よろず編集後記

よろず編集者を目指す井内千穂のブログです。

ひとりの福島県人のおはなし 〜2020京都発ふくしま「学宿」その3

今回のふくしま「学宿」には、昨年のような京都と福島の同世代の生徒同士の交流という部分は含まれていないが、京都の生徒たちと福島の大人とのさまざまな対話の場が用意されていた。現地で暮らす方々と「対話」すること、そして、自分たちがどのようにそれを発信するか? それが今年のテーマである。

コミュタン福島での最後の1時間は、オフィス・クリエイト福島の代表 山口祐次さんのお話。

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「こんにちは。遠いところ京都から足を運んでいただき、 福島を通して学んでいただくということでお越しいただきまして本当にありがとうございます。私も息子と娘がおります。震災の頃、 みなさんと同じぐらいの年頃でした。東日本大震災から間もなく9年を迎えます。その中で何が起きたのか?何を考えてどう行動したのか?何を学んだか? こういったことにつきましてお話させていただきたいと思います。ホープツーリズムの方がその辺のおじさんをつかまえてきたら私だったというだけです。違う人が来たらまた違う話が聞けると思います。そういうことで、ひとりの福島県人からのお話ということで受け取っていただければと 思います。」

穏やかに、山口さんは話を始めた。

山口さんの自宅は富岡町、職場は楢葉町にあった。いずれも福島第一原発から20キロ圏内である。震災後、住むことも、子どもたちは学校に通うことも、山口さんは仕事をすることもできない場所になった。原発事故によって一家は郡山市に避難。長年、民間企業に勤務して総務・人事・経理などの仕事をしていた山口さんは、仕事を続けるために県外へ単身赴任。震災から2年目の時、残念ながら福島の事業所の閉鎖が決定し、山口さんは退職して、家族が避難している郡山市で再起を図った。いろいろな住民がいる。帰れるようになって帰る。 帰りたいけど帰れない人もいる。避難先やほかの土地で新たに生活を始めている人たちもいる。

 山口さんは宮城県出身。福島生まれの福島育ちではないが、幼少期から富岡町のおじ・おばの家が実家のような所だった。県外で社会人生活をスタートした後、20代半ばで富岡町に移住して再就職。恩義のある富岡のおじ・おばと養子縁組をした。

「生まれ育ったところではないが、ある意味、 違った面で強い思いがある。本当に大切な福島、そして、富岡の町」だと山口さんは語った。

2011年の震災でたくさんの命が失われ、 今なお見つかっていない方も多数いらっしゃる。 このあたりでは毎年3月11日、そして毎月11日が月命日。 各地でいまだに捜索活動が続く。もう一つ、 震災関連死が多数ある。福島県では、避難を余儀なくされ、環境が変わり、体調を崩して亡くなった人たちが多い。一方で、小さな子どもや若い世代の命もたくさん失われた。

「みんなと同じようにたくさん夢を持っていた。サッカー選手になりたいとか、ミュージシャンになりたいとか。 我々が当たり前のように迎える一日一日。 かったるいなーと思って迎える朝もあると思いますが、 こういう夢を持った子どもたちは今日という日を迎えられていないのです。そう思うと、一日一日、 当たり前に過ごすのが本当に貴重な一日なんだと思います。」と山口さん。

2011年3月11日のその時、山口さんは会社の会議室にいた。突然の巨大地震。長い揺れが収まると外に出て避難場所に集まった。町の中ではサイレンが鳴り響いていた。津波警報だ。電話が通じない。ネットも通じない。町の様子は全くわからない。不安が大きかった。社員は全員無事だったが、家族が心配だ。しかし、社員たちを帰らせていいのか、判断が難しかった。町の様子はわからない。津波警報が出ている。余震が凄い。そういうときに帰したら何事かあるのではないか?一方で、家族が倒れた家の下敷きになっているかもしれない。津波で流されているかもしれない。そんな状況だった。帰宅指示を出した。結果的に社員たちの家族も無事だったが、あの時の判断が正しかったかどうかはわからない。結果オーライばかり。判断と行動一つで命にかかわっていた。 あの時こうしていれば・・ということは誰にもわからない。

会社に残っていた山口さんは深夜にようやく帰宅し、家族の無事を確認。翌朝、倒壊した家屋や津波の爪痕が目の前に広がっていた。町をぐるっと回って、会社に寄って帰宅すると、町の防災放送で避難を呼びかけていた。「現在、原子力発電所においての事故の報告はありませんが、 念のため、町民のみなさんは川内村方面へ避難してください。」 そういう繰り返し。まだ爆発事故が起きる前。念のためにということだった。

「本当に避難しなくちゃなんないの?」「今日泊まり?」「何持っていくの?」「猫はどうする?」・・・ とりあえずカバンに詰められるだけの荷物を持って川内村方面へ。 これが富岡町の状態。地域によって状況も違っただろう。 富岡町から川内村へ向かう車列で大渋滞。 山口さん一家は富岡の町中でこの渋滞にはまった。いつになったら川内村に着くかわからない。方向を変えて妻の実家がある広野町へ。しかし、広野町にも避難命令が出る。その日はいわき市内へ。その間に原子力発電所の爆発が起きた。翌朝、郡山市へ避難。当たり前の日常が、 巨大地震そして原発事故によって一変する。

親戚の家に避難させてもらったが、やはり、 食料品や生活用品やガソリンを手に入れるのが大変だった。山口さんは、避難所や災害対策本部などを回り、避難した社員の安否確認。町の関係者とも話をしなければならなかった。富岡の自宅に帰れるようになったのは、震災から3か月ぐらい経ってから。初めての一時帰宅の時は、体育館に集合して完全防備のタイベストを着て手袋をつけ、線量計とトランシーバーをぶら下げてバスでみんなで帰った。家の前で降ろしてもらい、2時間だけ家のことをやってバスに戻る。

被災したのは大人だけじゃない。子どもたちも被災した。山口さんには中3から高1になった息子と、中1から中2になった娘がいた。どちらも学校再開の目途が立たない。息子は試験を受けて郡山市内の高校に編入。娘は公立中学だったので、手続きさえすれば転校はできる。しかし、急に転校というのは心配だった・・・単身赴任先から郡山へ一時帰った時、山口さんは車の中から、歩道を歩いて来る楽しそうな中学生の輪の中に娘がいるのを見かけた。娘の笑顔にほっとして涙があふれる・・・ピアノのBGMと共にスライド上の文字で紹介されたエピソードを生徒たちはしみじみ読んだ。「本当にうちの子どもたちは編入先や転校先で温かく迎えてもらった 」と山口さんは振り返る。

福島県内で小中高校生合わせて約16000人が転校し た。避難先の変更で複数回転校した児童・生徒も多数。避難先での不登校や避難いじめの問題も発生していた。環境が大きく変わり、 都会の学校になかなかなじめ ない生徒もいただろう。どう思う? 自分がこういう立場だったらどうだっただろう?あるいは、自分たちのクラスにこういう生徒が来たら、自分たちはどう考え、どう行動するのか?

「これから教員を目指す人たちもいらっしゃると思います。将来、こういう環境になった時に自分たちの生徒がどうしなきゃいけないだろうとか、また、親になったら自分たちはどういうふうに考え、 対応していかなきゃなんないのか。というようなこともいろいろあるわけです。いろいろな立場で考えてもらえたらと思います。」と山口さんは生徒たちに語りかけた。

 この日は2月22日。ニャーニャーニャーの日だそうだ。 「普段あまりこの話はしないのですが・・ 」と言いながら、山口さんは再びスライドで文字で追うストーリーを披露。飼っていた猫のミューが震災から9か月後に見つかった!という奇跡の物語である。捨てられていた子猫を拾い、富岡の家で可愛がっていたシャム風のミューは家族の一員だ。避難の時にペットの問題もいろいろあった。ずっと帰れなくなるなんて思ってもいないから取り残されたペットも・・・

山口さんは県外で仕事をしながら家族の元へ往き来しつつ、 全国に散らばった社員の所を回りながら3年間過ごしたが、残念ながら福島の事業所の再開は断念ということに。
「選択肢は3つです。」
そのまま単身赴任先の九州に行き家族は福島にいるか。九州に家族を連れてくるか。あるいは、退職して自分が福島に戻るか。そういう選択肢の中で山口さんは退職を決意。2014年3月のことだった。

なぜ、避難先で生活再建することに決めたのですか? と時々聞かれることがある。家族は郡山にいた。その時の母親の年齢、妻の年齢、子どもたちの学校のことを考える。自分は九州にいる。そして、その時点ではまだまだあの地域がどうなるか様子がわからなかった。 富岡町としてはまだ帰町はしない。線量、 インフラなどが整ってきたところで帰町を考えて行くという状況だった。そうなると、子どもの学校、自分の年齢での転職の可能性も考える。それからやはり、あの地域ってどうなって行くんだ?原発はどうなるんだろうか?こういったことを考えて、ずっと先延ばしにした状態では生活再建なんてできない。そこで、家族の避難先で生活を再建するということをこの時に決めた。それぞれの住民のそれぞれの環境によって、この選択は異なってくるだろう・・・山口さんの心の葛藤がにじむ。

 生活再建とは言っても、「おじさん」が右も左もよくわからない郡山だ。家族や親戚はいるものの、 知り合いがほとんどいない状態で仕事を始めるのだ。 「それでもなんとかなるもんなんだなと思いました」という山口さんは当時48歳。今は、 地域のいろいろな施設の管理部門をサポートしたり、 研修をしたり、いろんな活動に参加したり。仕事からいろんな広がりがあった。町づくり活動を一緒にやる仲間が増えている。バイクやカメラなど趣味の仲間もできた。

「一からのスタートでどうなるかなと思いましたが、とにかく思いをもって前へ進んで行けば開けてくるんだなあというのが、福島の新しい生活再建の中で気づいたことです。これね、 震災が起きる前は気づかなかったです。本当は今のように道って開けて行くものなんでしょうけど、 なんか当たり前ではそういうのって気づかないですよね。 郡山に行って生活を再建するということで初めて気づかされました。」

生活再建の中で忘れてはいけないことがある。富岡の家をどうするかという問題だ。ずっと放置。管理できない状態で荒れ放題だった。私も子どもたちも育った家だが、残念ながら解体という選択をした。昨年の2月。一年前だ。震災から8年。 まだまだこういった心揺さぶられるような出来事がある。スライドで見せてもらった更地の写真が胸に迫る。

「福島の復興の歩みの中で、光の部分と影の部分とかあります。 富岡も新しい町づくりということでどんどん変わってきています。そして、そこには必ず、それに取り組んでいる人たちがいるということを私たちは忘れてはいけないと思います。」

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 当たり前が当たり前でなくなったが、その代わり、 たくさんの出会いと学びがあった。 今後も自分なりに未来に関わるということを忘れずに、富岡の町を離れたけれど、復興には関わっていきたい・・・山口さんは話をしめくくった。

 さて、残りわずかな時間だったが質疑応答

Q:福島のことをあまり話したがらない人もいますが、京都の中学生になぜ話せるようになったのですか?(3年T君)

山口:震災後、話したくない時期、話せない時期もありました。話せるようになったのは、5~6年経ってからでしょうか。なぜ、話そうと思ったのかというと、この震災のことをこれからの未来に生かさなければならないと思ったからです。どう今後に生かしていくのか?それが大人の役割だと思いました。昨年あたりからまた話が少しできるようになってきました。2019年2月に富岡の自宅を解体したことで、自分の中に区切り、けじめがついたということもあります。

Q:何が今の活動の活力の源になっているのですか?(3年Iさん)

山口:きっかけは震災です。それまでの仕事では総務や人事をやっていました。郡山で仕事を探していた時、従来の業種や職種の求人には気乗りがしませんでした。これからまた一企業人として働くのではなく、残りの人生はこの福島の地域や人や企業のためになることをしたいという思いが自分の中で大きいことに気づいたのです。国や地方自治体の受託事業である就労支援・人材確保支援の仕事に就き、1年半ほど経験した後、独立してオフィス・クリエイト福島を設立しました。人って出会っていきます。そういう人たちと一緒だからやって行けています。

Q:原発に対しては賛成ですか?反対ですか?

山口:福島の浜通りを見て、これからのエネルギーのこと、日本全国どうすればいいのか、みなさんで考えてほしいと思います。東電への感情は考えないようにしています。前に進んで行くことが大事です。

Q:福島の魅力はなんでしょう?

山口:都会が好きか、田舎が好きかにもよりますが、私はこの福島の自然が好きです。食べ物がおいしい、過ごしやすい、そして、人が良いですね。小さい頃から福島に通っていたので、いろいろな思い出がある福島が大好きです。

Q:事故の前と後で家族に対する思いはどう変わりましたか?

山口:震災後、母は体調がだいぶ悪くなりました。単身赴任でたまにしか会えませんでしたが、元気に学校に通っている息子や娘の成長から勇気をもらいました。

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涙ながらに訴えるという「語り部」ではない穏やかな語り口から、家族を思う父親としての、社員を思う元・企業人としての、山口さんの内に秘めた葛藤が伝わって来る。その時々の選択。等身大の「ひとりの福島県人のおはなし」に生徒たちは聴き入った。冒頭で山口さんが言った通り、違う人にはまた違う話があるだろう。ごく普通の一人ひとりが被災して大変な経験をしているのだ。後で感想を聞いた時に、やはり、震災当時は自分たちと同世代だった山口さんの子どもたちの転校のことや猫が見つかったエピソードが心に沁みたと答えた生徒がいた。経験者から直接聞く身近な話に共感したようだ。

福島で学べることがたくさんある。自分たちの暮らしに行かせることがたくさんある。「福島のために」ではなく、そのように取り組んでいってほしいと山口さんは言った。

16時過ぎにコミュタンを離れ、バスはいよいよ浜通りへ向かった。(続く)

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コミュタン福島再訪 〜2020京都発ふくしま「学宿」その2

郡山駅を出たバスが向かったのは三春町にあるコミュタン福島。田村西部工業団地内にある広大な福島県環境創造センターの敷地内に建つ交流棟で、延べ床面積約4,600㎡の立派な建物である。「福島のいまを知り、放射線について学び、未来を描く」場を目指して2017年7月にオープンした。

chihoyorozu.hatenablog.com

2日目ここで一日中過ごした昨年のツアーとはまた趣向を変え、今年は初日にここからスタートするというプログラムである。

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震災当時の映像を観て、福島第一原発の模型などの説明を聞く。

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震災直後の福島民報福島民友掲示されている。


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ほかにもさまざまな展示があるが、こういう展示物を全部見るにはいつだって時間が足りない。おのずと自分がとくに興味のあるものに絞って見ることになり、放射線の基礎知識だったり、除染のコーナーだったり、生徒たちは思い思いに見て回ってはコミュタンの職員の方々に質問していた。時節柄、お互いマスク姿。

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説明書きを読む生徒。みずからの希望で参加しているだけにみんな熱心だ。

いつか時間を気にすることなく、この立派な展示を全部じっくり見てみたいものだと思いながら、私が向かったのは今年も霧箱であった。昨年は漠然と眺めているだけだったが、今年は生徒たちと一緒に説明を聞けた。

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 太くて短いのがα線、細くて曲がりくねったのがβ線、たまに通り抜ける長い直線が宇宙線・・・ランダムに去来する放射線たちの軌跡は見ていて飽きることがない。地球上いたるところ放射線が飛び交っている。もっと線量の高い所ではどんなふうに見えるのだろうか?

20分程度で自由見学を切り上げて、一同、会議室に移動。今回のプログラム全体をコーディネーターである「まちづくり浪江」の菅野孝明さんによるガイダンスが始まった。

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「何が起きたのか、今どうなっているのか、これからどうなるのか」を「見る、聴く、感じる、考える」これからの3日間。今の時点で思っていることを出し合う。

原子力災害地域のイメージ」を黄色の付箋に。

「この3日間で学びたいこと」を青色の付箋に。

各自で書き出してみる。数人の生徒が手を挙げた。

まずはK田君(3年)。いつ見ても本を読んでいる彼は、昨夏の中学生サミットでも大人顔負けの弁舌で目立っていた。この日も学びたいこと満載の熱弁をふるった。かいつまんでみると、

「避難者16万人の中にどんな人がいたのか数字じゃわからない。その人たちが何を考えているのかを知りたい。 相手が何を考えているのかを知ろうと思ったら、まずは自分が何を考えているのかをはっきりさせなければならないと思う。この日本に住んでいれば地震は全然他人事ではない。なのにそれを知らずにいることは自分で自分が許せない。どうやって知っていったらいいのだろう?ということを周りの人たちとしっかり話しながら考えて行きたい。」

「想像もつかないほどつらいことを経験して、どうして教えてくれているんだろう。もし自分が福島の人だったらと考えた時に、 どういうふうに周りの人達に伝えていけばいいのか? 自分が発信する立場になった時に、 どんなことに気をつけながら発信していけばいいのかを知りたいと思う。」

「知りたいことは除染の今と昔。 除染って難しいと言われているけれど、どれぐらい難しいのか、今どれぐらい進んでいるのか知りたい」

「そもそもなぜ事故があったのか?エネルギー問題に解決のヒント」

「福島と言えば、すぐに原発という話になるが、 ぼくたちはここに来て原発以外にももっと話し合えることがあるはず。 福島をこれからどう盛り上げるのか? どうやって福島の魅力を発信していけるのか?」(ここまでK田君)

 すごい。知りたいことがいっぱい。彼にとっては、そういう知りたいことの全体がよくわからないのが福島のイメージということのようだ。

福島の魅力という点については、昨年このコミュタンで見せてもらった「福島ルネサンス」を今年の生徒たちにも見せてあげたかったと思う。直径12.8メートルの全球型ドームシアター内で360度全方位から、四季折々の素晴らしい自然の風景、勇壮な伝統のお祭り、子どもたちの笑顔が溢れる映像と音に包まれる体験だった。もはや取り戻せない美しすぎる幻なのだろうか。しかし、福島が豊かな自然と古い歴史を持つ誇り高い土地であることが、千年の都から来た生徒たちにもわかるに違いない。何も言わなくても。

 

ほかに2人ほど、「福島のイメージ」と「学びたいこと」を端的に語ってくれた。

 「福島は、復興がなかなか進まず難航しているというイメージ」で「学びたいことは、現状をどう活かせるか」と「 事故が起きる前までは火力発電所などと同じで暮らしの身近にあるものだった原子力発電所に対する認識の変化と原子力発電所の盲点を知りたい」(3年Wさん)

 「福島のイメージは完全な被害者」で「学びたいことは、 現地の住民の方々は原発についてどう思っているのか?現状、原発がなければ日本経済は立ち行かないと思うが、 再エネで本当に賄えるのか?」(3年F君)

 

このあと、 各々が書いた付箋を前のボードに貼り、「福島のイメージ」と「この3日間で学びたいこと」 が出揃った。

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ずらりと並んだ付箋を見て、「学びたいことたくさんありますね。これを大事にしてください。 いろんな場面があります。 そこで自分が学びたいことをしっかりと意識して進めていってもらいたいと思います」と菅野さん。ほとんどの生徒たちにとって初めて訪ねる福島の、これから見学に行く地域について、基本的な説明に移る。

東西に長く、全国でも4番目に広い福島県は3つの地域に分かれている。なぜ3つか? それは、地形的な要素が非常に大きく、会津中通りの間には奥羽山脈がそびえ、中通り浜通りの間には阿武隈山地がある。今年は暖冬だが、西高東低の冬型の気圧配置で北西からの季節風が東北地方に吹き付けると奥羽山脈にぶつかって 会津地方に大雪が降る。 そこを乗り越えてきた風は雨をほとんど降らせてきて乾いており、浜通りは冬場ずっと晴天が続く。昔は山を越えるのが大変だったので、会津通り、中通り浜通りで文化圏が異なる。

これから行く浜通り原子力災害地域をクローズアップしていく。今日は郡山駅から三春町のコミュタンに来た。このあと、阿武隈山地を超えて沿岸部の浜通りに出る。 楢葉町から北へ向かうと福島第二原発があり、さらに北上すると第一原発がある。

テキストとして配られていた『福島のあの日からいま』(福島県観光交流課)を開く。「地図の中で色が塗ってある地域が旧避難指示区域です。半径20キロ圏内はすべて、 あとは放射線の分布によって原発から北西方向に線量の高い地域( 飯館村や川俣町)も含まれます。被災12市町村という言い方をします。この黄色い区域がいまだに帰ることができない帰還困難区域。 線量が高くて帰る見通しがまだついていない区域です。」

それ以外のところは、双葉町を除いて解除されている。大熊町の青(居住制限区域)と緑(避難指示解除準備区域)の区域は2019年4月10日に避難指示が解除され、双葉町の緑色の区域も間もなく、3月4日に避難指示が解除される。それから常磐線は、浪江町から富岡町の間約 20.8キロの区間が現在まだ通れない状況だが、いよいよ来月の 3月14日には全線開通し、東京から仙台までがつながる。

 

放射線の基礎知識については、事前学習はしている前提だが、「2つだけ数字を頭の中に入れておいてほしい」と菅野さん。0.23μSv/hと3.8μSv/hだ。

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  • 3.8μSv/h。年間にすると20ミリシーベルト。これは屋外に8時間、屋内に1 6時間いた場合の計算で年間20ミリシーベルトになるという値を 1時間あたりに換算したもの。除染をしてこれ以下になっていれば、 避難解除にしてよいという目安である。20ミリシーベルトはどうやって決めたのか?医学的に、年間100ミリシーベルトを超えるとがんの発症率が上がると言われている。それ以下の部分では、 とくに健康被害は検出されていない。そして、 国際放射線防護委員会(ICRP)が推奨している年間20〜100ミリシーベルト放射線を管理するのが望ましいとされている 。 その中でいちばん厳しい値を取って日本は除染の目安にしている。
  • 0.23μSv/h のほうはと言うと、これは長期的な除染の目標。年間1ミリシーベ ルトに当たる。

これから浜通りに行くと、 あちこちにモニタリングポストがある。どういう数字なのか、 この数字を知っているとよくわかる。これから3日間で、だいたい歯科検診 1回分相当の被ばくになる・・・こういう数字を聞くといつもモヤモヤするが、菅野さんの説明はとてもわかりやすかった。数字は目安になる。各グループに1つずつ線量計が配布され、使い方が説明される。生徒たちは神妙な面持ちで線量計を眺めた。(続く)

 

 

 

 

 

 

 

ツアー実施の判断 〜2020京都発ふくしま「学宿」その1

ご縁がつながり、今年も京都の中学生たちと一緒に福島を訪ねることができた。

今回は、福島県ホープツーリズムの一環として企画されたもので、いただいたしおりには、福島県教育旅行モニターツアー〜福島に来て、学び、考える!ふくしま「学宿」〜という長いタイトルが掲げられれ、その趣旨が書かれている。

  •  このツアーは、「各分野で復興に向け挑戦する福島の人々(ヒューマン)との対話」と「福島のありのままの姿(光と影)」に焦点を当てた学びのツアーです。震災・原発事故直後から現在に至るまでの復興の歩みや復興に向け奮闘を続ける人々の生の声を参加者の皆様に感じてもらい、ツアーを通じて福島の現状について理解を深めることはもちろん、震災・原発事故の教訓を踏まえ、これからの日本・地域の将来を考えてもらうことを目的としています。

 折しも新型コロナウィルスの感染拡大局面にあり、国内外のニュースやさまざまな立場の発言に翻弄される日々。今年も同行取材のお声かけをいただいたものの、本当に行けるのだろうか?と気をもんでいた。京都の学校側も福島県の受け入れ側も、時々刻々変化する状況を見ながら、実施か中止かの判断を迫られたことだろう。出発2日前の2月20日になってようやくツアー実施確定の連絡が来た。

その後もコロナウィルスの影響はエスカレートし、2月29日には安倍総理の記者会見、3月2日から全国の小学校・中学校・高校の休校を要請という事態に立ち至っていることを考えると、2月22日から24日の三連休に福島行きは、本当にギリギリのタイミングだったと言える。 一週間ずれていたら確実に中止されていただろう。

ツアー自体は実施しても、心配な保護者もいるだろうから、何人かはキャンセルするのではないかと思ったが、参加予定の生徒26人が全員出席だった。コロナウィルスの心配よりも、福島行きの意義と中学時代に一度だけの機会を逃したくないという気持ちが勝ったようだ。実はこのツアー、元々は昨年10月に予定されていたもので、その時は台風19号のために中止になった。仕切り直したら今度はコロナウィルスとは、全くいつ何どき何が起こるかわからない。

それなりの人数の団体だから、台風やウィルスの心配がない平常ベースでも、どこかへ行って全員無事に帰ってくることは当然ではなく、努力と幸運の賜だ。いつだって、事故や病気のリスクはゼロではない。心配し出したらキリがないが、私もかつて息子たちが学校行事に参加したら無事の帰宅を祈ったものだ。リスクがあるから実施しないとか参加させないとか言い出したら、修学旅行も部活の遠征も何もできないが、実際に引率される学校の先生方にはいつも頭が下がる。リスクは常に何にでもある中で、今回は新型コロナウィルスのリスクをどう考えるのか、微妙な判断を迫られつつ、生徒たちを福島に連れて行った先生方の覚悟と信念に敬意を表する。保護者のみなさんも先生方への全幅の信頼があるからこそ、我が子に旅をさせたのだろう。

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私は東京駅の東北新幹線のホームで一行と合流し、やまびこに乗り込んだ。

道中に関して、保護者の意見としては、京都から東京までの東海道新幹線、東京から郡山までの東北新幹線の車内ではマスクを外さず、飲食を控えて欲しいということだった由。マスクは周りにうつすのを防ぐには役にたっても、感染を防ぐには役に立たないと言われているが、親御さんたちの気持ちとして、周りにうつす心配をしておられたのか、感染する心配をしておられたのかはわからない(あの時点ではたぶん後者だ)が、ともあれ福島県に入ってからのほうが安全という感覚のようだった。この際、風評被害も関係ない。

ということで、昼食のお弁当を食べたのは、郡山駅で新幹線を降りて大型観光バスに乗ってからだった。バスの入り口にはアルコール消毒薬のスプレーが置かれ、乗り降りする度に誰かしら生徒さんが大人にもスプレーしてくれるのが微笑ましい。

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福島県の関係者の方々もみなマスクをしておられた。元来マスクが苦手で、「感染を防ぐのに役立たないならマスクをしても意味がない」と、このご時世でもマスクなしで出歩いていた私も、さすがにマナーとしてツアー中はマスクをすることに。持ち合わせがないという備えの悪さを反省しつつ、貴重なマスクを学校側のストックからご提供いただいた。申し訳ない。

昨年よりはるかに暖冬だ。曇り空の里山をバスは三春町へ向かった。(続く)

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ルドヴィート・カンタ「ベートーヴェン チェロソナタ全曲コンサート」

ひょっこりご連絡をいただき、久々にカンタさんのチェロを聴きに行った。何年ぶりだろう。日に日にエスカレートする新型コロナヴィルスのニュースに翻弄される今日この頃、一週間ずれて今週の話だったら、コンサートは中止になっていたかもしれない。

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カンタさんにインタビューさせていただいたのは2011年6月、震災直後のこと。スロヴァキアのブラチスラヴァ出身で、1990年に来日して以来オーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)の首席チェロ奏者を務めていたカンタさんの来日20周年を記念するコンサートが、震災の年に重なってしまった。

www.japantimes.co.jp

9年近く前のことで、こまかい中身はほとんど忘れてしまったが、流れでなんとなくワイン片手にお話することになり、日本語での楽しいインタビューだった。スロヴァキア・フィルハーモニー管弦楽団の首席チェロ奏者を8年務めてから来日したというカンタさんに、
「なぜ日本に来られたのですか?」と尋ねた。

ベルリンの壁崩壊とソ連解体の激動を経て、旧東欧圏のチェコ・スロヴァキア(当時)でもようやく海外渡航が自由になった。その頃ちょうどOEKでは広く海外からも団員を募集しており、カンタさんは、
「そうだ、日本に行ってみよー」と思ったという。わりと軽い気持ちで。転機はこうして訪れる。人生のドラマだ。

インタビューの中でもう一つ覚えているのは、その記念コンサートで日本初演される予定だったチェコの作曲家マルティヌーのチェロ協奏曲について質問しようとしたこと。当時それなりに下調べして行ったわけだが、カンタさんは「よく勉強してきたねー」といたずらっぽく笑った。付け焼き刃がバレバレだったのだろう。

どうしても本番を聴きたくなり、東京から日帰りで金沢まで出かけた。まだ北陸新幹線が開通する前で、確か、上越新幹線で越後湯沢まで行ってから信越本線北陸本線を乗り継いで片道4時間以上かかったと思う。金沢駅前の石川県立音楽堂は満席のファンの拍手に包まれ、カンタさんがいかに地元金沢の人々に愛されているか、そのことに私は感動した。もちろん、OEKとのコラボによるマルティヌーの初演も、「日本人が大好きな」(カンタさん言)ドボコン(ドヴォルザークのチェロ協奏曲)も素晴らしく、何とも温かい演奏会だった。

2018年3月にOEKを定年退団後も金沢を拠点に音楽活動を続けておられたはずだが、しばらくご無沙汰したままだった。

 

そんなわけで、とても楽しみだった今回のコンサート。

イベント自体が中止にならなくても、用心のため予定をキャンセルする人も結構いるので、誘ってみた友人のことが少し心配だった。キャンセルも残念だけど無理して来てもらうのも申し訳ないかな・・と思っていたが、己れの免疫力を信じるという互いの似たような感覚を確認の上、予定通り、大手町の読売新聞本社ビルの1階ロビーで待ち合わせる。

よみうり大手町ホールは33階建ての立派な新本社ビルの4階にある。多目的ホールだが用途に合わせて残響を調整できるらしい木製の壁面がなかなか美しい。約500席が満席とまでは行かなかったものの、ベートーヴェンチェロソナタ全曲演奏というマニアックなプログラムにしては上々の入り。音楽評論家筋のお顔を数名お見かけしたし、さる通信社OBの音楽ファン氏が声をかけてくださった。これまた久方ぶりの再会。

なにしろ新型肺炎のリスクがあっても今宵限りのコンサートを聴きたいというカンタさんのファン、またはチェロ、ベートーヴェンが好きという人々がじっと聴き入り、静けさの中に心地よい緊張感がみなぎる場となった。

今年はベートーヴェン生誕250年。毎年誰かしらのメモリアルがあるので、ああ今年はベートーヴェンかとぼんやり聞き流していたが、そうか、ベートーヴェンは1770年生まれだったかと改めて認識する。フランス革命が青春という激動を生き抜いた世代なのだ。250年経っても記念してもらえる偉大さに改めて感じ入る。

とは言え、恥ずかしながらベートーヴェンチェロソナタを全曲通して聴くのは初めてだった。そもそもチェロのリサイタルに来たのが初めてかも。オーケストラの一翼を担うチェロ集団、協奏曲のソリストたるチェリスト、そして、トリオやクァルテットなど室内楽チェリストは何度となく生のステージに接したが、チェロとピアノのためのソナタの場合、あんなに近く寄り添って演奏するとは知らなかった。チェロ経験者である隣席の友人によると、「そんなもんだ」ということだったが、今回の共演者であるドイツのピアニスト ユリアン・リイムとの絶妙な掛け合いの中で、時折、ピアニストが右へ、チェリストが左へ顔を向け、それぞれのタイミングで相方に視線を投げる感じや、楽章の終わりでタイミングを合わせようと二人の顔がくっつかんばかりに(客席からはそう見える)寄り添う姿は、〇ー〇ズ・ラブ(あるいは、〇ッサ〇ズ・ラブか)のようでドキドキする。CDだとわからないライブのビジュアルの醍醐味だ。

5つのソナタはそれぞれ全然違った曲で、若かりしベートーヴェンの試行錯誤が感じられた。このように通しでちゃんと聴いたことはなかったが、随所に、ピアノを習っていた頃に魅了されながら弾いたメロディに似たフレーズや不思議なアクセントの置き方が現れる。一部はどこかで聴いたことがあるのかもしれない。

1番と2番は1796年の作曲。ベートーヴェン25歳の時である。その少し後にピアノソナタ第8番『悲愴』が作曲された。なるほど。そんな感じのする悲劇の騎士っぽいカッコいいパッセージが散りばめられている。3番は1808年(38歳)、交響曲5番『運命』や6番『田園』と同時期だ。4番と5番は1815年(45歳)、既に聴覚は失われ、交響曲で言えば7番や8番が作曲された後になる。それぞれに味わい深いが、今日の気分にフィットしたのは2番と3番だった。3番の冒頭のカンタさんのソロがしみじみ良かった。

チェロの音色は、押しつけがましくなく、馥郁たる響き。しかし、いざという圧力をかけた時の弦の振動が力強く心地よい。楽器を両足に挟んで弾く奏者が顔を左右に振る陶酔の姿と言い、本来バリトンの歌手が無理してテノールの声を出そうとするように喘ぐ感じの高音域と言い、独特の色気があって、秘かに憧れ、勝手に痺れていた。ピアノとのコラボにも安心感がある。ヴァイオリンソナタだと、なんとなく性格の違うピアノとヴァイオリンが丁々発止で張り合ってる感じになるが、チェロソナタは、今日こうして聴いてみると、華やかに弾きまくるピアノを手の平の上で転がしているようなチェロの包容力を感じさせるセッションだった。もちろん、それはカンタさんとリイム氏の確かな技量に支えられ、ぴったり息の合ったコラボだったからこそ。緩急自在の展開と変幻自在の音色にうっとり聴き入る。

間に短い休憩を2回挟みつつ、5曲全曲を通して聴くのはなかなかエネルギーを要することだったが、演奏するほうはもっと大変だっただろう。今頃だが、ベートーヴェンの名曲に新たに出会えたことに感謝する。250年も前、日本はまだ江戸時代という頃に遠い異国で生まれた人が創った音楽が心に沁みるとは不思議な話だが、何か普遍的な美しさを求める気持ちが時空を超えて共有されているのではないだろうか。

演奏後、拍手に応えて舞台に戻って来たカンタさんは、「今年は日本とチェコ・スロヴァキア(当時)の外交樹立100周年にあたり、音楽イベントもいろいろ予定しています」と流暢な日本語で客席に語りかけた。

来日20周年だった震災直後の5月、カンタさんは宮城県に赴き、被災地の東松島、女川、石巻、仙台の避難所で慰問演奏会を開いた。 それからまた9年が経ち、もうすぐ来日30年になろうとしている。

ロビーはサインを求めるファンの列が長く、残念ながらカンタさんにご挨拶する時間がないまま会場を後にした。次の機会を楽しみにしながら、自宅でベートーヴェンチェロソナタを繰り返し聴いている。

今週に入り、あちこちで一期一会の音楽イベントが中止になった話を聞くと心が痛む。新型肺炎COVID-19の脅威が一日も早く収束することを願うばかりである。

 

 

京都と福島、ご縁はつながる ~京都発!「福島震災復興プロジェクト」⑥~

そうこうしているうちに年が改まってしまった。京都発!「福島震災復興プロジェクト」の福島ツアーに同行してからもうすぐ一年になるではないか。なんということ!

研修の内容自体はこれまでのブログにだいたい記しておいたが、何かまだ書き足りないことがあって、この最終回を予定していたようだ。細かいことはもう忘れてしまったが、印象に残っているシーンが3つある。

まず初日の夜。二本松市内の宿舎に着いてからの振り返りミーティングの時、野ケ山先生がおっしゃったこと。

「君たち、わかってる? 久々に会えて楽しいと思うけど、その元を辿ると原発の事故があるんだよ。」

そう。あの事故がなければ、福島の高校生たちと京都の中学生たちがこんなふうに交流することはなかっただろう。因果なご縁だ。

あの事故がなければ、日本は普通に原子力発電を続けていただろう。地震津波で夥しい人の命が失われ家々が流されてしまった。妙な仮定だが、あの地震津波でも原発が持ちこたえ、水素爆発を起こさず放射性物質の拡散もなかった場合はどうだったかと考えてしまう。原子力発電所の安全性は大したものだということで安全神話がさらに強化されただろうか?

元々そんな神話は誤りだった。

原発自体がいけないのか? 他国はともかく自然災害が多い日本では無理なのか? もっと安全対策を講じるべきだったのか? これからもっと安全対策を講じたら再稼働できるのか? リスクゼロでない以上、やっぱり原発は動かしてはいけないのか? リスクゼロってあるのか?リスクゼロではないし何万年経っても毒性が変わらない猛毒物質を扱うほかの化学工場などはなぜ動かしてよいのか? 放射性物質というのはよっぽど特別に危ないものなのか?・・・私の考えはいつも堂々巡りしてしまう。

そんなことも、あの事故がなければ考えなかった。あの事故で人生が変わったという人の話をよく聞く。大袈裟に言えば私の人生もかなり変わった。あの事故がなければ、このような形で福島に来ることはなく、たぶん新聞社を辞めず、もっとコンサートやオペラに行って、英語の記事もたくさん書いていただろう。

でも、そのほうが良かったのに・・とは思っていない。事故はないほうが良かったに決まっているけれど、その出来事をどう受け止めてどう行動するかは、それぞれの人生なのだ。私はもはや、あの事故がなかったかのように今日のコンサートの出来がどうだったかだけを考えることも、気楽に反原発を叫ぶこともできない。

その意味で、中学生サミットやこの福島ツアーに来ていた生徒たちは、人生の早い段階で起きた一つの事故をきっかけに、私が中学生や高校生の頃には想像もしなかったようなことを見聞きし、自分の頭の中でぐるぐると考え、周りの仲間と話し合っている。それはすごいことだと思う。

そして2日目の夜。そんな生徒たちの別れのシーンが心に残る。コミュタン福島で一日中の研修プログラムを共にして、最後は輪になってざっくばらんに話し合った生徒たち。夕食は、浪江から避難して二本松の駅前に開業している杉乃家で「浪江焼きそば」を一緒に食べた。いよいよサヨナラという段になると、福島と京都の女子生徒たちのハグが始まり、日頃は早口の京都弁でハキハキ喋るしっかり者のUさんがボロボロ涙を流して名残りを惜しんでいた。震災と原発事故がなければこんな年頃で出会うこともなかったであろう京都と福島の生徒たちが、こんなにも仲良くなって、すぐには解決できない難題に一緒に取り組んでいこうとしている。その絆を深めた二日間だった。

そして、もう一つ印象的だったのは、この企画に関わっておられる先生方の姿勢である。とりわけ記憶に残っているのは、二本松の駅で思い切り手を振って見送ってくださった安達高校の石井先生、郡山市ふれあい科学館を案内してから郡山の駅でお別れした福島大学の岡田先生。お二方のはじけるような笑顔であった。

この研修ツアー自体も、自分がそれに同行することになったご縁も不思議というほかないが、そもそも「企画」というのはそういうもので、ご縁はその後も次々につながっていった。

以下は備忘録。

  • 2月9日~11日 京都発!「福島震災復興プロジェクト」に同行
  • 3月7日 京都教育大付属京都小中学校で報告会に参加
  • 3月14日~15日 東京学芸大学附属国際中等教育学校(TGUISS)の高校生たちの福島研修に同行。浜通り福島第一原発構内を見学
  • 4月12日 TGUISSにて研修ツアーを振り返る座談会を開催
  • 8月20日~22日 中学生サミット in 京都に同行
  • 10月10日~14日 ふくしま浜通りHIGH SCHOOL ACADEMY(英国高校生との交流)に通訳として参加。

こうして振り返ると、福島第一原発の事故があったことによって初めて原発問題を意識するようになったに過ぎない自分が、このように次代を担う若者たちと共に学び、彼らの声を聴く機会に恵まれていることに感じ入る。

当分解決しそうにない難題を考え続け、考えが揺らぎながらも、今年もご縁に導かれてさまざまな人たちとの出会いと再会に恵まれることを祈る。(終わり)

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話し合うこと、伝えること ~京都発!「福島震災復興プロジェクト」⑤~

コミュタンでの研修の最後は「交流会」となっており、「人や住む場所によって異なる放射線や福島の食べ物に対するイメージの違いを話し合い、風評被害について考える」とプログラム上は書いてあったが、要するに生徒たちのディスカッションのために2時間ほど設けられていた。

京都から福島を訪ねた中学生(全員中2)が7名、迎える福島県立安達高校も7名という総勢14人。福島のHさん(高1)、Sさん(高2)、京都のUさん(中2)の3名がファシリテーター(司会)役となって、話し合いが始まった。朝からずっとレクチャーが続いていい加減疲れていただろうが、ようやく生徒たちが話せる時間である。

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冒頭、ファシリテーターから「私たちの方からは最初何も提案しないので、みなさんのほうから、『これだけは話し合っておきたい』『これだけは聞いておきたい』ということがあれば提案してください」と投げかけたところ、早速、京都の中学生から質問が出される。代表7名が福島に来る前に全部で90人いる中2の仲間たちに質問を募ったという。

Kさん(中2):原発事故の前後で生活はどのように変わりましたか?

Iさん(高2):避難区域というわけではなかったが、親が心配して父以外の家族は二本松から新潟県自主避難して体育館とかいろんなところを転々として避難生活をした。(中略)給食のお米が福島県産だったので、うちの親は心配して別に買ってもたせた。

Yさん(OB):放射線とか原発のことを知るまでは、福島県民として福島に住んでいることに誇りを持っていたが、大学に行ってからは、福島県出身であることをあまり言えなくなった。

Kさん(中2)あのような事故を経験して原発の怖さを知った上で、福島の人たちが原発に賛成か、反対か、京都の中学生は気になっています。大人の方々にも聞きたいです。

Yさん(OB):反対。家族の中でも福島の食べ物を食べる食べないとか、避難するとかしないとかで意見が合わない。夜の森地区の桜並木など仲が良かったはずの地域がお金関係で(補償金?)ぐちゃぐちゃになってしまうのも、やっぱり原発があったからなんだなと思うと、やっぱり事故がないのが一番だなと思うので、原発には反対だなと考えている。

Mさん(高3):今は「無」の状態だが、以前は反対だった。仲良かった人たちが仲良くなくなるんなら(原発は)なくてよかったかな・・と思う。

Oさん(高2):逆になんですけど、私は原発に思い入れがあるというか、反対ではないんですよ。どちらかと言うと賛成派で、なんというか、みんなが思っているようなマイナスのイメージは、全部が原発のせいではないと私は思ってるんです。惚れたというか、勘違いしないで聞いてほしいんですけど、私が好きなのは原発の外観とかそういうことなんですけど、もちろん、反対派の人たちの意見もよくわかります。でも、すべてがすべて、原発のせいにはしてほしくないなあと思います。

Iさん(高1):私は反対。福島の原発は東京の電気を作っていたのに、東京の人たちから福島が汚いとか危ないとか言われ、福島に原発があったからそうなっただけで、原発がなければそんなことにはならなかった。

Iさん(高2):原発はないほうがいいんですけど、それに代わるエネルギーが見つからない。

司会:ここまで出た意見に対して何かあれば出してください。

Yさん(OB):すべてを原発のせいにしてほしくないという具体的に例があれば教えてほしい。

Oさん(高2):そもそも・・・(このあたりよく聞き取れず)・・・私は、原発をあまり悪く言われたくないです。

Nさん(中2):反対から「どちらでもない」に意見が変わった理由は何ですか?

Mさん(高3):原発に代わるものがない。原発をやめると日本が破たんすると思う。

Kさん(中2):今、附属京都がやっている活動について、福島の人はどう思っていますか?最初は自分たちも放射線について無知だったし、2年生90人全員が放射線に興味があるわけではありませんが、こうやって自分たちの意志で来て、こういう活動をさせていただいていることについて、どう思っているのか聴きたかったので教えてください。

Iさん(高2):原発事故をきっかけに、他府県の生徒たちも自分たちの県のことをこんあに考えてくれているんだということは刺激になった。

Mさん(高3):高1からずっと活動していますが、あ、仲間だったという心強さがあります。

Yさん(OB):ふつうに「いいなあ」って思ってます。私自身も知らないことが多いから一緒に新しいことを知ろうという活動に参加しています。それから福島県の人だとなかなか言えないことを伝えてほしいなあと思います。

Iさん(高1):一人でも多くの人に福島のことを考えてもらったり、知ってもらえたりすることを、ほかの人にも福島の良さを広めてもらえるのではないかと思います。

Sさん(高2):福島にいるから近過ぎて興味がないっていう子もいっぱいいて、でも、他県の子が福島についていろいろ考えてくれてるのがすごいなあと純粋に思ったし、自分たちだけでは気付けないこともいろいろ知れたりするので、こういう活動を行っていることについては感謝の気持ちしかないです。

司会:では、逆に京都の子たちはなぜこの活動をやっているのか、この活動で自分はどうしたいのかとか、ここに来た理由とかを聞いてみたいです。

S君(中2):最近、野ケ山先生が言っておられたんですけど、原発事故の問題は僕らが大人になっても何十年も続く問題なので、少しでも知識を持っている人が多かったら今みたいな風評被害も小さくなるのではないか。自分たちから積極的に知ろうとすることが大事だと思うんで、難しいことばかりだと思うんですけど、将来の役に立つと思って参加させていただきました。

Sさん(中2):最初は野ケ山先生の話を聞いて、面白そうだと思った。今まで知らなかったことを知りたいという気持ちが強くて、原発については、自分であまり意見がないときに話を聞かされたので、ネットなどで調べるうちにすごく疑問が膨らんで、それに対する答えが得られるかと思って参加しました。

Tさん(中2):こういう取り組みをする前は知らなかったことも多いし、気にもしていなかった。他人事みたいな感じやったけど、ちょっとかじっただけでも他人事にはしてられないなと思った。自分もこういうのに積極的に取り組むべきじゃないかと思い、一人一人が自分から知ろうとすることが大切なんじゃないかと思う。今回、福島に行きたいなと思ったのも、学校ではこういう取り組みをしてますよ、という話を聞くだけで、実際に行ってみないと、雰囲気とか、見てみないとわからない、知りたいなと思って参加しました。

Kさん(中2):私は、親がずっと福島の食べものは怖いとか危ないとか、そういう意見を根強く持っていて、小さい頃から福島は怖いというイメージがこびりついている。この学年になって、こういう活動を知った時にインターネットで少し調べてみたが限界があった。福島大の岡田先生が京都に出張講義を来られたのを聞いて、親の意見だけに縛られ過ぎず、視野が広がると思い、福島に行ってみることにした。

O君(中2):僕もこういう活動に参加するまではあまり知らなくて、好奇心で参加しているうちに、深く知っていきたいなあと思い始めた。語り部さんの話を聞いて、過去の原発の話をすることに批判的な人もいると知った。僕たちがこういう活動をしていることにも複雑な思いの人もいるかもしれなくて、自分勝手かなあと思うんですけど、仲間になりたいという思いで参加してます。

Nさん(中2):私も始めは興味なかったが・・・(中略)・・・自分が知って、身近の人にも伝えられるようになりたいと思う。

Uさん(中2):はじめは興味本位で行ってみたけど、全然単語がわからないし、何言ってるかわからなくて、全然理解できなかったんですけど、回を重ねるうちに、わかることが増えて、話し合いをするというのが面白いなと思って、ほかの県の人の意見が聞けたりするのが面白くて、青森(六ヶ所村)とか、今回の福島とか、やっぱり、人から聞いている話でもわかる部分もあるけど、やぱり、現地の人の声を聴いてみたり、現地の風景とか雰囲気とかを感じることで、京都では学べないことが学べるなと思って、今回福島で人がいない町とか、津波に飲まれて平地になったところとかを見て感じるところがあったので、実際に見てみないとわからないなと思って参加している。

Kさん(中2):語り部さんの話を聞いて一番驚いたのが、「震災からまだ8年」と言うてはって、京都の自分たちからしたら、親は「震災からもう8年も経った」という言い方をする。捉え方が全く違うというのも来てみて初めてわかりました。

Tさん(中2):今日一日、いろんな人の話を聞いてきて、事故があってから、復興が進んできていることとか、食べ物が大丈夫なこととか、そういうことがあることも知ったし、まだ帰れない地域があることも、震災の被害に遭われた方はマイナスのことを心に溜めこんでいることとか、マイナスの面もあると思うんですけど、この活動を人に伝える時、「復興してます」というプラスのことだけじゃなくて、マイナスのことも伝えていったほうがいいと思いますか?

Mさん(高3):私は(プラスもマイナスも)どっちもセットで両方伝えたほうがいいなって思います。福島いいなって言うと、(原発を?)擁護しているみたいに思われそうだし、マイナスのことだけ言うと「まだまだなんだな」と思われる。

Yさん(OB):私も両方伝えたほうがいいと思う。プラスの面だけ言うと「あ、もう大丈夫なんだね」ということで忘れられそう。でも、マイナスのことばっかり言うと、風評被害がなくならないのがイヤだなと思う。

このほか、「語り部さんのように、トラウマになっている過去のつらい話を思い出したくないと思うか?」「大人になったら福島に残りますか?それとも県外に出たいですか?」などの質問が京都の中学生から投げかけられ、福島の高校生たちが自分の思いを語ったところで、司会から一旦休憩のアナウンス。

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休憩から戻ってきたら、教職員の大人たちが教室からぞろぞろ出ていくではないか。なんでも、生徒たちから「自分たちより多い人数の大人たちに囲まれていては話しにくいから出て行ってほしい」とのこと。で、「井内さんだけ残ってください」と言うのだ。え?私はいていいんですか?「オブザーバーとして来たんだし、先生じゃないからいいんですよ」と促される。妙な感じだったが、私は会議室に残って、片隅で黙って彼らの話し合いの続きを聞いたのであった。

休憩前の話し合いが至極まっとうでそれはそれで感心したのだが、思えばそれは少しまとも過ぎるディスカッションであった。大人たちが聞き耳を立てて「見守る」ディスカッションに、生徒たちは窮屈な思いをしながら発言していたのかもしれない。彼らの要望に従って大人たちが出て行った後の会議室は俄然リラックスした雰囲気になった。生徒たちは彼らのペースで話し始めた。ファシリテーターは「司会」という感じではなくなり、喋りたい人が自然に口を開き、聞いているのかいないのか、同時に何人かが話していたり、しょっちゅう笑いが起きたり、なにやら楽しげだ。お互いにぎりぎり聞こえる程度の大きさの声の内容を全部を聴き取ることはできなかったが、彼らの輪の中に入ったり近づき過ぎたりすると、ありのままの対話を壊してしまいそうで、私は少し離れた席から眺めていた。

  原発賛成・反対についてずーっと考えてて、私が信じていた政党はみんな『原発ゼロ!』みたいな感じで、自民党ですらもう止めようって言ったり、本当にそれでいいのかと思うんですけど、どう思いますか?」
「今決めるべきではないと思う」
「いっそ日本が必要とする電力の量をうんと下げる」
「今ある原発をそれ以上作らせないために、今以上に電力を必要とする社会を作ってはいけない」
「アホな政治家をあまり当てにしてはいけないと思う」
「私たちは、ここでいろいろ学んでいるんだから、人よりはたくさん知ってるわけじゃない?そういう私たちが誰かに伝えたりだとか、行動しないと何も変わらないんじゃないかなって思う。国や行政からの情報が信じられないって言ってる人たちも子どもたちが言うことは信じられるんじゃないのかな」
「学校の中で発表の機会があるんだから、少なくとも学校内の人には伝えられるんじゃないの」
「子どもだからこそできることがあるんじゃない?」
「大人には大人の事情があって言えないことがあるから、そういう言えないことを子どもが発信していけばいいって言ってた大人がいた」
「何を発信するの?」
「同級生に広めるのはめんどうくさい」
「子どもたちから大人に伝えるのがいちばん伝えやすい」
「新聞の投書欄は?」
YouTubeの情報は信じてもらえない。SNSは自分の興味あるものしか見ない」
「活動内容をパンフレットにしたら?フリーペーパーとか」
「何を伝えるの?内容は?」
「事実を伝える。全量全袋検査してますよーとか」
「感情が入ると押し付けになる」
語り部さんの物語も風化させずに教訓として伝えたい」
「出来事自体を語り継いでいく意味があると思う」
原発事故で被害を受けた人の気持ちはどうなるの?」
「事実だけを伝えてもへーえで終わる。人を動かすには感情も必要だと思う」
語り部って10年20年経ったらいるだろうか?」

今回の研修参加者は圧倒的に女子が多くて男子はたった2人。少数派はおのずとおとなしく聞き役に回っていたが、司会に促されたS君が発言した。

「この問題はすぐには終わらなくて続いていくんで、小さい頃からある程度のことを知っておいたら、大人が話していることやニュースの内容もわかって、自分なりに考えたりできるので、子どもは頭がやわらかいから、大人では出ないような考え方も出てくるんで、ある程度の事実を踏まえて体験談も聞いたらいいのではないかと思う」

それについて、またみんなから意見が出る。
語り部さんを学校に呼んで、学校で話してもらう」
「修学旅行で福島に来てもらって、そこで語り部さんの体験談を語ってもらう」
「子どもから大人に直接アプローチすることはできるのか」
「東京の高校で生徒が直接澤田先生にアプローチして『放射線の授業やってもらえませんか』って頼んで学校に来てもらったって聞いたことがある」
「私は先生に『君たち、授業してもらえない?』って言われたことがある」
「こういう活動をやっていることをほかの学年にも知ってもらいたい」
「こういう機会があるってことがありがたい」

このあたりで、ふと入ってきたのは地元紙の記者だった。生徒しかいないこの状況に怪訝そうな顔をしながら、唯一そこにいた大人である私に小声で話しかけてこられた。少しばかり様子を眺めて、話し合いが終わってから司会役の高校生に二言三言インタビューしていたのが翌日には記事になっていた。この研修の全体像やなぜ生徒だけで話し合っていたのかという流れは抜きにしても新聞記事は書けるのだ。そういうものだな。

「あと5分ぐらいだよー」と時が経つ早さを感じながら、生徒たちの話し合いはこんな調子で続いた。とくに何かが決まるわけでもなく、大人が期待するようなきちんとしたディスカッションとは言い難かったが、すっかり打ち解けた生徒たちはざっくばらんに本音を出し合っていた。何でも言って大丈夫という安心感と信頼感があったからこそ、大した意見じゃないような思い付きでも何でも、ああでもないこうでもないと考えを出し合うことができ、互いの考えを知り、自分の考えを深めることができたのだ。時間いっぱいまで「対話」を楽しんで、生徒による生徒のための生徒だけのセッションは終了した。(続く)

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福島の食べ物を贈る ~京都発!「福島震災復興プロジェクト」④~

研修ツアー2日目の「コミュタン福島」での長い一日の後半、午後2時から「福島の食べ物に対する風評被害」をテーマにワークショップが行われた。「福島の食べ物を自分の家族や友達に勧めるための手紙を書く」という課題。朝から県の施設に缶詰めで、原子力放射線の基本や震災後の福島の状況について健気に学んだ生徒たちにとっては、いっぺんに詰め込まれた知識をなんとか消化しながらどう伝えるか、悩ましかったに違いない。

元々、発表する想定ではなかったようだが、各テーブルから数人、自分が書いた手紙を読み上げた。それぞれの書きぶりに生徒たちの個性が滲み出ていて興味深い。

やはり、福島の高校生たちの手紙からは、福島産の食べ物に対する愛情が溢れている。

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「・・・私はこの世に生を享けてから18年間、福島に住んでいます。福島は、山が多くて、海にも面していて山も海もあります。この恵まれた自然の中で育った山の命、海の命を頂いて今日まで生きてきました。私は幸せ者です。おいしい野菜や米、肉、魚を食べて生きてきたのですから。これから私が送ったものを食べるときに感じてください。これらからは、一切わだかまりが感じられないと。風評被害により、たくさん食べ物たちは、悲しい思いをしました。ですが、私は食べ物たちをずっと食べ続けてきました。これが私なりの福島への愛の一つだと思っています。あなたも、福島の食べ物に感謝して生きる糧にしてください。糧になれたのなら、食べ物もとても幸せになれますね。おいしく頂いてください。」(安達高校2年Oさん)

「・・・原発事故などの影響もあり、進んで『福島のものを食べたい!』と感じることは少ないかもしれません。ですが、福島で野菜や果物などを作っている農家の方々は事故前と何も変わらず愛情を持って育てていて、それを私たちは口にしています。山があり、海があり、盆地があり、寒暖差のある福島は、おいしい食べ物が創れる最高の場所だと私はほこりに思っています。『ふくしま』の食べ物と言ったら何を思い浮かべますか?桃、なし、りんごなどの果物、会津のお米、お肉、様々な野菜、いろいろなお菓子・・・たくさんあるんです!!ぜひこのおいしさをあなたにも味わって頂きたいと思います。・・・」(安達高校2年Iさん)

放射性物質を気にするであろう相手に配慮した言葉も見られる。

「福島で穫れたお米と野菜です。お米の方は全袋検査を行っており、基準値を上まわっていないことを確認しております。野菜も検査を行っており、基準値を上まわっていないことを確認しております。
データを同封しておりますので是非。
少しでも不安を感じたり、疑問があればこちらまで。
無理はしなくても大丈夫です。
個人的には、おいしいと思うので味見程度でもいいです。お口に合えば幸いです。福島の民」(安達高校3年Mさん)

一方、京都の中学生たちの手紙には、学んだばかりの知識を総動員して、周囲を説得しようというスタイルのものが多かった。 私の実家でもそうだが、関西方面は福島から遠いので、店頭で福島県産の生鮮食品を目にして敢えて購入を選択・決断する機会が少ないだろうし、それだけに震災直後からの漠然とした不信感、不安感が変わらず、福島県産品を避ける感覚(=風評被害)が固定されている家庭が今でも結構あるようだ。

福島県の桃です。・・・“福島”というだけで心配されるかもしれません。データとかを持ち出して説明するのは少し難しくなるので、しません。ですが、冷静に考えてみてください。人が住める地域で育てられています。そして、その人が住める地域というのは安全が保証されているわけです。そこで育っているということは桃が安全に見えてくるでしょう?そして、それでも不安ならば検査結果がインターネットにあがっているので見てください。今、説得してまで食べてもらおうとしている状況がおかしいのです。“売られている”ということは安全です。ということで福島県の桃をお届けしました。召し上がってください。」(附属京都8年S君)

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「これは福島県産の食べ物です。“福島県産”と聞いてどう思いましたか?“放射線が怖い”などの不安がよぎったかもしれません。しかし、福島県産のお米は『全量全袋検査』といって、福島で穫れた米を入れた全ての袋を検査するものがあります。これは米に含まれている放射線量を測定し、基準値を超えたものをはぶいて、安全なものだけを出荷する仕組みです。毎年660万袋の米袋を検査しているにもかかわらず、ここ3~4年間は、基準値を超えたものがないというデータがあります。また、私は福島に行って実際に福島県産のお米を食べました。とてもおいしかったです。そして、福島では『反転耕』や『はぎ取り』を行って、土から放射性物質を除いたり、セシウムという放射性物質が食べ物に入らないように多重の対策を取っています。京都ではこのような検査をわざわざしていますか?していないですよね。福島では3重、4重の対策をとって全国に食べ物を出荷しています。福島の食べ物は本当においしいです。ぜひ、食べてみてください。」(附属京都8年Kさん)

 

ちょっと驚いたのは、京都の中学生のこんな短い手紙。

「知りあいからいただいた桃です。
私も食べておいしかったので、ぜひ食べてみてください。」(附属京都8年Uさん)

これだけ書いて、そのあとに「”福島”ということを特別あつかいせず、そのままわたすことで不信感をもたせず食べてもらもらえると考えました。もし、それでおいしかった場合、また食べてもらえるのではないかと思いました」という添え書きがある。

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どこの桃かということすら言わないのか?・・・福島で食品の検査をしていることを言うと、却って福島を特別扱いで差別していることを自分でも認めることになるから手紙では敢えてそのことに触れないと彼女は語った。なるほど・・そういう捉え方もあるかもしれないと感心した。そうだよね、でも、福島県産だと言うと食べてもらえないと贈り手自身が考えている状況は悲しいんじゃないかな。こういう雰囲気を変えていくには、産地を伏せて贈ったものを相手が福島県産とは知らずに食べるのではなく、たとえ軋轢があっても、福島がおこなっている食品検査などの努力について、もっと知ってもらうことが必要なのではないだろうか。福島県の人々は、食品検査をしっかりやっているという知識があるからこそ福島県産品を買うのだと以前に「風評被害の専門家」だという学者から聞いたことがある。

 

そういう意味で共感したのは、「福島の食べ物が“大丈夫”だというのがウソじゃないかって信じられないんだよね」と相手の心情に寄り添いつつ、語りかけるこの手紙。

「・・・良いか悪いか決めるのはあなただけど、試す前から言ってほしくない。だからこそ、あなたに食べてもらいたい。知らないのは仕方ないけれど、知ろうとしないでいてほしくない。何の根拠も無く、“安全、大丈夫”って言っているんじゃない。食べてみてよ。知ろうとしないで知れる事なんて、何一つないんだから」(附属京都8年Sさん)

 

人に何かを伝えるのは簡単ではない。さらに、人の考え方や感じ方を変えるなんてことは、ほとんど無理だ。身近な相手ほど難しいのではないだろうか。そもそも相手の考えを変えようなどと思ってはいけないのだ。

それでも、この日に自分が学んだことを誰かに伝えるために「手紙を書く」という行為を通じて、まず一人ひとりの生徒が自分と向き合い、それぞれの考えを整理し、誰かを想定して、どのように伝えるかを考えるのは大事なことだ。そういう落ち着いた時間を確保したという意味で有意義なワークショップだった。受け身で話を聴いているだけではなく、各自、真剣に考えて精いっぱい書いていた。

限られた時間内では、全員が読み上げることはできなかったし、読み上げることを想定して書いたわけではないが、さまざまな思いがこもった書きぶりに、生徒たちもそれぞれ刺激を受けたことだろう。

福島産の食べ物に対する愛情と誇りに溢れた福島の高校生の手紙もあれば、「検査している」「線量が基準値以下」など、新しく学んだばかりの知識を頭で理解して家族や友人にもそれを伝えたいという健気な京都の中学生の手紙もある。どう伝えるかで葛藤する気持ちも手紙に表れている。読み上げたからこそ、自分と異なる発想や感覚を知ることができ、いろいろ感じるところがあったに違いない。

もう少し時間があれば、手紙をきっかけにして、生徒同士で話し合えるとよかったかなと思う。全量全袋検査のことをほとんど知らない県外の人たちに、ちゃんと検査していることを知ってもらうほうが良いのか? あるいは、検査していると言うと、『危険だから検査しているのか?』という不安感が増すから言わないほうがいいのか。

相手の考え方を否定するのではないけれど、お互いの意見を交わすところまでできたら、この問題の難しさについて、さらに考えを深めていけたかもしれない。書いた手紙があるのだから、今後の題材にすることもできるのではないだろうか。(続く)