よろず編集後記

よろず編集者を目指す井内千穂のブログです。

もし高校生がプッチーニのオペラ『蝶々夫人』を観たら

もしドラ」のような仮定の話ではなく、実際に新国立劇場はオープン翌年の1998年以来「高校生のためのオペラ鑑賞教室」を開催しており、毎年約1万人の高校生がオペラを観る機会を得ている。ほとんどの生徒にとっては「初めてのオペラ」だ。その中で最も頻繁に上演されてきたのが『蝶々夫人』である。

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今年2月にオペラ『蝶々夫人』を相次いで異なるバージョンで観たことは以前のブログに書いた。栗山民也さん演出による新国立劇場のレパートリー公演と、俳優・演出家の笈田ヨシさんによる新演出で話題になった4都市共同制作オペラの2つ。いずれも日本人演出家の手になるプロダクションである。

chihoyorozu.hatenablog.com

 

自分自身が『蝶々夫人』のストーリーに対して決して良い感情を持っていないので、これが多感な高校生にとって「初めてのオペラ」になるのはどうなんだろう?これを敢えて題材に選ぶところに何か意図があるのか?と疑問に感じていた。

ということで夏休み前に開催された「高校生のためのオペラ鑑賞教室」を取材させていただく運びとなり、ジャパンタイムズにコラムを書かせてもらった。

www.japantimes.co.jp

劇場側の説明では、オペラ鑑賞教室の演目はあくまでも実際的な諸条件を満たすものを毎年決めているということだ。毎年必ず『蝶々夫人』をやるわけではなく、昨年は『夕鶴』だったし、『愛の妙薬』や『トスカ』などが上演された年もある由。その中で一番頻度が高い「蝶々夫人」の良い点としては、

  • レパートリーとして直近に上演され、舞台セットや衣装がそのまま使える。
  • 長さが適度(2幕で2時間40分。結構長いがギリギリOK)
  • 音楽が美しくわかりやすい。
  • ストーリーがドラマチック。
  • 日本人キャストによる上演なので、金髪にドレス姿より自然に見える。

などが挙げられた。なるほどね・・

www.nntt.jac.go.jp

 

さて、今年の「オペラ鑑賞教室」初日の7月10日。見渡す限りほぼ満席、即ち約1800人の高校生で埋め尽くされた新国立劇場はいつもとずいぶん違う雰囲気。学校によって人数や学年は異なるが、5~6校は参加していたようだ。学校行事としてオペラに連れて行ってもらえるなんて羨ましいなあ・・うちの息子たちの学校ではやってなかったなあ・・などと思いながら、1階最後列に用意してくださった大人用の席に着く。

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客席の照明が落ち指揮者の三澤洋史さんが登場すると、一斉に拍手が湧き起ったのはいいが、それがいつまでも続く。三澤さんは鳴り止まない拍手の中で前奏曲を始めざるを得ず、冒頭は全然聴こえなかったが、舞台が明るくなりピンカートンとゴローが登場したらようやく落ち着いた。

こんな調子でどうなることかと思ったが、物語が始まってからは思った以上に熱心に舞台を見つめ音楽に聴き入っている様子。妙にほっとしながら一緒に鑑賞させてもらった。休憩時間中には3階席や4階席に上がって、何人かの生徒たちに声をかけてみた。「舞台は遠いが音はとてもよく聴こえる」「字幕があるので台詞やストーリーはよくわかる」「面白い」と言っていた。ふーん、そうか。何というか、西洋人も登場する幕末物の大河ドラマか映画を観る感覚に近いものかもしれない。台詞が全部「歌」だが、ミュージカルを観たことがある生徒は結構多いのかもしれない。プッチーニの音楽はそれだけでも甘美で心地よいのは確かだし。私の目の前の列に並んでいた男子生徒たちの中には大いびきで爆睡している生徒もいれば、その彼に「しょうがねえなあ」と呆れた目を遣りながら、舞台を見守っている生徒もいた。

長い第2幕は台本通りに蝶々さんの自刃という悲劇で終わった。

彼らの目にはどう映ったことだろう?

終演後、新国立劇場と都立駒場高校のご協力により、2年生の生徒さんたち6人にインタビューさせてもらった。駒場高校ではここ数年、1、2年生がオペラ鑑賞教室に参加しているとのことで、昨年度は「夕鶴」を観たそうだ。

オーケストラ部男子:オケ部なのでクラシック音楽自体はよく聴く。日本史の授業で先生がYouTubeで聴かせてくれた「宮さん宮さん」が今日のオペラに2回出てきて周りの友だちと一緒にどよめいた。

オーケストラ部女子:「夕鶴」は日本語なので字幕がなくて台詞がよく聴き取れず困ったが、今回はイタリア語でも字幕があったのでよくわかった。

演劇部女子:蝶々さんが最後にアメリカの星条旗を仰ぎ見ながら自刃する姿を見て、ピンカートンのことを愛し抜いていたんだなあ・・と思った。父の形見の短刀に「名誉の内に生きられない者は名誉の内に死ぬ」と書いてあって、十代でそういう決断をするのはすごいと思った。

オケ部女子:3年も待っているなんてありえないと思った。自分だったら待たないで次へ行く。

オケ部男子:「裏切られる女」というのはありがちな話だと思う。蝶々さんがかわいそうだと言うが、自分はバカだと思った。彼女は周りが全然見えていなくてピンカートンのことしか考えていない。悲劇のヒロインと言われても自分は共感できない。

野球部男子:はじめの結婚の場面で、蝶々さんは自分の宗教や親族と縁を切り、のちのち誰にも相談できない状況に追い込まれて行った。やっぱり生きていくには友達とか相談できる人が必要で、孤立してはダメだと思う。

演劇部男子:蝶々さんはかわいそうだと思った。また機会があればオペラを観てみたいと思う。何かおススメの演目を教えてもらいたい。

体操部女子:幼少期を海外で過ごし、オペラにも連れて行ってもらったことがあるが、今の年齢で観たらもっとよくわかるかもしれないと思った。今回は照明の効果もすごいと思った。最後の場面は眩しいほど明るくなる照明で蝶々さんの最期がわかるようになっている。

オケ部女子:ティンパニの連打で最期が近づいていることが伝わって感情が揺さぶられた。歌とオーケストラがぴったり合っており、どうやって合わせているのか?すごい!と思った。それにしても、子どもの目の前で死ぬのはどうなの?と友達と話した。

演劇部女子:ふつうの演劇では台詞と間(ま)があって沈黙の時間もあるが、オペラの場合はずーっと音楽が鳴り続けている。オーケストラを聴いているとどういう場面なのかがわかる。それから舞台の上の方に星条旗があって、ピンカートンはいつも上から下りてきてまた上に戻っていくが、蝶々さんはいつも下の「家」にいるのが印象的だった。夢の中でだけ階段を上って星条旗に近づくところが切ない。

・・・彼らに高校生全体を代表させるわけにはいかないものの、こういう感想を直接聞けたのは貴重な機会ではあった。総じて興味をもって、音楽・歌唱・舞踊・舞台美術・衣装・照明などの総合芸術であるオペラを堪能したようだ。また、日本女性の描き方についても、私のように感情的に反発するよりは、彼らなりに蝶々さんの状況をクールにとらえている。とくに、蝶々さんに批判的な男子生徒たちや、最初から最後まで舞台の上方ではためいていた星条旗が気になった生徒さん(さすが演劇部!)のコメントには感心した。

彼らの話を聞いていて、ふと、栗山民也さんの演出意図が少しわかったような気がした。栗山さんにしても、東京芸術劇場で観た新演出の笈田ヨシさんにしても、戦後日本のあり方に対する批判的なまなざしは共通するところなのではないか。「人間はそう簡単に(心情を)解決できない。今回は蝶々夫人が死なない終わり方にしたい」という笈田バージョンには、どんなに絶望してもやり直そうという希望(少なくともその含み)が感じられるのだが、悲劇の最期という台本に忠実な栗山さんの演出はある意味、今の日本人にとって、より厳しい警告を発しているのかもしれない。そう考えると、読み替えという形を取らなくても、100年以上前のジャポニズム趣味満載の物語を現代の日本人にとって重要なメッセージとして生かすことができるのだ。日本女性を描く外国人目線を感情的に拒絶するばかりでなく。・・・いつか栗山さんに直接お話を伺ってみたいものだ。

今回初めて一人称で書かせてもらった短いコラムにはそこまでいろいろ盛り込むことができず、高校生の率直な感想からのピックアップと、この物語のとらえ方にはさまざまな可能性があり得ることを述べるにとどまった。

実際、『蝶々夫人』には新演出の読み替えバージョンが次々生み出されている。記事の編集段階のやり取りで、カナダ人の担当エディターは、最近ニューヨークで上演されたプロダクションを引き合いに出して、「日本の演出家たちもこれぐらい大胆な読み替えをやれば、若い年代にもオペラにもっと興味を持ってもらえるのではないか?」と言った。

www.nytimes.com

これに対して私は、「いや、彼らはオペラを観る機会を与えられれば、興味を持って観る。読み替えだけが全てではなく、台本に忠実でも、日本の高校生たちはこのオペラをしっかり味わっていたし、中には演出意図を感じた生徒もいるようだった」という見解を伝えたが、「この短いコラムにそこまであれこれ詰め込むのは無理」ということになった。短いコラムで何をどう伝えるかは今後の課題にしよう。ミュージカルの『ミス・サイゴン』も『蝶々夫人』がベースになっているわけで、もはや蝶々さんは日本の蝶々さんにとどまらない。それだけ人の心を騒がす物語であることは間違いない。