつつ、交わることの少ない都会の親戚づき合いだ。

従弟に会ったのは実に30年ぶりだった。今やベテランの医者になった彼は30年前の祖母の葬儀の折にはまだ学生だったし、私の記憶の中には少年時代の面影しかない。お互い紆余曲折を抜きにして、浦島太郎の玉手箱を開けたような再会に軽いショックを覚える。

集まった親族への彼の挨拶が胸に響いた。

「母を看取った時も、見送った時も、僕は自分でも驚くほど冷静でした。・・・いちばん悲しかったのは、病気が見つかってもう助からないとわかった時でした。僕は親不孝者で、ろくに家にも帰らずに長い年月を忙しく過ごしてしまいました。そんな僕をずっと見守ってくれた最高の母でした。それからは自分にできる限りの最善の医療を尽くそうと思いました。」

病いの激痛に耐えながら弱りゆく人とそれを見守る家族のつらさは、まだそれを経験していない私の想像を超える。訪問医療による自宅での最期を選んだ伯母の生きざまと、そんな伯母のそばに居て支え、最後を看取った家族の絆に、ただただ感じ入った。

「もう父もかつての強かった父ではありません。これからは僕と2人の妹で父を支えていきます。みなさま方におかれましては、今後も変わらずご指導・ご鞭撻いただきますようお願い申し上げます。」と従弟はしめくくった。

親は逝き、あるいは年老い、自分たちもとっくに人生の後半に入っているのだ。

 

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伯母が好きだったカラフルな人形や置物のコレクションがそこかしこに残る中、玄関に掛けられたモノトーンの絵が異彩を放つ。画家である従姉が心血を注いだ和紙と墨の作品だ。伯母は「どうしてもこの絵が欲しい」と言ったと会食時に伯父が語った。どちらかと言えば、可愛らしい飾り物を好む女性だと思っていた伯母の別の一面を今さら知るようだ。

帰路、画家の従姉と一緒に末の叔父の車で送ってもらった。従姉と叔父夫婦のとりとめのない会話に時折あいづちを打ちながら、そう簡単には触れられない人の心の奥底を想った。ここでは言わないけれど、敢えて聞かないけれど、誰もが様々な思いを抱えながら今日まで生きてきたのだ。最寄りの駅へ向かうとは言い難い遠回りの車に乗り合わせ、今しばらく一緒にいられることに感謝する。

 

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 法要後の会食時、ランチョンマットに記された人生の旅路

 

 

野外劇『スカラベ』 by 風煉ダンス in 立川を目撃した

立川に野外劇場出現!!

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風煉(ふうれん)ダンスによる野外劇公演『スカラベ』の初日に行ってきた。

家を出た頃、今にも降り出しそうに見えた西の空の怪しい雨雲だったが、立川に来てみると降ってなくてよかった。このところずいぶん涼しくなってきた。

立川駅から歩いて15分ほどの立川市民会館の隣にある立川子ども未来センター前の芝生広場に、雨にも負けず制作されたという舞台装置。裏から見ると学園祭のようだ。ぐるっと回って表通りから反対側に入口がある。

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野外劇なんて久しぶり・・いやもしかすると初めてかもしれない。少なくともこういうのは。何が始まるんだろう?ワクワク。

客席の上にはいちおう風雨をしのぐビニールの屋根がついている。また、受付で虫除けスプレーも貸してもらえる。初日の入りは上々。まずは、風煉ダンス主宰で座付き戯作者の林周一さんがご挨拶。

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スカラベ』は、1994年に福岡の特設野外ステージで上演され、「幻めいた"伝説"として演劇史周辺の波間を浮遊」していたそうだ。初演以来実に22年ぶりの再演とか。

ますます興味津々。

spice.eplus.jp

・・・「タイヨウ」のない暗黒の街。闇市場が立ち、闇プロレスが繰り広げられ、闇鍋が煮えたぎる。26人のキャストが芝生を縦横無尽に歌い踊り語りまくり、闇市場に立つ店舗はしょっちゅう移動し、闇プロレスの仮設リングが出入りする。

「喧騒渦巻くエキゾチック群衆劇!」とチラシに書いてある。登場人物が26人もいるのに誰一人「その他大勢」という人がいなくて、それぞれのキャラが際立っている。順番に出てきてはスポットを浴びて見せてくれる単独プレーに爆笑しながら、始めは「この劇、ストーリーあるんやろか?こういう感じで最後まで?」と思ったぐらい混沌としていたが、いやいやどうして!

スピーディーな展開に引き込まれるうちに、やがて、なぜ街に「タイヨウ」がないのか? なぜ闇プロレスをやっているのか? そして、正面に建つ時計台の謎が次第に明らかにされる。

ただ一人「外」からやってきたのは、「何かを探し求めているんだけど何を探しているのかわからない」という糞玉男。衣装が丸い糞! 好きになったこの街のハイパーからくり人形の名を叫びながら丸い糞が疾走していく姿にはどうしても笑わずにはいられないのだが、彼こそは実は聖なる甲虫だったのか!

カブトムシもいれば、関西弁をしゃべるバッタもいるし、ゴキブリネズミのトリオもいい味出していた。肉屋に魚屋に古本屋。過労死寸前のコンビニ太郎とかベッドを背負って歌う猩紅熱の少女とかベトベトの宇宙人などなど、ケッタイな人々の存在感が半端ない。

渋さ知らズなどで活躍中の3人のミュージシャンの演奏も素晴らしかった。全曲オリジナルで生演奏。劇中歌のタイトルと歌詞がプログラムに載ってて、もう一度笑った。

闇市場」「マラリア・キャリー」「お肉の歌」「デストピア鮮魚店」「猩紅熱少女合唱団」「ゴキブリネズミの歌」「闇鍋占いの歌」・・・もう一度聴きたい~ そして、権力者デラシネが歌う愛の歌「マイマラリア」は可笑しくも切ない。

猥雑な街に様々な人々が蠢き、あれこれ言い合い、時に殴り合うドタバタはこの世の有り様そのものだ。そんなもんだ、それでいいのだ!と笑い飛ばしつつ、世界を救う健気な糞転がしに涙してしまう不思議に前向きな物語なのであった。

最終日までにもう一度観られるとよいのだが・・・

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マザー・テレサの選択、自分の選択

写真展以来いろいろ考えていたところへ、駐日マケドニア大使館からメールが届いた。様々な見解がある中、このたびのマザー・テレサ列聖にあたり駐日マケドニア大使館が日本国民に向けて発信したコメントをここにご紹介しておこう。

現在のマケドニアマザー・テレサの 出身地。古くから様々な民族が混在し、歴史上、東ローマ帝国オスマン・トルコ、オーストリア・ハンガリー帝国の支配を受け、近代以降は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれ紛争が絶えなかったバルカン半島の一角である。

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親愛なる皆様、

 来たる2016年9月に行われるマザー・テレサ列聖式についてお伝えすることは、
私にとって大変な喜びであります。

また、より光栄に思うのは、マザー・テレサが1910年にスコピエで生まれ(私の生誕地も同じですが)、彼女が遺した偉大な人権活動の証人となる権利を私が得たことです。

スコピエは、マザー・テレサの子供時代を形成した重要な都市です。

この場所は同時に、過去何度も征服され、破壊されそして再建された都市でもあります。1963年の大地震でこの街はほとんどが破壊されましたが、国際社会の助けもあり再建されました。特に、丹下健三氏は震災後のスコピエの新しい外観をデザインして下さいました。

 マザー・テレサはアグネス・ゴンジャ・ボヤジウとして、アルバニア人家族の下に生まれました。18歳の時にアイルランドへと旅立ち、ダブリンでロレト修道女会に入りました。ここで聖人リジューのテレーザという名前にちなみ、マザー・テレサと名乗りました。

強い意志で慈善活動に自身を捧げ、マザー・テレサはインドへと旅発ちました。その理由は貧しい人々、病気である人々、そして抑圧された人々の世話をし、彼らと愛を分かち合うためです。

 マザー・テレサはほとんど神話上の人物のように感じる人もいるかもしれませんが、
私自身が彼女と同じスコピエ市で生まれたという事実は、彼女が家族や愛する人々を残して未知の世界へと旅立ち、貧しく、空腹で病気の人々を、ただ神への信念のみを頼りにして助けてきた気持ちがどのようなものであったかを十分に感じることが出来るのです。

若い女性にとってこれは大きな犠牲を払うものであり、彼女の強さと忍耐に私は深く尊敬の念をいだきます。他者への援助という、生涯にわたる彼女の貢献に私は影響を受けており、世界が紛争やテロ行為、移民問題に直面している今日(こんにち)、彼女の偉大な人道活動を思い起こすことが重要であり、お互いを無条件に愛するという彼女の手本に従うことが如何に大事であるか私は強く信じております。

 私はこの機会に、彼女の素晴らしい考えの1つを思い出しています。それは、

「あなたが長年かけて築き上げてきたものはたった一日で壊されるかもしれない。でも、それでもそれを続けましょう」

ということです。

今日、非の打ちどころのない聖人であるマザー・テレサが遺してきた行為を壊そうとする人が数多くいますが、彼女の計り知れない人道活動と結束によって、彼女はすべての人を愛した素晴らしい愛情にあふれた心を持つ人間であり、これこそが決して破壊されることのない行為であることを証明しているのです。

 マザー・テレサは決して人々を、その人の宗教・国・社会的地位によって違いをつけませんでした。それは、いかに彼女が母親像という元型 ―― 全てを愛し、赦し、思いやりがある温かい人間 ―― であるか、そして、彼女のメッセージが私達で分かち合うことができ、決して忘れられないものであるかを証明するものだと私は思います。

 私は皆様に、彼女の功績を讃えることによって日本国内に彼女の遺産を広めていただきたいと思います。

大使館はマザー・テレサの列聖に伴う文章を用意いたしました。こちらを発行し、また皆様のご友人や同僚の方々とこれらを分かち合うことを決断して頂けると大変光栄に思います。 

敬具

特命全権大使
アンドリヤナ・ツヴェトコビッチ

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(以上、駐日マケドニア大使館の了解により転載)

なんと力強い文章。

こういうものは当局のプロパガンダだと感じる人もいるだろうか。

ある一つの意見にまとまり過ぎるのは危険であり、常に反対意見や少数意見も尊重されるべきだと思う。しかし、すべてを相対化してしまい、「そうとも言えるし、そうとも言い切れず、そうでないとも言える」と言っていると、なんらの考えもまとまらず、話は前に進まず、行動できず、座り込んでいるしかないのではないだろうか。

多様な意見や考え方があることを理解し、他人の意見にも柔軟に耳を傾けつつ、自分の考えをしっかり持つこと。それは何が正しいかどうかよりも、何を選ぶかという決断の部分が大きいと思う。そして、選択の結果には責任が伴う。

初代駐日マケドニア大使として奮闘中の一人の女性が、日本国民に向けて自分の言葉で発信していることに、強い責任感と覚悟を感じた。

百瀬氏の写真展のオープニングに駆けつけた彼女は、マザー・テレサの厳しい表情にいたく感銘を受けたようだ。「この深い皺が好きです」と述べ、百瀬氏とも熱心に話し込んでおられた。その様子が、会場のプロモ・アルテ・ギャラリーのウェブサイトでも写真で紹介されている。

百瀬恒彦 写真展「祝・列・聖」

話は少し遡るが、今年の6月、私は前職からの依頼で彼女にインタビューする機会に恵まれた。

women.japantimes.co.jp

その記事を読んでくれた百瀬恒彦・鳥取絹子ご夫妻から、「このたびマザー・テレサの写真展をやるので、もしも可能であればぜひ、マケドニア大使にもご出席いただきたい」という連絡をいただき、幸いにして大使館との調整もうまく運び、大使の出席が実現したのだった。

折しも9月8日はマケドニア独立記念日だった。今年は私の後任の手でマケドニアのナショナルデー特集が発行されている。

思えば結構な年月、ナショナルデー特集の編集という地味な業務を淡々と続けていたことが、女性大使にインタビューするチャンスにつながり、次の記事につながってきた。

新聞紙面に記事が載っても、これ誰が読むんだろう?と思うことが多かった。ごくマイナーな記事を書いてきたことは自覚している。叩かれもしない代わり反響もない場合がほとんどだ。

今回はそれが国境を越えた人と人とのリアルな出会いにつながったのが嬉しかった。あのようなささやかな記事でも、ほんの少し役に立つ場面もあるのだ。読者の数だけでは測れないことがある。

世の中のほとんどの出来事の蚊帳の外にいるような疎外感や無力感を日々感じている。しかし、社会の一員である以上、世の中の出来事の責任の一端は自分にもあるはずだ。何もできないと言っていてもはじまらない。たまたま自分がいる場所で、たまたまご縁のある人たちと一緒に何かできるかもしれない。小さな記事1本でも、小さなイベントでも、ちょっとがんばってみよう・・と思えるのだった。

「あなたが長年かけて築き上げてきたものはたった一日で壊されるかもしれない。でも、それでもそれを続けましょう」(マザー・テレサ

この言葉をもう一度かみしめる。

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アンドリヤナ・ツヴェトコビッチ駐日マケドニア大使と

 

(終わり)

マザー・テレサでも出る杭は打たれる

百瀬恒彦 写真展「祝・列・聖」に行ってきた、と友人からメッセージをもらった。百瀬氏のお話も興味深かったと言いつつ、彼女はこの記事を読んで戸惑ったようだ。

www.huffingtonpost.jp

マザー・テレサについて知ったのがいつだったか、もはや思い出せないが、日本で伝え聞く「インドへ赴き貧しく死にゆく人々のための活動に生涯を捧げた」という話を私は素直に受け容れてきた。それは作られた伝説だったのだろうか?何のために? 

このような「黒い噂」やネガティブな見方は以前からあった。

Criticism of Mother Teresa - Wikipedia, the free encyclopedia

写真で見る限り若そうな、このハフィントン・ポストの記事の著者は、既に故人であるマザー・テレサ本人に直接会ったことはないだろう。ほかの関係者に直接取材したわけでもなさそうだ。以前に発表されたイギリス人ジャーナリストのクリストファー・ヒッチェンス(1943-2011)や若手の歴史学ヴィジャイ・プラシャドの否定的な見解、2013年に出たオタワ大学の研究など、既にあるネガティブなネタを元に、自分の主張を展開しているに過ぎない。説得力と社会的意義があればそれでもよいのだが、どうだろう?

ネットで検索すればネガティブなサイトがほかにもいろいろ出てくる。

www.iza.ne.jp

happism.cyzowoman.com

私はキリスト教徒ではないので、カトリックにおける「聖人」というのがどれほどのものか、実のところあまりピンとこない。聖人に列せられるためには「奇跡が2回(以上)認定されること」が要件になっているのを知って正直驚いた。しかし、それぞれの信仰は尊重すべきものだと思う。

慈善事業も、宗教組織上の手続きも、それに対する批判も、その正当性を奉じてなされるわけだが、所詮、人間のやることだからどうしたって不完全なものでしかない。だから、いろいろな意見があり得るし、それを自由に表明できること自体は悪いことではない。しかも、堂々と署名で書くのはあっぱれだ。

しかし、マザー・テレサが「飢えた人、裸の人、家のない人、体の不自由な人、病気の人、必要とされることのないすべての人、愛されていない人、誰からも世話されない人のために働く」ことを目的とした修道会の設立という事業を自ら始め、毀誉褒貶に動ずることなく継続するうちに、いつしか多くの賛同者を巻き込んで、4000人のメンバーが123カ国の610箇所で活動を行うほどの事業に発展させたというのは事実だ。

批判する人々は、マザー・テレサが何もしなかったほうが世界はマシだったと言いたいのだろうか? それとも、ただマザー・テレサを過度に崇拝するのは適切でないということを言っているだけなのだろうか?

裏に何らか不適切な事実があったのか、なかったのか、今の私には直接検証するすべはない。現地や関係者への取材に基づいて言っているわけではないのは、ハフィントンポストのライターと同じである。

それでも少なくとも、このたびの写真展で最晩年の彼女の顔を見ることができた。写真家 百瀬恒彦氏が彼女本人に直接会い、撮影許可を取り付けて密着取材の形で自然なシーンを撮った作品から伝わってくるものがある。

写真の中の毅然とした表情を見て私は感じた。自分がやっていることの不完全さを誰よりも痛感していたのはマザー・テレサ自身だったのではないかと。そもそも人間の世界は不完全であり、少々のことでは変わらないと重々承知の上で、それでも彼女は最善と尽くそうとしたのではないかと。

・・・無私の奉仕活動が地味で小規模なうちは別にとやかく言われないどころか相手にもされないが、ひとたび社会的評価を得て規模が拡大すると、必ずバッシングも起こるのが世の常。これもある意味ではバランスを取る一つの社会的機能というものだろうか・・・

9月5日付International New York Timesでは、一面トップに写真付きで記事が掲載されていた。ウェブ版は3日付でもっと長くて驚いた(最近の新聞がウェブ・ファーストであることがここでもわかる)。

http://www.nytimes.com/2016/09/05/world/europe/mother-teresa-named-saint-by-pope-francis.html

ここでは、マザー・テレサに対する賞賛と批判の両方が比較的公平に紹介されていて妙にホッとする。

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現在のマケドニアスコピエで生まれたマザー・テレサ

折しも駐日マケドニア大使館からメールが届いた。

(続く)

 

マザー・テレサを撮った日本人:百瀬恒彦 写真展「祝・列・聖」

去る9月4日、故マザー・テレサが列聖された。

列聖に合わせて、9月1日から9月6日まで、百瀬恒彦 写真展「祝・列・聖」が東京・表参道のプロモ・アルテ・ギャラリーで開催された。

写真展に寄せた百瀬氏の言葉。 

「・・・亡くなってから、聖人に列聖されるには時に数百年かかると聞いていました。マザー・テレサが亡くなったのは1997年(87歳でした)。20年も経っていません。まさか僕が生きている間に!

昨今、眼にまた耳にするニュースはあまりにも殺伐、血なまぐさい出来事ばかり、人がひととして人に対してどうして? あまりに色々な出来事があって、どんどんと記憶の片隅に押し込まれてしまっていますが、今一度マザー・テレサを思い起こして、愛・優しさ・思いやりの心、考えてみたいと思います。」

 

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これまでに見たことのない厳しい表情のマザー・テレサがそこにいた。

1995年、インド・コルコタの「死を待つ人々の家」に赴く機会を得た百瀬氏は、写真を撮らせてほしいと願い出た。大の写真嫌いだというマザー・テレサは、百瀬氏の顔を凝視したそうだ。百瀬氏も決して目をそらさず全力で凝視し返す。しばしの真剣勝負で向き合う人間と人間。そして、マザー・テレサは承諾の意を示した。

ミサに臨む姿、祈りを捧げる横顔に、至近距離でレンズを向けたその写真は、最晩年のマザー・テレサの苦悩を映し出すようだ。深く刻まれた彫刻のような皺。真一文字にきつく結ばれた口元。インドの青年たちに囲まれたシーンが唯一の笑顔だったが、それ以外は、何と言おうか、自身を戒めるような峻厳さが見る者をたじろがせる顔である。

会場で百瀬氏とお話した。

「死を待つ人々の家の入り口で選ぶわけですよ。コルコタの町は貧困や病気で死にそうになっている人々で溢れかえっている。すべての人の最期を看取ることはできない。迎え入れる人をマザー・テレサが決めれば、中に入れてもらえなかった人に外で死ねと言っているのに等しいことを彼女自身もわかっているわけです。」と百瀬氏は当時を振り返って語る。「でも、すべての人を助けようとすると誰も助けられない。」

その不条理を自覚しながら、自らに課した務めを果たそうとするマザー・テレサの厳しい表情に私心は一切感じられない。

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今回の写真は、すべて和紙に現像されたモノクロの作品だった。

「印画紙を、和紙を使って自分で作って、何か表現できたら」と思った百瀬氏の、大変な手間をかけた現像過程を記録したビデオ映像をギャラリーの一角で見られるようになっていた。

8畳ほどの暗室。薄暗く赤い電球の下で、まず和紙にモノクロ感光用の乳剤を塗る。今や製造中止になってしまった貴重な乳剤を刷毛を使ってムラなく。刷毛も硬いものや柔らかいものを4種類ほど、現像する写真の絵柄によって使い分け、二度塗りする。塗り終わったらドライヤーを使って乾燥。水分をたっぷり含んでいるので結構な時間がかかる。そり曲がってしまったらプレス機で熱を加えながら伸ばす。これで和紙の印画紙の出来上がり。やっとプリントを始められる。

フィルムをセットし、ピントを合わせて、でき上がった和紙の印画紙に露光する。露光時間を長くしたり短くしたり、部分的に光を加えたり減らしたり。面白いのは光にかざした手を細かく震わせながら光の量を加減するところ。いちばん緊張する場面だそうだ。絵柄によってのイメージ作業だが、現像液をつけるまで全くどうなるのかわからない。

普通は感光させた印画紙全体を現像液につけるが、百瀬氏は刷毛を使って、イメージする所だけに現像液を塗っていく。真っ白な和紙の印画紙に像がジワーっと浮かび上がってくる。これが「いちばん幸せな瞬間」というテロップがあった。そのあと停止液、定着液に浸ける。ここまでが暗室での作業だ。

一時間、流水で水洗いし、丸一日かけて自然乾燥して、やっと完成!

この手法では、同じものは二つとできない。元のフィルムは同じでも、和紙の印画紙を作る際に塗る乳剤の刷毛さばきや現像の際の光の当て具合いによって、全く違った印象になる。たとえば、マザー・テレサの背後にいたはずのメガネをかけたシスターは現像されず、そこに白い空間として抽象化されたバージョンもあるのだ。それぞれが一点もののアート作品と言える。

対象の本質を捉えてシャッターを切る瞬間、そして、デザインするように図柄をあぶりだす現像技術。日頃、スマホで安直に撮っている大量のデジタル画像とは対極にある、こだわり抜いたアナログの世界である。

しかも、その手作りの印画紙は、一昨年ユネスコ無形文化遺産に登録された、日本が誇る手漉きの和紙だ。まるで日本古来の墨絵のような写真が切り取った現代の一断面。

 

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急ピッチで決定した列聖もあれば、逆に誹謗・中傷も今なお絶えない。そんな動きに超然とした彼女の力強さが、その死後も伝わってくるようだ。

(続く)

 

 

 

National Day supplementという広告特集

少し振り返ると、今年の1月いっぱいで実質的に退職するまで私は、広告特集のコンテンツを編集する部署で主に大使館のPR記事を担当していました。

大使館がPRする機会として、ジャパンタイムズでは私が担当していた頃よりはるか昔から、たぶんかれこれ50年、ナショナルデー特集という独特の広告特集を掲載してきました。

建国記念日独立記念日などを祝うナショナルデー。年に一度のナショナルデーにはどの国にもPRのスペースを提供しようという趣旨の企画です。その機会に祝賀広告を募り、協賛企業などから広告が入れば、提供できる紙面スペースも大きくなるという仕掛けになっています。

2009年以降の特集記事のPDFがウェブサイトにアーカイブされています。

The Japan Times -- National Day supplement

この中で2010年1月から2016年の1月までは、繁忙期に同僚に助けてもらった以外は、ほとんどが私が編集・レイアウトした紙面です・・今見るとちょっと懐かしいですね。

このような広告特集は邦字紙ではめったに見ません。たまに日経新聞に載せている国があるぐらいでしょうか。国内の英字紙では、読売新聞が発行しているJapan News (以前のThe Daily Yomiuri)も同じような特集をやっています。諸外国ではどうなのか? リサーチ不足でわかりません。

中身としては、たいていは大使の名前で発信する記事で、各国のPRポイントと日本との良好な関係を謳い、さらなる政治経済関係の発展や文化交流を呼びかけるという外交プロトコルに則ったメッセージです。広告がたくさん入りスペースが大きくなると、その国の独立に到るまでの苦難の歴史を振り返ったり、二国間関係について詳細に語ったりという長大な文面になります。その国の美しい風景や外交上重要な写真が添えられたり、大使のメッセージ以外に日本の政財界から祝賀メッセージが寄せられたりする場合もあります。

そういう編集関係の諸々のアレンジを担当していた私は、各国のナショナルデーの時期が近づくと、その国の大使館に原稿依頼をして発行日に間に合うように紙面をレイアウトし記事を編集しておりました。ルーティンワークですが、なにぶん年間100か国以上あるので量的になかなか大変でした。

 担当者としては、各国大使館と小まめに連絡を取り、新聞の一面トップにどんな天変地異が掲載されていても、よほどのことがない限り世界各国のナショナルデーを祝う紙面を粛々と作り続けたのでした。

東日本大震災の直後にはナショナルデーの祝賀レセプションなどが自粛された時期もありましたが、紙面に掲載されたナショナルデー特集には、各国から被災地へのお見舞いの言葉や支援と連帯の呼びかけが見られました。

ニュース記事ではありませんが、ナショナルデーの紙面からも国際情勢が垣間見られます。

たとえば、2011年までは掲載されていたシリアのナショナルデー特集が2012年以降は発行できていません。

リビアのナショナルデーは2009年までは9月1日で故カダフィ大佐の肖像写真が掲げられていましたが、2011年のアラブの春からしばらくは発行できず、久々に掲載したのは2014年でその日付は2月17日に変わりました。

同じくアラブの春を経たチュニジアはナショナルデーの日付は3月20日で変わりませんが、2010年まではベンアリ元大統領の肖像写真が掲げられ、2011年には発行できず、2012年には総選挙の写真とともに掲載されています。

少なくとも、ある大使館がナショナルデー特集を発行したいと思えばできるということが、その国の現政権の状況を推し測る一つの指標にはなります。

もちろん、大使の意向や広告の多寡にもよりますし、そもそもナショナルデー特集企画に興味のない国も多いですが。

大使館にとっては貴重なPRの場、スポンサー企業にとっては大使館に協力するチャンスであり、読者にとっては普段そんなに馴染みのない国についてニュースとは違った形で知る機会、そして、新聞には広告料が入るという「四方良し」みたいな絶妙なパッケージをかつて思いついたのは誰だろう?と感服しておりました。

しかし、このような特集に出稿する企業がじりじり減ってきて、特集に意義を見出す大使館が減ってきているのも現実です。

このナショナルデー特集を含めた広告特集の編集を担当する中でしみじみ実感したのは、新聞はもともと広告あってのビジネスであるということでした。

今後どういう形になっていくのか?現在進行形の模索が続いています。