よろず編集後記

よろず編集者を目指す井内千穂のブログです。

With コロナの音楽祭@ミューザ川崎

コロナ禍で3月以降自粛を余儀なくされたオーケストラ。東京では東フィルが先頭を切って6月21日にBunkamuraオーチャードホール定期演奏会を再開し、その模様は「情熱大陸」でも放映された。

www.mbs.jp

 

翌6月22日、同じ東フィルが東京オペラシティで開催した演奏会を聴いた。久々にコンサートホールに入るだけで胸が高鳴り、生のオーケストラの響きに酔いしれ、楽団員のみなさんの渾身の弾き姿に心を揺さぶられる。特別な時間だった。

その少し前にフェスタサマーミューザKAWASAKIを今年も開催するというニュースリリースを目にした。セイジ・オザワ松本フェスティバル(旧サイトウ・キネン・フェスティバル松本)も、草津の音楽祭も、8月に延期されていた宮崎国際音楽祭も、恒例の音楽祭が軒並み中止という中で、毎夏首都圏のオーケストラの競演が目玉のサマーミューザは開催するという。インターネットライブ映像配信と有観客公演のハイブリッドとは!?

ということでジャパンタイムズに記事を書くことになった。

www.japantimes.co.jp

今年のサマーミューザは、3月末に開催を発表してから新型コロナの影響で4月に予定していたチケットの発売を延期し、その後、緊急事態宣言の発令によるホールの臨時休館も重なり中止判断も止むを得ない中だったと公式サイトに記されているが、インタビューに応じてくださったミューザ広報の前田さんの言葉は力強かった。

「中止するという考えはなく、問題はどうやって実現できるかということでした。」

どんなやり方であっても今年なりの音楽祭を開催するということで、サマーミューザとしては初となる有料オンライン配信(ライブとアーカイブ)が先に決まっていたが、緊急事態宣言解除後には「やはり有観客演奏会も」ということになり、チケット販売の複雑なプロセスや、ホール内だけでなく入退場時の「密」を避けることを考慮して、最終的にキャパ2000人のホールに「600人」という人数に落ち着いたそうだ。

600人ぐらいだったら、7月10日~12日までに行われたミューザ友の会先行抽選で埋まってしまうのかと思ったらそうでもない。やはり、友の会の中心を成すシニア層はチケット購入に慎重だったのだろう。600人に達するまでは前売りも当日券の販売もある。

経済活動を再開すると当然ながら感染者数がまた増えてくる。感染者数増加の中でスタートしたGoToトラベルキャンペーンは直前になって東京発着の旅行が除外されるなど混乱している。首都圏での大きめのイベントである音楽祭はどうなるのか? やきもきする。

ワクチンや治療薬が使えるようになるのはまだ先だが、さすがに医療体制や検査体制が春先と同じままではないこと、感染症自体やその感染対策についての科学的な知見も蓄積されてきていることを睨んで、諸々の活動再開が進められている。何が正しいのか確たることは誰にも言えない。イベント主催者としては、万全の感染対策を講じつつ、様子を見ながら可能なことをじわじわ進めていくことにならざるを得ないだろう。参加するお客の側も、ゼロリスクはないことを踏まえつつ、各々できる限りの感染対策をして出かけて行く(あるいは行かない)という状況である。

記事が出た7月23日、新規感染者が東京で366人、全国では981人に上る中、フェスタサマーミューザは開幕し、私はオープニングを飾る東京交響楽団のコンサートに行ってきた。感染拡大は気になるが、音楽祭の開幕に立ち会いたい。今日の体調は万全だ。ジョナサン・ノット監督がビデオ出演という話にも興味津々。ということでホールに向かう。

 

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会場入口ではまず手指の消毒と検温が求められる。大画面の前に立つと眼前に自分の姿が映り、即座に「35.6℃」と表示される最近のテクノロジーは怖いぐらいだ。チケットは自分で切り、プログラムもロビーの棚から自分で取る。スタッフのみなさんは揃いのTシャツにマスクにフェイスシールドに手袋といういでたちで案内しておられる。

ホールに入ると使用しない座席にはカバーがかかっており、S席エリアが満遍なく間引いてある中、カバーがない座席にも結構な空席があったところを見ると、やはり600人には達していなかったようだ。

到着したのが開演20分前で、もたもたしているうちにほとんど聞かずに終わってしまったが、ステージ上ではプレトークをやっていた。

 さて、いよいよ開幕。「音楽のまちのファンファーレ」~フェスタサマーミューザKAWASAKIに寄せて。2009年の開館5周年を記念して作曲されて以来、毎年オープニングを飾るおなじみのファンファーレだそうだ。ミューザ川崎誕生のモチーフ、街の活気、工業都市ベッドタウンとしての川崎などを表現するモチーフが渾然一体となったなかなかパワフルな曲想で、コロナ禍に屈せず未来をどうにかしたい今の気持ちを鼓舞してくれる。作曲者の三澤慶氏が客席におられた。ステージ上で高らかに吹き鳴らすトランペット4人、ホルン4人、トロンボーン3人にチューバ1人。そして、ティンパニ、大太鼓、小太鼓、シンバルという4人の打楽器奏者がマスク姿で叩く姿にぐっとくる。 

 ファンファーレチームが一旦退場した後、オケの全メンバーがステージに。距離を取りながらメンバーがゆっくり出てくる間、客席から温かい拍手が続く。弦楽器パートもマスクを着用している。管楽器パート以外は揃いのマスク姿である。それが白でなく、淡いグレー(あるいはベージュ?)という絶妙な色調で顔色に馴染むシックなマスクだった。

ストラヴィンスキーのハ長の交響曲は指揮者なしの演奏。ヴァイオリンはファースト、セカンドともに4プルトヴィオラプルト、チェロ2プルトに、ベースは3本、管楽器は2人ずつという小さめの編成ではあったが、こんなややこしい曲が指揮者なしで崩壊せずに進行するのは見事というほかない。コンマスのグレブ・ニキティン氏が身体ごと合図したり弾いてない時には弓で振ったりの指示を出しておられたが、各奏者が自分で入って合わせる箇所も多く、緊張感あふれる高度な室内楽が繰り広げられた。

休憩後戻ってくると、ステージにモニター画面が2台設置されていた。1台は客席の方を、もう1台はチェロとヴィオラの前あたりでオケの方を向いている。

おもむろに画面にノット監督が現れ、いつもステージでやる通りの洗練されたお辞儀。そして、ベートーヴェン交響曲第3番「英雄」が始まった。曲が始まっても、お客の方を向いている画面では当然ながらノット監督はこっちを向いて振っている。ちょうど舞台の真後ろの席にいるかのように指揮者の顔が見え、かつ、オケも正面から見えている。マエストロの華麗な身のこなしや指揮棒さばきに魅了されながらも、時々思わず笑いそうになる。録画された指揮に今現在合わせているオケの生演奏を聴くのは不思議な感覚だった。

画面のバックは白い壁。いつ、どこで録画したのだろう? 当て振りのはずはないから、自分の脳内でイメージする音楽を(その場にいない)オケから引き出すべく身体を動かすのだと思うが、そういう「エア指揮」を交響曲1曲分続けるってどんな感じだろう? このビデオに合わせて何回ぐらいリハーサルをやったのだろう? ノット監督の指揮に慣れている東響だからこそ「ビデオにぴったり合った演奏」ができるのか? 同じ映像でほかのオケが演奏したらどんな感じになるのだろう? こういう映像を何回も使い回せるのなら、生身の人間は必要ないのか?(いやいや)しかし、指揮者が映像ではオケとの一期一会の双方向の音楽作りとは言えないだろう。

・・・疑問が次々湧いてくる。

もちろん、今回はコロナ禍のため来日できないノット監督との「共演」をなんとかして実現するための苦肉の策だったのはわかる。演奏後のお辞儀も撮影されている周到さで、ノット監督の英雄のようなショーマンシップがいかんなく発揮され、まさに時空を超えて音楽祭にビデオ「出演」と言えた。そればかりか、最後には夏のヨーロッパの美しい風景をバックに手を振るノット監督の笑顔まで収録されていて、なんだかもう「やられた!」感じだ。この画面のあたりで団員のみなさんも拍手に応えながら客席に手を振っていた。

逆境にめげず、指揮者のビデオ出演という前代未聞のチャレンジでも何でもやってみる革新的なオケの姿勢に感服し、素直に拍手を送った。そこここにスタンディングオベーションも見られる。テクノロジーを駆使する不屈の人間性。実に英雄的ではないか。そのうち、ホログラムで立体出演、オケの音響も高品質・高速通信で、互いに離れた土地にいる指揮者とオケで双方向の演奏というのも可能になるのだろうか?

余韻に浸りながらビデオ出演への疑問がいろいろ湧いてくると、もう一度観たい、もう一度聴いてみたいという気持ちが募ってくる。そこで、サマーミューザの初試みという有料配信のオンライン鑑賞券を買ってみることにした。勢いで「全公演おまとめ券」というのをネットで申し込んだ。もちろん、1公演ごとに1000円で買うこともできるが、17公演が9000円で、当日のライブ配信+8月いっぱいアーカイブ配信を聴き放題というのはかなりおトクだと思う。フィナーレの8月10日まで何度も川崎に通うのは難しいが、家に居ながらにしてマイペースで首都圏のプロオケの聴き比べができるのは悪くない。オープニングのファンファーレもノット監督のビデオ映像も、何度でも視聴できる。

記事の中にも書いたが、確かに、前田さんが言ったように、これからのコンサートは、会場での生の音楽は限定された観客数での特別な経験になっていく一方、オンラインでは、住んでいる地域にかかわらず幅広いオーディエンスが気軽に楽しめるものになっていくのかもしれない。

もちろん、コンサートホールの響きとネットのオーディオで聴く音は違う。また、その場での感激はアーカイブ配信では得られまい。生の音楽の感動があってこそのネット配信だが、それでも、消え去った音の記憶をよみがえらせ、一度も聴いたことのない音への憧れをかきたてる意味はあると思う。制約の多いwith コロナの世の中で、やれることは何でも試してみたい。

 

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中学生が福島民報にインタビュー ~2020京都発ふくしま「学宿」その9

福島民報の渡部さんの話が終わり、今度は生徒たちから渡部さんに質問する番になった。熱心に聴き入っていただけに質問も熱心だ。

 

*****

 

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Q:福島で原発事故が起きてからいろんな情報が入ってくると思いますが、上の人から「その情報だけは出すな」みたいな隠蔽と言うか、ストップがかかることはありますか?(3年T君)

 渡部:まさに日常的に電話でそういう問い合わせをいただいていますが、「ある」「ない」で言えば隠蔽はないですね。たとえば、福島の食べ物が危ないという人がたくさんいますが、それが科学的な根拠として本当にそうなのか? 取材を尽くせない問題は、安全という主張もできないし、逆に危ないとも、私たちの記事では書けません。食べ物が危ないのかどうか取り上げる場合は、たとえば明確に根拠を持って主張している人の言葉として取り上げる。それに対して反論も取り上げる。実際、危ないのかどうかわからない状態がずっと続いて来ました。チェルノブイリ原発事故などがありましたが、それでも経験値としてじゅうぶんではありません。取材を尽くせないものは書かない。書かないという方針だから書かないのではなく、取材が足りないから書けないということはあります。


Q:ニュースには自分に関係のあるものと関係ないものの2つに大まかに分けられると思うんですよ。自分に関係があるニュースは、たとえば、今だったら福島のことだったり新型コロナウイルスのことだったり。で、関係ないニュースは、たとえばSMAPの中居君が独立したり槇原敬之が麻薬で捕まったり。でも、一般の人は、ゴシップネタって言うんですか?そういうものを見てるほうが好きなわけですよ。新聞社は慈善活動ではないので、利益を追求していかなければならないと考えたら、もし、めっちゃ大切なことがある、伝えなければならないことがある、でも、こっちのほうが視聴率は取れるという時に、どっちを選ぶのかなっていうのを聞いてみたいです。(3年F君)

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渡部:新聞の特徴っていうのは、でっかいニュースだと思うものはでっかい見出しをつける。それに対して相対的にちっちゃいニュースだと思うものはちっちゃく取り上げる。その差をつけて、そういう価値判断と共にいろんな記事を載せるのが新聞の特徴なんです。ネットの場合だと基本的には箇条書きでダーッと並んでいる。

その中で、芸能人が逮捕されたということは、関心があるし話題性もありますが、じゃあ、その芸能人を知らない世代にとってはどうか、それが社会的にどういう影響を与えるか、大麻を使ったということ自体のニュース性、そういうことも考えます。いわゆるゴシップネタもあるんですけど、硬い政治のニュースなども含めて、記事がどれだけ多くの人に影響を与えるのかということも考える。いろんな意見があり「芸能人逮捕のほうが大事だ」と主張する人もいるわけです。議論しながら判断するんですけど、新聞は毎日出さなきゃいけないので、その時点で結果として芸能ネタが小さくなるということはあります。芸能ニュースは小さく載せるということがルールとして最初から決まっているわけではありません。

 

Q:先ほど、同じ情報でも、できるだけポジティブに伝えようと心がけておられるというお話があったんですけど、実際に被災された方々にはネガティブにとらえている人と前を向いてポジティブなとらえ方をしている人がいると思います。数で比べるのがいいのかわからないんですけど、何かエピソードとかイメージを教えてください。(2年I君)

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渡部:ネガティブ、ポジティブの例を具体的にということですよね。あまりにも事例がたくさんあるんですけど・・・たとえばですね、ネガティブなことを取り上げないというわけではなく、そもそもネガティブなことのほうが多いわけです。その中で真っ暗にしないという意味ですけど。私がこの辺に住んでいた時の知り合いの話だと、震災はまさにいやな出来事だったんだけど、それがあったことによって家族の大切さがわかったとか、日常というものがどれだけ大事だったかということが改めてわかったとか、震災があったことによって、自分が常々接していることがどれだけ貴重なことで、あたりまえだと思っていたけれど、実はあたりまえじゃないんだということがわかったと私自身もそう思います。

なによりも、いろいろな方々から本当に温かい支援を受けているわけです。ボランティアもそうです。そういうこともしっかりと取り上げていく。福島県民としてはなかなか一歩踏み出せなかったりするんですけど、元々福島県に全然関係ないのに、福島に住んで大きな支えになってくれている人もたくさんいるんですよ。そういう方が私たちを引っ張ってくれているという一面もあり、それを取り上げるということもしています。こういう事態にならなければわからなかったことはものすごくたくさんありますし・・・わかったようなわからないような答えになってしまいましたが。

 

Q:福島の人たちは風評被害、ほかの地域の人たちが福島のことを危ないと思っていることに対してどのように思っているのでしょうか。国にどのような対策をしてほしいのか、また、自分たちがおこなっている対策はあるのか、などを教えてほしいです。(2年Tさん)

渡部:個人個人がどう思うかは、我々はコントロールできないしね。京都から福島を見ていたら、やっぱり危ないと思ってしまうこともあるのかもしれません。そう思わない人も含めて、人の心はそういうものだと思います。ただ、それを私たちは、たとえば、食べ物についてはこういう検査をしてるんですよ、それで数字はこうです、ということをひたすらに伝えるわけです。伝えることが、言ってみれば私たちの唯一の仕事です。福島民報だけでは限界があるので、通信社ですとか、他の地方紙なども含めて、それをつないでいく。協力を求めながら伝え続けていくということです。

風評被害対策ということで、国の官庁が福島県の米を使ったり、いろいろなところで積極的に福島県のものを食べたりということはずいぶん前からやっています。それがどれだけ成果になっているか、具体的にはわかりませんが。

それから、原発トリチウムという放射性物質を含んだ水が溜まり続けています。処分するにはいろんなやり方があるんですけど、国はつい最近、海に流す、あるいは大気中に放出するというこの2つの選択肢のどちらかにしましょうよと。海に流すということは他の国でもやっていて、人体に影響はないという知見がありますが、それを流すと当然、福島の海で獲れた魚はヤバいという風評にまたつながってくるんじゃないかということで、地元としては反対する声が強いです。

じゃあ、海に流すんであれば、どこから流すんですか? 福島の汚染水なんだから当然、福島から流すっていう感覚かもしれませんけど、それでいいんですか? 福島のものだから福島から流すということが常識なんですか? 少なくともそういう議論をしなくちゃいけないんじゃないの? そうしないと、危険はほとんどないと言われていても風評被害がまた広がるわけで、結果として福島から流すことになっても、そういう問題意識は持ってくださいよというのが、私たちが今現在、報道していることなんです。いろいろな見方が地元の中でもあるんだっていうことをもう少しきめ細かく丁寧に拾い上げて、何か物事を決める議論を丁寧にしてほしいというのが、私たちが意識して報じていることです。

 

Q:原発についていろいろ調べる中で、自分が体験したことじゃないことを伝えるってすごく難しいことだなあと思うんですけど、そういう場合って、どんなことに気をつけたらいいでしょうか?(3年K君)

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渡部:私も事故当時、原発の近くにいたわけではありません。人から聞く。新聞を読む。テレビを見る。ネットにも情報がたくさんあるでしょうけど、そういった情報を、さっき言った思い込みだけは置いといて、客観的にもこれは事実だなと思うことは自分の知識としてどんどん蓄積していく。ネットに書いてあることをそのままではなく、どこか別の情報で裏付けをとる。そういったことをすれば、その気持ちがあれば・・・それを質問する時点で君は大丈夫です。

 

Q:今までいろんな人のお話を聞いてきた中で、ほとんどの人が震災が大きな転換点になったとおっしゃっているのですが、取材する中で震災で何か変わったことはありますか?(3年Wさん)

渡部:個人として? 震災で変わりましたよね。

自分たちが作っている新聞そのものが、震災以降、あの日から福島県をどうやって復活させるんだ?もしかしたら、もっといい福島県にできるかどうかということが、まさに新聞づくりのど真ん中になったというのはあります。このような場でお話をさせていただく機会もそれまではなかったことですし。

うちは男の子2人なんですけど、震災当時は小学校6年生と幼稚園児だったんです。まさに避難どうしようかと。もうしっちゃかめっちゃかで、長男は卒業式なしになりましたし、サッカー続けていいのかどうかとか、いろんな悩みがありました。さっきも言ったけど、普通にサッカーができる、卒業式がある、一つ一つがものすごく大事なことなんです。かけがえのないことなんです。それはもうあたりまえの大切さです。それをものすごく感じるようになりました。

 

 

Q:福島民報京都新聞を見比べると、福島民報さんの新聞は、見ていてすごく明るくなれます。私もポスター発表の時に、福島民報の記事をたくさん使ったら、見てくれた人が「前向きになれて素晴らしい」と言ってくれました。震災前の新聞はどんな感じだったのかなっていうのと、あと、地元の人たちがやっている前向きな活動が前からあったのか、震災後にそうなったのか、知りたいです。(3年Iさん)

渡部:元々、うちはたぶん日本有数と言えるぐらい身近なニュースが載ってるんです。地域のお祭りとか運動会とか、どこの地区の消防団がどうしたとか、そういうことまで載せる。新聞に載ったことがあるという人が多い県だと思います。ライバル紙があることも影響していると思います。福島では自由民権運動が盛んで、それで明治時代にできた新聞なんです。暗いニュースと明るいニュース、身近なものまで含めれば明るいニュースのほうが多いと思います。今日のこの様子も取り上げようと思ってます。それぐらい細かい記事が多いのは、震災の前からです。地元を盛り上げるための住民の活動は震災後に増えたと思います。

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Q:関連死に自殺っておっしゃっていたじゃないですか。その自殺って、大人と子どもだったら、どっちが多いのでしょうか?いじめとか偏見とかで、子どものほうが多そうなイメージがあるのですが。(3年女子)

渡部:子どもの事例は把握していません。

 

Q:さっき、F君がどうでもよいゴシップみたいなのを載せたほうが売れるみたいな話をしていましたが、福島の原発事故も、とくに風評のことなんかは書き方によってはゴシップっぽく書けたりして、そういうのが風評を煽ってると思います。さっきのトリチウム水の話も、ほとんどの新聞は汚染水って書いているけど、新聞によっては処理水って書いてあるものもあって、汚染水と処理水では受けるイメージが全く違うと思うんですよ。それ以外にも、原発のいじめだって、新聞に載っているぐらい少数しかないのか、それは氷山の一角で本当はもっと何倍もあったりするのか、わからないと思うんです。新聞ってデータに基づいて正確に書けば売れるっていうもんじゃないですよね。利益もあげていかなければいけないけど、そういうふうに書けば風評を助長するというか、そういうジレンマについてはどう思っておられますか?(3年M君)

渡部:何かを必要以上にセンセーショナルに取り上げるとか、必要以上に強調することによって、新聞の売上につなげようという発想自体はないです。私たちもまさに福島県に住んでいる住民の一人であって、家族を亡くした社員もいます。生活者であって当事者なんです。当事者としての意識がまずベースにあるわけです。さっきの「関連死」というのも、政府も含めて公式には「震災関連死」なんですよ。でも、私たちが使っているのは「原発事故関連死」。つまり、原発事故によって亡くなった人。

私たちが取材する問題は、福島県に住む住民として、これをどういう出し方をしたらどういうふうになるか、当然一人ひとり考え方が違うので、それを毎日議論しながら、当事者としての意識をベースとして情報を出す。目立たないかもしれませんが、そういう情報を必要としている人が福島県には多いんだということです。

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Q:新聞って、まずは大きい見出しから見るじゃないですか。気になった見出しから読む人もいます。見出しを作るのに工夫していることはありますか?(女子)

渡部:ある程度以上の規模の新聞社の場合、見出しは記事を書く人がつけるんじゃないんです。記事を書く人は文章だけを書くんです。で、それを編集する整理部っていう内勤の人がいて、記者たちから集まってきた記事をこのようにレイアウトする。その人が見出しをつける。なので、見出しをつける人は取材をしてないんです。文章だけが見出しをつくる材料なんです。ということは、文章に書かれているポイントをそのまま言葉で表すというのがまず第一の基本。その中で、たとえば、このあいだね、春の花が2月に咲いたという話が一面に載ったんですけど、その時の見出しは「あわてんぼうの春」というものでした。記事には「あわてんぼう」という言葉はないんですけど、そういう整理部の人の感性で作られた見出しもあるんです。でも全部がそういう見出しだと、しつこい印象になってしまいます。基本的には文章の中から、この記者が言いたいのはこういうことだよな、ということを取材していない整理部の人が読み取って、それを正しく分かりやすく表現する。

記事も見出しも、私はうまい文章を書くポイントは2つしかないと思っています。一つは「正しく」、もう一つは「わかりやすく」。あたりまえだと思いますけど、私も20年以上この仕事をやっていますが、なかなか到達できないんです。どんな素晴らしい記事でも、読む人に理解してもらえなくては意味がありません。私たちは小学校高学年の子どもたちでも読めるということを目標にしているんですけど、それもなかなか到達できなくて、読みにくい記事を書いてしまったりします(笑)。

 

Q:被災地の方に話を聞いたり原子力のことに関して話を聞いたりするときに、答えたくないという人がいたりしますか?(女子)

渡部:今もいるでしょう。私はもう取材にはあまり携わりませんが、彼はまさにここの地域の支局長で、支局長っていうのは一人で取材して歩いているんですけど。今もいるよね?(と若手の支局長に話を振る)

支局長:あのー、被災者なんですけど、たとえば、息子さんとか娘さんとかが、原発で働いていたりして、東電を責めたりできないという方はいます。なかなか言えないことがあるんだろうなあと思うことは結構ありますね。

渡部:私もこの地域に住んでいましたが、東京電力になんらかの関係を持っている方はとても多いんです。事故を起こした当事者としての東電は、責められる対象ではあるけども、現場で働いていたのは地元の人が大多数なんです。あの事故をあそこで食い止めたのもまた、多くが地元の人なんです。責めたいんだけど、でも、自分の生業が関係していたりすると、やっぱりそれは私たち記者が書いて表に出されると困る。そういう意味で、私たちが聞いても、相手が答えたくないということはあると思います。

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Q:東日本大震災で起こった事故は世界的に見ても大きな事故で、日本にとっても大変な事だったと思いますが、「どういうこと?どういうこと?」って混乱がすごくあったと思っていて、そういう人は得られる情報を知りたいなあと思って、でも逆にわずかな情報でも左右されやすいと思うんですよ。そういう時に、先ほども言っておられたんですけど、自分の主観じゃなくて、客観的にそのことをとらえて客観的に報道する中でいちばん心がけてきたことや大切にしておられることを教えてください。(女子)

渡部:はい。さっきの思い込みという話とつながるんですけど、たとえば、「避難者は帰りたいだろう」という思い込みに基づかないで、必ず、直接話を聞くとか何か資料を調べるとか、まずそれで客観的な根拠を得て、それからでないと表に出さないというのが当然です。

ちょっと見方を変えると、震災当時に力を入れたのは、生活情報というコーナーです。2~3ページをフルに使って、ひたすら、どこに行けば知り合いの身元確認の照会する所があるとか、どこに行けばガソリンがあるとか、どこのスーパーがやっているのか、金融機関でお金の相談はどうすればいいのかとか。そういう生活の情報をひたすらカバーするんです。そこには主観も入りようがない。ひたすら調べて、それを全部載せる。放射線量の数字も福島県が発表したものをそのまま載せる。ひたすら載せる。生活情報は新聞だけじゃなくて、ツイッターとかフェイスブックとかSNSでも流したんですけど、それが当時いちばん求められていた情報です。

 

Q:求められた情報ということを言われたんですけど、今だったら福島民報を読む人たちが必要とされている情報は何だと思われますか?(2年I君)

 

渡部:それはもう、きめ細かい情報っていうことに尽きます。みなさんがいらっしゃった趣旨に沿って原発事故の報道でどういう思いだったかということを今は話しましたが、それは報道の中の一部であって、新聞を見てもわかるように、いろんなニュース、スポーツ、経済、海外のニュースも当然載ってるわけです。いろんな分野にわたって、福島県の人が関心を持つだろう、あるいは、持ったほうがいいだろう・・・これはニュースかニュースじゃないかという判断だけで載せる。載せきれないものは次の日に載せる。自分が出た新聞を喜んで大切に取っておきたいというのも、私たちの大事な役目だと思っているので、引き続きたくさんの人を紙面に載せたいなと思っています。

 

Q:原発事故が起こる前と後で自分の中での原子力発電所という存在の変化とかはありましたか?(2年Kさん)

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渡部:事故は起こるものなんだなと。以前に私も富岡町で、まさに原発を担当する支局にいたので取材していましたし、「県政」と言って、県の政治の担当としても原発を取材していました。いろんな動きがあるわけですよ。原発をもっと増設しようという時期だったので、安全性がいちばん問題なんだけど、安全なんだな、事故は起こりえないんだな、という安全神話がどこかで染みついて、今回のような事故に至るということが自分個人の想定としてはなくなっていたという反省はものすごくありました。

私の中学時代の先生が、原発に否定的な話をよくしていました。その影響もあってか、原発の取材をする時は、ちょっと斜に構えて質問していたかもしれないし、鵜呑みにしちゃいけないというのはありました。その先生の言葉が下地として残っていたんですね。

でも、私もここで生活して、友達・・・良い人がいっぱい、東電関係で仕事している人がいっぱいいるわけです。そういう中で、安全なものなんだっていうほうに、結果としてちょっと縛られていたかなという反省もあります。

 

Q:取材をする中でいろいろなことに関わっておられると思うんですけど、その中で自分の考えとしては原発に反対か賛成かというのを教えてほしいです。(女子)

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渡部:反対とか賛成っていう二言で片づけられない問題ではあるわけです。ただ、原発に頼らない方向にしていかなくちゃいけないと思っています。

 

*****

 

最後に、渡部さんから生徒たちへのメッセージ。

「本当にこの3日間でいろんなことを吸収されると思います。吸収された思いというのを、イメージや印象も含めて、みなさんそれぞれ、何の脚色も要らないので、たくさんの人に話をしてほしいなと思います。で、できることなら、また違った形で、違ったメンバーで、また福島県に遊びに来てもらえたら、それがいちばんありがたいなというふうにも思います。」

 

自分たちがどんなことを聞いても新聞社の人がここまで率直に丁寧に話してくれることに生徒たちはいくぶん驚きながら、渡部さんの人柄と経験がにじみ出た回答ぶりに促されて、質問がどんどん溢れ出てくるようだった。生徒たちの素直に投げかける、大人なら躊躇しそうな本質に迫る問いが、渡部さんの言葉を引き出したとも言える。見守る大人側は、自分も手を挙げたい気持ちを抑えつつ、中学生とベテラン記者のやり取りに聴き入ったのであった。時間いっぱいに展開された真摯な対話の充実感が終了時のひと際大きな拍手にも表れていた。(続く)

 

 

福島民報の話を聞く ~2020京都発ふくしま「学宿」その8

現地の大人との対話に重点が置かれ、生徒たちによる情報発信に期待する今回の福島ツアーの中でも、地元紙 福島民報のベテラン記者との「情報発信についての対話」は、生徒たちの関心の高さが感じられるセッションだった。 

2月23日、朝から盛り沢山だったスタディツアー2日目。浪江町で何か所かバスを降りて歩き、大平山霊園を後にした一行は再びバスに揺られて夕刻、宿泊地「いこいの村なみえ」に到着した。到着早々この日最後の対話セッションに入る。語り手は福島民報社 地域交流局 地域交流部長の渡部育夫さん。 

冒頭、「みなさん、ようこそ浪江までおいでくださいました」という渡部さんの挨拶に応えて生徒たちは「よろしくお願いしまーす」と声をそろえた。朝から次々のプログラムを経ても元気だ。

福島民報は創刊128年。震災前には約30万部の発行部数があったが、避難の関係で23万部ぐらいまで落ち込み、そこから徐々に回復した現在の発行部数は約24万部とのこと。震災当時、機械が壊れるなどの被害を受けたが、休まず発行を続けてきた。

この日、車で1時間半ぐらいの福島市から駆け付けた渡部さんは、震災前に4年間、富岡町の支局に勤務した経験があり、原発なども担当。9年前の震災で原発事故が起きた時は、水素爆発の映像を福島市内でテレビで見ていた。その瞬間、思い出深い土地のたくさんの友だちやお世話になった人たちの顔がワーッと浮かび、言葉にならない衝撃を受けたという。

「昨日からいらっしゃって、どういうふうに福島を見られたか、みなさんそれぞれの思いがあると思います。復興が進んでいる部分もたくさんありますし、今日行かれた請戸小学校のように時間が止まったままの部分もあり、まだまだ課題もたくさんあって、言ってみればまだら模様みたいな、そんな感じかなと思います。」

 

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画面は震災翌日2011年3月12日付の福島民報の紙面。地震の被害が大きく、道路がずたずたに寸断されたので、本当はいつもよりたくさんの情報を伝えなければならないところだが、〆切を早くせざるをえなかった。原発事故の話はほんの少し。

「これ、一面なんですけど、原子炉の圧力が上がったということを扱っただけで、あとは津波の話。死亡も45人という段階で、津波の被害を受けた所でも届けられる所には届けました。」

翌3月13日の新聞。当然、津波地震の被害も甚大だったが、福島県では原発事故のニュースが大きく取り上げられ、以来ずっと原発事故に関するニュースが今日の新聞にも載り続けている。

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「その翌日(3月14日)の新聞では、相当な数の人々が避難をしなければならなくなったことを伝えました。」

福島県の避難者は最も多い時で約16万人だった。現在は約4万人。

「16万から見れば4分の1に減っていますが、10年近くも経つのに4万人の方がまだ避難している。で、そのうち1万人ぐらいは福島県内で避難をしている。これに対して3万人ぐらいの方が福島県外。すべての都道府県にいます。ちなみに京都には250人福島県の方が避難という形で移って、お世話になりながら生活をしているということです。」

福島県仮設住宅に住んでいる人は多い時で3万人ぐらい。今はもちろん減っているが、9年も経つのに今なお100人以上の人が仮設住宅で暮らしている。

仮設住宅というのは本来1年か2年という想定で造っているものですが、そこに9年間も住み続けているというのは日本では今まで例がないような状況かなと思います。」

続いて震災の犠牲者について。

東日本大震災で亡くなった人は、岩手県宮城県にもたくさんいるが、福島県に関しては、今年の2月現在で”直接死”と言って地震津波の被害で亡くなった人が1,605人。それに対して、津波地震で直接亡くなったのではなくて、避難を強いられたことによって体調を崩したり、病気が悪化したり、あるいは自殺をしたりという”関連死”と呼ばれるものが2,302人。関連死のほうが直接死より多い。 

「それが福島県の特徴。これは震災の翌年、この浪江町でスーパーを経営されていた方が自ら命を絶ってしまったということを伝えた新聞です。この時点で、震災の発生から1年以上経っているんですけども、その方はいつ商売を再開できるんだろうということを常々家族や知り合いにため息をつくように言っていたと。しかし、その望みが叶わず亡くなってしまった。このような自殺に関する記事などもたくさん当時、我々は出さざるをえなかった。このような方がたくさんいらっしゃって、原発事故の影響によると思われる自殺が福島県内で100人以上いるんですけども、直接死に比べて関連死というのは本当に原発事故が原因なのかどうか、特定がなかなか難しいケースもありまして、遺族の方が悲しむだけで、うやむやにされるというようなこともあります。」と渡部さんは語った。 

福島民報では、自殺などの関連死に国や東京電力がしっかりと目を向けてくれるよう、連載を通じて継続的にキャンペーンを展開している。

原発事故直後、ある大物国会議員が「福島県では、今回の原発事故で亡くなった人はいない」と発言したことがある。

「確かに原発事故によって、その原発から出た放射線の直接の被害によって亡くなった方はいないかもしれない。ですけども、避難生活を強制されることによって一体どれだけ多くの方が命を落としたのだろうか? おそらく、さっきお伝えした2,302人よりも多いはずですし、そういうところをしっかり見据えて対策を進めてもらわないと復興というのはなかなか進まないんじゃないかというふうに思っています。」と渡部さん。

 この9年間、風評や偏見という問題にも地元記者たちは胸を痛め続けてきた。避難した福島県の子どもが『放射線がうつる』などと、避難先の学校の子どもたちから全くでたらめな言葉を浴びせつけられていじめられたとか、あるいは、福島県の人との結婚を親が許さなかったとか。また、福島県外の大きな花火大会で使う予定だった花火が福島県で作られた花火だったため、市民の抗議によって花火大会が中止になってしまったとか。本当にいろいろなことがあった。

「風評の問題についても、このような記事によるキャンペーンを展開しました。全国に避難した方や福島県出身の方、あるいは、全国各地の地方紙と協力し合って、正しい理解を進めるキャンペーンを続けています。」

風評による被害の大きなものの一つが食べもの。つまり、福島県のものは危ないから食べない、買わないというような問題だ。「福島のものを積極的に食べて福島を支援しよう」という温かい支援が全国各地であり、理解はずいぶん進んできている。

「ただ、今もなお米の値段が下がってしまって、これは、米を作る農家や業者が困っているという記事ですが、米が売れないから値段を下げるしかないと。あと、福島県産の牛肉というのは、品質が良くて結構有名だったんですけど、これも値段が下がったまま戻らなくなって、農家のみなさんが苦しんでいるという状態が今も続いています。」

福島県の食べ物は輸入しないという近隣国もまだある。

「ちなみにこの記事は、風評というものが一体どこから発生して、どのように広まっているのか?ということがなかなかわからなかったので、それを調べて、米だけじゃなくて魚とか肉とか、テーマごとに連載をしました。3年前ぐらいです。そういう中で、福島県の食べ物はちゃんと検査をしているから安全だなんていう記事を出しますと、電話がかかってきます。『お前ら責任とれるのか!』というようなお叱りの電話が、これも数え切れないほど、私たち新聞社にありました。」

放射線についても、新聞では今も毎日のように数字を載せているが、「政府の言いなりになって、事実よりも低い数字を出してるんじゃないか」という苦情の電話がかかってくる。今はずいぶん減ったが、この9年間、たくさんの苦情電話が県外からもかかってきた。

放射線量についてどういう印象を持っているかわかりませんが、たとえば、この浪江町で、先ほどみなさんが行かれた請戸小学校のあたりからは第一原発が見えます。10キロもない。あそこは、あんなに近いんだけど、放射線量が0.08μSv/hぐらいです。昨日、京都の放射線量をホームページで見たんですけど、京都府庁で0.07μSv/hでした。だから、ほぼ同じぐらいの線量です。もちろん、高い所はまだ高いですが、浪江町のように原発に近くても、それぐらいの線量で、今そうなっているだけでなくて、ずっと前から低い所もあるということです。」と渡部さんはデータを示した。 

また、風評と同じように、福島県内と県外で人々の思いが違うだけでなく、同じ福島県の中に住んでいる県民同士でも、この記事のように、住んでいる場所によって原発事故の損害賠償に差があるなど、“心の分断”というような状況も一つの問題だった。たくさん避難者が引っ越してきたせいで、病院の待ち時間が長くなってしまったとか、「もういろんなところで心の分断のようなものが起きてしまったのもまた残念だなというふうに思います」と渡部さんは振り返る。

「とにかく、暗い記事がどうしても多くなりがちだったんですけども、そんな中でも決して真っ暗にはしないで、前向きな記事をしっかり伝えていこうということで、『ふくしまは負けない』というコーナーがあります。今日の新聞にも、みなさんも行ってきた請戸漁港の新しい市場がオープンしたと。あとで見てください。みなさんと同じような中学生が書いた記事も載せています。そんな感じで前向きな動き、明るい動き、あるいはこのような子どもの表情。暗い中でも笑顔はある。それを伝えようじゃないかということで、努めて真っ暗にしないで取り上げてきました。」

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地元の報道機関としての福島民報のスタンスとして、渡部さんは「3つのR」を提示した。

  • Report:知るべき人に知るべき情報を
  • Record:後世のために歴史を記録する
  • Review:多様な視点や論点を提供する

「こういうようなスタンスで報道を続けていますけど、”県民のために”というのが我々の立ち位置です。当たり前かもしれませんが、”被災者の目線で”ということをニュースの切り口にしている。それを折に触れて胸に刻みながらやってきたということです。」と渡部さんは語った。

この浪江町もそうだが、避難しなければならない区域はかなり減った。この3月には、双葉町で3月4日、大熊町で3月5日、富岡町の桜並木で有名な夜の森地区は3月10日、それぞれの一部だが避難指示が解除されるという動きがあった。まだ全住民が避難を続けている双葉町も一部避難解除になり、住民が戻るまでにはまだ時間がかかるだろうが、鉄道が通る駅前や、ある一部の地域については工場が稼働しホテルができる。

この浜通りを南北に貫くJRの常磐線。東京や仙台とつながる、住民にとっては非常に重要な鉄道が3月14日に再びつながるという動きもあった。

「この浜通りは震災が起きるまで、原発がいちばん大きな産業であって、ものすごい数の住民が原子力発電所になんらかのつながりを持ちながら働いて、ものすごい数の企業が原発に関する仕事を担っていました。その原発が福島に2つありますけども、事故を起こしていない第2原発のほうも廃炉が決まりまして、ならば新しい産業をどうやって育んでいくんだ、働く場所をどのように確保するんだということが大きな課題です。」

その中の打開策が「福島イノベーション・コースト構想」。東日本大震災及び原子力災害によって失われた浜通り地域等の産業を回復するために、新たな産業基盤の構築を目指す国家プロジェクトである。この浪江町には世界最大級の再エネ水素製造拠点である「福島水素エネルギー研究フィールド」が2020年3月にオープンした。東京オリンピックパラリンピックを始め、この水素が様々な場面で活用されるという。また、浪江町の北に隣接する南相馬市には、ドローンなども含め災害の時に活躍するようなロボット技術を開発する「福島ロボットテストフィールド」という拠点ができた。これもオープンしたばかりだ。

その後のコロナ禍の影響拡大で事態は激変したが、このツアーの時点では未来のことだった3月26日には東京オリンピック聖火リレー福島県からスタートする予定で、震災の年のワールドカップで優勝したなでしこジャパンのメンバーがスタート地点のJヴィレッジから走るはずだった。競技についても、全競技のスタートとなる女子ソフトボールの開幕が7月22日、また、野球の開幕戦も7月29日、いずれも福島県内で行われる予定だった。「震災で傷ついた福島の復興を世界に見せたい」というメッセージを強く打ち出したことが東京オリパラ誘致の一つの大きなポイントになったわけだが、復興はまだまだ「まだら模様」と表現した渡部さんは複雑な心境を語った。 

震災と原発に関して、福島県内外のメディア報道の違いについて話してほしいと学校側からリクエストがあったそうだが、「はっきり違いがあるかということは簡単には言えないと思います。」と渡部さん。

福島民報を含めて、そもそもメディア・報道機関は、”外からの目線”と言うか、非日常的な出来事、たとえば津波で大勢の方々が亡くなったとか、火事とか交通事故とか殺人事件とか、新型コロナウイルスもそうだが、日常的に常にあるものではなくて、非日常的に発生したことに飛びつく。それがニュースである。それを伝える。というのがそもそもの報道機関の習性であって、それは福島民報も同じだ。非日常には明るい非日常も当然あるわけだが、明るいことではなくて、どちらかというとネガティブなことにスポットを当てる傾向がある。

「でも、私たちが震災で痛感したのは、”内からの目線”と言うか、非日常だけじゃなくて、日常もニュースだということです。たとえば、浪江町のすべての住民が避難をしなければいけないということ、これはもちろんニュースですが、一人でも二人でも、戻ってくる人が少しずつ増えています。まだ少ないけれども、故郷で日常が戻って来たということもしっかり取り上げることが大事なんだなということをすごくこの震災で感じました。」

もう一つ感じたのは「事実と真実は違う」ということ。

「先ほど『原発事故で誰も死んでいない」』という政治家の言葉を紹介しました。これは事実だと思います。事実なんだけども、真実はどうなのか?原発事故さえなければ生きながらえていた命がどれだけあったのかということを伝えなければならないというふうに改めて感じました。」

ただ、注意しなければならないのは、良かれと思って報道したことが逆効果だったという場合もあることだ。たとえば、賠償金を受けられる範囲が広がって一歩前進したというようなニュアンスで記事を書けば、その対象にならない人や内容に納得がいかない人もいるわけで、記事が分断を誘発しかねない。

「あるいは、これは記者の基本中の基本ですけども、みなさんも気をつけたほうがいいのは、思い込みというのはものすごく危険だということです。たとえば、避難した人が自分の家に少しでも早く帰りたいだろうというふうに、避難をしていない私たちは思いがち。なんとなく感覚として、『帰りたい』はずだと思いますが、実際に避難していた人に取材してみると、必ずしもそういう人だけではなくて、子どもの受験を考えると帰るのは難しいとか、新しい仕事がもう成り立っているからとか、いろいろな理由で帰る意思のない人も相当数いることが、話を聞いてみるとわかる。『帰りたい』はずだという自分の頭の中の常識や知識だけで絶対に判断してはいけないと。直接話を聞くことが大事だというのがこの震災を通じてよくわかりました。」

たとえば、避難指示が解除されて1年経った町があり、そこには住民の1割が戻ってきて、9割が戻っていないというような状況があったとする。ある新聞は「住民の9割戻らず」という取り上げ方をする。それに対して、別の新聞は「住民の1割戻る」という見出しで取り上げる。どっちももちろん正しい。

「どっちも正しいんだけど、①9割戻らない、つまり、非日常のものが9割続いているということの方にスポットを当てるのか、それとも、②少しなんだけど町民の1割が帰ったというほうにスポットを当てるのか?全国紙だから①、福島県内の新聞だから②ということは簡単には言えないと思います。少なくとも私たちは②を心がけるようにしています。たった1割かもしれないんですけども、人っ子一人いなくなってしまった町に、一人でも二人でも戻ってきて暮らしが戻る。先ほどの『日常というのがニュースなんだ』ということで、ほんの少しの変化でも復興に向けての大きな前進だというような思いで新聞を作っています。」

「これから3月11日にかけて、テレビなども含めて、震災から9年経つ被災地の様子がいつもよりもたくさん報道される時期です。で、3月11日を過ぎたらまたそういう話題を取り上げることが少なくなりますが、私たちも批判は決してできなくて、1995年の阪神淡路大震災の時には関西のみなさん方のところよりも私たちのほうが冷めるのが早かったというのは事実だと思います。人の心理としていわゆる”風化”というのは避けられないものかもしれません。ただその風化を少しでも防いで、最近も台風や大雨がありましたが、そのような災害がいつ何時起きるかわからないという状況が今までより強くなってきたと思うので、私たちはそれにしっかりとした対応をするためにも地道に伝えていかなければならないと思っています。」 

福島民報社は新聞社で、確かに主力商品は新聞に違いないが、震災後、「あなたの会社はどんな会社ですか?」と聞かれたら、「地域づくり会社です」と答えるということが社員で共有されているそうだ。たとえば、中学生以上を対象とした公募で「ふくしま復興大使」を今までに244人に委嘱し、京都を含めすべての都道府県に、さらにイギリス、フランス、アメリカ、台湾など海外にも派遣し、いろいろ支援をしてもらったことに対する感謝を込めて今の福島の状況を県民の思いも含めて伝えている。また、「ジュニア・チャレンジ」というプロジェクトを昨年から始めた。小学生以上の子どもたちに地域づくり、地元を盛り上げるために実際やっていることやこれからやりたいアイデアを募って表彰するものだ。ものによっては一緒に実現させることも。震災の後に生まれた小学生でも、復興途上の福島で、自分のふるさとをなんとかしたいという意識が強いという印象をこうした取り組みを通じて感じていると渡部さんは語った。

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「復興って、まだ道半ばですけど、その中で先ほど言った風評などの課題も含めてクリアしていくのにものすごく大事なことは、今まさに、みなさんにここにおいでいただいたように、来てもらうこと、実際に見てもらうこと、感じてもらうこと。それがものすごく大きなことだと思っています。それが何よりの力になる。良いことばかりじゃないと思いますけど、京都に帰ってからもお互いにいろんな方に話していただけるといいなと思います。」
そして、福島出身の作曲家 古関裕而がモデルの朝ドラが始まることや、福島の日本酒は金賞受賞銘柄数が日本一多いことをして渡部さんは話をしめくくった。(続く)

 

冊子『福島第一原発と地域の未来の先に・・・』は語りかける

コロナ禍中の4月下旬、これまで福島第一原発廃炉現場と社会をつなぐ様々な取り組みを展開してきた一般社団法人AFWから、冊子『福島第一原発と地域の未来の先に・・・ ~わたしたちが育てていく未来~』が出版された。

AFW代表で元東電社員の吉川彰浩さんとは、中高生のスタディツアーに同行する中でご縁をいただき、今年2月下旬に実施された京都の中学生たちの福島ツアーでもお話を伺った。その一週間後には全国の小中学校が休校になったという本当にぎりぎりのタイミングで実施できた貴重なツアーだった。

chihoyorozu.hatenablog.com

 

うかつにも私が冊子の出版に気づいたのは、5月も半ばになってから。ふとfacebookに流れてきた吉川さんの投稿が目にとまり、メールを送って購入させてもらった。

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まず、表紙がパワフルだ。facebookの投稿では画像として見ていた実物を手にしげしげと眺める。光が射し龍が昇る印象的な図柄。惹きつけられるままに、この表紙ビジュアルを手がけたユアサミズキさんがYouTubeに公開しておられる「ペインティング風景を300倍速の3分40秒に凝縮した」という映像を見て驚愕!

youtu.be

そこには福島の断崖絶壁に第一原発が建てられ、津波と事故を経て廃炉に至るまでの歴史が描き重ねられていた。過去の記憶は失われず、しかし次の時代の出来事が上書きされていく先に、龍が立ち現れ天に昇るのか・・

冊子の構成と文章は吉川さんが担当、デザインとイラストはユアサさんという共同製作だ。

印象的な表紙と同じく、

  • 第1章「福島第一原発が出来るまで」
  • 第2章「暮らしを支えた発電の時代」
  • 第3章「世界史に残る存在へ」
  • 第4章「事故の収束と事故処理」
  • 第5章「地域再建と廃炉
  • 第6章「廃炉後の未来に向けて」

という6つの章立てで、30ページほどの薄い冊子に福島第一原発の過去と現在と未来がぎゅっと詰まっている。

風評被害や処理水など福島の複雑な問題や、発電の仕組みから事故の経緯など原発に関する技術的なことなど、何度となく現地を訪ねても理解が追いつかなかった話が、豊富なイラストにも助けられて改めて整理でき、前よりわかったような気がする。

ユアサさんが描く核燃料のキャラクターがいい。赤くて丸くて憮然とした顔が分裂したり溶けたり大気中に飛び出したりする。そして、歴史の上で誰も悪者にせず、それぞれ努力した人々の歩みをありのままに伝え、読者の考えを促す文章は、吉川さんの誠実な語り口そのままだ。

「今までにない内容と工夫(普遍性の学びや気づきを目指したこと、ニュートラルな内容に拘ったこと、お子さんでも取っ付きやすいイラストに拘ったこと、当時、原発職員の吉川とユアサさんというタッグだからこその描ける内容、etc)が評価を頂いています。」と吉川さんはfacebookに書いておられる。

最終章をしみじみ読み返す。

過去から渡されてきたバトンを、その時々で様々な立場や年齢の人達が、未来に向けて最善と思える渡し方を続けてきた。震災と原発事故の前にも後にも、人々の選択と決定の積み重ねというバトンが引き継がれて現在に至った。そして、未来につながっていく選択と決定が今おこなわれている。地域住民の立場と原発側の立場とで議論が繰り返されながら、「福島第一原発と地域のこれからは、バトンの渡し方を模索し続ける姿そのもの」なのだ。

誰もが持っている「次の世代へ渡すバトン」をどう渡せばいいのか?その渡し方がわからなくて迷ってしまう「そんな時にこの場所と歴史に触れてみてください」と吉川さんは語りかける。

コロナ禍に飲み込まれて世界中が被災地になり、「福島どころではない」気分にも陥りかねない今日この頃だが、廃炉作業も地域の再建も、日本と世界のエネルギー問題も、粛々と現在進行形である。

戦争を知らず、高度経済成長期に育ち、バブル期の就職と挫折を経て子どもを産み育て、何かしようともがいているに過ぎない自分のような者が、一体どんなバトンを渡し得るのだろうか?

ユアサさんの表紙の下に堆積している夥しい色彩の小円と、切り裂くような直線の数々のどこかに、わずかでも何か自分の痕跡が残るだろうか?たとえ、天に昇る龍の姿をこの目で見ることはできなくとも。

あらためて自分がやっている事の意味を問い直している。これから「コロナの時代」を生きて行くためにも。

 

 

 

 

浪江町を歩く 〜2020京都発ふくしま「学宿」その7

ここ数年、ご縁あって中高生のスタディツアーにたびたび同行させてもらっている。毎度、盛りだくさんなプログラムで、いずれも学びの刺激に満ちていたが、何と言ってもその醍醐味は、生徒たちが日常を過ごす家や学校を遠く離れ、仲間と一緒に未知の土地を自分の目で見て肌で感じる「旅」に出る、そのことにある。

今回のツアーではとくに「現地の大人との対話」に重点が置かれ、それぞれ貴重な対話の場だったし、生徒同士の話し合いも大いに盛り上がったが、プログラム終了後の帰路、多くの生徒が「印象に残ったこと」に挙げたのは「浪江町フィールド学習」だった。やはり、バスから降りて自分の足で歩いた浪江町の姿は強烈な印象を残したようだ。

 

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2月23日、新福島変電所で東京電力との対話を終えてから富岡ホテルで昼食。JR常磐線の富岡駅前にホテルができたのは2017年10月とあるから3年近く経っている。私が初めて浜通りを訪ねた2016年春には、まだ駅舎が津波で流されたままの状態だった。新しい駅舎ができ、復興住宅には少し人の気配がある。毎年少しずつ変わっていく。

さて、バスはまた国道6号線を北上。車窓からの風景を見ながらコーディネーターの菅野孝明さんの解説を聴く。

  「ここから帰還困難区域です。警備員が立っています。先ほどと状況が一変していると思います。横道にそれる道路には全てバリケードをして、自由に立ち入ることができないようになっています。建物も、9年前の3月11日のあの時の地震以来の状況が目に飛び込んできていると思います。これが帰還困難区域の現状だと思って見て行ってください。」

生徒たちから「うわー」とどよめきがあがる。

道路沿いのモニタリングポストは1.76μ㏜/h。菅野さんの説明では、復興のスピードを上げていくために、幹線道路には、線量が高い地域であっても除染をして自由に通過できるようにする「特別通過交通制度」が適用されている。

「帰還困難区域の中にはいくつかこういう場所があります。自由に通行できるようになって便利になりました。一方で、バリケードを張ることによって、帰還困難区域に住宅があって、年間30回、自宅に帰ることが許されている人たちは、いちいち国に鍵を開けてもらって中に入るという手間が増えました。」

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 「この先の道路の両脇をよく見てください。すぐ住宅が迫っている所。そこに鍵がかかったバリケードがずっと並んでいる様子を見ることができます。これだけ近くても、自由には立ち入りができません。帰還困難区域の中はこの状態になっているということをぜひ想像してみてください。」と菅野さん。

 

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このあたりは中間貯蔵施設。県内各地で出た除染の廃棄物を原発周辺に集めている。この日は三連休中だったが、平日は緑色のゼッケンをつけたダンプトラックが多数、この道路を通って中間貯蔵施設に運んでいく姿が見られるという。

 

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大熊町の中に入った。右手に中間貯蔵施設の一部が見える。道路沿いの表示は1.599μ㏜/h。奥に排気筒が1本見えているのが福島第一原発である。クレーンが多数並ぶ。排気筒の解体工事が遠隔操作で行なわれているところ。廃炉作業の安全確保のために、120メートルある排気筒を半分の60メートルまで高さを下げる。

※後日、解体が完了したニュースが5月1日付で流れた。

www3.nhk.or.jp

 

やがてバスは双葉町に入る。2月のツアー時点、全区域で避難指示が続く唯一の町だったが、2020年の3月4日、ごく一部が避難指示解除になった。帰還困難区域としては初めてである。浪江町に接しているエリアで、町の中心部ではない。「生活の場ではなく、産業の集積地。そして、東日本大震災原子力災害伝承館という施設ができるところになります。今年7月開館予定です」と菅野さん。

道路沿いの表示は、0.740μ㏜/h。

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双葉町の中も震災の時のままになっているところがほとんど。復興事業の進展に伴い、2か所のガソリンスタンドだけが営業しているが、それ以外は、店舗も何も再開できていない状況である。

次の坂を登りきると浪江町だと菅野さんが言った。還困難区域はここまで。ここから先は解除区域、つまり、除染が終わって人が住んでいいと言われている区域である。 

浪江町は、震災前の人口約21,000人。7,600世帯が住んでいた町である。東日本大震災津波によって182名が亡くなった。最大高さ15.5メートルの津波が沿岸部に押し寄せ、今なお31名が行方不明。毎月11日の月命日には、警察を中心に捜索活動が行われている。原発立地ではないが、原発事故によって全町が避難を余儀なくされた町である。町の面積の2割は比較的線量が低いということで除染が始まり、最低限のインフラ整備と除染の完了後、2017年3月31日に一部避難指示解除になっている。解除になって約3年が過ぎようとしているが、町内の居住人口は約1,200人。元の人口の6%程度にとどまる。

まもなく、JR常磐線浪江駅が見えてきた。 

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毎年少しずつ変わっていく浪江駅。しばらく経つと細かいことは忘れてしまうが、初めてここを訪ねた2016年春、駅の建物が震災当時の時刻のまま閉ざされ、駅前のロータリーに面して、地震で傾き、今にも倒れそうな建物がかろうじて建っていたことを覚えている。無人の町に自分たちだけが佇む異様さが怖ろしかった。その時点で放射線量は高くなかった。しかし、あたりには人っ子一人いない。何かがひどく間違っていると思った。間違っているのは原発事故なのか?事故への対応なのか?両方なのか? とにかく人が住んでいない。いたたまれない気持ちになったものだ。

 

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駅前でバスを降りて、生徒たちと一緒に駅前界隈の通りをひと回り歩いてみる。いまだに道で地元の人とすれ違ったことはないが、郵便局の前に自販機があるだけで、少し人の気配を感じる。この自販機、昨年もここにあっただろうか?

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角のホテルなみえは主に工事関係者が利用している由。

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浪江町立浪江小学校。2011年の震災後、全町避難により休校となり、5か月後の8月に町内の6校を当校のみに再編をした上で二本松市の仮校舎で学校活動を再開した。震災前は500人の児童が在籍したが、県外避難の影響などにより2012年度の児童数は30人に激減した。2018年4月に開校した浪江町立なみえ創成小学校への統合により、2021年3月末に閉校予定である。震災以来使われていない立派な校舎が物悲しい。
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あちこちで建物の解体工事が進む。

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生徒たちはまだ解体されていない建物に近寄って覗き込んでいた。

 

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一見、地震に耐えたように見える建物も、中の物が倒れたり落ちたりしたまま放置されて今日に到る。「うわ~見て!中はグチャグチャや」と一人の生徒が声をあげた。

 

ひと回りして、浪江駅で再びバスに乗り、沿岸部の請戸地区に向かう。

町内の請戸川を渡る。昨年10月の台風の時には堤防すれすれのところまで水が上がり、一部浸水区域も出たが、それでも堤防の決壊は免れ、被害は比較的少なかったそうだ。

2011年の震災の時、請戸川の川沿いは国道6号線付近まで津波が上ってきたと言われている。

 少しすると広大な農地が見えてきた。

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 昨年、復旧事業が終わり、今年からはこの田んぼで作付けが少しずつ再開されていく予定。ただ、こういう中に除染の仮置き場もまだある。津波の影響はこの辺まで来た。だいたい沿岸から1キロから1.2キロまでは影響があった範囲だと菅野さんは言った。

 

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煙が出ている大きな建物は、仮設の焼却施設。国(環境省)の管轄だ。町内で出たがれきを分別して、燃やせるものは燃やしてごみの量を減らしている。

「この道路の両脇は、震災から2年半、がれきが積まれたまま、田んぼの上には漁船がゴロゴロと打ち上げられたままになっていました。請戸川の河口が見えてきました。左手に白と青の建物、マリンパークという旧・観光施設です。あれ、3階建てです。あの上を津波が乗り超えてきたと思ってもらえればいいです。海水面からの最大高さで15.5メートルです」と菅野さん。

「今みなさんは、いちばん被害が大きかった請戸地区というところに入ってきています。この右手は、先ほど同じ田んぼだった場所ですね。約9年間、何の手も入っていないところです。そして、ちょうどこの辺りからですね、道路の両側には約500世帯、住宅がびっしりあった場所です。」

 

堤防の高さは、元々あった高さより1メートル嵩上げして、7.2メートルの高さになり、ほぼ完成した。

 

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請戸漁港に寄る。2019年10月に左側にある市場が完成し、今年4月からここでせりが始まり水揚げが始まることが決定をしている。請戸漁港には元々94艘の船があった。現在は3分の1の規模だが、ここで試験操業、操業を再開している。

 ここでバスが向きを変え、正面に福島第一原子力発電所が見えてきた。直線距離でわずか6kmという。

「それだけ近くても風の影響によって、原発が爆発した時の放射性物質が濃度の高いところは、あそこから北西方向に向かいましたので、請戸地区はもちろん半径6キロと非常に近いんですけども、ここから遠く離れた福島市とかよりも線量がずっと低かったんですね。もちろん、何があるかわからないという距離ではあったわけですけども、避難をしなくてもいいぐらい線量は低かったわけです。ただ、この地域では特別な状況が起きました。それは何かというと、自然災害が先で住宅を失い、その後の原発事故で避難となりました。その順番によって、この地域の方々は、東京電力による原発事故の建物に対する賠償金はゼロなんです。いつ帰れるのかわからない。そういう状況もあって、みなさん、帰る場所をどうするか悩みましたけど、生活再建資金を確保していくためにも、もう『この地には住まない』ということを決断して、町に土地を売って、そのお金を元に生活再建していく道を選びました。651世帯がすべて移転対象となりました。5カ所のコミュニティがありましたが、それが全てなくなる地域です。」と菅野さんは語った。

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やがて、沿岸部にポツンと残る請戸小学校が見えてきた。 

 

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学校の時計は3時38分で止まったまま。津波が校舎を襲った時刻である。

震災当日は卒業式の練習中だった。「津波が来るぞー!」という知らせを受けて、1.5km歩いたところの大平山の高台に逃げた児童82名が全員助かった。

 

※「請戸小学校物語」完成を伝える5年前の記事。ぜひ見てみたい絵本だ。

www.huffingtonpost.jp

 

2019年3月、請戸小学校の校舎は福島県初の震災遺構として保存されることが決定した。

 

子どもたちが歩いて逃げた大平山へバスで向かう。 

「右手に見えているのが、町内のがれきを集めて分別作業を行っている場所です。分別作業を行って燃やせるものを先ほどの焼却施設で燃やしています。後片付けをまだまだやっている場所ですね。そんな中で、今朝の新聞にも載っていた明るい話題の一つです。正面右手のほうに見えてきた建物にSHIBAEIって書いてありますね。」 と菅野さん。

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4月に請戸漁港の再開と共に、ここで水産品の加工が始まる。昨日お披露目された。元々いた水産業者の柴栄水産が戻って来る。

正面左手に大平山霊園が見えてきた。バスを降りる最後のポイントだ。

この高台は整備はされていなかったが、「高い」ということで、元々一時避難場所に指定されていた。以前の墓地は津波で流されてしまい、この高台に新しく作られた霊園である。2017年に建立された新しい慰霊碑には、犠牲者182名の名が刻まれている。津波は大平山の手前まで来たという。

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請戸小学校の子どもたちはこの高台に逃げて全員助かり、たまたま6号線を通りかかったダンプの荷台に乗せられ救助された。避難経路通りに逃げれば必ず命が助かるとは限らない。当時、津波がこんなところまで到達するとは想定されていなかった。

昨年のスタディツアー浜通りには珍しい雪模様の寒い日だった。大平山に着いた頃には暗くなりかけていたせいか、男子生徒の一人が「遺跡のような所」と言ったのが印象に残っているが、今年は天候に恵まれ、午後の陽光で同じ霊園でもずいぶん違って見える。元気な男子生徒たちは、高台の下に降りてみて、ここまで駆け上がるのに何秒かかるか試していた。ほんの数秒が生死を分けた。

震災直後の原発事故による避難指示により、救助活動を断念せざるを得なかった無念の話を聞くたびに胸がつまる。

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コロナ禍の影響が本格化する直前の2月下旬。ぎりぎりの決断でよく行ってきたものだと改めて思う。

まだまだ人の気配が少なく、震災直後のままの建物も多い浪江町で少しずつ建物の解体作業が進む有り様も、大平山霊園から見渡す沿岸部のスケール感も、この場に実際に来て、歩いて、覗き込んで、見回してみたからこそ感じることがある。どんなに秀逸な映画でもテレビ番組でも、ましてや活字の記事や書物でも、この風や光や匂いを体感することはできない。そして、この体感こそは人を動かすのではないか。

コロナ禍によるオンライン化は世の中の趨勢であり、メリットもポテンシャルも大きいのはわかっている。それは積極的に活用すればよいし、そうせざるを得ないだろう。一方で、どんなオンライン・コンテンツにも代えられないリアルの「旅」を再び実施できることを願ってやまない。(続く)

 

 

 

 

コロナ禍中の母の日

コロナ禍中、既に家から巣立った息子たちになかなか会えない。長男と次男は都内でそれぞれ一人暮らし。たまに週末ごはんを食べに来ていたのも3月以降やめている。昨年就職した三男は九州に配属で、それこそ正月以来会っていない。

GW最終日にLINEのグループビデオ通話機能を使って、5人家族が久々に揃ったのはスマホ画面の中だった。こういうシュールな邂逅がニュー・ノーマルというものか・・・ちょっと寂しさを感じながら迎えた週末、宅急便が届いた。

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メッセージカードには「3人からです。いつもありがとう。体調に気をつけてね!」と。泣かせる・・

 

母の日が来ると思い出す我が家の「母の日事件」。2007年ということは、もう干支一周分以上前のこと・・・時が経つのは早いものだ。当時通っていたライターコースの課題のネタにしてしまったので、今でもそのエッセーが残っている。

 

*****

 

感謝の強要
 
 折にふれて感謝の気持ちを表すのは案外難しい。ことに親子だと甘えや照れが先に立つ。それどころか、感謝の気持ち自体を忘れている。そう、子どもなんてだいたいが親不孝者なのである。年に一度くらい親の恩を思い出させるために「母の日」やら「父の日」というものが、設定されたのではあるまいか。その日に合わせれば、たとえば、黙ってカーネーションを買ってくるとか、照れ屋でもわりと抵抗なく表現する形式があり、受け手も納得するのだから、便利な慣習である。
 しかし、年に一度の「母の日」が近づくにつれて、なにやらプレッシャーがかかってきた。息子達は「母の日」などいちいち覚えていないに違いない。「母の日」にしか感謝の意を表してもらえないのも情けないが、「母の日」にすらそれがないのはもっと情けない。だからと言って、「明日は何の日だっけ?」なんてこちらから問いかけるのも興覚めだ。黙っていよう。
 息子達が、「おかあさん、ありがとう」とたどたどしく書いた手作りのプレゼントや、カーネーションの造花を持って帰ってきたのは幼稚園の頃だったか。小学校に上がり、長ずるにつれてそんなほほえましい行事も廃れ、実際、昨年までの数年間、私も別に気にしていなかった。
 今年、妙に「母の日」を意識してしまったのは、新しく仕事を始めて以前より忙しくなった中でも、いわゆる母の務めを果たそうと、かなり無理をしているからかもしれない。朝から弁当を作り、夕食の支度をして仕事に出かけ、頭の中では絶えず一週間分の献立や買物リストがぐるぐる回っているような生活は、なかなか疲れるものだ。
 さて、5月の第二日曜は、ごく普通に始まった。いつもの週末のごとく、遅めの朝食を用意するのは私。誰も何も言わない。この日一人で外出した私は夕方帰宅したが、不在の間、家の中には何の変化も見られない。急いでベランダの洗濯物を取り込む。6時も過ぎていたので、「すぐにご飯作るね」と、台所に立って料理を始めたら急に涙が溢れてきた。
 昨日も今日も明日も、こうして私は家族のために食事の支度をする。たいして感謝されることもなく、まるで女中か家政婦だ。今日だけは違うかもしれないと、ほんの少し期待したのがいけなかったのか。出かけて帰ってきたら「お母さん、ご飯は僕たちが作っといたよ」と言ってくれるとか、「今日はどこかに食べに行こうよ」と言ってくれるとか。あるいは、さりげなくカーネーションが生けてあるとか。いや、そんな大層な望みを抱いていたわけではない。たったひと言、
「いつもありがとう」
と言ってもらえるだけでよかったのだ。今日って母の日だったよね? と照れながら。
 結局、誰一人、母の日を覚えている者はいなかった。彼らにも、その父親である我が夫にも、別に悪気がないのはわかっていたが、一度溢れ出した感情は止められなかった。泣きながら、たまねぎをみじん切りにし、ひき肉をこねてミートローフを焼く。友人のヨーロッパ土産のホワイトアスパラガスの皮を引いて茹でる。ことさら結構なご馳走を食卓に並べると、私の異様さにようやく気づいた家族は動揺して沈黙し、夕食の席は最悪の気まずさが支配した。家族一同黙々と食べ終えてから、私はおもむろに感情をぶちまける。とりわけ「何をそんなに怒っているのか意味がわからない」という高校生の長男の発言に怒り心頭に発し、ひと通りの修羅場を演じた後、一応謝ったりうなだれたりしている男4人に対し、私は、向こう一週間のストライキを宣言した。
「ご飯も作りませんから。自分達でなんとかしてください」


 翌日、たまたま電話してきた実家の母に話すと呆れられた。
「そんなこと言って、あんただって昨日私に何にも言ってこなかったじゃない」
「だってさあ、一緒に暮らしてるんだよ。もう頭にきちゃう」
「まあねえ。男の子なんてそんなもんよ。あんまりカリカリしなさんな」
母の日に子ども達から感謝してもらい損ねて憤慨する娘をその母親が慰める。妙な構図だ。
 そもそも「母」に対する感謝とは何だろう? 考えてみたら子どもを産むというのは、実に大それたことだ。人は図らずも生まれてしまったから、生きざるを得ないのだし、苦しみも味わい、いつか死ななければならない。その誕生をもたらす親、とりわけ、具体的に妊娠・出産する母親はそのような「さだめ」の子どもを産み出す因果な存在である。子どもからすれば「産んでくれとは頼みもしなかった」のだから。子どもの世話をするのはふつう親の務めだが、それは、一つの生命をこの世にもたらしてしまったことに対する罪滅ぼしのようなものとも言える。そうだとすれば、子どもの側で別に感謝する筋合いはないのではないか。
 いや、そうではない。人はやはり、生まれてきたからこそ、生きることができるのだし、喜びも味わい、いつか死ぬからこそ命が輝くというものなのだ。と考えると、その誕生をもたらした親には「生んでくれたこと」に感謝し、自力で生きていけるようになるまで世話をしてくれたことにも感謝せずにはいられないのではないか。
 結局、親への感謝の念は、子どもが自らの「生」をどうとらえるかにかかっている。そして、子どもからの感謝の念は、親となった人間の「生」をこの上なく祝福してくれるのである。
 しかし一方で、日常生活は、生きる上で必要な諸々の雑事で満たされ、賽の川原の石積みにも似た、その同じことの繰り返しは徒労感で人を苛む。今週、私のストライキを受けて、3人の息子達は健気に家事に励んでいる。毎日毎日、食事を作り、風呂を沸かし、洗濯して干してたたんでしまって……どうだ? 面倒くさいだろう。飽き飽きするだろう。この徒労感を救うのは、感謝のひと言か、はたまた、適正な分担か。
 母の日が赤いカーネーションに彩られて無難に終わらなかったため、かえって家族が真面目に向き合うこととなった。今週末、家族会議が予定されている。感謝の強要より、もっと建設的な提案をしよう。

 

*****

 

作文はここまで。よくまあ書いたものだ、こんな恥ずかしいこと。しかし、これは確かに我が家のターニング・ポイントとなった事件。「家族会議」は本当に開かれ、建設的な提案をしたのは私ではなく、どちらかと言えば夫だった。以来、冷蔵庫には一週間の家事当番表が貼られ、曜日ごとに5人のやることが明示された。もちろん、5分の1ずつというわけには行かないが、それまで私が一人でこなしてきた家事を家族が分担するようになったことは大きい。働き盛りの夫は主に週末のシフトに入り、息子たちはサッカー部で疲れていようが、受験生だろうが、日々の洗濯や皿洗いをやるようになった。でなければ、そのうち新聞社のアルバイトから正社員に転換した私が働き続けることはとてもできなかっただろう。

時は移ろい、私は会社勤めとは働き方を変え、息子たちもそれぞれ巣立って行った。夫も近々定年を迎えてライフシフトを考える時期に来ている。

そう言えば、昨年の母の日の記憶がないと思ったら、ちょうど海外取材に出かけていたところだった。イタリアのヴェネツィアからアメリカのクリーブランドへ回る旅なんて当分できそうにない。予想もつかない形で世界は激変する。

コロナ禍の影響で在宅勤務が増え、家族が一緒にいる時間が長い故のストレスも高まっているようだ。家族構成や家事分担によっては、さぞ大変だろうと思う。母の日の夜中に妹から来たLINEを見ると、13年前に私が実家の母と電話で話したのと似たような内容だった。それまで実家を頼りながら上手に家事をアウトソーシングしながらバリバリ働いて来た彼女は、却って家族と向き合う機会を逸していたのかもしれない。

あの時、鬼の形相だったに違いない我が身を振り返ると恥ずかしいし、その後も至らないことだらけだが、共に暮らす家族から逃げたり我慢し過ぎたりすることだけはなかった。

当日の夕方、家族LINEに夫が書いたメッセージが傑作だ。

「3人一緒にいいことしたねぇ。お母さんもお喜びやで」

 

そして、ダメ娘は自分の母には何もせぬまま、母の日の翌日になって電話をかけたのだった。人生100年時代?!自分の心に正直に。そして、感謝の気持ちを忘れずに。

 

 

(※以前のブログ@ココログで「母の日事件」を振り返ったことがあったが、なんと、niftyを解約した時にうっかりバックアップを忘れ、他のブログ記事もろとも消えてしまった。ネット記事というのは危ういものだ。幸い(?)元のワードファイルがあるので、ここに残しておこう。母の日は「母の日事件」記念日なのである。)

 

 

 

東京電力を訪ねる 〜2020京都発ふくしま「学宿」その6

新型コロナ禍中の4月下旬。遅々として進まないこのレポートだが、こうしている間にも、今のところ電力が安定供給されている。しかし、東日本大震災後の原発停止で今や日本の発電燃料の4割を占める液化天然ガスLNG)を全て輸入に頼っている脆弱さについて、4月24日の日経新聞にも記事が出ている。LNGは長期保存に向かないため、備蓄量は2週間分にすぎないという。

www.nikkei.com

エネルギー供給の危うさと停電リスクにも不安を感じつつ、いま現場で粛々と任務に当たる方々に感謝するほかない。

2ヶ月前が既に大昔のように感じられるが・・・

今回の「学宿」道中、東京から郡山までの新幹線の車窓から見える高圧電線の鉄塔が気になった。何度となく福島を訪ね、福島第一原子力発電所の構内にも入ったことがあるというのに、今ごろ初めて気がつくのもどうかしているが、見ているようで見えていないものだ。また、通り過ぎるとすぐに忘れる。このとき初めて、田んぼのど真ん中に立つ巨大な鉄塔に驚いた。一体いくつあるのだろう?あれだけの鉄塔を何本も建てて電線を引いてくるのは、なんと気の遠くなるようなプロジェクトだったことだろう。今さらながら。

 「学宿」初日に行ったコミュタン福島から浜通りに向かう磐越自動車道からも山中の鉄塔がいくつも見えた。

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首都圏の電力がどこから、どのように供給されているのか、詳細は調べ切れていないが、日々このような高圧電線で運ばれてくる電気に支えられているのだ。原発が稼働していた頃はその割合がもっと高かったのだろう。

 

2月23日朝、楢葉町の宿を出発したバスは富岡町内の東京電力廃炉資料館に向かった。中学生を対象にしたスタディツアーのコースには福島原子力発電所構内の見学は含まれていないが、廃炉資料館を見学し、さらに新福島変電所で東京電力の社員の方々と対話するというのが今回のハイライトだと野ヶ山先生は言っていた。

廃炉資料館は2018年11月30日にオープンした施設。映像やジオラマを通じて、事故の記憶と記録を残し、二度とこのような事故を起こさないための反省と教訓を伝承するとともに、廃炉の全容と最新の状況を説明する。

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朝一番でAFWの吉川さんの話を聴き、「・・・原発のことを考えるんじゃないんだよ。この原発で起きた問題とか課題から自分を省みて生まれたこの気持ちみたいなところを共有すればいいんだね」という言葉に納得した後だっただけに、私にとっては二度目の訪問となる廃炉資料館で、技術的な詳細を展示物から読み取る気力が今一つ湧いてこなかったのが我ながら残念だったが、生徒たちは限られた時間内で熱心に見学していた。その意欲と好奇心に感心する。

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それにしてもこの建物の外観。元々は福島第二原子力発電所のPR施設「エネルギー館」だった建物で、浜通り国道6号線を通るたびに「何だろうか?」と目を引くデザインである。アインシュタインキュリー夫人エジソンの生家をモデルとして並べたそうだ。

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次に向かった新福島変電所の外観はもっと度肝を抜くものであった。山中に突然、巨大なジャングルジムをいくつも合わせたような網状の鉄の構造物が現れる。バス内からの写真撮影はOKだったので、座席から身をよじらせて撮ったスマホの中の写真を眺めて思い出しているが、セキュリティ上、外部での掲載はNGと言われた。所在地も詳細は出ていないが、富岡町から川内村に向かう途中かと思われる某所。付近の遊休地のあちこちに設置されたおびただしい太陽光パネルも目につく。

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震災前は、福島第一、第二原発でつくった電気を首都圏に送る変電所だった新福島変電所だが、こういった再生可能エネルギー由来の電気を送る機能を新たに担って稼働を始めたという最近の記事が出ていた。この巨大な変電所があの送電線の起点にあるのだ。

www.sankei.com

変電所内の会議室で、東京電力の担当者からのレクチャーを聴き、生徒たちが質問するというセッションが行われた。

全体で1時間という限られた時間では、どうしても駆け足の説明になる。

まずは、福島復興本社の取り組みについて、東京電力福島復興本社の坂本裕之部長氏より説明。

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福島復興への責任を果たすために、2013年1月1日、福島復興本社が設立された。県内すべての事業所の復興関連業務を統括している。賠償、除染、復興推進等を迅速かつ一元的に意思決定し、福島県民のニーズにきめ細やかに対応している。当初はJヴィレッジ内に事務所があったが、2016年3月に富岡町浜通り電力所に移転、2020年度を目途に双葉町中野地区に移転予定である。県内の他の事業所も含め、合計4,000人の体制。

設立以来、地域の伝統行事への協力、清掃・片づけ、除草作業、見回り活動などの復興推進活動に、延べ約50万人の社員が参加(東電全社員約3.3万人)、除染活動には社員延べ約38万人が対応してきた。

2019年末時点で9兆円を超えている原子力損害賠償はなおも現在進行中である。

また、風評被害払拭のために、福島の農産物を食べてもらえるように、まずは自分たちが食べることから購買増強・流通促進活動、情報発信、共同事業を展開する中で、2014年11月に設立した「ふくしま応援企業ネットワーク」には2020年2月現在で137社が参加している・・・ここまでで14分ほど。

次に、廃炉について、東京電力福島復興本社福島広報部リスクコミュニケーター兼復興推進室技術担当の櫛田英則氏が説明。

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2011年3月11日における地震および津波の状況と設備の被害状況。福島第一原発(1F)では地震や浸水被害を及ぼした津波により外部電源や非常用電源が使用不可となったが、津波の浸水域が限定的だった福島第二原発では電源が使えたため、核分裂停止後の燃料の崩壊熱を冷却することができた。

1Fの1~4号機の状況、港湾内外の放射性物質濃度の変化、汚染水と原子炉循環冷却など、詳細は何度聞いても理解が追いつかないが、ざっくり言って、1Fの今の課題は、以下の3つである。

  1. 使用済み燃料を取り出し共用プールに移動すること
  2. デブリを取り出すこと
  3. 汚染水(処理水)対策

1.については、2014年12月に4号機の燃料取り出しは完了。2019年4月から3号機の燃料取り出しが始まり、2020年2月時点で566本の内84本の取り出しと移動が完了。

2.については、2021年から2号機で取り出し開始予定で、そのためにイギリスで製作された機械の動作確認中である。

3.については、①他各種除去設備(ALPS)による汚染水浄化などにより汚染源を取り除く、②地下水バイパスやサブドレン(建屋近くの井戸)による地下水くみ上げ、凍土方式の陸側遮水壁の設置、敷地舗装などにより汚染源に水を近づけない、③海側遮水壁の設置、地盤改良、溶接型タンクへのリプレース等により汚染水を漏らさない、などの重層的な汚染水対策により汚染水発生量の低減を図っている。2020年1月時点で約1000基のタンクに約118万トン(ストロンチウム処理水を含む)を保管しており、2020年末までに137万トンまで貯められるようタンクを確保する計画である。

このほか、労働環境の改善と廃炉の中長期ロードマップを紹介。以上で18分。

生徒たちは、大人向けと同様のパワポのプリントアウトを配布され、手元と前方のスライドを見ながら、とにもかくにも話を聴いている。合わせて30分ほどのさらっとしたレクチャーでいっぺんに理解するのは至難の業だと思うが、「学宿」に応募した生徒たちは、事前にかなり予習してきているようだし、初めて「東電の人」から直接話を聴くという体験にはそれなりのインパクトがある。

 

ここから質疑応答。

 

Q:風評被害への東京電力の取り組みは関東圏にとどまっており、このままでは全国規模に広がらないのではないでしょうか?(3年T君)

東電:風評被害への取り組みは、当然、県や国レベルでも努力しており、福島県知事は海外にも発信しています。東電としては、受け持ち区域である首都圏での取り組みが中心になっていますが、全国的な取り組みが行われています。(坂本氏)

 

Q:HPを使って発信するというお話がありました。東京電力のHPを見ない人が多いと思いますが、見てもらうための対策はありますか?(2年女子)

東電:なかなか難しいところですが、最近、LINEで「ふくしま応援隊」への友だち登録を勧誘し現在100万人に拡大しています。LINEを活用して日々情報発信しています。TVコマーシャルなども使って一般視聴者にリーチしたいのですが、今はなかなかできません。今日のみなさんのような県外からの見学者の口コミにも頼っています。ただ、知っていただきたいのは、毎日朝晩、福島県庁の記者クラブで状況を伝えており、それはマスメディアに取材していただけること。また、週に2回、福島第一原発でも記者会見を行い、情報をアップデートしてメディアから発信してもらっています。そうは言いながら、なかなかHPを見てもらえないのはおっしゃる通りです。SNS等を使いながら、TEPCO速報というプッシュ型の配信を行っており、なんとかみなさんに広く情報が行き渡るようにしたいですね。(坂本氏。また櫛田氏が東京電力のHPをタブレットで紹介)

 

Q:なぜ、京都のような遠く離れた所から来た中学生にこんなにいろいろな情報を教えてくれるのですか?(3年女子)

東電:ありがとうございます。わたくし共としましては、どこにお住まいであろうと関わりなく、こちらのほうに関心を持ってもらえる人には等しくお話をさせていただきたいと考えております。全国のみなさまにご迷惑をかけており、もしかしたらみなさんの近くにも福島から避難しておられる人がいるかもしれません。事実をしっかりお伝えしたい。来ていただけることに感謝しています。(坂本氏)

広く、とくに若い人たちに来ていただいて、実際にこうやってお話させていただいて、感じていただきたい。実際に見ていただいたことを持ち帰って、みなさんの口から話していただくのがいちばん風評払拭に役立つと思っていますので、ご協力をお願いしたいと思います。(櫛田氏)

 

Q:先ほどの質問の中で、原発の現状を周知する手段としてのTVコマーシャルが以前に較べて満足に行われていないということでしたが、その原因・理由は何にあるとお考えですか?(3年K君)

東電:原子力発電所に関するコマーシャルということで言うと、いま柏崎刈羽原子力発電所の安全対策などについて、新潟県ではTV放映しています。これはやはり県民のみなさんにしっかりと今どんな状況にあるのか伝えるために地域限定でおこなっています。私たちの会社は原発事故後、半国有の状態です。本来であれば潰れている会社ですが、福島への責任を果たしていくということから会社の存続が認められているという状況で、広告宣伝にお金がかけられないというのは事実であります。(坂本氏)

 

Q:中長期ロードマップについて、冷温停止してからどのようになっていくのですか?(3年女子)

東電:冷温停止の状態は達成していますので、そのあとの部分の詳細ということですね。まず、冷温停止というのは、燃料が崩壊熱で発熱していますので冷却をするわけですが、その冷却水の温度が100℃以下になることです。つまり、沸騰はしていない、ちゃんと冷却水が回っているということを冷温停止と言います。そのあとは、燃料の取り出しを開始することになります。先ほど言った、使用済み燃料の燃料プールからの取り出し開始とか、デブリの取り出しの開始までということです。そのあとは、着々とデブリを全部回収できるように取り組んでいくという形になりますが、1Fの最終形態はまだ決まっていないのです。施設として形のある状態に残すのか、それとも更地にするという話になるのかについては、まだ決まっていません。今後の最終的な形は、やはり福島県の地元のみなさんと話し合いながら決めていくということです。いちばんリスクが高い部分は、やはり燃料の取り出しです。

原子力災害特別措置法という法律があり、その中でいま、1Fは運用されていることになります。通常は、原子力発電所というのは、電気事業法と原子炉等規制法という2つの法律でいろいろやっていなくちゃいけないんですけど、1Fの場合はこういった事故が起きて、最終的な所は原災法の中で運用されているということです。ちなみに、福島第二の場合は、2011年12月時点で、原災法の適用から外れて、電気事業法と原子炉等規制法が適用されています。(櫛田氏)

 

Q:今日行った廃炉資料館で、最終的には原子力建屋を解体する、方法は検討中と書いてあるのを見たんですけど、30年後40年後の方法がわからないんでしょうか?(3年M君)

東電:確かに廃炉資料館には廃炉の課題の一つとして、建物の解体という話が出ていますが、基本的に、原子力発電所の廃止(廃炉)というのは、だいたい30~40年というのはどこの電力会社でも同じです。まず、燃料を移動して、あとは材料関係を除染をして、放射線レベルが下がる(減衰)のを待って、除染をして、影響のない範囲になった時に建物を解体するということで、それらをすべてひっくるめて30~40年ということです。1Fの場合、燃料デブリが、やはりリスク的には高く、目標としては30~40年を目指していますが、まだ具体的な技術開発も進めていく必要があり、なかなかそこは明確に「絶対できます」とは言えないというところです。 で、デブリが取り出せれば、建物自体にはリスクはなくなるわけなので、通常のビル解体と同じような形で進めていくことになります。まだ明確には決まっていないですね。ここはまだ地域の方々とのコミュニケーションが必要です。(櫛田氏)

 

Q:汚染水の処分方法について、地元の方々との話し合いが必要ということですが、ほかの地域の人たちの理解はどのようにしていかれるのですか?(2年女子)

東電:はい。これは東京電力が「この水は安全です。もう出させてもらう。いいですか?」と言っても誰も信用してくれません。基本的には、国のほうできちんと方針を固めていただくということです。つい先月、1月31日に汚染水関係のALPS小委員会がありました。その中で、この1Fにある汚染水の処理が議論されました。やはり、管理のしやすさから見て海洋放出するか、または、蒸発させる大気放出という手法がよいのではないかというような結論を出していただきました。その中で風評被害をどうするかについても議論しなさいということになっていて、どのように処分するにしても、やはり、風評被害は出てしまう。だから、基本的にその対策関連については、ちゃんと国が責任を持って対応しなさいということで小委員会から国にボールが投げられました。国(内閣府)は、ALPS小委員会からの回答をもらって、現在、自治体や地元の方々とコミュニケーションをとりながら方向性を決めているわけです。国で方針がある程度固まったところで、東京電力に指示がくることになります。今のところ、東京電力は「海洋に流したい」とか「蒸発させたい」ということは全く言っていません。これは、基本的にウチが決められないことです。国から方向性が示された中で、「国から言われたからやります」ということではなく、地元の方々と話をさせていただきながら、理解を得ながら、進めていくという形になります。ほかの地域の理解は?と言われてしまうと、そこはなかなか難しくて、これはやはり、福島県だけでやっていることではなくて、日本全国を対象にしてやっているというふうになるのかなと思います。申し訳ありません。そんな回答しかできません。(櫛田氏)

 

 Q:電力会社として原発事故の前後で、原子力発電に対する印象とか、賛成や反対という意見で変わったところがあれば教えてほしいです。(2年K君)

東電:個人的な意見ということでよろしいですか?私は、福島第二原子力発電所に昭和57年に入社して、昨年の6月まで35年間勤務しました。日本って、エネルギー源がないじゃないですか。今、日本のエネルギー自給率というのは10%を割っています。再エネで、太陽光がいっぱいできている中で、それぐらいなんですね。再エネも伸びたし、水力は新しいのは作ってませんが、それらを含めて10%以下なのです。今もしも海外からの石炭だとかLNGだとか、そういうものが遮断された時に、どうしますか?という部分の中では、やはり、原子力ってある意味では国産エネルギーみたいなものになるんです。今の国の政策ですと、使用済み燃料をリサイクルして使いましょうということでプロジェクトとして動いてはいますが、震災以降、規制側の基準が厳しくなり、なかなかそれがうまく回っていないというのも確かにあります。ただ、エネルギー・セキュリティを考えた時に、やはり、原子力が必要なのかなと私は思います。しかし、そうは言っても、これだけ地域の方々にご迷惑をかけてしまったということがありますので、その中では、地元の方々とコミュニケーションを取りながら、謝罪しながら、福島第一、福島第二については、廃止をするということで、そこはもう致し方のないことだということはわかります。ただ、全体的なことを考えれば、やはり、原子力は必要だと思います。(櫛田氏)

日本の国のエネルギー事情を考えると、原子力という選択肢に自分から手を放すということが本当にいいことなのかどうかということを自問しているところです。最近、CO₂の削減の問題で、石炭火力発電所が槍玉にあがっていて、この発電方式すら選択肢の中から消えていく恐れがある。ファイナンスの問題もあって、なかなか事業として成り立たなくなっていく恐れもありますけど、そうすると、日本って何でエネルギーを得るんだろう?太陽光、風力、地熱、こういった再生可能エネルギーだけで絶対に賄うことはできないのは、みなさんにもわかると思います。それ以外のエネルギーでどうやって埋めていくのか?考えて行く中でも、その疑問がいつものしかかっているところです。原子力発電所のこういった事故を我々は経験してしまったわけですから、より安全なことを実行していったらいいなと思います。最近、もっとコンパクトで新しい手法の原子炉の開発が進められています。そういった研究開発を進めていく必要があると思います。(坂本氏)

 

Q:燃料デブリを取り出すということですが、取り出してから置いておく場所は具体的に決まっていたりするのですか?(2年女子)

東電:燃料デブリも含めて今1Fはすべてそうなんですけど、発電所内で出たものは持って行き場所が今のところどこにもありません。ですので、構内で全部管理しなくてはならないというのが現状です。将来的には、外に処分できるところに持っていきたいと思いますが、まだこれから調整するところで、話し合いをしながら決めていくということで、まだその段階ではないんです。構内のドラム缶の中にそういった固体廃棄物を入れて、それを貯蔵庫で管理するというような形になります。デブリ燃料も同じです。少しずつかき集めて、取れるものから回収していくという形になりますが、デブリ燃料というのは、どういう組成になっているのかわからないわけです。その分析をするための場所も発電所構内に設けて、回収したものを分析して、それを安全に管理するための保存方法を考える必要があります。ただ、固体廃棄物貯蔵庫にそういったものも置いて管理するということしか今のところはないという状況です。(櫛田氏)

 

*****

 

知識や理解の不足による気おくれ(大人にありがちだ)を乗り越えて果敢に手を挙げ、ストレートに問いかける生徒たちに対し、東京電力の方々も誠実に丁寧に回答していたと思う。

この「学宿」に来る直前、私は別の会合で、原発事故被害者団体連絡会共同代表と福島原発告訴団団長を務める武藤類子さんから東電刑事裁判の経緯や事故当時の東電経営陣の責任を厳しく追及するお話を聴く機会があった。また、「学宿」後の3月上旬には、映画『Fukushima 50』を観た。あれが事実とかなり違うのかどうかはさておき、東京電力の上層部と現場のコミュニケーションの悪さを強く印象づける映画だった。

事故という事実があり、それぞれの立場がある。東京電力という巨大な組織は、遠い外部の中学生から見れば抽象的な悪の塊のように感じられていたかもしれない。「なぜ自分たちにこんなにいろいろ教えてくれるのか?」という質問からは、来てみると意外と良い人たちだったという驚きのような気持ちが滲み出ている。これまでに私がお会いした数少ない東電関係者のみなさんも真面目で誠実な方々であった。もちろん、全社員約3.3万人という組織の一員であり、その配属に応じた役割を果たすべき担当者という立場から決して逸脱しない発言に終始するのは、東京電力に限らず、あらゆる組織人に共通の態度である。

その点では、今回の「学宿」のプログラム中、これまでに対話を行った山口さん、西崎さん、吉川さんのような「個」が際立った言葉とは趣きが異なる。それでも、中学生の質問により「個人的な見解」もかなり引き出されていたことに感心した。また、全体セッションが終わった後で、個別に質問している生徒もいた。詳細は把握できていないが、9兆円を超える原子力損害賠償が電気料金にどのように影響しているのか、していないのかを尋ねていたようだ。

組織は人間によって構成される。個々の構成員は感情と意見を持った生身の人間であり、各人が自分の任務に懸命に取り組んでいること、しかし、組織全体としての意思決定は簡単ではないということを生徒たちは感じ取っただろうか。(続く)