よろず編集後記

よろず編集者を目指す井内千穂のブログです。

冊子『福島第一原発と地域の未来の先に・・・』は語りかける

コロナ禍中の4月下旬、これまで福島第一原発廃炉現場と社会をつなぐ様々な取り組みを展開してきた一般社団法人AFWから、冊子『福島第一原発と地域の未来の先に・・・ ~わたしたちが育てていく未来~』が出版された。

AFW代表で元東電社員の吉川彰浩さんとは、中高生のスタディツアーに同行する中でご縁をいただき、今年2月下旬に実施された京都の中学生たちの福島ツアーでもお話を伺った。その一週間後には全国の小中学校が休校になったという本当にぎりぎりのタイミングで実施できた貴重なツアーだった。

chihoyorozu.hatenablog.com

 

うかつにも私が冊子の出版に気づいたのは、5月も半ばになってから。ふとfacebookに流れてきた吉川さんの投稿が目にとまり、メールを送って購入させてもらった。

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まず、表紙がパワフルだ。facebookの投稿では画像として見ていた実物を手にしげしげと眺める。光が射し龍が昇る印象的な図柄。惹きつけられるままに、この表紙ビジュアルを手がけたユアサミズキさんがYouTubeに公開しておられる「ペインティング風景を300倍速の3分40秒に凝縮した」という映像を見て驚愕!

youtu.be

そこには福島の断崖絶壁に第一原発が建てられ、津波と事故を経て廃炉に至るまでの歴史が描き重ねられていた。過去の記憶は失われず、しかし次の時代の出来事が上書きされていく先に、龍が立ち現れ天に昇るのか・・

冊子の構成と文章は吉川さんが担当、デザインとイラストはユアサさんという共同製作だ。

印象的な表紙と同じく、

  • 第1章「福島第一原発が出来るまで」
  • 第2章「暮らしを支えた発電の時代」
  • 第3章「世界史に残る存在へ」
  • 第4章「事故の収束と事故処理」
  • 第5章「地域再建と廃炉
  • 第6章「廃炉後の未来に向けて」

という6つの章立てで、30ページほどの薄い冊子に福島第一原発の過去と現在と未来がぎゅっと詰まっている。

風評被害や処理水など福島の複雑な問題や、発電の仕組みから事故の経緯など原発に関する技術的なことなど、何度となく現地を訪ねても理解が追いつかなかった話が、豊富なイラストにも助けられて改めて整理でき、前よりわかったような気がする。

ユアサさんが描く核燃料のキャラクターがいい。赤くて丸くて憮然とした顔が分裂したり溶けたり大気中に飛び出したりする。そして、歴史の上で誰も悪者にせず、それぞれ努力した人々の歩みをありのままに伝え、読者の考えを促す文章は、吉川さんの誠実な語り口そのままだ。

「今までにない内容と工夫(普遍性の学びや気づきを目指したこと、ニュートラルな内容に拘ったこと、お子さんでも取っ付きやすいイラストに拘ったこと、当時、原発職員の吉川とユアサさんというタッグだからこその描ける内容、etc)が評価を頂いています。」と吉川さんはfacebookに書いておられる。

最終章をしみじみ読み返す。

過去から渡されてきたバトンを、その時々で様々な立場や年齢の人達が、未来に向けて最善と思える渡し方を続けてきた。震災と原発事故の前にも後にも、人々の選択と決定の積み重ねというバトンが引き継がれて現在に至った。そして、未来につながっていく選択と決定が今おこなわれている。地域住民の立場と原発側の立場とで議論が繰り返されながら、「福島第一原発と地域のこれからは、バトンの渡し方を模索し続ける姿そのもの」なのだ。

誰もが持っている「次の世代へ渡すバトン」をどう渡せばいいのか?その渡し方がわからなくて迷ってしまう「そんな時にこの場所と歴史に触れてみてください」と吉川さんは語りかける。

コロナ禍に飲み込まれて世界中が被災地になり、「福島どころではない」気分にも陥りかねない今日この頃だが、廃炉作業も地域の再建も、日本と世界のエネルギー問題も、粛々と現在進行形である。

戦争を知らず、高度経済成長期に育ち、バブル期の就職と挫折を経て子どもを産み育て、何かしようともがいているに過ぎない自分のような者が、一体どんなバトンを渡し得るのだろうか?

ユアサさんの表紙の下に堆積している夥しい色彩の小円と、切り裂くような直線の数々のどこかに、わずかでも何か自分の痕跡が残るだろうか?たとえ、天に昇る龍の姿をこの目で見ることはできなくとも。

あらためて自分がやっている事の意味を問い直している。これから「コロナの時代」を生きて行くためにも。

 

 

 

 

浪江町を歩く 〜2020京都発ふくしま「学宿」その7

ここ数年、ご縁あって中高生のスタディツアーにたびたび同行させてもらっている。毎度、盛りだくさんなプログラムで、いずれも学びの刺激に満ちていたが、何と言ってもその醍醐味は、生徒たちが日常を過ごす家や学校を遠く離れ、仲間と一緒に未知の土地を自分の目で見て肌で感じる「旅」に出る、そのことにある。

今回のツアーではとくに「現地の大人との対話」に重点が置かれ、それぞれ貴重な対話の場だったし、生徒同士の話し合いも大いに盛り上がったが、プログラム終了後の帰路、多くの生徒が「印象に残ったこと」に挙げたのは「浪江町フィールド学習」だった。やはり、バスから降りて自分の足で歩いた浪江町の姿は強烈な印象を残したようだ。

 

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2月23日、新福島変電所で東京電力との対話を終えてから富岡ホテルで昼食。JR常磐線の富岡駅前にホテルができたのは2017年10月とあるから3年近く経っている。私が初めて浜通りを訪ねた2016年春には、まだ駅舎が津波で流されたままの状態だった。新しい駅舎ができ、復興住宅には少し人の気配がある。毎年少しずつ変わっていく。

さて、バスはまた国道6号線を北上。車窓からの風景を見ながらコーディネーターの菅野孝明さんの解説を聴く。

  「ここから帰還困難区域です。警備員が立っています。先ほどと状況が一変していると思います。横道にそれる道路には全てバリケードをして、自由に立ち入ることができないようになっています。建物も、9年前の3月11日のあの時の地震以来の状況が目に飛び込んできていると思います。これが帰還困難区域の現状だと思って見て行ってください。」

生徒たちから「うわー」とどよめきがあがる。

道路沿いのモニタリングポストは1.76μ㏜/h。菅野さんの説明では、復興のスピードを上げていくために、幹線道路には、線量が高い地域であっても除染をして自由に通過できるようにする「特別通過交通制度」が適用されている。

「帰還困難区域の中にはいくつかこういう場所があります。自由に通行できるようになって便利になりました。一方で、バリケードを張ることによって、帰還困難区域に住宅があって、年間30回、自宅に帰ることが許されている人たちは、いちいち国に鍵を開けてもらって中に入るという手間が増えました。」

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 「この先の道路の両脇をよく見てください。すぐ住宅が迫っている所。そこに鍵がかかったバリケードがずっと並んでいる様子を見ることができます。これだけ近くても、自由には立ち入りができません。帰還困難区域の中はこの状態になっているということをぜひ想像してみてください。」と菅野さん。

 

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このあたりは中間貯蔵施設。県内各地で出た除染の廃棄物を原発周辺に集めている。この日は三連休中だったが、平日は緑色のゼッケンをつけたダンプトラックが多数、この道路を通って中間貯蔵施設に運んでいく姿が見られるという。

 

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大熊町の中に入った。右手に中間貯蔵施設の一部が見える。道路沿いの表示は1.599μ㏜/h。奥に排気筒が1本見えているのが福島第一原発である。クレーンが多数並ぶ。排気筒の解体工事が遠隔操作で行なわれているところ。廃炉作業の安全確保のために、120メートルある排気筒を半分の60メートルまで高さを下げる。

※後日、解体が完了したニュースが5月1日付で流れた。

www3.nhk.or.jp

 

やがてバスは双葉町に入る。2月のツアー時点、全区域で避難指示が続く唯一の町だったが、2020年の3月4日、ごく一部が避難指示解除になった。帰還困難区域としては初めてである。浪江町に接しているエリアで、町の中心部ではない。「生活の場ではなく、産業の集積地。そして、東日本大震災原子力災害伝承館という施設ができるところになります。今年7月開館予定です」と菅野さん。

道路沿いの表示は、0.740μ㏜/h。

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双葉町の中も震災の時のままになっているところがほとんど。復興事業の進展に伴い、2か所のガソリンスタンドだけが営業しているが、それ以外は、店舗も何も再開できていない状況である。

次の坂を登りきると浪江町だと菅野さんが言った。還困難区域はここまで。ここから先は解除区域、つまり、除染が終わって人が住んでいいと言われている区域である。 

浪江町は、震災前の人口約21,000人。7,600世帯が住んでいた町である。東日本大震災津波によって182名が亡くなった。最大高さ15.5メートルの津波が沿岸部に押し寄せ、今なお31名が行方不明。毎月11日の月命日には、警察を中心に捜索活動が行われている。原発立地ではないが、原発事故によって全町が避難を余儀なくされた町である。町の面積の2割は比較的線量が低いということで除染が始まり、最低限のインフラ整備と除染の完了後、2017年3月31日に一部避難指示解除になっている。解除になって約3年が過ぎようとしているが、町内の居住人口は約1,200人。元の人口の6%程度にとどまる。

まもなく、JR常磐線浪江駅が見えてきた。 

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毎年少しずつ変わっていく浪江駅。しばらく経つと細かいことは忘れてしまうが、初めてここを訪ねた2016年春、駅の建物が震災当時の時刻のまま閉ざされ、駅前のロータリーに面して、地震で傾き、今にも倒れそうな建物がかろうじて建っていたことを覚えている。無人の町に自分たちだけが佇む異様さが怖ろしかった。その時点で放射線量は高くなかった。しかし、あたりには人っ子一人いない。何かがひどく間違っていると思った。間違っているのは原発事故なのか?事故への対応なのか?両方なのか? とにかく人が住んでいない。いたたまれない気持ちになったものだ。

 

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駅前でバスを降りて、生徒たちと一緒に駅前界隈の通りをひと回り歩いてみる。いまだに道で地元の人とすれ違ったことはないが、郵便局の前に自販機があるだけで、少し人の気配を感じる。この自販機、昨年もここにあっただろうか?

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角のホテルなみえは主に工事関係者が利用している由。

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浪江町立浪江小学校。2011年の震災後、全町避難により休校となり、5か月後の8月に町内の6校を当校のみに再編をした上で二本松市の仮校舎で学校活動を再開した。震災前は500人の児童が在籍したが、県外避難の影響などにより2012年度の児童数は30人に激減した。2018年4月に開校した浪江町立なみえ創成小学校への統合により、2021年3月末に閉校予定である。震災以来使われていない立派な校舎が物悲しい。
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あちこちで建物の解体工事が進む。

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生徒たちはまだ解体されていない建物に近寄って覗き込んでいた。

 

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一見、地震に耐えたように見える建物も、中の物が倒れたり落ちたりしたまま放置されて今日に到る。「うわ~見て!中はグチャグチャや」と一人の生徒が声をあげた。

 

ひと回りして、浪江駅で再びバスに乗り、沿岸部の請戸地区に向かう。

町内の請戸川を渡る。昨年10月の台風の時には堤防すれすれのところまで水が上がり、一部浸水区域も出たが、それでも堤防の決壊は免れ、被害は比較的少なかったそうだ。

2011年の震災の時、請戸川の川沿いは国道6号線付近まで津波が上ってきたと言われている。

 少しすると広大な農地が見えてきた。

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 昨年、復旧事業が終わり、今年からはこの田んぼで作付けが少しずつ再開されていく予定。ただ、こういう中に除染の仮置き場もまだある。津波の影響はこの辺まで来た。だいたい沿岸から1キロから1.2キロまでは影響があった範囲だと菅野さんは言った。

 

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煙が出ている大きな建物は、仮設の焼却施設。国(環境省)の管轄だ。町内で出たがれきを分別して、燃やせるものは燃やしてごみの量を減らしている。

「この道路の両脇は、震災から2年半、がれきが積まれたまま、田んぼの上には漁船がゴロゴロと打ち上げられたままになっていました。請戸川の河口が見えてきました。左手に白と青の建物、マリンパークという旧・観光施設です。あれ、3階建てです。あの上を津波が乗り超えてきたと思ってもらえればいいです。海水面からの最大高さで15.5メートルです」と菅野さん。

「今みなさんは、いちばん被害が大きかった請戸地区というところに入ってきています。この右手は、先ほど同じ田んぼだった場所ですね。約9年間、何の手も入っていないところです。そして、ちょうどこの辺りからですね、道路の両側には約500世帯、住宅がびっしりあった場所です。」

 

堤防の高さは、元々あった高さより1メートル嵩上げして、7.2メートルの高さになり、ほぼ完成した。

 

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請戸漁港に寄る。2019年10月に左側にある市場が完成し、今年4月からここでせりが始まり水揚げが始まることが決定をしている。請戸漁港には元々94艘の船があった。現在は3分の1の規模だが、ここで試験操業、操業を再開している。

 ここでバスが向きを変え、正面に福島第一原子力発電所が見えてきた。直線距離でわずか6kmという。

「それだけ近くても風の影響によって、原発が爆発した時の放射性物質が濃度の高いところは、あそこから北西方向に向かいましたので、請戸地区はもちろん半径6キロと非常に近いんですけども、ここから遠く離れた福島市とかよりも線量がずっと低かったんですね。もちろん、何があるかわからないという距離ではあったわけですけども、避難をしなくてもいいぐらい線量は低かったわけです。ただ、この地域では特別な状況が起きました。それは何かというと、自然災害が先で住宅を失い、その後の原発事故で避難となりました。その順番によって、この地域の方々は、東京電力による原発事故の建物に対する賠償金はゼロなんです。いつ帰れるのかわからない。そういう状況もあって、みなさん、帰る場所をどうするか悩みましたけど、生活再建資金を確保していくためにも、もう『この地には住まない』ということを決断して、町に土地を売って、そのお金を元に生活再建していく道を選びました。651世帯がすべて移転対象となりました。5カ所のコミュニティがありましたが、それが全てなくなる地域です。」と菅野さんは語った。

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やがて、沿岸部にポツンと残る請戸小学校が見えてきた。 

 

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学校の時計は3時38分で止まったまま。津波が校舎を襲った時刻である。

震災当日は卒業式の練習中だった。「津波が来るぞー!」という知らせを受けて、1.5km歩いたところの大平山の高台に逃げた児童82名が全員助かった。

 

※「請戸小学校物語」完成を伝える5年前の記事。ぜひ見てみたい絵本だ。

www.huffingtonpost.jp

 

2019年3月、請戸小学校の校舎は福島県初の震災遺構として保存されることが決定した。

 

子どもたちが歩いて逃げた大平山へバスで向かう。 

「右手に見えているのが、町内のがれきを集めて分別作業を行っている場所です。分別作業を行って燃やせるものを先ほどの焼却施設で燃やしています。後片付けをまだまだやっている場所ですね。そんな中で、今朝の新聞にも載っていた明るい話題の一つです。正面右手のほうに見えてきた建物にSHIBAEIって書いてありますね。」 と菅野さん。

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4月に請戸漁港の再開と共に、ここで水産品の加工が始まる。昨日お披露目された。元々いた水産業者の柴栄水産が戻って来る。

正面左手に大平山霊園が見えてきた。バスを降りる最後のポイントだ。

この高台は整備はされていなかったが、「高い」ということで、元々一時避難場所に指定されていた。以前の墓地は津波で流されてしまい、この高台に新しく作られた霊園である。2017年に建立された新しい慰霊碑には、犠牲者182名の名が刻まれている。津波は大平山の手前まで来たという。

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請戸小学校の子どもたちはこの高台に逃げて全員助かり、たまたま6号線を通りかかったダンプの荷台に乗せられ救助された。避難経路通りに逃げれば必ず命が助かるとは限らない。当時、津波がこんなところまで到達するとは想定されていなかった。

昨年のスタディツアー浜通りには珍しい雪模様の寒い日だった。大平山に着いた頃には暗くなりかけていたせいか、男子生徒の一人が「遺跡のような所」と言ったのが印象に残っているが、今年は天候に恵まれ、午後の陽光で同じ霊園でもずいぶん違って見える。元気な男子生徒たちは、高台の下に降りてみて、ここまで駆け上がるのに何秒かかるか試していた。ほんの数秒が生死を分けた。

震災直後の原発事故による避難指示により、救助活動を断念せざるを得なかった無念の話を聞くたびに胸がつまる。

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コロナ禍の影響が本格化する直前の2月下旬。ぎりぎりの決断でよく行ってきたものだと改めて思う。

まだまだ人の気配が少なく、震災直後のままの建物も多い浪江町で少しずつ建物の解体作業が進む有り様も、大平山霊園から見渡す沿岸部のスケール感も、この場に実際に来て、歩いて、覗き込んで、見回してみたからこそ感じることがある。どんなに秀逸な映画でもテレビ番組でも、ましてや活字の記事や書物でも、この風や光や匂いを体感することはできない。そして、この体感こそは人を動かすのではないか。

コロナ禍によるオンライン化は世の中の趨勢であり、メリットもポテンシャルも大きいのはわかっている。それは積極的に活用すればよいし、そうせざるを得ないだろう。一方で、どんなオンライン・コンテンツにも代えられないリアルの「旅」を再び実施できることを願ってやまない。(続く)

 

 

 

 

コロナ禍中の母の日

コロナ禍中、既に家から巣立った息子たちになかなか会えない。長男と次男は都内でそれぞれ一人暮らし。たまに週末ごはんを食べに来ていたのも3月以降やめている。昨年就職した三男は九州に配属で、それこそ正月以来会っていない。

GW最終日にLINEのグループビデオ通話機能を使って、5人家族が久々に揃ったのはスマホ画面の中だった。こういうシュールな邂逅がニュー・ノーマルというものか・・・ちょっと寂しさを感じながら迎えた週末、宅急便が届いた。

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メッセージカードには「3人からです。いつもありがとう。体調に気をつけてね!」と。泣かせる・・

 

母の日が来ると思い出す我が家の「母の日事件」。2007年ということは、もう干支一周分以上前のこと・・・時が経つのは早いものだ。当時通っていたライターコースの課題のネタにしてしまったので、今でもそのエッセーが残っている。

 

*****

 

感謝の強要
 
 折にふれて感謝の気持ちを表すのは案外難しい。ことに親子だと甘えや照れが先に立つ。それどころか、感謝の気持ち自体を忘れている。そう、子どもなんてだいたいが親不孝者なのである。年に一度くらい親の恩を思い出させるために「母の日」やら「父の日」というものが、設定されたのではあるまいか。その日に合わせれば、たとえば、黙ってカーネーションを買ってくるとか、照れ屋でもわりと抵抗なく表現する形式があり、受け手も納得するのだから、便利な慣習である。
 しかし、年に一度の「母の日」が近づくにつれて、なにやらプレッシャーがかかってきた。息子達は「母の日」などいちいち覚えていないに違いない。「母の日」にしか感謝の意を表してもらえないのも情けないが、「母の日」にすらそれがないのはもっと情けない。だからと言って、「明日は何の日だっけ?」なんてこちらから問いかけるのも興覚めだ。黙っていよう。
 息子達が、「おかあさん、ありがとう」とたどたどしく書いた手作りのプレゼントや、カーネーションの造花を持って帰ってきたのは幼稚園の頃だったか。小学校に上がり、長ずるにつれてそんなほほえましい行事も廃れ、実際、昨年までの数年間、私も別に気にしていなかった。
 今年、妙に「母の日」を意識してしまったのは、新しく仕事を始めて以前より忙しくなった中でも、いわゆる母の務めを果たそうと、かなり無理をしているからかもしれない。朝から弁当を作り、夕食の支度をして仕事に出かけ、頭の中では絶えず一週間分の献立や買物リストがぐるぐる回っているような生活は、なかなか疲れるものだ。
 さて、5月の第二日曜は、ごく普通に始まった。いつもの週末のごとく、遅めの朝食を用意するのは私。誰も何も言わない。この日一人で外出した私は夕方帰宅したが、不在の間、家の中には何の変化も見られない。急いでベランダの洗濯物を取り込む。6時も過ぎていたので、「すぐにご飯作るね」と、台所に立って料理を始めたら急に涙が溢れてきた。
 昨日も今日も明日も、こうして私は家族のために食事の支度をする。たいして感謝されることもなく、まるで女中か家政婦だ。今日だけは違うかもしれないと、ほんの少し期待したのがいけなかったのか。出かけて帰ってきたら「お母さん、ご飯は僕たちが作っといたよ」と言ってくれるとか、「今日はどこかに食べに行こうよ」と言ってくれるとか。あるいは、さりげなくカーネーションが生けてあるとか。いや、そんな大層な望みを抱いていたわけではない。たったひと言、
「いつもありがとう」
と言ってもらえるだけでよかったのだ。今日って母の日だったよね? と照れながら。
 結局、誰一人、母の日を覚えている者はいなかった。彼らにも、その父親である我が夫にも、別に悪気がないのはわかっていたが、一度溢れ出した感情は止められなかった。泣きながら、たまねぎをみじん切りにし、ひき肉をこねてミートローフを焼く。友人のヨーロッパ土産のホワイトアスパラガスの皮を引いて茹でる。ことさら結構なご馳走を食卓に並べると、私の異様さにようやく気づいた家族は動揺して沈黙し、夕食の席は最悪の気まずさが支配した。家族一同黙々と食べ終えてから、私はおもむろに感情をぶちまける。とりわけ「何をそんなに怒っているのか意味がわからない」という高校生の長男の発言に怒り心頭に発し、ひと通りの修羅場を演じた後、一応謝ったりうなだれたりしている男4人に対し、私は、向こう一週間のストライキを宣言した。
「ご飯も作りませんから。自分達でなんとかしてください」


 翌日、たまたま電話してきた実家の母に話すと呆れられた。
「そんなこと言って、あんただって昨日私に何にも言ってこなかったじゃない」
「だってさあ、一緒に暮らしてるんだよ。もう頭にきちゃう」
「まあねえ。男の子なんてそんなもんよ。あんまりカリカリしなさんな」
母の日に子ども達から感謝してもらい損ねて憤慨する娘をその母親が慰める。妙な構図だ。
 そもそも「母」に対する感謝とは何だろう? 考えてみたら子どもを産むというのは、実に大それたことだ。人は図らずも生まれてしまったから、生きざるを得ないのだし、苦しみも味わい、いつか死ななければならない。その誕生をもたらす親、とりわけ、具体的に妊娠・出産する母親はそのような「さだめ」の子どもを産み出す因果な存在である。子どもからすれば「産んでくれとは頼みもしなかった」のだから。子どもの世話をするのはふつう親の務めだが、それは、一つの生命をこの世にもたらしてしまったことに対する罪滅ぼしのようなものとも言える。そうだとすれば、子どもの側で別に感謝する筋合いはないのではないか。
 いや、そうではない。人はやはり、生まれてきたからこそ、生きることができるのだし、喜びも味わい、いつか死ぬからこそ命が輝くというものなのだ。と考えると、その誕生をもたらした親には「生んでくれたこと」に感謝し、自力で生きていけるようになるまで世話をしてくれたことにも感謝せずにはいられないのではないか。
 結局、親への感謝の念は、子どもが自らの「生」をどうとらえるかにかかっている。そして、子どもからの感謝の念は、親となった人間の「生」をこの上なく祝福してくれるのである。
 しかし一方で、日常生活は、生きる上で必要な諸々の雑事で満たされ、賽の川原の石積みにも似た、その同じことの繰り返しは徒労感で人を苛む。今週、私のストライキを受けて、3人の息子達は健気に家事に励んでいる。毎日毎日、食事を作り、風呂を沸かし、洗濯して干してたたんでしまって……どうだ? 面倒くさいだろう。飽き飽きするだろう。この徒労感を救うのは、感謝のひと言か、はたまた、適正な分担か。
 母の日が赤いカーネーションに彩られて無難に終わらなかったため、かえって家族が真面目に向き合うこととなった。今週末、家族会議が予定されている。感謝の強要より、もっと建設的な提案をしよう。

 

*****

 

作文はここまで。よくまあ書いたものだ、こんな恥ずかしいこと。しかし、これは確かに我が家のターニング・ポイントとなった事件。「家族会議」は本当に開かれ、建設的な提案をしたのは私ではなく、どちらかと言えば夫だった。以来、冷蔵庫には一週間の家事当番表が貼られ、曜日ごとに5人のやることが明示された。もちろん、5分の1ずつというわけには行かないが、それまで私が一人でこなしてきた家事を家族が分担するようになったことは大きい。働き盛りの夫は主に週末のシフトに入り、息子たちはサッカー部で疲れていようが、受験生だろうが、日々の洗濯や皿洗いをやるようになった。でなければ、そのうち新聞社のアルバイトから正社員に転換した私が働き続けることはとてもできなかっただろう。

時は移ろい、私は会社勤めとは働き方を変え、息子たちもそれぞれ巣立って行った。夫も近々定年を迎えてライフシフトを考える時期に来ている。

そう言えば、昨年の母の日の記憶がないと思ったら、ちょうど海外取材に出かけていたところだった。イタリアのヴェネツィアからアメリカのクリーブランドへ回る旅なんて当分できそうにない。予想もつかない形で世界は激変する。

コロナ禍の影響で在宅勤務が増え、家族が一緒にいる時間が長い故のストレスも高まっているようだ。家族構成や家事分担によっては、さぞ大変だろうと思う。母の日の夜中に妹から来たLINEを見ると、13年前に私が実家の母と電話で話したのと似たような内容だった。それまで実家を頼りながら上手に家事をアウトソーシングしながらバリバリ働いて来た彼女は、却って家族と向き合う機会を逸していたのかもしれない。

あの時、鬼の形相だったに違いない我が身を振り返ると恥ずかしいし、その後も至らないことだらけだが、共に暮らす家族から逃げたり我慢し過ぎたりすることだけはなかった。

当日の夕方、家族LINEに夫が書いたメッセージが傑作だ。

「3人一緒にいいことしたねぇ。お母さんもお喜びやで」

 

そして、ダメ娘は自分の母には何もせぬまま、母の日の翌日になって電話をかけたのだった。人生100年時代?!自分の心に正直に。そして、感謝の気持ちを忘れずに。

 

 

(※以前のブログ@ココログで「母の日事件」を振り返ったことがあったが、なんと、niftyを解約した時にうっかりバックアップを忘れ、他のブログ記事もろとも消えてしまった。ネット記事というのは危ういものだ。幸い(?)元のワードファイルがあるので、ここに残しておこう。母の日は「母の日事件」記念日なのである。)

 

 

 

東京電力を訪ねる 〜2020京都発ふくしま「学宿」その6

新型コロナ禍中の4月下旬。遅々として進まないこのレポートだが、こうしている間にも、今のところ電力が安定供給されている。しかし、東日本大震災後の原発停止で今や日本の発電燃料の4割を占める液化天然ガスLNG)を全て輸入に頼っている脆弱さについて、4月24日の日経新聞にも記事が出ている。LNGは長期保存に向かないため、備蓄量は2週間分にすぎないという。

www.nikkei.com

エネルギー供給の危うさと停電リスクにも不安を感じつつ、いま現場で粛々と任務に当たる方々に感謝するほかない。

2ヶ月前が既に大昔のように感じられるが・・・

今回の「学宿」道中、東京から郡山までの新幹線の車窓から見える高圧電線の鉄塔が気になった。何度となく福島を訪ね、福島第一原子力発電所の構内にも入ったことがあるというのに、今ごろ初めて気がつくのもどうかしているが、見ているようで見えていないものだ。また、通り過ぎるとすぐに忘れる。このとき初めて、田んぼのど真ん中に立つ巨大な鉄塔に驚いた。一体いくつあるのだろう?あれだけの鉄塔を何本も建てて電線を引いてくるのは、なんと気の遠くなるようなプロジェクトだったことだろう。今さらながら。

 「学宿」初日に行ったコミュタン福島から浜通りに向かう磐越自動車道からも山中の鉄塔がいくつも見えた。

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首都圏の電力がどこから、どのように供給されているのか、詳細は調べ切れていないが、日々このような高圧電線で運ばれてくる電気に支えられているのだ。原発が稼働していた頃はその割合がもっと高かったのだろう。

 

2月23日朝、楢葉町の宿を出発したバスは富岡町内の東京電力廃炉資料館に向かった。中学生を対象にしたスタディツアーのコースには福島原子力発電所構内の見学は含まれていないが、廃炉資料館を見学し、さらに新福島変電所で東京電力の社員の方々と対話するというのが今回のハイライトだと野ヶ山先生は言っていた。

廃炉資料館は2018年11月30日にオープンした施設。映像やジオラマを通じて、事故の記憶と記録を残し、二度とこのような事故を起こさないための反省と教訓を伝承するとともに、廃炉の全容と最新の状況を説明する。

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朝一番でAFWの吉川さんの話を聴き、「・・・原発のことを考えるんじゃないんだよ。この原発で起きた問題とか課題から自分を省みて生まれたこの気持ちみたいなところを共有すればいいんだね」という言葉に納得した後だっただけに、私にとっては二度目の訪問となる廃炉資料館で、技術的な詳細を展示物から読み取る気力が今一つ湧いてこなかったのが我ながら残念だったが、生徒たちは限られた時間内で熱心に見学していた。その意欲と好奇心に感心する。

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それにしてもこの建物の外観。元々は福島第二原子力発電所のPR施設「エネルギー館」だった建物で、浜通り国道6号線を通るたびに「何だろうか?」と目を引くデザインである。アインシュタインキュリー夫人エジソンの生家をモデルとして並べたそうだ。

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次に向かった新福島変電所の外観はもっと度肝を抜くものであった。山中に突然、巨大なジャングルジムをいくつも合わせたような網状の鉄の構造物が現れる。バス内からの写真撮影はOKだったので、座席から身をよじらせて撮ったスマホの中の写真を眺めて思い出しているが、セキュリティ上、外部での掲載はNGと言われた。所在地も詳細は出ていないが、富岡町から川内村に向かう途中かと思われる某所。付近の遊休地のあちこちに設置されたおびただしい太陽光パネルも目につく。

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震災前は、福島第一、第二原発でつくった電気を首都圏に送る変電所だった新福島変電所だが、こういった再生可能エネルギー由来の電気を送る機能を新たに担って稼働を始めたという最近の記事が出ていた。この巨大な変電所があの送電線の起点にあるのだ。

www.sankei.com

変電所内の会議室で、東京電力の担当者からのレクチャーを聴き、生徒たちが質問するというセッションが行われた。

全体で1時間という限られた時間では、どうしても駆け足の説明になる。

まずは、福島復興本社の取り組みについて、東京電力福島復興本社の坂本裕之部長氏より説明。

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福島復興への責任を果たすために、2013年1月1日、福島復興本社が設立された。県内すべての事業所の復興関連業務を統括している。賠償、除染、復興推進等を迅速かつ一元的に意思決定し、福島県民のニーズにきめ細やかに対応している。当初はJヴィレッジ内に事務所があったが、2016年3月に富岡町浜通り電力所に移転、2020年度を目途に双葉町中野地区に移転予定である。県内の他の事業所も含め、合計4,000人の体制。

設立以来、地域の伝統行事への協力、清掃・片づけ、除草作業、見回り活動などの復興推進活動に、延べ約50万人の社員が参加(東電全社員約3.3万人)、除染活動には社員延べ約38万人が対応してきた。

2019年末時点で9兆円を超えている原子力損害賠償はなおも現在進行中である。

また、風評被害払拭のために、福島の農産物を食べてもらえるように、まずは自分たちが食べることから購買増強・流通促進活動、情報発信、共同事業を展開する中で、2014年11月に設立した「ふくしま応援企業ネットワーク」には2020年2月現在で137社が参加している・・・ここまでで14分ほど。

次に、廃炉について、東京電力福島復興本社福島広報部リスクコミュニケーター兼復興推進室技術担当の櫛田英則氏が説明。

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2011年3月11日における地震および津波の状況と設備の被害状況。福島第一原発(1F)では地震や浸水被害を及ぼした津波により外部電源や非常用電源が使用不可となったが、津波の浸水域が限定的だった福島第二原発では電源が使えたため、核分裂停止後の燃料の崩壊熱を冷却することができた。

1Fの1~4号機の状況、港湾内外の放射性物質濃度の変化、汚染水と原子炉循環冷却など、詳細は何度聞いても理解が追いつかないが、ざっくり言って、1Fの今の課題は、以下の3つである。

  1. 使用済み燃料を取り出し共用プールに移動すること
  2. デブリを取り出すこと
  3. 汚染水(処理水)対策

1.については、2014年12月に4号機の燃料取り出しは完了。2019年4月から3号機の燃料取り出しが始まり、2020年2月時点で566本の内84本の取り出しと移動が完了。

2.については、2021年から2号機で取り出し開始予定で、そのためにイギリスで製作された機械の動作確認中である。

3.については、①他各種除去設備(ALPS)による汚染水浄化などにより汚染源を取り除く、②地下水バイパスやサブドレン(建屋近くの井戸)による地下水くみ上げ、凍土方式の陸側遮水壁の設置、敷地舗装などにより汚染源に水を近づけない、③海側遮水壁の設置、地盤改良、溶接型タンクへのリプレース等により汚染水を漏らさない、などの重層的な汚染水対策により汚染水発生量の低減を図っている。2020年1月時点で約1000基のタンクに約118万トン(ストロンチウム処理水を含む)を保管しており、2020年末までに137万トンまで貯められるようタンクを確保する計画である。

このほか、労働環境の改善と廃炉の中長期ロードマップを紹介。以上で18分。

生徒たちは、大人向けと同様のパワポのプリントアウトを配布され、手元と前方のスライドを見ながら、とにもかくにも話を聴いている。合わせて30分ほどのさらっとしたレクチャーでいっぺんに理解するのは至難の業だと思うが、「学宿」に応募した生徒たちは、事前にかなり予習してきているようだし、初めて「東電の人」から直接話を聴くという体験にはそれなりのインパクトがある。

 

ここから質疑応答。

 

Q:風評被害への東京電力の取り組みは関東圏にとどまっており、このままでは全国規模に広がらないのではないでしょうか?(3年T君)

東電:風評被害への取り組みは、当然、県や国レベルでも努力しており、福島県知事は海外にも発信しています。東電としては、受け持ち区域である首都圏での取り組みが中心になっていますが、全国的な取り組みが行われています。(坂本氏)

 

Q:HPを使って発信するというお話がありました。東京電力のHPを見ない人が多いと思いますが、見てもらうための対策はありますか?(2年女子)

東電:なかなか難しいところですが、最近、LINEで「ふくしま応援隊」への友だち登録を勧誘し現在100万人に拡大しています。LINEを活用して日々情報発信しています。TVコマーシャルなども使って一般視聴者にリーチしたいのですが、今はなかなかできません。今日のみなさんのような県外からの見学者の口コミにも頼っています。ただ、知っていただきたいのは、毎日朝晩、福島県庁の記者クラブで状況を伝えており、それはマスメディアに取材していただけること。また、週に2回、福島第一原発でも記者会見を行い、情報をアップデートしてメディアから発信してもらっています。そうは言いながら、なかなかHPを見てもらえないのはおっしゃる通りです。SNS等を使いながら、TEPCO速報というプッシュ型の配信を行っており、なんとかみなさんに広く情報が行き渡るようにしたいですね。(坂本氏。また櫛田氏が東京電力のHPをタブレットで紹介)

 

Q:なぜ、京都のような遠く離れた所から来た中学生にこんなにいろいろな情報を教えてくれるのですか?(3年女子)

東電:ありがとうございます。わたくし共としましては、どこにお住まいであろうと関わりなく、こちらのほうに関心を持ってもらえる人には等しくお話をさせていただきたいと考えております。全国のみなさまにご迷惑をかけており、もしかしたらみなさんの近くにも福島から避難しておられる人がいるかもしれません。事実をしっかりお伝えしたい。来ていただけることに感謝しています。(坂本氏)

広く、とくに若い人たちに来ていただいて、実際にこうやってお話させていただいて、感じていただきたい。実際に見ていただいたことを持ち帰って、みなさんの口から話していただくのがいちばん風評払拭に役立つと思っていますので、ご協力をお願いしたいと思います。(櫛田氏)

 

Q:先ほどの質問の中で、原発の現状を周知する手段としてのTVコマーシャルが以前に較べて満足に行われていないということでしたが、その原因・理由は何にあるとお考えですか?(3年K君)

東電:原子力発電所に関するコマーシャルということで言うと、いま柏崎刈羽原子力発電所の安全対策などについて、新潟県ではTV放映しています。これはやはり県民のみなさんにしっかりと今どんな状況にあるのか伝えるために地域限定でおこなっています。私たちの会社は原発事故後、半国有の状態です。本来であれば潰れている会社ですが、福島への責任を果たしていくということから会社の存続が認められているという状況で、広告宣伝にお金がかけられないというのは事実であります。(坂本氏)

 

Q:中長期ロードマップについて、冷温停止してからどのようになっていくのですか?(3年女子)

東電:冷温停止の状態は達成していますので、そのあとの部分の詳細ということですね。まず、冷温停止というのは、燃料が崩壊熱で発熱していますので冷却をするわけですが、その冷却水の温度が100℃以下になることです。つまり、沸騰はしていない、ちゃんと冷却水が回っているということを冷温停止と言います。そのあとは、燃料の取り出しを開始することになります。先ほど言った、使用済み燃料の燃料プールからの取り出し開始とか、デブリの取り出しの開始までということです。そのあとは、着々とデブリを全部回収できるように取り組んでいくという形になりますが、1Fの最終形態はまだ決まっていないのです。施設として形のある状態に残すのか、それとも更地にするという話になるのかについては、まだ決まっていません。今後の最終的な形は、やはり福島県の地元のみなさんと話し合いながら決めていくということです。いちばんリスクが高い部分は、やはり燃料の取り出しです。

原子力災害特別措置法という法律があり、その中でいま、1Fは運用されていることになります。通常は、原子力発電所というのは、電気事業法と原子炉等規制法という2つの法律でいろいろやっていなくちゃいけないんですけど、1Fの場合はこういった事故が起きて、最終的な所は原災法の中で運用されているということです。ちなみに、福島第二の場合は、2011年12月時点で、原災法の適用から外れて、電気事業法と原子炉等規制法が適用されています。(櫛田氏)

 

Q:今日行った廃炉資料館で、最終的には原子力建屋を解体する、方法は検討中と書いてあるのを見たんですけど、30年後40年後の方法がわからないんでしょうか?(3年M君)

東電:確かに廃炉資料館には廃炉の課題の一つとして、建物の解体という話が出ていますが、基本的に、原子力発電所の廃止(廃炉)というのは、だいたい30~40年というのはどこの電力会社でも同じです。まず、燃料を移動して、あとは材料関係を除染をして、放射線レベルが下がる(減衰)のを待って、除染をして、影響のない範囲になった時に建物を解体するということで、それらをすべてひっくるめて30~40年ということです。1Fの場合、燃料デブリが、やはりリスク的には高く、目標としては30~40年を目指していますが、まだ具体的な技術開発も進めていく必要があり、なかなかそこは明確に「絶対できます」とは言えないというところです。 で、デブリが取り出せれば、建物自体にはリスクはなくなるわけなので、通常のビル解体と同じような形で進めていくことになります。まだ明確には決まっていないですね。ここはまだ地域の方々とのコミュニケーションが必要です。(櫛田氏)

 

Q:汚染水の処分方法について、地元の方々との話し合いが必要ということですが、ほかの地域の人たちの理解はどのようにしていかれるのですか?(2年女子)

東電:はい。これは東京電力が「この水は安全です。もう出させてもらう。いいですか?」と言っても誰も信用してくれません。基本的には、国のほうできちんと方針を固めていただくということです。つい先月、1月31日に汚染水関係のALPS小委員会がありました。その中で、この1Fにある汚染水の処理が議論されました。やはり、管理のしやすさから見て海洋放出するか、または、蒸発させる大気放出という手法がよいのではないかというような結論を出していただきました。その中で風評被害をどうするかについても議論しなさいということになっていて、どのように処分するにしても、やはり、風評被害は出てしまう。だから、基本的にその対策関連については、ちゃんと国が責任を持って対応しなさいということで小委員会から国にボールが投げられました。国(内閣府)は、ALPS小委員会からの回答をもらって、現在、自治体や地元の方々とコミュニケーションをとりながら方向性を決めているわけです。国で方針がある程度固まったところで、東京電力に指示がくることになります。今のところ、東京電力は「海洋に流したい」とか「蒸発させたい」ということは全く言っていません。これは、基本的にウチが決められないことです。国から方向性が示された中で、「国から言われたからやります」ということではなく、地元の方々と話をさせていただきながら、理解を得ながら、進めていくという形になります。ほかの地域の理解は?と言われてしまうと、そこはなかなか難しくて、これはやはり、福島県だけでやっていることではなくて、日本全国を対象にしてやっているというふうになるのかなと思います。申し訳ありません。そんな回答しかできません。(櫛田氏)

 

 Q:電力会社として原発事故の前後で、原子力発電に対する印象とか、賛成や反対という意見で変わったところがあれば教えてほしいです。(2年K君)

東電:個人的な意見ということでよろしいですか?私は、福島第二原子力発電所に昭和57年に入社して、昨年の6月まで35年間勤務しました。日本って、エネルギー源がないじゃないですか。今、日本のエネルギー自給率というのは10%を割っています。再エネで、太陽光がいっぱいできている中で、それぐらいなんですね。再エネも伸びたし、水力は新しいのは作ってませんが、それらを含めて10%以下なのです。今もしも海外からの石炭だとかLNGだとか、そういうものが遮断された時に、どうしますか?という部分の中では、やはり、原子力ってある意味では国産エネルギーみたいなものになるんです。今の国の政策ですと、使用済み燃料をリサイクルして使いましょうということでプロジェクトとして動いてはいますが、震災以降、規制側の基準が厳しくなり、なかなかそれがうまく回っていないというのも確かにあります。ただ、エネルギー・セキュリティを考えた時に、やはり、原子力が必要なのかなと私は思います。しかし、そうは言っても、これだけ地域の方々にご迷惑をかけてしまったということがありますので、その中では、地元の方々とコミュニケーションを取りながら、謝罪しながら、福島第一、福島第二については、廃止をするということで、そこはもう致し方のないことだということはわかります。ただ、全体的なことを考えれば、やはり、原子力は必要だと思います。(櫛田氏)

日本の国のエネルギー事情を考えると、原子力という選択肢に自分から手を放すということが本当にいいことなのかどうかということを自問しているところです。最近、CO₂の削減の問題で、石炭火力発電所が槍玉にあがっていて、この発電方式すら選択肢の中から消えていく恐れがある。ファイナンスの問題もあって、なかなか事業として成り立たなくなっていく恐れもありますけど、そうすると、日本って何でエネルギーを得るんだろう?太陽光、風力、地熱、こういった再生可能エネルギーだけで絶対に賄うことはできないのは、みなさんにもわかると思います。それ以外のエネルギーでどうやって埋めていくのか?考えて行く中でも、その疑問がいつものしかかっているところです。原子力発電所のこういった事故を我々は経験してしまったわけですから、より安全なことを実行していったらいいなと思います。最近、もっとコンパクトで新しい手法の原子炉の開発が進められています。そういった研究開発を進めていく必要があると思います。(坂本氏)

 

Q:燃料デブリを取り出すということですが、取り出してから置いておく場所は具体的に決まっていたりするのですか?(2年女子)

東電:燃料デブリも含めて今1Fはすべてそうなんですけど、発電所内で出たものは持って行き場所が今のところどこにもありません。ですので、構内で全部管理しなくてはならないというのが現状です。将来的には、外に処分できるところに持っていきたいと思いますが、まだこれから調整するところで、話し合いをしながら決めていくということで、まだその段階ではないんです。構内のドラム缶の中にそういった固体廃棄物を入れて、それを貯蔵庫で管理するというような形になります。デブリ燃料も同じです。少しずつかき集めて、取れるものから回収していくという形になりますが、デブリ燃料というのは、どういう組成になっているのかわからないわけです。その分析をするための場所も発電所構内に設けて、回収したものを分析して、それを安全に管理するための保存方法を考える必要があります。ただ、固体廃棄物貯蔵庫にそういったものも置いて管理するということしか今のところはないという状況です。(櫛田氏)

 

*****

 

知識や理解の不足による気おくれ(大人にありがちだ)を乗り越えて果敢に手を挙げ、ストレートに問いかける生徒たちに対し、東京電力の方々も誠実に丁寧に回答していたと思う。

この「学宿」に来る直前、私は別の会合で、原発事故被害者団体連絡会共同代表と福島原発告訴団団長を務める武藤類子さんから東電刑事裁判の経緯や事故当時の東電経営陣の責任を厳しく追及するお話を聴く機会があった。また、「学宿」後の3月上旬には、映画『Fukushima 50』を観た。あれが事実とかなり違うのかどうかはさておき、東京電力の上層部と現場のコミュニケーションの悪さを強く印象づける映画だった。

事故という事実があり、それぞれの立場がある。東京電力という巨大な組織は、遠い外部の中学生から見れば抽象的な悪の塊のように感じられていたかもしれない。「なぜ自分たちにこんなにいろいろ教えてくれるのか?」という質問からは、来てみると意外と良い人たちだったという驚きのような気持ちが滲み出ている。これまでに私がお会いした数少ない東電関係者のみなさんも真面目で誠実な方々であった。もちろん、全社員約3.3万人という組織の一員であり、その配属に応じた役割を果たすべき担当者という立場から決して逸脱しない発言に終始するのは、東京電力に限らず、あらゆる組織人に共通の態度である。

その点では、今回の「学宿」のプログラム中、これまでに対話を行った山口さん、西崎さん、吉川さんのような「個」が際立った言葉とは趣きが異なる。それでも、中学生の質問により「個人的な見解」もかなり引き出されていたことに感心した。また、全体セッションが終わった後で、個別に質問している生徒もいた。詳細は把握できていないが、9兆円を超える原子力損害賠償が電気料金にどのように影響しているのか、していないのかを尋ねていたようだ。

組織は人間によって構成される。個々の構成員は感情と意見を持った生身の人間であり、各人が自分の任務に懸命に取り組んでいること、しかし、組織全体としての意思決定は簡単ではないということを生徒たちは感じ取っただろうか。(続く)

 

 

 

 

オーケストラ@コロナ禍

最後に生のコンサートを聴きに行ったのは2月半ばだったろうか。そうこうするうちに新型コロナウイルスの感染拡大により、都内のコンサートは軒並み中止か延期になってしまった。今、オーケストラはどうしているのだろう?

そんな中、3月19日にメールで届いた東響ニュースリリースに驚いた。

東京交響楽団が3月28日にサントリーホール定期演奏会を開催するという。外国人ソリストの招聘は取りやめ、横須賀芸術劇場少年少女合唱団は出演を断念。オケと東響コーラス、日本人ソリストら出演者全員に対し毎日の検温と体調チェックを続ける旨が記され、さらに、医師の指導のもと、最大限の感染予防と拡大防止のための対策として詳細なリストが付いていた。

tokyosymphony.jp

今から思えばリスクの高い話だったが、とっさの反応として、その『マタイ受難曲』をぜひ聴きたいと思った。また、この時期にコンサートを開催する東響の覚悟をぜひ伝えたいとも考えた。しかし、その翌週の24日に東京オリンピックパラリンピックの一年延期が決まり、25日夜には都知事の週末外出自粛要請の緊急会見があり、前後して24日に東響は、28日(土)の演奏会を8月に延期する旨の【急告】を出した。

そこで、「この時期に開催された稀有なコンサート」ではなく、「刻々と変化する状況でぎりぎりの決断を迫られているオーケストラの必死の自助努力」という内容で、ジャパンタイムズに小さな記事を書くことになった。こんなことしかできない非力を重々感じながら、日本のオーケストラ、とくに自主運営の演奏団体の苦闘の一例として伝えたものである。

www.japantimes.co.jp

当初はインタビューもお願いしていたが、時節柄、電話でお話を伺うことに。

「ここ1、2週間が正念場だから自粛を」と言われ続けたコロナ禍に翻弄されながら「もがき続けている」と大野楽団長は語った。

少し振り返ると、2月29日(土)に安倍総理がこの事態に関して初めて記者会見を行い全国の学校の一斉休校を要請して以来、3月に東響がオケピットに入る予定だった新国立劇場でのオペラやバレエなどの依頼公演がすべて中止になった。自主公演分も含め、これまでの損失額は11公演で約5000万円。

3月8日(土)と14日(金)にはミューザ川崎との共催2公演について、初の試みとして無観客ライブストリーミングを実施。全国で延べ20万人がニコニコ動画で視聴したことが話題になった。無料視聴だったが、オンライン投げ銭システムを活用した小口の寄付が290件でトータル140万円集まったことも、「予想を超えた反響があり、とても感謝している」と大野氏は言った。

3月半ば、自粛ムードがなんとなく緩んだ。14日(土)の安倍総理の会見には「学校の卒業式なども実施を」などの言葉があり、三連休中、人々は(自分もだ)は花見に繰り出した。東響も3月21日(土)のオペラシティで演奏会を予定通り敢行。このご時世に久々の生のコンサートとして、出席者たちのコメントからも感動的な雰囲気が伝わってくる。

上述の通り、28日(土)の『マタイ受難曲』@サントリーホールも開催する方向だったが直前に延期となった。

4月の3つの演奏会については、4月1日(水)の段階で東響公式サイトに、今月指揮する予定だったジョナサン・ノット音楽監督ら海外からの出演者の来日中止と東響コーラスの出演中止、合唱のない演目への曲目変更を調整中というお知らせが発表されたものの、演奏会自体をやらないとは言っていなかった。しかし、4月7日(火)に緊急事態宣言の発令に至り、8日(水)13時19分のメールで4月の演奏会の延期または中止というニュースリリースが届いた。

日々刻々と変化する状況下、8日(水)14時で校了となった記事の内容はここまでだ。ジャパンタイムズとしても未曽有の事態の中、エディター陣は完全テレワークという編集体制である。システム変更に慣れていく上での混乱も感じられる。

そんなわけで、8日(水)の夜に届いた東京交響楽団からのメッセージは記事に盛り込めなかった。既に公式サイトにも載っているが、ここに引用しておきたい。

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東京交響楽団を応援していただいている皆様へ
news 2020.4.8


平素より、東京交響楽団の演奏活動に、並々ならぬご理解とご支援を賜り、心より御礼申し上げます。

新型コロナウイルスの感染が全世界を覆い、その影響は日本のみならず、世界の経済活動や個々の生活の隅々まで蝕み、私共オーケストラも極めて深刻な事態に直面しております。

公演の中止等は、演奏団体にとって大切な収入が失われることを意味し、それは演奏団体としての存続の危機に直結致します。1946年に創立以来、東京交響楽団が長年に渡って努力し、守り、引き継いできた文化の灯を消すことにならぬよう、いかなる時も最大限の自助努力を行ってまいりました。新型コロナウイルス感染症対策としても、ライブ配信やCD制作、過去の演奏映像の配信等、様々なアイデアを重ねて参りましたが、4月7日の緊急事態宣言を受け、誠に残念ながら、5月6日まで事務局を含めた全ての業務を休止することと致しました。これは苦渋の決断です。

感染防止の趣旨から公演の中止等が相次いでいることについて、ファンの皆様には深くお詫び申し上げます。

民間の企業・団体、さらに幅広い個人の皆様には、サポートシステムを通じた財政面でのご支援を何卒お願い申し上げます。

文化庁はじめ国・地方公共団体、また公文協・指定管理者や企業など公演を主催される皆様には、なんとか補償の可能性を探って頂きたいと存じます。収支相償が義務づけられている公益財団法人のシステムでは、内部留保が非常に少ない状況で運営せざるを得ず、今回の様な状況に自助努力だけで対応していくことは非常に困難です。また感染症危機が長期化した場合には、演奏団体の生き残りを目指すために、一律に一切の大規模イベントを中止するのではなく、必要な予防策を講じつつも、より柔軟で現実的な対応が必要です。イベントの催行についても、一律の全面的自粛でなく、地域ごとの状況や個々のイベントの性格を勘案したきめ細かいガイドラインの策定が望まれます。

ドイツ政府は、「アーティストは必要不可欠であるだけでなく、生命維持に必要なのだ」と発言されていました。我々も、この言葉を信じ、今は活動休止致します。再び聴衆の皆様と、ホールで、生の演奏でお会いできることを待ち望んでおります。


2020年4月8日
公益財団法人 東京交響楽団

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これに加えて、東響は公式SNSを中心に期間限定で使用する「Social Distance Logo」を発表。元の楽団ロゴを左右に引き離したシンボリックなデザインである。

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※楽団楽団公式SNS(twitter/Facebook/Instagram)をご覧ください。

 

1946年の創立以来、幾たびもの危機を乗り越えてきた東京交響楽団。私がリアルタイムで知っているのは、2011年の東日本大震災ミューザ川崎シンフォニーホールの天井が崩落し、関東圏で唯一、ホームを失ったオーケストラとして、ミューザの修復と再開までの二年間大変な苦労を強いられたこと。

www.japantimes.co.jp

「創立以来、東京交響楽団が長年に渡って努力し、守り、引き継いできた文化の灯を消すことにならぬよう、いかなる時も最大限の自助努力を行ってまいりました。」という言葉には重みがある。今回のコロナ禍に際しても、無観客ライブストリーミングという初の試みに挑戦したり、ぎりぎりまで演奏会開催への執念を見せたり、決して、何もせずに助けてもらえるのを待っているわけではない。この期間限定ロゴも独自の発案である。

アメリカのオーケストラでは既に団員の一時解雇の事例も見られる。ドイツ政府の力強いメッセージには確かに感銘を受けるし、スムーズな一時金支給の噂にも感心するが、それだけでどこまでしのげるものだろうか。いつまで続くかわからない長期にわたる休業補償なんて、諸外国でも難しいのではないか。医療崩壊、経済崩壊の危機をどうにかするためには、今はとにかく、あらゆる立場の人々がそれぞれ、感染拡大をどうにかして抑える最大限の努力をするしかない。

大勢の人々が集まって一緒に楽器を奏でるオーケストラ。大勢の人々が集まって声を合わせる合唱。互いの生の音や声を間近で聴き合い、感じ合いながら一つの音楽を創る。その音楽に大勢の人々が集まって一緒に耳を傾ける一期一会のコンサート。そのこと自体が今や最もリスクの高い営みであるのは悲劇というほかない。無観客演奏どころか、今は練習場所に集まることすらできない。各国のオーケストラからYouTubeに発信された多重録音によるリモート合奏の感動的な映像は、こんなテクノロジーが存在する今の世界でウイルスと戦うために離れ離れにされているという不条理を否応なく見せつける。しかし、逆に言えば、物理的に離れていても、画面越しに声や音や姿に接することができるテクノロジーが存在する世界でもある。コンサートホールで後方の席に座ると遠い舞台上の抽象的な団体として捉えかねないオーケストラだが、画面上では一人ひとりの奏者がクローズアップされ、一人ひとりの人間の不屈の精神が伝わって来る。

www.youtube.com

デジタル音であっても、想像力によって補った響きが心を震わせ、ああ、生の音楽を聴きたいという思いが募る。音楽を奏でるアーティストも音楽を聴きたいファンも、再会できる日まで、お互い何とかして生き延びたい。

 

この事態がどのように収束し、その間に医療現場や経済活動がどのような経過を辿るのか、正確なところは誰にもわからない。

 

コロナ後の世界に響き渡るのはどんな音楽だろうか。

 

 

 

 

 

 

 

廃炉の先にあるもの 〜2020京都発ふくしま「学宿」その5

楢葉町の宿舎には太平洋が一望できる露天風呂があり、素晴らしい日の出を眺めると、震災後の福島の難しい課題や新型コロナウイルスの不安も一瞬忘れてしまう。

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終日福島で過ごす研修2日目は朝から盛りだくさんなプログラム。8時過ぎには宿舎内の研修室に集まり、一般社団法人AFW代表の吉川彰浩さんとの対話が始まった。

開口一番、吉川さんは詫びた。原発のことや震災のことを語る側の人間なのに遅刻してしまったと。ほんの5分ほどのことだったが、「約束ってそんなに簡単じゃない」と。時間を合わせてもらって、大切な話を聴いてもらえる機会なのに、約束を守れないのは大失敗・・・「本当に申し訳ありませんでした」と頭を下げた吉川さん。中学生たちは呆気に取られている。後で聞いた時に「大人の人が自分たちにあんなに謝ってくれてびっくりした」と言った生徒がいた。

 「今日の私の話のメインは実はこの『約束』なんです。」

吉川さんは元・東京電力社員。8年ほど前に退職し、現在は「廃炉現場と社会をつなぐ」さまざまな取り組みを展開している。AFWというのはAppreciate FUKUSHIMA Workersの頭文字である。

a-f-w.org

 

「ここで働いていました」と、吉川さんは持参した2000分の1の精巧にアップデートされた福島第一原発ジオラマを見せた。

 「自分が東京電力を辞めようと思ったきっかけも実は・・・私はここで起きた事故を『約束を守れなかった』ことだと考えています。」

原発で働いていた時、日本はエネルギー的には難しい国だから原発を使うこともやむなしと考えていた。その一方で、「安全です!」と言っていたのに、こういった結果になってしまった。「安全です」「大丈夫です」「事故は起きません」と、いわゆる「安全神話」を唱えていたのに、結果として、あの時それを守ることができなかった。それが今もすごく残っているのに、今日、遅刻してしまった。

「遅刻と原発事故を較べていいのかって言われそうですけど、『こうしましょう』『こうします』という約束は果たしていかなきゃいけないんだということから出発しています。」

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 そして、吉川さんは原発事故について、話を始めた。

原子力発電所って、日本全国、海の目の前にあるんですけど、これの理由はわかりますか?」という吉川さんの問いかけに、3年生のK田君が「核燃料を海水を使って冷却するため?」と答えた。

「あー、なるほどね。ある意味、正解でもありますが、それってかなり、原子力発電所の中の話で言うと、緊急時の肝(キモ)の話をしてくださった。」

あの時、大きな地震が来て、発電中の原子力発電所は緊急停止を行った。制御棒がビュッと入って核分裂反応を止める。でも、ガスコンロみたいにカチッと消しても火は消えなくてくすぶる。で、その熱を取らなきゃいけない。海水を使って冷却する。

「実は、海が目の前にあるというのは別の話。ここで作られた水は蒸気に変えられ、蒸気をこちらのタービン建屋に送って、そこで発電機を回して電気を作る。で、仕事を終えた蒸気は海水が入った配管で冷やされて水になって、それが循環するわけですね。原子力に限らず、火力発電所もそう。蒸気を冷やすための冷媒として海水を使う。それで海が近いわけです。海が近いということは、津波の影響をとても受けやすい場所です。」

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 2011年の3月11日は、今日みたいに暖かくなくて、粉雪が舞う寒い日だった。

地震でこの地域の家はみんなグシャグシャになって、さらに大津波が来た。

「みんなから見てもらうと、原子炉建屋がある場所はずいぶん低いのが見て取れると思います。」

それでも海抜10メートルぐらいはある。実際に襲ってきた津波は15メートル、場所によっては20メートルぐらいあったという。冷却設備もダメになった。

「そのタイミングで沿岸部の町に起きていたこと、大津波が襲来して・・・写真とか見たことありますかね。あれは生で見ると、頭が処理しきれないんです。今まで見てきた町の光景がね、まるで戦争に遭ったかのように、家が崩れ、燃えながら家が流れて行く。おそらく人が乗っているであろうクルマが目の前を流れて行く。」

吉川さんは当時、第二原発で勤務。そこも津波に襲われた。頭の中が真っ白になって、翌朝、隣の富岡町に行ってみた。あの車、人が乗ってるんじゃないのかな?あれもしかしたら人じゃないのかな?・・走馬灯のように、3月11日の前の日の双葉郡の風景が・・・自分はここで働いたこともあるし、当時は浪江町に住んでいた。結婚もした。震災前から数千人が働く場所だった。あの人の家族大丈夫かな・・そんなことを考えていた。

 電気を作る。その電気は首都圏に送られていた。東京だけじゃない。何千万人という人の暮らしを支えて幸せを生んでいたはずだが、その瞬間、周りに悲しいことが起きたわけです。11日の夜ぐらいになると、町はどうだろう?あの人は生きているだろうか?そんな心配もしつつ、自分が扱っている原子炉の心配。ここが冷却できなくなるとどうなんだろう?

「勉強で教わるんですよ、会社で。たとえば、チェルノブイリとかアメリカのスリーマイルアイランドも事例として教科書に書いてあります。」

当時はここからどうなるかなんてよくわからない。よくわからないんだけど、もし爆発事故とか、放射能漏れっていうものが起きたら、多くの人が死んでしまう可能性があるんだろう、もしくは、自分たちが一番最初に命を落とすと。走馬灯になるような瞬間、そして、教科書の中にしか見たことがない姿というものがそこから一週間・・・

「あまり詳しくは話せませんので、あとは廃炉資料館で。私が言えることは、ああ、世界史的な出来事の瞬間になったんだな、ということです。」

現代において、ついこの間まで、3月11日まで、原発のことなんて、社会で誰も問題にしていなかった。地域の人も、発電所を目の前にして、一緒に仕事しながら当たり前に暮らしていた。親たちは子どもたちに地元の進学校に行って東京電力に入って欲しいと願った。地域にとって生活を保証してくれる存在だった。

「みなさん、高校に入って大学に行って、どんな人生を送りたいとか、どんな人間になりたいとか、ありますか?私もみなさんぐらいのとき、金持ちになりたいと思っていたんですよ。年収が1000万ぐらいの。そして、きれいな奥さんがいて、子どもがいて、それがなんか幸せのイメージで、だから当時、高校を出て東京電力に入ったんです。」

あの日を境に、何十万人という人の人生を狂わせるという状況が生まれた。

「私自身の話で言えば、入社した若い頃の自分がいて、なんとなく働いて、地元の人と仲良くできて、楽しいこといっぱいあったんだけど、危険なものを預かりながら、安全だと言い張って、結果、事故が起きて後悔する。間違いなく、自分の中では人生のターニングポイントになっています。」

「では、みなさんにとってはどうなんだろうか?」と吉川さんは問うた。

「学校の先生に連れてこられて、初めて福島に来た人も多いと思います。それはなんでなの?って言ったら、教育の現場で扱われるほどの出来事があり、いま、そのさなかにいる。あの事故が何を生んだのか?生んだものっていうのは大きな悲しみがたくさんあるんだけれども、それをこうね、ぐるっとプラスに転換できるような状態まで、この廃炉というものが存在価値を得ているということを見てもらえるといいかなと思います。」

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 「これ、なんだかわかりますか?」と吉川さんはジオラマ上のおびただしいタンクのミニチュアを指して、「水の廃棄物」の話をした。原子炉建屋で解け落ちた燃料(デブリ)を冷やすために水をかけ流している。このデブリというのは放射線を凄く出す汚れた物質だから、かけた水は人が触れない水になる。放射性物質を取り除くための設備があって、ある程度浄化が進んだ水をこのタンクに溜めている。これが「増え続ける汚染水の問題」。この増え続けるタンクをどうするのか?最終的には環境への放出ができるのか?環境への放出というのは、海に捨てたり、空に捨てたり。発電所の外に最終処分するということ。

「今、水の話をしましたが」、今後はここを解体して大量のがれきが置かれる。これも人が近づけないレベルの放射線量だし、解け落ちた燃料はもっと線量が高い。こういったものの後始末をしなきゃいけないのだが、片づけるのに何十年もかかる。福島第一原発だけじゃない。世界中、日本中の原発が同じような課題を抱えている。

「これ実は電力会社だけが頑張ってもできません。だって、ある程度片づけているんだけど、最終処分っていうと、みんなが暮らしている場所に影響を与えかねない。たとえば、海に捨てるということだったりね。海ちょっと困る。大気中だったら海どころじゃない。私たちの暮らしのほうにも、もしかしたら影響あるんじゃないか?だから、みんなで話し合わないと決められない。なのに対話ができない。対話ができないから解決ができない。放置した場合は、ずーっと先、みんながおじいちゃん、おばあちゃんになった時代にも、この問題は取り残されて、今の私みたいに、『君たちに関係ある話なんだよ』『君たちの未来につながっているんだよ』って同じことを繰り返す。それをみなさんはどう考えますか?」

事故を踏まえて、ここだけがきれいになれば廃炉が終わったとはもはや言えない時代。事故への落とし前というものを考えて、次の時代に、より良いものとして渡すための、この一歩が進められないことにこそ問題がある。デブリが取り出せない問題は、実は技術的な問題ではなくて、その、デブリを取り出すから何になるの?というところ。

ここでふと、吉川さんは野ケ山先生に尋ねた。

吉川:廃炉って何ですか?イメージで。

野ヶ山:廃炉・・・イメージは原子炉そのものをまっさらにする。元の状態に戻す。作った前の状態に戻すこと。

吉川:片付ける?

野ヶ山:そう、片づけて、元あった土地の、作る前の状態に戻すところまでが廃炉かなと思います。

吉川:それってやっぱり、汚れたものを、ちゃんと落とし前をつけるっていうことですよね。なんか、原状復帰させる意味が含まれているような。福島第一原発廃炉の定義は一つできていまして、解け落ちた燃料と解け落ちていない燃料を原子炉建屋から全数取り出すことに40年をくださいと言っている。実は、更地にするとか、どんな姿にするかは決まっていない。燃料の取り出しに30年から40年かかるんで、それは廃炉じゃない。言葉を間違ってしまったんですね。

3月11日ってそんなに軽くないだろう。何か世界史に残るような転換点にするのであれば、燃料を取り出して、「はい、もうこの事故は終了。廃炉は終了」という話じゃない。

「私個人は、廃炉って何ですか?という問いかけを今されたら、あの日生まれたことがきっかけとなって、遠い30年後、40年後の未来には、今かかえている課題が解決できるような意思決定をみんなが考えられるような世界観が溢れている、かつ、ここが安全にある程度片づけもされている。この周りは、原発事故をきっかけにたくさんの支援者の方々との縁も生まれたし、ふるさとを守ろうという力がふつふつと湧いている。それが途絶えることなく、町を形成していく。20年後、30年後の未来は、何か、ここに触れること、ここに近寄ることで、誰かの人生や誰かの地域を豊かにするものに溢れた場所に転換していったら、それは廃炉がなされたということになるのではないか。」と吉川さんは言った。

たとえるなら・・ヒロシマナガサキと言えば、戦争が浮かぶかもしれない。でも、本質的にはヒロシマナガサキというキーワードの次に出てくるのは、平和の象徴。かけがえのない平和というものを自分たちもちゃんと受け継いでいこうという。

「ぜひですね、今度『廃炉って何ですか?』って私が聞いた時に、夢を語っていただけると・・・まあ更地にするには、放射性廃棄物の最終処分っていうのがどこかこの場所じゃない所に、たとえば、みんなが住んでいる近くということもありうるし、ほかの場所で保管できるようになるのか・・・ぜひ、これぐらいで一旦締めます。知識ではなくて、いま自分が持っている考えでじゅうぶんですから、知恵に変えていくということを意識しながら、ぜひ廃炉資料館に行って頂きたいと思います。」

 

吉川さんの表情と言葉に圧倒されつつ聴き入っていた生徒たちとの質疑応答に移る。

 

K田君(中3):あのー、これは僕の廃炉に対する考え方っていうか、30年後、40年後を想像した時に、いったい何人の人がここを覚えているだろう?と思ったんですよ。放射性物質があって、瓦礫があって、それを整理しないといけない以上、ここが原発だったと思い出せる要素というのはほとんどなくなると思うんですよ。それこそ広島の原爆ドームみたいに公園があればわかるけれど、みんながここを訪れて何を感じるか?40年後、この場所が果たしてみんなに思い出せる場所になっているだろうか。ここに来ているみんなですら、40年後、考えているだろうか・・・どうやって忘れないようにしたらいいんでしょうか?

吉川:忘れます。先に言うと。これねー、ひどく強いインパクトを受けて、刻まれた記憶になっていかないとたぶん難しい。自分なんかは原発事故を経験しているからね、一生消えない。ただ、言いたいことはすごくわかる。歴史を継承できる場所としての残し方は考えていかなきゃいけないと思うんですね。さっき言った原爆ドームみたいな。まずはそういう、ちゃんとその歴史観があり、そこに何が生まれたんだと。被害じゃない。悲しみじゃない。悲しみだけを残すんじゃなくて、その悲しみから何が生まれたんだみたいなメッセージ性ですね。そういうものを含めて形として残す。これ、かなり難しいんです。たとえば、ここに「原発ドーム」みたいなものを作ってもダメなの。ここでの意味を残していく、考えて伝えられる力を持った人がいないと。おっしゃる通り、私もね、同じような危惧、感じてます。忘れちゃう。考え続けることで、それを防げるかもしれない。私がというよりも、みんなが。みんなが何かしらここの出来事・・ということで自分に取り込もうという気持ちがあれば。

K田:いちばん恐いのは、ニュースで「廃炉作業が終わりました」って流れて、それをピッとテレビを切る瞬間がありありと思い浮かんだんですよ。へーえ、廃炉作業終わったんだ、よかったじゃんって。何も解決していないじゃないですか。

吉川:してないね。

K田:それを思い描いた時に、廃炉って本当に何なんだろう?って思ったんですよ。片付けて、それで片付けが終わったらおしまいなんだったら、みんな忘れて当然じゃないかな。それがよかったってなるのか・・・

吉川:この場所はね、結構そういう議論も出ていまして、広野町早稲田大学が共同で、残し方みたいなことを研究しているんです。歴史的な遺物として、海外だとレガシーっていう考え方で、日本語で言うと遺産。日本は遺産っていう言葉をはき違えていて、遺物っていう意味でとらえている。残ったもの。そうじゃなくて、後世に残る財産として過去に起きた出来事を、形を、思いを遺して継承する、ということをやってる人たちがいる。そういうところに期待もしつつ、でも、誰かがやることじゃなくて、社会全体が。原爆ドームも同じことだと思いますね。あれ、広島の人たちだけが残したいって言ったんじゃないと思う。みんなで残さなきゃいけない。あの日の出来事を忘れちゃいけない。だから今も続いている。なんかさ、廃炉作業終わりました。へーえってみんながボタンを消しちゃう・・やりたくないね。答えになってないけど。

T君(中3):ターニングポイントになったということだったんですけど、ぼくはこれまで原子力のことに全く興味を持っていなかったし、3月11日のことは、ぼくのターニングポイントにもなっていないんですけど、あんまり関わっていないしインパクトも受けていないぼくたちが福島の現状を伝えても何の重みもないし・・・どうしたらいいのかというのがあるんですけど・・・

吉川:そりゃさ、経験した人と、今見に来ている人の間では、重みというよりも深さだったり、トリビア的な知識の量で言えば、大きな差があるけどね。私は、広島、長崎に行ったのは中学生の時だったんです。もう戦争が終わって何十年も経っていました。だからやっぱり喋れなかった、見たことを。ただ、行ったことだけは覚えているんです。で、それなりに喋るんだね。浅い知識でも。で、年齢が上がって結婚して、奥さんのおじいちゃんやおばあちゃんから昔話を聴いた時に、ふつふつとよみがえってくるんです。その時のただ広島に遊びに行っただけの、でもなんとなく、これ大切なことなんだろうなってなことを結構熱く語ってるんです。みなさんが見た、ありのままでいいんじゃない?とりあえずは行ってみようねと。別に誰かのターニングポイントにしたくて、福島のこと喋ってるつもりはないんです。今日が何かみなさんにとって、ほんの少し、「スイッチ入れてみようかな」ってなれば、それで私は満足ですし、何か目標を持って生きたほうが面白かったり。漫然と生きてると、大きなことが起きた時にすごく後悔する。「力になれない」とか「ぼくたちなんか」みたいなことを考えてしまった時って何かが止まってしまうと思うんです。まだ、未熟かもしれないけれど、何かしっかりと掴んでみたいと思ってくれたら、すくなくとも、Tさんの糧になる。その糧がいつか花開く瞬間がきっとあると思うから。そんなふうに福島の旅をとらえてもらえればいいんじゃないのかな。誰しも、福島を助けてあげたいとかいう気持ちが湧くんですよ、こういうところに来ると。だいじょうぶ。みんなでゆっくりと着実にやっていくことなんだから。かわいそうなものに出会ったとしたら、そのかわいそうなことにつながる原因に憤慨するんだ、人間なんていうのは。でも、その憤慨した衝動っていうのをいちばん大切にして、きっとそれは違う問題に向き合った時にも、僕もなにかしなくちゃという力になると思うんだよね。そういうことに生かしていける。また来ればいいし。そんなふうに思います。

女子生徒からも手が挙がる。残念ながら名前が把握できていない。 

Q:時代が進むにつれて、原発事故を体験した人がいなくなるじゃないですか。だから、原発事故、そういう問題に、自分たちの世代やその下の世代が考えて行くけど、体験してなくて怖さを知らんから、知識がないわけやし、そういうあまり怖さがわかっていない子どもに託すということを繰り返してしまう。そういうことについて、今、大人として、どうしていくべきだと思いますか?

吉川:今、原発とか、原発が持っているリスクみたいなものは、事象としてきちんと自分が語れる存在になっていかなければならない。それをより広く共有する。それも大切なんだけど、それは関心を引かないんだ。原発あぶないんだよ、聞いてよって言っても関心を引かないんです。でも、なぜ原発があるんだ?ということの裏側って考えると、実はエネルギーに頼らないと人間って生きられない生物なんだという、もっと広い、大きな概念が見えてくる。私もまだうまく言語化できていないんだけど、たぶんそれは人の暮らしを考えていくこと、人生を考えることになっていく。これなら会話ができそうな気がする。どんな未来に住みたい?どんな自分になりたい?どんな暮らしをしたい?とか。そこには当然、エネルギーの話も出てくる。そっち側をきちんと話し合える状況を作っていく。その上で、まだその時に原子力というものがあるのであれば、リスクも含めて、同じ経験値で恐怖感を持ってもらえないにしても、そういう出来事が過去、事実あった。過ちを二度と繰り返さないと願うことは人間の力じゃないですか。そこをしっかり信じて若い人とも喋っていく。原発が安全かどうかじゃないんだ、本質は。これからの未来のために、あなたの人生のために、一緒にどんなものが作れるか、それを話し合える環境を作って行くことが大人の責務だし、大人が正直に言わないといけないんだ。政治の話もしなきゃいけない。人と人がいがみ合ってうまく進まないこと、きれいごとばかりじゃなくて、うまく行かないんだ。同じ経験をした者同士でも喧嘩して前に進まないことがある。そういうのを包み隠さずみんなに喋っていって、でも、みんなの世代と一緒に作りたいんだ。私の考えている大人像というのは。さっきの廃炉の定義になるわけさ。そこをね、みんなと一緒に考えられるテーマを作れたら、なんとかなりそうです。オジサンとかオバサンとも喋ってほしいですね。「託す」という言葉じゃないね。一緒に背負っていく。必然的に先に死んじゃうから、みんなにとってどうあるべきか、というのを教えてもらえると、円滑にすすむんじゃないかな。

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Q:家族と一緒にこの問題について話してみたいと思ったことがあるのですが、あまり聞いてくれないというか、やっぱり距離的にも離れているし・・・あまり話していないから、親がどれぐらいの知識を持っているかもわからないんですね・・・どうやって伝えていったらいいのか・・

吉川:ここで起きた事象とか、今の姿とか、非常に知識を必要とします。私も足りないかもしれない。たぶん、それを共有しようとすると、まず無理だ。する必要もないのかな。何を共有したいのか?それがきっと手前のほうにあるような気がする。「福島第一原発のこと、考えなきゃいけないよね」って言われたら、私「ううん」っていつも言ってます。原発のことを考えるんじゃないんだよ。この原発で起きた問題とか課題から自分を省みて生まれたこの気持ちみたいなところを共有すればいいんだね。・・・「被災地に行ってみたんだよ、おかあさん。こういう現場を見たんだよ。私は行く前と行った後で、こんな変化があったんだよ」って。その変化を、心の、日常の変化の立場から、それをお父さんやお母さんに「私ね、こんな大切なものを掴んできたんだけど、どう思う?」って聞いたら絶対返事してくれるよ。逆に「デブリが取り出せないんだって。デブリってこうなってるんだって。お母さん、これ大切なことだから覚えましょうよ」なんて言ってもそれは無理。全く興味ない。意味がない。 

伝えるっていうのは、何を?何のために?誰に?どのようにして?っていうのを少し意識することでも変わると思う。これまで、知識がない人を「馬鹿」と見る世の中になっちゃっている。みんな進学校に行ったりするんだけど、決してそんな人間にならないでね。いろんな経験、感情で人は違うんだから。自分と同じ知識を持っていなくても、それは問題ではなくて、大事なのは、自分が大切にしているものであったり感情っていうものを、その相手の人も同じようなものを持っていないかもしれないけどそれを交わせる力を身に付ける、コミュニケーション。もしかすると、コミュニケーションや方法の問題だったりする。大切なもの、大切なことっていうのを・・・私も普段これ(=ジオラマ)を扱っているからね、同じような悩みをいっぱいもってる。これ共有してどうするんだ?ってね。やっと、5年ぐらいかかって、ここから生まれた教訓みたいなことを話し合えれば、必然的にここのことは誰かと共有できると。

K田:今までで思ったのは・・・さっきデブリがどうのこうのって言ってもわかってもらえないっていう話があったんですけど、自分がどれだけ勉強してきたかを相手に伝えて、どれだけ自分ががんばってきたかを言った上で、でもそんなのどうでもいいんだよって言ってしまえるぐらいでなきゃいけないんじゃないかと思いました。だから、ぼくの心の中にこれぐらいの模型があって、これぐらい知識があって、こういうものやってきたんだって見せて、その上で、そんなことなしでも考えられるんだよって伝えられるためには、まず、心の中に模型を持つっていうことが必要なんじゃないかなと。

吉川:うーん。なんかねー、すごくね、考え方は近い気がします。私も同じような気持ちでいるよ。まず自分がね、国とか東京電力と、知識として対抗できるぐらい、すごく勉強してるんだけど、それがあって然りね。結構、ふだん会う学生さんたちにはこれ見せないで終わっちゃうこともあるんです。「吉川さん、廃炉のこと、原発のこと、教えてください。」っていう学生たちに対して、うん、もっとその手前がある。いい?まずは挨拶だーとかさ。みんな今たのしい?とか。なんで勉強したいの?勉強嫌いにならないほうがいいよ。やりたいこといっぱいできるようになるから。道歩いているおじいちゃん・おばあちゃん大切にしてる?お父さん・お母さんと仲良く出来てる? せっかく同じ学校に行って人生交わってるんだからさ、この人たちと末永くこの先も行けるかな? 行けないことが自分の中にはあるなら・・・これ全部ね、ここで起きたことにもつながってるわけさ。そういう手前の大切さに、ちゃんとものが言えるようになるっていうことは経験値とか知識が必要だと思うんだね。いちばんダメなのはね、知識なんて誰でも学べるのに、その知識を並べ立てて、さあ専門家だ!ってやってるような人にはならないで。心に模型を置くってね、結構大変だから、私はもうこれしかできなくなってしまったから、逆に言うと。それが知識の深さだったりする。自分がやりたいことのために、やっぱり時間が限られているのだから、何の模型を置くのか、ここの中心になる、いちばん濃いものを何にするか?というのは、ホント慎重に、かつ、真剣に選んだ方がいい。

 

*****

時折、禅問答のような問いかけを交じえた吉川さんのお話に、生徒も大人も、とても考えさせらる。元々の問題意識の上に、話を聴いて触発され、湧き起こった疑問を生徒たちは素直に投げかけ、それらの問いによってさらに吉川さんの言葉が引き出されていく。真摯な対話に大人たちも引き込まれた。(続く)

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人が主役のならはCANvas 〜2020京都発ふくしま「学宿」その4

三春町のコミュタン福島を出たバスが浜通り楢葉町に近づく頃にはだんだん日が暮れてきた。夕闇迫る中、楢葉町の施設みんなの交流館CANvasに到着。迎えてくれた一般社団法人ならはみらい事務局の西崎芽衣さんも言った通り、「田舎にあるにしてはお洒落」な建物で、木がふんだんに使われ、明かりにも温かみがある。

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西崎さんは地元の人ではない。

「私も3年前まで京都にいたので、今日みなさんが来られて嬉しく思います。」

東京・八王子生まれの27歳。転勤族であちこちに移り住む。京都にいたのは大学時代だ。立命館大学の産業社会学部で住民主体のまちづくりを専門に学び、阪神淡路大震災で被害のあった神戸市長田区と中越地震のあった新潟県小千谷市の2つの地域に通い続ける学生時代だった。と同時に授業のご縁もあって、福島県楢葉町にボランティアで通うようになり、卒業後は楢葉町で就職して暮らしている。 

東日本大震災の時、西崎さんは高校卒業直前。3月12日に予定されていた国公立大学の後期試験が震災で中止になり、浪人した。一年間の浪人生活で自分がこれから何をしていくべきかを考える中で、やはり、震災は大きな影響を与えた。

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「では楢葉町についてお話したいと思います。」

人口は震災当時で8011名。2020年1月現在で6816名だが、これは住民登録者数。町内居住者数は3932名で全人口の58%ほど。それ以外の人々は町外で暮らしているという状況である。

広い福島県の中では南のほうで、名物は木戸川の鮭、ゆず、「マミーすいとん」など。

楢葉町広野町にまたがるJヴィレッジは、日本サッカー界初のナショナルトレーニングセンター。かつて日本代表チームが合宿した時にすいとんを出したところ、当時のトルシエ監督が「マミーの味」と絶賛したことから、「マミーすいとん」と呼ばれる郷土料理になったとか。 

「私も震災当時はここにいたわけではないので、たくさんの方々に聴いたお話を集めてみなさんにお話するような形になってしまいますが」と言いながら西崎さんは話を続けた。

 地震津波原発事故という3つの災害が一気に起こった。町内の死者は13名。重傷者が2名。津波による住宅被害が125戸。震災直後は町内の小学校に避難し、翌日3月12日の8時には、もっと南に避難するよう指示が出た。見せてくれた地図の中にある2つの赤い丸は原発の場所だ。

「上(北)の方の丸が福島第一原発です。原発から離れて南に避難しなさいということで、多くの人々がいわき市に避難しました。もう一つの丸福島第二原子力発電所です。」

福島第二原発楢葉町にある。事故は免れたが停止中で廃炉が決まった。もしも第二のほうでも事故があったなら、楢葉町は今でも住める所ではなかったかもしれない。2012年には楢葉町警戒区域に入っていたが、当時の風向きでたまたま南側は放射線量が比較的低かったので、同じ年の8月から避難指示解除準備区域に。除染が進む。

町内に2つあった常磐線の駅(木戸、竜田)は2014年6月に再開している。2019年には新たにJヴィレッジ駅が開業。常磐線は今年の3月14日に全線開通となったばかりだ。

全町避難していた楢葉町は2015年9月に避難指示が解除され、住んでもよいエリアになった。それまでは住民ゼロだった町がここまで復興してきた。お祭が再開し、病院が新設され、小・中学校も再開し、復興公営住宅ができた。今は仮設住宅に住んでいる人は誰もいない。それぞれが元の家や新しく建てた家、あるいは復興公営住宅などに住んでいる。道路がきれいになり、このような新しい施設もすべて完成している。

 「今、楢葉町では目に見える復興はほとんど終わっていると思っています。」と西崎さん。

では、これから楢葉町で大事にしていなかければいけないことは何か?

「ここに住む人たちが主役になっているまちづくり。行政やいろんな組織が主導するのではなく、ここに暮らす人一人ひとりが主役になれる町を目指しています。」

たとえば、楢葉町のお母さんたちによる藍染めの活動では、自分たちで藍を育てるところから取り組んでいる。行政が「やりましょう」と音頭をとったり「やってください」と頼んで始まったわけではない。お母さんたちから「やりたい」という声があって始まったこと。そのような趣味のサークル活動が楢葉町にはたくさんあり、ならはCANvas館内にもたくさんの作品が飾られている。

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「趣味のサークルって結構どこにでもありますが、楢葉ではとても大切なものなんです。」

仮設住宅での避難生活で、それまでは畑をしたり何かやることがあったが、家にこもってしまう人が増えていた。そんな中、手作業の趣味のサークルがどんどん増えていき、避難生活の絆になっていた。仮設住宅のそれぞれの家には手芸の作品がたくさん飾られていたのを西崎さんは覚えている。

 

2015年に避難指示が解除された時にすごく大きな問題が起こった。

「住めるようになってよかった」と思った西崎さんは、8000人がみんな戻ってくると思っていた。当時西崎さんが聴いた話。

「あの人、戻るんだって」

「あの人、戻らないんだって」

朝起きたら、仮設のお隣さんが引っ越していたとか。

「なんで、あんなに危ないところに戻るの?」という疑問。

「なんで、戻れるのに戻らないの?」という疑問。

 避難指示が解除になって、いろいろな選択ができるようになったがゆえに起きた問題だ。みんなで和気あいあいやっていたサークルも、戻るor戻らないで、バラバラになってしまった。これからどうなっていくんだろう? ある程度時間が解決してくれたように思うと西崎さんは言う。今では、いわきに住んでいる人も一緒にやろうという雰囲気になっている。

 

ここでちょっと話が変わり、ならはCANvasの話になった。

目に見えない復興を意識して作られた施設である。田舎にあるにしてはお洒落?

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「実は、町民が集まって設計して作った施設なんです。」

こういう施設は行政の主導で作ることが多いが、ここは敢えて、町民の方々に集まってもらって設計を進めた。「お茶飲み会」という名前のワークショップを全部で9回開催。

naraha-canvas.com

「ワークショップって言うと、ハードルが高くなるので、『ちょっとお茶でも飲みに来ませんか?』と声をかけました。来てくれた人たちと話し合ってどんな施設にするのか決めて行った。「交流ってどんなことなのかな?」「楢葉町の良いところってどんなところかな?」などなど。

施設見学の前に、「ここまでで何か質問はありますか?」ということで質疑応答

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Q:まだ戻ってきている人は少ないということですが、今の仮設住宅はどうなっているのですか?(2年K林君)

西崎:そうですね。ほとんどはもう解体されています。一部、岡山県で大雨の災害があった時に、再利用するために運ばれたものもあります。

 

Q:京都から福島に来るとき、周りの人の反対はありませんでしたか?(3年K田君)

西崎:すごい反対を受けました。親からは家を出て行けと言われました。実は、2015年に避難指示が解除された時に、一年間大学を休学して、今いるまちづくりの団体で臨時職員として働いていました。その後復学して、それから正式に職員として就職してこっちに来たんですけど、私が反対されたのは、避難指示が解除される前のことで、親は身体の心配をいちばんしていました。ただ、それまで3年ぐらいボランティア活動をしていた間に福島には何度も来ていて、放射線量については先生や仲間たちと一緒に勉強してきて、自分なりに親を説得しました。そうですね。反対はありましたが、私は意外と頑固なので、何を言われても変わらないっていうのはあるんですけど。今のほうが、いろんな方とお会いして「親に反対されなかった?」って聞くと、「そういうのはなかったです」っていう子が多くてびっくりしています。

 

Q:福島に来た時に、「京都から来てる関係ないヤツに私たちの何がわかるんですか」みたいな福島の人たちからの反発はなかったですか?(3年T君)

西崎:元々ボランティアで福島に入り、そのボランティアの内容というのが、お話を聴く「傾聴ボランティア」というものだったんですね。自分が何かを言うというよりは、とにかくお話を聴くというところからスタートしたので、あまりそういったことはなかったです。大学として、宮城や岩手でのボランティアには力を入れていたのですが、「福島には行ってはいけません」ということでした。行ってはいけないと言われれば言われるほど気になる。 そういう仲間が何人かいて、サポートしてくれた先生がいました。結局、自分たちで団体を立ち上げて行くことにしました。やっていたのは、仮設住宅の集会所に行って「京都のお茶とお菓子を持ってきましたー!」って言って、集まってもらって、ただただお話を聴くということでした。寒かったので足湯に入ってもらって、ハンドマッサージをしながらお話を聴くということをやっていたんです。ボランティアと言うと、片付けをするようなイメージが私自身あったんですけど、福島の人たちのお話を聴いていると、いろんな立場、いろんな意見の方がいらっしゃって、自分の不安だったり、不満だったり、怒りだったり、逆に嬉しい、というような感情を外に出せないんじゃないか、というのがあったんです。なので、そういうことだったら、話をなんでも聴くことだったら、できるかなということで、そういう活動を3年ぐらいやってました。必ず、名前と顔を覚えることを意識していて、京都に戻ってからもずっと文通を続けました。「被災地の方々」と書くんじゃなくて、○○さん、△△さんと必ず覚えて帰るし、自分のことも覚えてもらって帰るということをすごく意識して活動していたので、その時の出会いは今でも続いています。

 

Q:ボランティアとして福島の人たちのお話を聴く中で何を感じられましたか?(2年I君)

西崎:今考えると大変失礼で恥ずかしいのですが、現地に行けば、震災当時の悲惨なお話を聴くことができると思っていて、そういう貴重なお話を聴きたいと思っていたところが正直ありました。でも、実際に来てみたら、そういう話じゃなくて、お孫さんの話とか、身体の病気の話とか、いわゆる世間話がほとんどでした。なんでこんな話を・・これでいいのかなあ?と思ったこともあったんですけど、そういうことを積み重ねていくうちに関係性ができてきて、京都に帰ってから届く手紙にさまざまな想いが綴られていることもありました。さっき、避難指示解除の時に私はみんな戻ると思っていたと言いましたが、ある時、楢葉のことを教えてくださったおばあちゃんから「私は戻らないことになりました」というお手紙が届きました。息子さんとお孫さんと一緒に住んでいて、お孫さんが学校を変わるのかわいそうだし、これから先のことを考えると、いわき市にずっと住み続けることになったんだと。自分は戻りたいけど、これからのことも不安なので、息子たちと一緒にいることにしたという手紙を読んで初めて、ああ、戻りたいけど戻れない人もいるし、戻らないという選択もあるんだということに気づいて、やっぱり単純じゃないなあって思いました。それで、休学して、自分もここに住んでいろんなことを学ぼうと思いました。そのきっかけになった今でも印象に残る出来事です。

 

さて、西崎さんの案内で施設内を見学。

 

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 みんなのリビング。壁や間仕切りがなく、一部は2階まで吹き抜けの開放的な空間だ。ソファも棚も組み換え可能で“交流”を生む工夫がされている。

「懐かしい人に会えたらいいな」

「目的なく来れる場所だといいな」

「一人でも気楽に来れるカフェのようなスペースがほしい」

ワークショップで出たそんな声が反映されている。

 

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 2階には楽器を使えるサウンドルームや映画を上映できるスペースもある。一段高くなったスペースは、障子で周りを囲むこともでき、少人数の宴会やお月見にぴったり。

 

暖冬とは言え、2月だというのに西崎さんは半そでのポロシャツ姿。この日の昼間にやっていたハワイアンのイベントのために館内を30℃にしていた由。そんな楽しいイベントもやっているようだ。京都の一行が訪ねた頃には町民の方々の姿は既になかったが、日々50人ぐらいは集まるという。次に機会があれば、日中この施設で繰り広げられる自然体の場面も見てみたいし、京都の生徒たちを含め、よそ者が地元の方々と交流できるといいな・・と思った。

それにしても、京都から自分の意志で楢葉町に飛び込んだ西崎さん。自分たちと年齢の近い「お姉さん」のパワフルな生き方は、とりわけ女子生徒たちに大きなインパクトを与えたようだ。学生時代から福島で出会った一人ひとりの顔と名前を覚え、一人ひとりの話に耳を傾け、一人ひとりと文通を続ける中で、楢葉町で生きていくと決意するに至った素晴らしい出会いがあったのだろうか。「人が主役のまちづくり」の実践が続く。(続く)

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