よろず編集後記

よろず編集者を目指す井内千穂のブログです。

ざっくばらんに話し合える場とは?~地層処分カフェに参加して

原発絡みの問題については、自分だけでは何をどう考えていいのかもわからず、無力感と絶望感に陥りがちだ。

どうしたらいいのだろう?自分にできることなんてあるのか?

ということで、稲垣美穂子さんが主催した地層処分カフェに行ってきた。

chihoyorozu.hatenablog.com

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参加者がたった4人とは正直あまりにも少ないと思ったが、これはある意味とても贅沢なことだった。

なんと言おうか、この人数にこの料金で、東大の先生の特別講義を受けたわけだ。しかも受動的な聴講ではなく積極的なゼミだった。大昔の学生時代には経験できなかったような質問し放題の活発な。

その日の講師を務めた徳永朋祥教授は、これまでに私が接した限りの中でも出色のわかりやすい説明をしてくださる驚嘆すべき「専門家」であった。なんでも近年は、スウェーデンの放射性廃棄物処分プロジェクトに関してOECD-NEAの国際評価に参画しておられ、「分厚い資料を読み解くのが死ぬほど大変」なのだそうだ。そういう国際舞台の修羅場を度々くぐり抜けてきたからこそのわかりやすさなのか、見事な比喩を駆使しつつ、素人にもわかる話をしてくださった。

  • そもそも、高レベル放射性廃棄物の地層処分とはどういうことなのか?ほかにどんな処分方法が考えられるのか?
  • 地層処分のサイトとなる深部地下環境に期待されるのは、地表に比べて変動を受けにくく、物質が変質しにくく、物質が移動しにくいという条件である。
  • 放射性廃棄物を閉じこめて安定な形態にしたガラス固化体はオーバーパックという強固な金属製の容器に格納され、オーバーパックと周囲の岩盤との間には、ベントナイトを主材料とする緩衝材が充てんされ、地下水と放射性物質の移動を遅らせる。
  • そのように地層に埋設された放射性廃棄物に対して、地下水の流れはどのような影響を与えるのか?
  • 地表の環境変動(特に約10万年程度の周期で発生する寒冷化・温暖化サイクル)は地下水の流れにどのような影響を与えるのか?
  • 地震は地下水の流れにどのような影響を与えるのか?
  • 処分場建設に関わる人間の活動は地下水の流れにどのような影響を与えるのか?

・・・それでも、一方通行で長い話を聞いているばかりだと集中力が持たなくなり眠気を催したりするものだが、稲垣さんの進行はまさにざっくばらんで、ひと通りのレクチャーを受けてから質疑応答コーナーに移るという形にとらわれず、聞いていてわからなかったり、ふと疑問が湧いたりしたら、その時にその場で「あのー?」と手を挙げて素朴な質問をさせてくれるのだ。退屈するとすぐに眠たくなってしまう私のような者でも、地中深くの構造や地下水についての難解な理系の話に、思ったまま質問しながら、ついていくことができたのは画期的!双方向の充実感があった。

無論すべてを理解できたとは言い難いし、その時にはわかったような気がしたことでも、既に3週間も経つと記憶が薄れてしまっているので、もっと早く振り返っておけばよかったと、その後の自分の多忙が悔やまれるが、それでも、あのディスカッションの充実感は確かな印象として残っている。なんならもう一度同じテーマでも参加したいと思える有意義な時間だった。

なぜ良かったのか?改めて振り返るといくつかポイントがあったように思う。

  • 専門分野を熟知した講師が素人にもわかるようにかみくだいて説明する。
  • 参加者は無知を晒すのを怖れず、随時、質問しながら話についていく。
  • 講師は参加者の質問レベルに落胆せず、「いい質問ですね~」と褒める。
  • 参加者の質問レベルに合わせて講師が誠実にわかりやすく答える。
  • 参加者が互いの立場を気にせず質問し、人の質問にも耳を傾ける。
  • 無理に結論らしいものを出そうとしない。

今回の場合は、人数が非常に少なかったからこそ質問しやすかったと言えるが、仮にもう少し人数が多い場であっても、良い議論ができるかどうかは、講師の説明の巧い下手だけでなく、参加者の知識レベルの問題でもなく、両者の姿勢によるものなのだと感じた。もちろん、司会者が双方向の発言を促す雰囲気作りも大事だ。

これは地層処分の話に限らない。

ちなみに、東京の地下が地層処分に適しているのかどうか尋ねてみたところ、地下水の状況から判断すると「適していない」のだそうだ。東京の地下を最終処分場にすることを真剣に検討すべきだと考えていた私としては残念な知見であるが、そうなると一体どこに最終処分場を設けるのが合理的なのだろうか?立候補する自治体があるだろうか?住民を説得することなんてできるのだろうか?

「どこ」という具体的な立地についての明言を避けつつ、処分場となる場所の地下深くに埋めた高レベル放射性廃棄物を“未来永劫”(無理!?)とまでは言わないまでも、数百年は管理する使命を帯びた研究施設を中心とする学研都市を建設するというイメージが示された。そこに原子力や地層処分に関わる研究者が集まり、家族も住まい、そのための商業・教育・医療福祉施設なども作っていくというシュールな町づくり・・・うーん。

元々簡単に結論が出る話ではないが、何をどのように考えて解決策に近づいて行けばよいのか、疑問を投げかけたりアイデアを出したりすることはできる。知識がないならないなりに、教えてもらいながら、学びながら、立場が違ってもそれぞれの意見を自由に述べ合えばよい。何もわかっていない素人は黙ってろと言われる筋合いもないし、「専門家」を無用に非難していてもはじまらない。

原発問題全般を覆う不毛な対立を見るにつけ、ネガティブな態度からは何も生まれないとつくづく思う。

ゲンロンβ7 特別公開版

たった数人でも、建設的なコミュニケーションの可能性を見出せたのは貴重であり、相互不信ばかりが募って何も解決されない絶望感の中で、一筋の光明を見出すようだった。

次回は1月頃に予定しているとのこと。稲垣さん、私はまた参加しますよ。

 

 

核のゴミの地層処分について考える場

原発から出る高レベル放射性廃棄物をどうするのか?

数年前まで私はそんなことを意識することもなく暮らしていた。この問題の深刻さに初めて気づいたのは、東日本大震災福島第一原発が事故を起こしたことがきっかけだから、まあのん気なものだったと恥ずかしく思う。折しもフィンランドの放射性廃棄物最終処分場「オンカロ」を扱った『100,000年後の安全』というドキュメンタリー映画が上映されていて何度か見たことを思い出す。

映画『100,000年後の安全』公式サイト

震災後も被災地の現地取材とは無縁の部署にいたが、あの頃にわかに注目された再生可能エネルギーの送配電を安定させるスマートグリッドや、電気使用量の可視化や蓄電・放電をコントロールできるスマートコミュニティに関する広告特集を担当することになり、全く知識のないテクノロジー関連の紙面を編集するためになりふり構わずアプローチしたネットワークから芋づる式に知り合った人々のうちの何人かが現在にもつながっている。

その中の一人、フリージャーナリストの稲垣美穂子さんは、大学在学中の2006年から高レベル放射性廃棄物の最終処分問題を取材して回り、ドキュメンタリー映画『The SITE』を2012年に発表したというツワモノだ。これは『100,000年後の安全』の日本版とも言える内容の作品で、高レベル放射性廃棄物を巡るきわめて日本的な現状が、体当たり潜入ルポによって赤裸々に映し出されていた。

www.uplink.co.jp

渋谷のアップリンクで開催された上映会&トークイベントに参加して、若い女性でこんなことやっている人がいるなんて!と驚いたものだった。なんとか記事にできないかと思い、その頃担当することになったジャパンタイムズの女性誌The Japan Times for WOMEN(日本語)で「行動する女性が地球を救う」という、なんとも大層なタイトルの特集を作って彼女の活動を紹介したのが、当時の私の立場でできるせめてもの被災地関連の記事となった。

それから数年ご無沙汰していたが、退職後に再び連絡を取るようになったのだから、人のご縁というのはまことに不思議で味わい深いものがある。この春先には一緒に福島の沿岸部を訪ねた。

先月、彼女の企画による地層処分についての勉強会に参加してきた。

勉強会と言っても堅苦しいものではなく、「地層処分について、気になるテーマを一つ設け、その専門家や事業関係者と市民が賛否を超え、直接ざっくばらんに話し合える小規模&カジュアルな場」だという。

ameblo.jp

日本では、原子力発電に伴い発生する使用済核燃料を再処理し、ウランプルトニウムを回収した後に生ずる高レベル放射性廃液を、ガラスで安定的な状態に固形化し(ガラス固化体)、30~50年間、冷却のため貯蔵・管理したうえで、地下300メートル以深の地層に埋設処分(地層処分)することとしている。

www.enecho.meti.go.jp

しかし、最終処分場をどこに建設するかはいまだに決まらない。

なにしろ、どんなに家の中を断捨離してスッキリさせても、私たちは原発開始以来50年分の核のゴミを捨てることができず、青森県六ヶ所再処理工場をはじめ各地の原発に貯めこんだまま、日々電気を使って暮らしているのだ。日頃そこまで意識することがなくとも、断捨離的な考え方で行けば、このゴミは世の中を覆う暗雲にかなり影響しているのではあるまいか・・・非科学的だろうか?

捨てたいのに捨てるに捨てられず、無害になるまでに10万年もかかる高レベルの放射性廃棄物が、ガラス固化体の形で現状でも2万5千本もあるのはどう考えても大変なことだ。

原発の再稼働に反対でも賛成でも、既に発生しているこのゴミをどうにかしなければならない。誰にとっても他人事ではないはずだ。しかも、もんじゅ廃炉するというのだからプルトニウムをどうするかも大問題になる。どうしたらいいのだろう?

そのような問題を独力で調べたり考えたりするのはとても難しい。しかし、そんなことは自分の力の及ばない領域であって、国や電力会社や原子力の専門家が考えるべきなのだと言って、人任せにしてしまって済むものだろうか? 電気を使っている市民として無責任ではないのか? そして、人任せにして放置したリスクは自分や自分の子孫にも降りかかるのだ。

自分のような素人の市民にも何かできることはあるのだろうか?

「関係者と市民が直接対話できる場や建設的な議論の土台作り」を提供しようと、今も地道な活動を続けている稲垣さんにまた会いたい!という気持ちもあり、二度目の開催となる地層処分カフェに行ってみた。今回はテーマは「地下水と地層処分」である。

会場に着いてみると、定員30名に対して参加者が私を入れて4人しかいなくてちょっと拍子抜けだった。今日の講師として、東京大学大学院新領域創成科学研究科環境システム学専攻の徳永朋祥教授が招かれている。そして、司会が稲垣さんということで総勢6名という状況。この少人数では東大の先生がちょっと気の毒だなあ・・と出席した私が思うのもなんだが、ちょっと寂しくないか。

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 しかし、結果的にこれがとてもよかったのだ。(続く)

 

御宿でも黒沼ユリ子さんのヴァイオリンはひるまない

10月1日に千葉の御宿では黒沼ユリ子さんの「ヴァイオリンの家」が初めて一般公開されたはずだ。

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9月30日のオープニングでは、黒沼ユリ子さんと駐日メキシコ大使や御宿町関係者のご挨拶がひと通り終わってから、ヴァイオリンの演奏が披露された。

「今回は友人の波多野せいさんとヴァイオリン二重奏で、このホールの木のひびきをお聴きになりながら、この家の将来に夢を馳せていただけたら、と願っております。」

と案内文にもあった。公のコンサートホールでの演奏は2年前に引退を宣言された黒沼さんのヴァイオリンを再び聴くことができるとは!

久々に聴く黒沼ユリ子さんのヴァイオリンが、しみじみ心に染みた。

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黒沼さんがメキシコに設立した音楽学校アカデミア・ユリコ・クロヌマで3年間子ども達を指導し、帰国後はアンサンブル・コルディエの代表として活躍されている愛弟子の波多野せいさんとぴったり息を合わせる。

自分はなぜコンサートに行きたいのか?と自問するたびに思うのは、それは何も演奏者が機械のように正確に弾けることを検証しに行くわけではないということだ。正確無比でも無味乾燥な演奏には、心を動かされることはない。

何が人の心を動かすのだろう?音楽は不思議だが、演奏家であると同時に非常に明晰な文章を書かれる黒沼さん自身が著書『ヴァイオリン・愛はひるまない』の中で音楽について語っておられる。

「ヴァイオリン・愛はひるまない」: 井内千穂のうたかた備忘録

「音楽とは、文章も色も形も残らず、音という空気とは切っても切れない不可思議な媒体を通じて、作曲家が自分の思いのたけを白紙の五線紙の上に記したモノを、演奏家が作曲家の気持ちを推しはかりながら、自分なりの感情も込めて空気を振動させ、聴く側に生きた楽曲として届け、受け止めてもらうモノ。その曲が作曲されてから何百年たっても演奏者によって生き返らせることができる、全く信じられないようなことを、この地球上で人間のみが創り上げたモノなのだ。コンサートの座席に坐る聴衆は、演奏を聴いている間、自分を非日常な空間に飛翔させ、人間のあらゆるエモーショナルなモノを音から自由に連想している自分を発見するはずだ。」(第1楽章 「ヴァイオリンが人生を決めた」より)

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壁に掲げられた1967年のポスターに当時の黒沼さんの姿があった。1958年に18歳でチェコプラハ音楽アカデミーに留学した黒沼さんは、60年代から世界各地で演奏活動を繰り広げた。60年代にはまだ幼児だった私は残念ながら若かりし黒沼さんの生の舞台に接する機会はなかった。

私の母とほぼ同い年になられた現在の黒沼さんの演奏は、全盛期とは違っているのだろう。しかし、高音域の音程云々という次元を超えた、人生経験のすべてが音に込められた魂を震わせる演奏は、今だからこそなのだと思う。

「メキシコの山田耕作のような作曲家」と黒沼さんが紹介するマニュエル・ポンセは、「エストレリータ(小さな星)」で有名だが、黒沼さんのCDにも収められ、いつもコンサートでも演奏される「ガボット」も本当に美しい曲。サロン風とも言えるロマンチックなメロディが、私には「いろいろあるけれど、それでも生きてきてよかった。いろいろあっても生きていこう」という優しいエールのように聴こえる。憂いを湛えて清々しく、大好きな曲だ。

ショスタコーヴィチの3つの二重奏曲は、東日本大震災以来、さまざまなチャリティにも取り組んでこられた黒沼さんにとってシンボリックな作品だと言う。

「冒頭の前奏曲は、亡くなられた方々への鎮魂歌のようにどうしても思えるのです。2曲目のガボットは、楽しかった思い出。そして最後のワルツは、亡くなった人たちのためにもがんばっていこう、と未来に向かう曲に聴こえます。」

7年前にインタビューさせていただいた時、「子ども達が音楽を好きになるようにさせるにはどうしたらいいんでしょう?」と質問したら黒沼さんは即答した。

「教師がみずから音楽への愛を示すことです。子どもの目の前で、こう~やって(とジェスチャー)ヴァイオリンを弾いて見せてあげることです。そうしたら、ああ、あんなふうに弾きたいなあと子どもは感じますよ」

そんなふうにいつもお手本を見せてあげていたに違いない、気持ちのこもった力強い弓と身体の動き、ほとんど目を閉じた顔の向き。そのすべてが音楽への愛に溢れている。

ああ、この人は一生涯ヴァイオリンを弾き続けるのだ。改めてそう思った。

終戦後まもなくヴァイオリンを始めた幼い女の子は、コンクールで優勝し天才少女として名を成し、チェコへの留学以来、世界へ羽ばたいた。その後40年も暮らしたメキシコの文化やその歴史的背景をはじめ、その時々の社会情勢にも強い関心をもつ探求心に満ちた知性と、出会いや別れが続く人生の喜怒哀楽すべての感情が、音に反映される。

弾いておられる姿に思わず涙が溢れてきた。

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それは、こんなにも間近で演奏に接したからかもしれない。

1,500人収容できるコンサートホールを満席にすることも立派に違いないけれど、たった40人、今この場に居合わせた、それぞれの顔がはっきり見える人たちのために心をこめたヴァイオリンの音が小さな木のホールに響く。

なんと豊かな時間だろう。

御宿に黒沼ユリ子さんのヴァイオリンの家がオープン

2014年1月。紀尾井ホールで開かれた引退リサイタルの舞台でアンコールに応える前にヴァイオリニストの黒沼ユリ子さんは客席に語りかけ、突然宣言した。

「私はこのたび日本に帰ってくることを決意しました」

会場からは驚きのどよめきの後、温かい拍手が沸き起こった。

黒沼さんは、それまで40年以上にわたりメキシコを拠点に活躍してこられた。世界中で演奏活動を続ける傍ら、メキシコで大勢の子ども達にヴァイオリンを教え、教え子の中には今やメキシコを代表するソリストもいる。

私が黒沼さんの著書『メキシコからの手紙』(岩波新書)を読んだのはいつだか思い出せないほど前だが、その頃はまさか実際にお会いすることになろうとは思いもしなかった。2009年4月、インタビューさせていただくことになった時には「あの方にお会いできる!」と胸が高鳴ったものだ。

メキシコ音楽祭中止: 井内千穂のうたかた備忘録

それ以来、何度か記事を書かせていただき、お付き合いが続いている。ユリ子さんも、お姉さまで敏腕マネージャーの俊子さんも大好きな女性であり尊敬する大先輩である。

2014年5月、黒沼さんは長年暮らしたメキシコを離れ、千葉県の御宿町に移住されたのだが、なかなか伺えないでいるうちに2年経ってしまった。

先月、俊子さんからご案内が届き、とにもかくにも御宿へ行こう!と決めた。もっと遠いかと思いきや、房総特急わかしおに乗れば、東京駅から1時間20分ほどで着く。小さな静かな駅で降り、メインストリートの「ロペス通り」をまっすぐ歩くと、ほどなく「フリ-ダ・カーロのコヨアカンの青い家のような」とメールに書いてあった通りの鮮やかな青い家が見えてきた。

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 このたび黒沼ユリコさんが作られた「ヴァイオリンの家」であり「日本/メキシコ友好の家」でもある。9月30日、そのオープンを祝う会が開かれた。

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 東京から駆けつけたカルロス・アルマーダ駐日メキシコ大使を迎えてテープカットが行われてめでたくオープン。参加者は床も壁も鮮やかなイエローにペイントされた階段を上がって2階へ。

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 2階には、大小さまざまな人形がずらりと展示されている。ご夫君の故・渡部高揚氏が世界中で集められたもので、すべてヴァイオリンを弾いているというすごいコレクション。ここには300体ほどあるが、まだ全体の3分の1だとか。

さらに階段を上がった3階は、木の床に木の天井が素敵な弦楽器のためのミニホール。40席ほどの小さなコンサートができる。

1609年の9月30日、スペイン領フィリピンの臨時総督の任務を終えたドン・ロドリゴら373名を乗せた帆船サン・フランシスコ号が、メキシコ(当時スペイン領)へ向かう途中、嵐に遭遇し、御宿沖で座礁した。これを見た御宿の人たちは、初めて見る異国の遭難者たちを救出し、献身的に介抱を行った。

「御宿は400年前にメキシコと日本が出会い、交流が始まった場所。そこに小さな交流の拠点としてこの家を作りました」と黒沼さんがご挨拶。

「当時の奇跡のストーリーを現代においても忘れてはならない。子ども達にも語り継ぐべきだ」とアルマーダ大使も応えて述べた。

「1609年の9月30日、まさに今日は暴風雨だったのです。だから、今日も暴風雨が心配でしたが、おかげさまでお天気になりました」と黒沼さんは語り、会場は笑いに包まれた。いつもながらスピーチの巧さにも感服する。

大使ご夫妻のほか、御宿町役場や町議会からも重鎮が出席し、御宿ネットワークのメンバーの方々が、ボランティアとして会場の設営から飲み物・食べ物のサービスまで、和やかにサポートしていた。

ネットワークを代表して挨拶された作家の安藤操氏の言葉が面白い。

「黒沼ユリ子さんは女王様なんです。土地には霊魂が宿っているものですが、黒沼さんは女王として御宿とメキシコの地霊を結びつけ、その接点に立っている不思議な行動力を持った人です。」

それにしても、御宿に移住してまだ2年ばかりの黒沼さんが、町ぐるみ人々を巻き込むパワーは凄い。御宿ネットワークは昨年「この指とまれ!」で立ち上げたそうだが、40人ぐらいからスタートして今は80人ほどのメンバーがいるという。地元の人も首都圏から移住した人も、黒沼さんを核にして集り、知り合い、互いに親しくなり、楽しく活動されているようだ。

この居心地の良い青い家が、これからは週末と祝日に地元の人々が集うコミュニティセンターになり、日本とメキシコという国際交流の場にもなる。もちろん、東京からもぜひお出かけくださいとのことだ。

コンサートだけでなく、メキシコの映画や音楽フィルムなどの上映もやりたいと黒沼さんは述べた。

「そうやってみんなで集まれば、その後でお茶でも飲みながら音楽や映画の感想を話し合ったりできるでしょう。」

立川のアーティスティックスタジオLaLaLaとも相通じるコンセプトで、私は自分がそういう場所にとても惹かれ、ご縁があるのだと改めて感じた。心から尊敬する黒沼ユリ子さん・俊子さん姉妹もそういう場所を作られたのだと思うとますます嬉しくなる。

そんな場所が全国各地にどんどん増えればいいと思う。知らないだけで、実は近所にもあるのかもしれない。探してみよう。なければ、いつか自分で作りたいもんだなあ・・・大きくなくていいのだ。こじんまりと居心地よく、人の温もりが感じられ、老いも若きも集える場所。

ボランティアっていろいろ負担に感じたり、コミュニケーションが難しかったりする場面もあるけれど、「この指とまれ!」で御宿ネットワークに集まってきた、様々な人生経験を経た大人たちが、この素敵な家で和気あいあいとおしゃべりに花を咲かせ、てきぱき動いておられる様子は実に楽しげだった。翌日の一般公開の段取りなど相談しながら、初めて伺った私にも気さくに話しかけてくださる。メキシコ産のコーヒーを淹れてくださったのは、釣り好きが嵩じて御宿に移住したという元プロのコーヒーマンだった。美味しかった!また来ます!!(続く)

(2016年10月1日(土)から一般公開)

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秋を告げる金木犀

以前は金木犀の香りがあまり好きではなかった。クセのある甘い香りは主張が強すぎるような気がした。

しかし、気になる香りではあり、以前のブログにも何度となく書いていた・・・ということを今も覚えているほど、気持ちを掻き立てるインパクトがあるのは確か。

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その後しばらくブログを書かないで年月を経てしまった。毎年10月の始めには必ず金木犀の香りがしていたはずだが、あまり覚えていない。金木犀が香るほんの一週間ばかりの日々が、とくに意識に上ることもなく過ぎ去っていたのだろう。意識に上らないことは書かれもしない。

久々にブログを再開したら、金木犀の季節が来たことに気づいた。どうやら、昨年までより幾分、自分の季節感が戻ってきたようだ。そして、香りによって、過去に書いたことを思い出し、書いたものを読み返すと忘れていたその時の感情がよみがえる。

進歩も成長もないような気がしていても着実に変化はある。今年は昨年と同じではない。昨年の今頃は、会社を辞めることを決め、退社時期を具体的に考えているところだった。

しかし、季節の巡りは几帳面に繰り返し、時は同じところをぐるぐる回っているだけのようにも思える。地球規模で見ると、温暖化やら環境の変化やらで、気づかないほどの変化が毎年少しずつ進行しているのだろうか?そう言えば、金木犀の開花がだんだん早まっているような。

・・・今年は金木犀が香りませんでした・・・

いつかそんな年が来たら世界は滅びるのだろう。

また一年が経ち、金木犀の季節がちゃんと来た。今年はその香りにいち早く気づいたのが妙に嬉しかった。なぜか香りも以前より好きになった。

金木犀が高らかに宣言しているのが頼もしい。

 秋が来た。

 

 

 

安達朋博ピアノリサイタル@杉並公会堂2016その3 ~打ち上げ編~

演奏会の楽しみの中に、終演後の打ち上げというものがある。

高校時代、文化祭のフィナーレを飾る吹奏楽部の本番後、帰宅が遅いと親から叱られたのが打ち上げの最初だったろうか。大学時代はまさに「のだめカンタービレ」的な宴会を繰り広げる学生オケにいた(音大でもないのに)。

まあ、そういう世界は自分が演奏する側にいた頃の話であって、卒業後のコンサートは、夫婦や親しい友人で帰りに杯を交わしながら感想を述べ合うという上品なアフターか、そうでなければ一人で行って黙って聴いて余韻に浸りながら一人で帰るケースがほとんどだ。

それが、たまに音楽の記事を書くようになってから、記事と同じくたまに終演後の打ち上げに参加することもある。インタビューが盛り上がって意気投合した、演奏に非常に感銘を受けた、今夜は締め切りを気にせず飲める!など、理由はさまざまだが、これはコンサートに行くよりさらに、よっぽどのご縁というものだ。

そういう場の一つが、安達朋博氏のコンサート後の打ち上げなのである。よっぽどのご縁はさらに不思議なご縁を運んでくる。何らかのきっかけで安達氏のピアノに心を惹かれたという共通項が、他人同士を一歩近づけるのかもしれない。一種の磁場のようなものか。

限界に挑むような渾身の演奏を終えた直後のアーティストに間近で接するのは、こちらもかなりドキドキするものだが、お互い人間であり話もできるというアーティストに一層の共感が湧くのも自然なこと。

アーティストの言葉は社交辞令ではない、ということを私は安達氏の打ち上げで出会った他のアーティスト達から学んだ。普通ならお互いスルーしそうな何気ない会話が実は本気であり、二度とないチャンスをもたらすことがあるのだ。それは、突然ビジネススクールに通うことだったり、30年ぶりにオーケストラに参加してマーラーの銅鑼を叩くことだったり、何につながるか全く予想もつかない。そうした素っ頓狂なきっかけに、なるべくオープンでいたいと思う。

打ち上げにも内輪の慰労会のようなものもあれば、今回のように、アーティスト安達朋博の今後のプロジェクトのお披露目とお客様との交流を目的に、誰にでもオープンな懇親会もある。演奏後の安達氏は半ばぐったりしてはいたが、居合わせた人々にお礼を述べ、来たる演奏会への応援を直に呼びかけていた。

打ち上げの場では、自分が誘った友人たちとゆっくり言葉を交わすこともでき、友人を他の友人に紹介したり、自分も他の参加者に紹介してもらったりというそれなりの社交がそこここで繰り広げられていた。ひょっとしたら、のちのち人生に大きな影響を与える出会いもあるかもしれない。

そうか。わざわざ演奏会に足を運ぶのは人に会うためでもある。

人々が作る場に音楽が響き、音楽があるところに人々が集まる。

それがいいんだろうな・・・乾杯!

安達朋博ピアノリサイタル2016@杉並公会堂その2 ~裏方編~

演奏会って何だろう? 好きな曲をネットからダウンロードしたりCDを買ったりして一人で聴くのと何が違うんだろう?

と安達朋博ピアノリサイタルに行って改めて考えてしまう。

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安達朋博氏の演奏を最初に聴いたのは、コンサートですらないクロアチア関連のイベントだった。人々が食事と歓談を楽しみ、ほとんど聴いていない喧騒の中、聞いたこともない名前のクロアチア人作曲家の曲を彼は電子ピアノで弾いていた。それがドラ様の「ばら」だったわけだが、その健気な青年を妙に応援したくなって、彼が立ち上げた日本クロアチア音楽協会の初回のコンサートに行ってみたのが二年ほど前だろうか。

それ以降、都合がつく限り聴きに行っているのが不思議と言えば不思議だが、彼の周囲にはそういうリピーターやファンが大勢いて、さらに増えてきているのだから、魅力を感じているのはどうやら私だけではないようだ。まだ放っておいてもお客がたくさん集まるとは言えないまでも、少しでも集客に貢献しよう、自分の友達にも聴いてもらいたい!と思う人が着実に増えていることは間違いない。

これまでの演奏会は普通にお客として聴きに行っていたのだが、そうこうしているうちに、ご縁の連なりと諸々のタイミングの加減で今回はいつの間にか裏方を手伝う流れになった。

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とは言っても、直前の要請に応じる形で当日ボランティアに入ったに過ぎない私は、現場の状況に面食らったし、その場で臨機応変に対応しようにも、いかんせん素人なので要領を得ず、そういう自分が不甲斐なかった。元々そんなに気が利くほうでもないし。いやもう、招待券や当日預かり券の宛て名を探す分類不明のカルタ取りのような受付には正直まいった。こんな風に手伝うぐらいだったら、いっそのこともっと修行を積んでプロフェッショナルに動けたほうがいいのか?!・・・音楽事務所の存在意義を改めて感じた次第。

しかし、そういう事務所に所属せず、独立独歩で活動しているのもまた、安達朋博氏の独自性の一端なのである。このような自主公演の現実を踏まえれば、これまで私がただ聴くことに専念していた演奏会にも当然ながら「裏方」として支えてくれた人たちがいたわけで、今さらながら彼らに頭の下がる思いであった。

と同時に、裏方の事務に気を遣っている心理状態は、「聴く」という立場からすると考えものだと思った。今回の場合、ドラ様のソナタの1楽章は残念ながら聴き損ねた。2楽章に入るわずかな隙に客席に忍び込んだが、ああ残念・・・と思うのは、お客の自分であって、裏方ならば席でゆっくり聴いている場合ではないだろう。

手違いでCDの販売要員がいないことも知らず、休憩時間中はなんとお客様の中から高名な音楽評論家や演奏家の方々が売り子を買って出てくれていたという話をあとで聞いた。その自然体のボランティア精神には敬服しつつ、何ともいたたまれない気持ちだ(一体どういう采配になってるんですか!?)。終演後は拍手し終えると即、CD売り場に飛んで行った。それでは遅いのだけれど。

そういうことは、5月に某チャリティコンサートの地方巡業に同行して初めて裏方を経験した時にある程度わかったはずだが、あの時にはさすがに事前の打ち合わせや小規模とは言え絶妙なチームワークがあったし、同じ公演が何度もある巡業なら部分的に少々聴き損ねても明日は聴こうなどと思えた。

今回は当日だけのボランティアをできるだけやりますとは言ったものの、一日限りのリサイタルにチケット代を払って来ているのだから、そりゃあ聴きたいのが当然だ。本来聴きに来たお客(だったのかどうなのか?)が中途半端に兼任するのではなく、業務として割り切ってそれに専念する人が必要なのだ。

当たり前のことだが、演奏者だけでは演奏会はできない。もちろん、演奏者がいなくてはそもそも始まらないけれど、聴いてくれるお客様がいないと話にならない。だからこそ演奏会のことをなるべく多くの人たちに知ってもらう広報活動もあるわけで。実際に演奏する会場を確保し、会場内で当日の全てのプロセスをスムーズに進め、お客様に不快な思いをさせずに楽しんでもらうために各持ち場で担当者が動き、全体を統括する人も必要。もちろん何をするにもお金がかかる。

録音で聴ける時代でも、そんな面倒な手間ヒマかけてまで一期一会の生の演奏を聴かせよう!聴こう!!というのが現代の演奏会なのだ。

そういうお膳立ての上で、「奇跡のような演奏とお客様の喝采」に満ちた場が実現できたなら裏方冥利に尽きるだろうか。そちらに徹してみると、もっと見えてくる(聴こえてくる)ものがあるかも知れない。

今回は中途半端なボランティアとして感じるところがあり、それはそれで貴重な経験だった。演奏会の醍醐味の一部ととらえよう。前向きに、建設的に。